第25話 目覚めた異界人
目覚めた瞬間、世界は混濁していた。まるで深い水底から浮かび上がるように、意識がゆっくりと形を成していく。しかし、過去の記憶は霞がかったままだった。自分が何者なのか、ここがどこなのか──何もわからない。ただ、確かなことが一つ。
「ここは……?」
視界は闇に包まれていた。まばたきを繰り返し、瞳を凝らしても何も映らない。肌に感じるのは、柔らかな粘膜の感触。仰向けになったまま、手をゆっくりと持ち上げる。すると、指先が冷たく硬い何かに触れた。
「壁? いや……天井か?」
密閉された空間。胸の奥にじわりと焦燥が広がる。狭い──息苦しい──このまま閉じ込められるのか? 無意識に息が浅くなるのを感じながら、恐る恐る手のひらで押し上げてみる。
すると、あっけないほど簡単にそれは開いた。
「──っ!」
眩しい光が闇に慣れた目を貫く。思わず腕で顔を覆い、しばらく光に耐える。やがて、薄暗い部屋の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。
何もない、無機質な空間。ただ中央にぽつんと置かれた寝台。そして、自分はそこに横たえられていた。よく見れば、寝台は床から生えた幹の上に乗せられ、まるで──棺のようだった。
喉が渇く。鼓動が不穏に速まる。ここは一体何なのか?
視線を下げると、寝台のそばに衣服が畳まれている。見慣れない装いだ。しかし、手に取ると、自然と袖を通す方法がわかった。まるで身体が覚えているかのように。
服を身に着け、部屋を出る。そこは、森だった。
日中の日差しが森を覆い、木々が静寂の中にそびえ立っている。生温い風が頬を撫で、葉擦れの音がどこか遠くで響く。
足元がおぼつかない。力が入らない。まるで、長い眠りから覚めたばかりのように──いや、実際そうなのかもしれない。
ふらつく足取りで森を進む。木々に手をつき、時には膝をつき、それでも前へ。進む理由はない。ただ、本能がこの場所から出るべきだと告げていた。
やがて、森の先に道が見えた。その瞬間、全身の力が途切れる。
膝が崩れ、道端に倒れ込む。視界が揺らぎ、霞んでいく。遠くから馬車の音が聞こえた。誰かが駆け寄る気配。
「ちょっとキミ! 大丈夫?」
少女の叫びが耳に届いた。しかし、その声を最後に、意識は暗闇へと沈んだ。
*
弾九郎が目覚めた場所──そこをアウラダは知っていた。彼女ならば、自分の知りたいことを教えてくれるかもしれない。そんな期待を胸に案内された先は、弾九郎にとってまったくの異世界だった。
バーラエナ。
それはあまりにも巨大な構造物だった。高さ六十メートル、幅百メートル、そして長さは四百メートルにも及ぶ。堂々たる半円柱の巨体が、まるで地を這う山のように鎮座している。
「これは……また……」
弾九郎は息を呑んだ。
かつてガルの丘から眺めた景色にこんな威容はなかった。それが今、目の前にそびえているという事実。もしや、これはただの建造物ではなく、自ら動いてここまで来たというのか? そんな馬鹿な話があるものか──いや、しかし、目の前の現実を否定する術はない。ただただ圧倒されるしかなかった。
「ここは私たちの店であり、蔵であり、家。我がコーラリウム家は、このバーラエナに数千年の間住み続けています」
アウラダの声が静かに響く。
「動く城……いや、どんな大天守もこれと比べたら玩具のように見える……」
弾九郎はかつて大坂城に入城した際、間近から見上げた天守閣の姿を思い出す。あの時は、あまりの巨大さに身震いしたものだ。だが、今目にしているこのバーラエナは、それよりも遥かに巨大だった。そして、その驚きは中に足を踏み入れた瞬間、さらに深まることになる。
壁、床、天井──すべてが異質だった。
石造りのようでいて、石ではない。金属にも見えるが、手を触れると妙に温かい。まるで、何か生き物の腹の中にでも入り込んだような、不気味な感触がした。
「この壁や床……いったい何で出来ているのだ?」
弾九郎が問うと、アウラダは微笑を浮かべ、肩をすくめた。
「さあ? 私たちはバーラエナを使うだけで、これが何で出来ているのか、どうやって作るのか、どうして動いているのかは、まったく知りません」
「そんなものの中に、よく住み続けているな」
「それは、皆様と変わらないと思いますよ」
アウラダの声は淡々としていた。
「なぜ石があるのか、どうやって出来るのか、なぜ木が育つのか、なぜ川が流れるのか──誰も本当には知らないでしょう? けれど、それを生きる術として利用している。私たちも同じです」
弾九郎は言葉を失った。
何で出来ているのか、どうやって作られたのか、何も知らずとも、使い方さえ知っていれば生きていける。それが彼女たちの理であり、当たり前なのだ。
だが──本当に、それだけで済むのか?
この空間は、あまりにもこの世界の風景と異質すぎる。それなのに、彼らは疑問すら抱かないのか? それとも、数千年という時の流れが、そんなことをどうでもよくさせてしまったのか?
──もしかすると、違和感を抱いている自分こそが異端なのかもしれない。
この世界に馴染めない自分。違和を覚えずに生きる彼ら。
そうだ、だからこそ、自分は異界人なのだ──。
弾九郎は、静かに息を吐いた。
お読みくださり、ありがとうございました。
弾九郎は関ヶ原の合戦で西軍に属しており、開戦前の一時期、大坂城の警備役を務めていました。
今回、バーラエナを目にした際に思い出したのは、その頃に見上げた天守閣の記憶です。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




