第21話 孤剣の導き
朝の冷気が石畳を這い、露に濡れた草が淡く輝いていた。中庭には静寂が広がり、先ほどの鍛錬の余韻が空気に滲んでいる。そんな中、踏み鳴らすような重い足音が響いた。
「こちらにいたんですか、先生!」
低く響く声と共に、影が弾九郎の視界を覆った。片腕を吊った大男、ルッソ・グラム。グラム一家の後継者にして、粗暴で鳴らす荒くれ者。だが今、その巨体にはいつもの傲岸さはなく、どこか殊勝な面持ちが漂っていた。
「おう、ルッソか。手の具合はどうだ?」
弾九郎は軽く目を向け、ルッソの吊った腕を見やる。数日前の戦いで容赦なく砕かれた手の甲が、手厚く保護されている。
「石膏で固められて大変です。これじゃ尻も満足に拭けませんよ」
「スマンな。もう少し手加減しとけば良かった」
「いえいえ、先生!」
ルッソは大きく頭を振った。その動作は、彼の身体に似合わず真っ直ぐな意志を感じさせた。
「そんなことよりお願いがあります!」
「お願い?」
弾九郎は微かに眉を上げる。
「はい! 俺に剣術を教えてください! 俺、先生のように本物になりたいんです!」
それは懇願とも言える言葉だった。荒くれ者として生きてきた男の、剥き出しの願望がそこにはあった。
ヤクザの息子ながら、実に謙虚な物言いで頭を下げる。二メートルを超える巨漢が、腕を吊ったまま深々と頭を垂れる様は滑稽でもあり、どこか哀愁を帯びてもいた。だが、その真剣な眼差しを見た瞬間、弾九郎は一瞬、思考を巡らせた。
やがて、彼は静かに口を開く。
「残念だが、それは出来ぬ相談だ」
その言葉に、ルッソの顔が強張る。
「なぜです? 俺ではダメなんですか?」
「いや、違う。お前ではなく、ダメなのは俺の方だ……」
その呟きには、自嘲とも取れる色が滲んでいた。ルッソは困惑したように弾九郎を見つめる。
「……どういうことです?」
弾九郎はゆっくりと視線を上げ、遠くの空を見やった。白く高い雲が流れていく。まるで、遠い昔を思い出しているかのように、彼は静かに語り始めた。
「俺も昔は剣を教えることで食っていこうとしていた。だがな、まるで駄目だった」
「なぜです? あんなに強いのに?」
「……俺には簡単に出来るが、他の者には全く出来ぬということが多すぎる。そして、なぜできぬのか、俺には見当も付かぬのだ」
その言葉に、ルッソは息を呑んだ。
弾九郎は、生まれながらにして異常なまでに発達した動体視力を持っていた。目に映るすべての動きが、まるで時間が引き伸ばされたかのように、鮮明に捕らえられる。子供の頃から、飛ぶ虫を捕まえようとすれば捕まえられ、川を泳ぐ魚を掬おうとすれば掬えた。
彼にとって、動きを見ることは息をするように当たり前のことだった。
加えて皮膚感覚も異常に鋭かった。風の流れ、空気の揺らぎ、気温のわずかな変化──すべてを掌のひらで感じ取る。人が隠れて近づけば、呼吸の温度差すら皮膚を通じて察知できる。彼の周囲で、気配を隠せる者など存在しなかった。
「俺にとって、剣を振るうのは呼吸するのと同じことだ。だが、それをどう教えればいいのか、俺自身が分からん」
弾九郎は小さく息を吐いた。
「教えるには、教えられる者の視点に立たねばならぬ。だが、俺はそれができん。俺には見えているものが、お前には見えていない。俺には感じるものが、お前には感じられぬ。どう教えても、根本の部分が噛み合わんのだ」
ルッソは黙って弾九郎を見つめていた。その表情には、諦めの色はない。むしろ、彼の言葉の奥にある苦悩を噛みしめているようだった。
「……なるほど」
低く、噛み締めるような声が漏れる。そして、ルッソは不器用な笑みを浮かべた。
「でも、先生」
「ん?」
「それでも、俺は学びたいんです。先生の剣を、先生の生き様を」
言葉に迷いはなかった。ルッソは己の不器用さを理解し、それでもなお、弾九郎という男の剣の在り方を知りたいと願っていた。
弾九郎はふっと笑った。
「……そうか」
それは、まるで呆れたような、だがどこか嬉しそうな笑みだった。
風が吹き抜ける。空は澄み渡り、雲はゆるやかに流れていた。
弾九郎は腕を組みながらしばし考え込み、ゆっくりと口を開いた。
「俺はお前の師匠にはなれぬが、代わりに良き師を紹介してやろう」
ルッソが目を輝かせる。
「本当ですか!? どなたです?」
弾九郎はくいっと顎をしゃくった。
「おい、ロレイナ!」
その名を呼ばれた瞬間、涼やかな風が吹き抜けた。中庭の片隅、日陰に佇んでいたロレイナが驚いたように顔を上げる。長く艶やかな黒髪を三つ編みに束ね、仮面で素顔を消した執事。彼女の技量は弾九郎も高く買っている。
「はい。どうしましたか、弾九郎様?」
「ルッソに剣を教えてやれ」
静かな中庭に、一瞬の沈黙が落ちた。
「わ、私がでございますか!?」
ロレイナは困惑し、胸元に手を当てる。ルッソも目を丸くしていた。
「そうだ。お前の剣技は見事だった。まるで舞うように、無駄なく、しなやかに斬る。あれは余程の修練を積んだ者にしか為し得ぬ技だ。お前ならばルッソの荒削りな剣筋を矯正し、一流へと導ける」
「し、しかし……」
突然の話にロレイナは戸惑い、視線を落とした。自分が仕える家の跡取りを弟子にするなど、想像したこともない。
ルッソも、巨体を揺らしながらロレイナの方を向いた。普段は豪快な男だが、今はまるで少年のような眼差しだった。
「ルッソ! そういうワケで、今日からお前の師匠はロレイナだ。ロレイナの言うことは俺の言うことと思い、全て従うのだぞ!」
ルッソは息を飲み、そして深く頷いた。
「は、はい! 師匠、よろしくお願いします!」
ロレイナは戸惑いながらも、その決意に押されるように静かに息をついた。
弾九郎はそれを見届けると、満足げに笑い、タオルで汗を拭った。
「よし、決まりだな!」
そう言い残し、高笑いを上げながら中庭を立ち去る。彼の背中が遠ざかっていくにつれ、ロレイナとルッソは呆然とそれを見送った。
残された中庭には、まだ弾九郎の笑い声の余韻が残っているようだった。
お読みくださり、ありがとうございました。
ロレイナは幼い頃からその才能を見出され、血の滲むような努力の末に強さを手に入れました。
異なる道を歩みながら頂を目指した彼女こそ、ルッソにとって最良の師だと弾九郎は考えたのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




