第19話 戦禍の刻限
キルダホ城の大広間。
高い天井を支える荘厳な梁が、蝋燭の炎に照らされて重々しく影を落とす。壁に掛けられた数々の戦旗は静寂の中で微かに揺れ、戦乱の世の呼吸を感じさせた。
中央の玉座に座るグンダ・ガダール王は、にこやかな笑みを浮かべながらも、その目の奥に見え隠れするのは計算と恐れだった。彼はガントの使者、ラーナ・コーラリウムを前にして、恭しく腰をかがめる。
「遠路はるばるよく来てくださった。我がアヴ・ドベッグとコーラリウム家は古くからの盟友。此度の戦のために、どうか力を貸してくだされ」
その声音は柔らかく、まるで長年の親友に請うかのようだった。しかし、その笑顔は作り物だ。グンダ王は軽薄にして尊大な男。普段なら誰に対しても高圧的な態度を崩さぬが、ガントの前では話が別だった。
──ガントを怒らせれば、タダでは済まない。
それは世界中の王たちにとって、揺るぎない共通認識であった。だからこそ、グンダ王は猫なで声で媚びへつらい、彼の厚ぼったい指は、まるで相手の靴にすがりつこうとするかのように玉座の縁を弄んでいる。
ラーナ・コーラリウムは、そんな彼の態度に何の感慨も抱かず、平坦な声で告げた。
「我々ガントはあくまでも中立。特別なご加勢はできませんが、新しいオウガや鎧、武器はたっぷりとご用意しました。これらを存分にお使いください」
グンダ王はほっとしたように頷き、大げさに手を広げた。
「それで十分。何よりも心強いご加勢でございます!」
その様子は、もはや愚直を通り越して滑稽ですらある。このまま放っておけば、本当に靴でも舐めだしそうだった。
それを見かねたように、グンダ王の傍に控えていたメシュードラが口を開く。彼は冷静な眼差しをラーナへ向け、控えめながらも核心を突いた問いを投げかけた。
「此度はラーナ様だけがお見えですが、ご当主はいかがされましたか? もしやお身体の具合が優れぬとか……」
ラーナの表情は微かに和らぎ、軽く頷いた。
「ご心配ありがとうございます、メシュードラ様。姉は他の用がありまして、こちらには来ておりません。失礼を改めてお詫びいたします」
ラーナ・コーラリウム。
まだ十九歳の若さながら、コーラリウム家の副当主としての威厳と礼節を完璧に備えている。彼の言葉は端正で、ひとつひとつが揺るぎない重みを持っていた。
メシュードラは微笑みを浮かべ、手を軽く振る。
「そんな、お気遣いなさらずに。──それでラーナ様、此度のオウガ志願者はどれほど集まりましたか?」
ラーナは一瞬目を伏せ、静かに答えた。
「応募があったのは九千二百五十六名です。一人でも多く適格者がいれば良いのですが……」
「ずいぶんと希望者が減りましたね。前回の半分以下ですか」
メシュードラの声にはわずかな驚きが混じる。それもそのはず、一年前の募集では二万六千三百五十五名の応募があったのだから。
「戦が近いと聞いて、控える人が増えたのでしょうか?」
ラーナの言葉に、大広間の空気がわずかに沈む。
「オウガの適格者だからといって、すぐに戦場へ送り込むわけではないのですがね……」
メシュードラはそう言いながらも、既に理解していた。オウガを得るということは、すなわち戦いの運命と縁を結ぶことを意味する。
「理屈ではわかっていても、肌感覚で恐れているのでしょう。オウガに乗れるということは、それだけで戦に近付くということですから」
ラーナの言葉が、大広間の重々しい空気をさらに深めた。
王座の上では、グンダ王の額に冷や汗が滲んでいる。
戦は近い。
誰よりも、それを実感しているのは彼自身だった。
*
ラーナ・コーラリウムが退出した後も、広間には熱のこもった議論が渦巻いていた。
──ナハーブン王国との決戦は、もはや秒読み段階。
オウガの配分、補給路の確保、布陣の詳細。どの議題も生死を分ける重大なものだった。しかし、誰もが決定的な一言を口にしない。開戦という言葉を発した瞬間、それは後戻りできない現実となるからだ。
だが、その決断は突然にして下された。
「報告! ナハーブン軍が国境を突破! 現在キルダホに向け進軍中!!」
広間の扉が勢いよく開かれ、伝令が血相を変えて駆け込んできた。その瞬間、場が凍りつき、次いで怒号と狼狽が入り混じる混沌へと変わる。
「何だと!?」
「嘘だろう!?」
「こんなに早く!?」
「ナハーブンに放った内偵は何をしていたのだ!」
次々に飛び交う声。その中でただ一人、騎士団長メシュードラ・レーヴェンだけが冷静なままだった。鋭い眼差しを伝令へ向ける。
「敵の軍容は?」
「はっ! 数はおよそ五百機! オウガ五百機でございます!」
「五百だと……!」
一瞬、場の空気が弾けた。
五百機──それはナハーブンの総兵力をはるかに超える異常な数。誤報かもしれない、そう思いたかった。だが、伝令の顔色は真剣そのものだった。
「ありえん……」
「倍以上の兵力では勝負にならん!」
「今からでも遅くない! 和議を申し入れるべきでは?」
誰もが恐怖に駆られた。戦う前から、心が敗北を囁いている。
だが、メシュードラは動じず、さらに訊ねた。
「敵軍を率いるのはサーグ将軍とガティ将軍のはずだが、両者の軍旗は確認したか?」
「はっ! 確かに両将軍の軍旗を掲げております! それと……傭兵団の中にマーガ三兄弟の旗も……!」
「……マーガ三兄弟だと?」
静寂が広間を支配する。
ナハーブン単独ならまだしも、マーガ三兄弟が加わったとなれば話は別だった。
彼らはハマル・リス大陸最大の傭兵団を率い、配下のオウガは三百機を超える。マーガがついた軍は常勝無敗。それは歴史が証明していた。
「……終わったな」
誰かが震える声で呟く。
メシュードラの視線が玉座へ向いた。
──王は、この現実をどう受け止めるのか?
グンダ王は、蒼白な顔で小刻みに震えていた。手にした王笏の先が、カタカタと音を立てる。恐怖を隠せないのは明らかだった。
だが、次の瞬間、彼は突然叫んだ。
「ナハーブンなど恐るるに足らず!!」
広間がざわめく。
「メシュードラよ、今すぐ全軍を率い、敵を打ち破れ! 特にマーガ兄弟を討ち取った者には、褒美を与える!」
王の目は狂気じみた光を帯びていた。
「金でも! 宝でも! 爵位でも! 望むものをくれてやろう!!」
一瞬の沈黙。
次いで、場を揺るがす大歓声が巻き起こる。
──これは戦争だ。後戻りはできない。
しかし、メシュードラはその喧噪の中で、冷え切った目をしていた。
(王は、自らの保身しか考えていない……)
ナハーブンに勝てる見込みは薄い。グンダ王はそれを理解しつつ、あえて戦を煽っている。ここで一戦交え、善戦したように見せかければ、いずれ他国が仲裁に入るかもしれない。いや、既にそのアテはあるのだろう。そうなれば、王は「最後まで戦った英雄」として振る舞うことができる。
──兵の命と国の存亡を賭け、ただ己の地位を守るために。
玉座に座る男は、何もかもを犠牲にするつもりだった。
お読みくださり、ありがとうございました。
ガント十二支族はそれぞれ担当するエリアを持っておりますが、その規範は比較的緩やかであり、他の支族のバーラエナがやって来ることも珍しくはありません。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




