第18話 熱狂の到来
東の空が白み始めたばかりの王城は、ひんやりとした朝の空気に包まれていた。兵士たちはまだまばらにしか姿を見せず、聞こえてくるのはかすかな鳥のさえずりと、時折響く衛兵の足音だけだった。
そんな静寂の中、一人の男が中庭で剣を振るっている。
メシュードラ・レーヴェン──王国随一の剣士と名高い彼は、昨夜の激闘がまるでなかったかのように、軽やかに剣を振り下ろしていた。だが、その表情は普段とは違う。険しい眉間の皺は消え、どこか清々しい笑みすら浮かべている。
「団長。何かいいことでもあったんですか?」
副官のライヘルが、珍しそうに問いかける。メシュードラの晴れやかな顔は、彼にとって見慣れないものだった。
「別に。特になにもないが……」
言葉とは裏腹に、口元が自然と綻ぶ。メシュードラ自身、その笑みを抑えきれなかった。
昨夜──彼は完膚なきまでに敗れた。
今までは己こそが最強の剣士であり、王国の盾としての責務を果たさねばならぬと、固く信じて疑わなかった。しかし、その誇りも矜持も、一瞬で打ち砕かれた。
弾九郎は強かった。ただの剣士ではない。戦士としての冷徹な合理性を備え、勝つために最適な一手を選ぶ。それは、誇りや伝統に縛られたメシュードラの剣とは違うものだった。
そして──彼は敗れた。
普通なら、屈辱にまみれ、敗北を噛み締めるところだろう。だが、メシュードラの心は驚くほど軽やかだった。
(自分はまだ強くなれる。そして、いつか必ずあの男を倒す)
その思いが、心を満たしていた。まるで、長年まとわりついていた重い鎖が断ち切られたかのように、視界が開けた気がする。
「ふっ……」
思わず、笑みがこぼれる。
ライヘルは目を丸くした。
「な、なんですか、団長。今、笑いました?」
「気のせいだ」
メシュードラは咳払いしながら、剣を振るい直す。その動きは、今までよりもずっと軽快で、迷いがない。
ライヘルは、不思議そうに彼を見つめながらも、ふと気づいた。
(あの人、まるで少年みたいな顔をしている……)
それは、武を極めんとする者だけが持つ、純粋な喜びに満ちた表情だった。
メシュードラ・レーヴェンはまだ成長できる。そう確信した瞬間だった。
*
その日の昼前、キルダホの街は異様な熱気に包まれた。
遠くから響く、地を震わせるような重低音──。まるで大地そのものが呻いて いるかのような、腹の底に響く振動。
それは雷鳴ではなかった。ましてや戦の狼煙でもない。
──ガントのバーラエナがやって来たのだ。
その巨躯が視界に入った瞬間、街は歓喜の渦に呑み込まれた。
路上にいた者たちは我先にと通りへ押し寄せ、商人たちは色とりどりの布を広げて即席の露店を開く。目を輝かせて駆け出す子供たち、その手を引いて慌てて後を追う母親。大人たちも落ち着かない様子で集まり始める。
「来たぞ!」
「今年も良い品が手に入るぞ!」
人々の口から飛び交う言葉はどれも期待に満ちていた。
何しろ、この日は庶民にとって数少ない「現金を手にする機会」なのだ。
ガントの商いは王侯貴族だけのものではない。
この巨大な移動商団は、庶民にとってもまた、夢と希望を運んでくる存在だった。
彼らが運んでくるのは、単なる食料品や日用品だけではない。各地の珍味、精緻な工芸品、輝く貴金属、遠方の異国で作られた織物や香辛料──世界中のあらゆる品が並ぶ。
だが、それだけならば、これほどまでに庶民が熱狂することはない。
彼らが最も望むのは、「買取」だった。
農作物、職人の手による器や布、さらには屋根裏に眠る古びた道具や、使い道のなさそうなガラクタでさえ、ガントの商人たちは金に換えてくれる。
この日ばかりは、貧しい農夫も、無名の職人も、あるいはただの物好きな素人すらも、ひとときの商人となる。
金貨が飛び交い、誰もが自らの運を試す。
そして、何よりも人々が熱狂するのが──オウガ試験。
オウガとは、ただの武器ではない。
それは選ばれた者だけが扱える、神の鎧。
適性を持つ者は、五千人に一人──。
試験を通過すれば、無償でオウガが与えられる。
それは即ち、人生の一変を意味する。
オウガの力を使えば、建築や農業の作業効率は人間の数十倍、数百倍にも跳ね上がる。
しかし、最大の富を得る道は──戦士となること。
戦場へ赴けば、一度の戦で一年分の生活費を稼ぐことも夢ではない。
さらに英雄となれば、王侯貴族の列に名を連ねることすら叶う。
庶民にとって、これは夢ではない。
運命を賭けた、一世一代の賭けなのだ。
少年たちは胸を高鳴らせ、男たちは息を呑む。
ある者は震える手で家族のために、と拳を握りしめ、またある者は狂おしいほどの野心を燃やす。
誰もが、奇跡を夢見ていた。
お読みくださり、ありがとうございました。
バーラエナもオウガも、完全にオーバーテクノロジーの産物です。
ですが、この世界では数千年前から存在しており、現在のように王国が群雄割拠する以前から人々の生活の中にあったため、誰も違和感を抱いていません。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




