第16話 月下の追跡
メシュードラは、夜の街へと歩みを進めた。
月は高く、雲間から光を投げかけている。微かに湿り気を帯びた風が、石畳を撫でるように吹き抜けた。喧騒は既に遠ざかり、路地には猫の鳴き声すらない。メシュードラの足音だけが、硬い地面に小さく響いていた。
剣を腰に携えながらも、纏っているのは戦闘服ではない。平服の上から羽織った黒い外套は、夜の闇に溶け込むようだった。共を連れず、一人で向かう先は、鍛冶職人の家。過日、ミラード男爵が宝剣の手入れを依頼した場所。だが、その職人はすでにいない。謀反の共犯者として、その場で処断された。
それだけなら、メシュードラの興味を引くことはなかった。ただ、職人の縁者と見られる者が、王兵と争いになったという。結果、一人の腕が切り落とされた。
メシュードラは、城内で捜査状況を確認する中、その切断された腕を目の当たりにし、驚愕した。
断面があまりにも整いすぎている。
皮膚の切り口は滑らかで、筋肉の繊維は一本一本が途切れることなく揃っていた。腱も、血管も、骨すらも、まるで模型のように形を留めている。
「こんな斬り口、あり得るのか……?」
彼の視線が、それを食い入るように見つめる。精密な彫刻のように整然と揃った切り口。まるで、熟練の料理人が研ぎ澄ました包丁で、柔らかな野菜を両断したかのように。
異様な感覚が、背筋を這い上がる。
これは、人の手によるものなのか?
メシュードラは二十三歳という若さながら、十年の戦闘経験を持つ。オウガを駆り、多くの修羅場を潜り抜けてきた。それだけでなく、生身での戦闘も数え切れないほど経験している。それでも、これほど完璧な切断を目にしたことはない。どれだけ研ぎ澄まされた剣であろうと、どれほど技量の高い剣士であろうと、人間の体をここまで鮮やかに断つことなど、ほぼ不可能だ。
戦士としての本能が、警鐘とともに歓喜を打ち鳴らす。
誰が、何を用いて、これを成したのか。
俄かには信じがたい。
それほどの剣技を持つ者ならば、名が轟いていてもおかしくはない。だが、少年の姿で達人の技を持つ剣士の話など、聞いたことがない。
ならば、現場へ行けば何か分かるかもしれない。
剣士として、武人として──この技の正体を確かめたい。
メシュードラは静かに、しかし確固たる意志を持って歩を進める。闇の中へと消える背中を、月だけが見送っていた。
*
ぼんやりと照らされたそこは、静寂の中にまだ血の臭いを漂わせていた。空を仰げば、夜風が雲を切り裂き、白銀の光が地上をなぞるように照らし出している。だが、その輝きは無機質なほど冷たい。
周囲に人気はない。
家の壁は煤け、扉は僅かに軋んで風に揺れていた。まるで主を失ったこの家そのものが、最後の嘆息を漏らしているようだった。
「やはり……なにもないか……」
メシュードラは低く呟いた。期待していた自分が馬鹿らしい。
あるはずがない。主を失った家に、残された希望など──。
だが、そのとき。
視界の隅で、窓の奥にかすかな灯が瞬いた。
彼は即座に息を潜め、慎重に足を運ぶ。草を踏む音すら許されない。扉の隙間から吹き込む風に乗せて、小さな声が聞こえてきた。
「……あったよ、ダン君。お母さんからもらったペンダント」
「他に持っていきたい物はないか? 次、いつ戻れるか分からないからな」
「でも、長居したら見廻りが……」
「見廻りはさっき通り過ぎたから、もう一度来るにしてもまだ時間はあるさ」
メシュードラの指先が剣の柄に触れる。
闇の中での会話。見廻りを警戒している。
彼らは何者なのか。
一瞬の躊躇の後、メシュードラは思い切り扉を押し開けた。
「お前たち、ここで何をしている?」
「あ……あの……」
突然の闖入者に、少女がビクリと肩を震わせた。
少年──弾九郎は即座に彼女の前に立つ。
「アンタこそ何者だ? ここはこの子の家なんだ。ちょっと用事があって出かけなきゃならないんだが、忘れ物をしたって言うから取りに来ただけで、俺達は別に怪しい者じゃない」
弾九郎の声は落ち着いていた。
表情も動じていない。場慣れしているのか、それとも単なる度胸か。
だが、メシュードラはすぐに違和感を覚えた。
「……ここは昨日処断された鍛冶師の家だ。そこにいるとなれば、貴様らは……謀反人の縁者か?」
沈黙。
わずかに、弾九郎の指が動いた。
舌打ち。
次の瞬間、毛布が弾けた。
「貴様!!」
メシュードラが咄嗟に払いのけた刹那──。
「ミリア! 逃げるぞ!」
弾九郎はミリアの手を掴み、勝手口から一気に駆け出す。
夜風が頬を切る──だが。
逃げた先には、無機質な鉄の扉。
昼間は開いていたはずの裏門が、無情にも閉じられていた。
「くそっ……」
冷たい汗が背筋を伝う。袋小路──。
「昨日、鍛冶師の家で王兵の腕を切った者がいる。貴様だな」
メシュードラは剣を抜いた。
夜の静寂が、たちまち殺気に満ちていく。
逃げ道はない。
ここはまさに虎口だった。
お読みくださり、ありがとうございました。
今回、弾九郎はグラム一家の協力を受けて、トルグラス家の見廻りルートを事前に調査し、ミリアを連れていきました。
慎重に準備を重ねた上での行動だったわけですが──さて、ここからどうなるか。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




