第100話 弾九郎の国
クルーデとの死闘から十日が過ぎた。それはすなわち、グリクトモアの領主であったテルヌ・オロロソがこの世を去ってから十日を意味していた。城下はなお深い悲しみに包まれ、喪に服す人々の姿が町のあちこちに見られる。だが、時間は流れ、街は少しずつ、けれど確かに再生へと歩み始めていた。
城内に配備されていた戦闘用のコンテナはすでに撤去され、破壊された建物の修復が、職人たちの金槌の音と共に進められている。焼け落ちた街並みに、どこか希望の匂いが混じり始めていた。
そして今日、喪明けと共に重大な発表がなされると告げられた。その内容を、多くの者はすでに知っていた。いや、誰もがそれを感じ取っている──新たなるグリクトモアの指導者が、正式に披露されるのだと。
十日前、テルヌ・オロロソは最期の言葉として、異界より来た来栖弾九郎に国の命運を託した。その知らせはマルフレアによって、あくまで自然に、しかし意図的に街中へと流されている。それは反応を探るためだった。
確かに、弾九郎がいなければ、グリクトモアはクルーデに蹂躙され、血と炎に包まれていただろう。それは誰の目にも明らかな事実だ。しかしそれでも、唐突に現れた異界の者に領土と領民を託すなど、常識では考えられない。特に伝統を重んじる長老層にとっては、到底受け入れがたい話のはずだった。
マルフレアはそう予測していた──が、その予想は見事に裏切られた。街に拒絶の声はほとんど上がらなかったのだ。
バート王という新たな脅威が目前に迫る中、弾九郎を戴くことは、民にとっても理にかなっていた。だが、それ以上に重かったのは、あのテルヌ・オロロソ自身が彼に国を託したという厳然たる事実だった。
──テルヌ様のお考えであれば、きっと正しい。
市民の多くは、そう心の中で静かに呟いた。彼女が築いた信頼の大きさは、民の心を動かすに十分だった。そしてそれゆえに、マルフレアが細工を施すまでもなく、弾九郎を新たな統治者とする機運は、自然とこの国に根を下ろしていったのである。
*
そして、儀式の幕が上がる。
「とても……お似合いですよ」
マルフレアの声には、どこか誇らしげな響きがあった。絢爛な金糸のドレスが揺れ、彼女の所作一つひとつに気品が宿っている。だが、目の前の男──来栖弾九郎は、そんな言葉にどう返していいのか分からず、頭をかきながら戸惑いを隠せない様子だった。
「うーん……こういうのは、どうにも落ち着かん……」
鏡に映る己の姿を見ながら、弾九郎は小さく息を漏らす。肩には桔梗紋入りのマント、胸元にはきらびやかな飾り紐と徽章がいくつも光っている。かつて戦場で汗に塗れた姿しか知らない者たちが見れば、まるで別人のような出で立ちだった。
自分の意思で国を受け継ぐと決めたはずなのに、この装いにはどうにも実感が湧かない。王として即位する──そんな現実が、ようやく肩にのしかかり始めていた。
「おっ、なかなかキマってるじゃねぇか」
低い声と共に現れたのはヴァロッタ。彼もまた礼装に身を包んでいたが、どこかぎこちない。着慣れぬ衣装に身を縮こませつつ、無理に笑ってみせるその姿は、戦士としての威厳と、ちょっとした照れが同居していた。
「なんと……凜々しきお姿か……」
しみじみとした声を漏らしたのは、メシュードラ。さすがは貴族の出、堂々たる佇まいで礼装を完璧に着こなしていた。彼の瞳には、敬意と安堵が混じっている。荒波を越えた末の、ひとときの静けさ──その中心にいるのが、今や弾九郎なのだ。
「……こんな格好、いい恥さらしだ」
ツェットは眉をひそめ、不満げに口を尖らせている。それでもスーツ姿で式典に臨むあたり、最低限の礼儀は守っていると言えるだろう。最初に用意されたドレスを断固拒否した結果ではあるが、それでもきらびやかなボタンや装飾にはどうにも馴染めぬ様子だった。
「皆さん、なかなかのいでたちで……馬子にも衣装、ってやつですかね」
にやけた顔でクラットが現れた。勝手に襟を緩め、手をポケットに突っ込んでいる。場の空気などお構いなしの気楽さが逆に場を和ませた。
「本来ならば、私も同席したかったのですが……」
ライガの声には滲むような悔しさがあった。グリシャーロット漁業組合との話し合いがある以上、式典へ出席して既成事実を作ることは、政治的に厳しい。彼はその理を理解しているが、心が追いつかない。すでにこの仲間たちを「共に立つ者」として想い始めていたからこそ、その距離がもどかしかった。
「……ライガさんが出られないのに、私なんかがここにいていいのかな……?」
ミリアが小さく声を震わせた。ドレスの重みにもまだ慣れず、落ち着かない手元が彼女の不安を物語る。
「もちろんだ、ミリアも我々の仲間だからな」
静かに、けれど力強く弾九郎が言った。
「そうだぜ嬢ちゃん。これからは……お姫様だな」
ヴァロッタの軽口に、ミリアの頬がぱっと朱に染まった。
「そ、そんな……私なんかが、お姫様だなんて……」
「なんだヴァロッタ。お姫様は私じゃないのか?」
ミリアを庇うように突如前に出たツェットの言葉に、場が一瞬静まり返る。
「いや……そりゃ……おめぇ……その、ちょっと厳つい……お姫様……?」
「ああん?」
「な、何でもないですぅ……」
ヴァロッタの縮こまる姿に、ついに場が爆笑に包まれた。張りつめていた空気が、やわらかくほどけていく。
まもなく、新たな国が始まる。その門出に立ち会う者たちの、自然な笑顔と、確かな絆が、希望の光となって差し込んでいた。
*
テルヌは、最後の力を振り絞るようにして弾九郎へすべてを託し、さらにひとつの願いを残した。それは、自らの命が尽きたあと、弾九郎の築く新たな国は、かつての「グリクトモア」の名を捨て、新しい旗の下に立ち上がってほしいという切なる願いだった。
薄暗い天幕の中、燭台の炎がゆらめき、病に伏したテルヌの顔を淡く照らしていた。その面差しには苦悶の色が滲んでいたが、それでも彼女の瞳は不思議なほど澄み切っている。咳き込みながらも、絞り出すような声で彼女は語った。
「グリクトモアは……初代、トモア・オロロソが築いた国。ゆえに……その名と共に滅ぶのも、また運命……。何より、この国は……ヤドックラディの属邦として、過ごした時間が長すぎたのです……」
その言葉には、どこか悔しさと、儚い希望が入り混じっていた。支配と従属の歴史に苦しみ、誇りを取り戻せぬまま歳月を重ねてきた彼女の想いが、その一言一言に宿っていた。
彼女が望んだのは、新たな出発だった。かつての名に縛られることなく、弾九郎という男が築く未来に、グリクトモアが加わる形で、真に自由な国を生み出してほしい──それは、彼女が命の尽きる瞬間まで願った夢だった。
弾九郎は静かにひざまずき、テルヌの手を両手で包み込んだ。その手は冷たく、今にも消えてしまいそうに細かったが、彼女の意志は確かに伝わっていた。
「承知した……だからテルヌ殿、あとのことは、全て拙者にお任せくだされ……」
彼の声には、誓いのような重みがあった。握ったその手に、自らの覚悟と命を込めるかのように、弾九郎は力を込めた。
そして──テルヌは、どこか安心しきった微笑みを浮かべた。彼女の胸が、ひとつ、静かに上下したのを最後に、息を引き取った。まるですべてを託し終えた者のように、穏やかに、静かに。
*
王になる──その決意を皆に伝えたとき、弾九郎は告げた。グリクトモアを引き継ぐのではなく、新たな旗の下に、まったく別の国を建てると。領土も国民も、それに加わり、新たなる秩序と繁栄を築いていくのだと。
それは、テルヌが遺した最後の願い。その遺志を継ぐ形での決断だったが、その場に立ち会っていたマルフレアの表情には、かすかな陰が差した。彼女の眉間に寄った皺は、静かなる警鐘のようだった。
(……グリクトモアが消え、新しい国になる。それは……ヤドックラディに滅ぼされるのと、何が違うのだろう?)
そう疑念を抱く者が民の中に現れてもおかしくはない。テルヌの遺志であったとはいえ、それが正しく伝わらなければ、不安や反発を生む種にもなりうる。
──これは、慎重の上にも慎重に進めなければなりませんね……。
確かに、今の来栖弾九郎はこの地を救った英雄だ。英雄が王となり、ヤドックラディと対峙するという物語は、民衆にとっても受け入れやすいだろう。しかし、それが「新たな国の創設」となると、事情は一変する。正当性を欠いた進行は、内乱の火種となりかねない。
その時、弾九郎がふと口を開いた。
「テルヌ殿から聞いたのだが、遺言は全て公式文書として残し、「れこうど」なる物に声を吹き込んだと」
その言葉に、マルフレアの瞳がわずかに見開かれた。思いもよらぬ展開だった。
「レコード……ですか?」
その技術はガントのものではなく、およそ百五十年前、ハマル・リス大陸に現れた異界人によってもたらされたものであった。原始的ながら、音声の記録と再生ができる優れた機械。オロロソ家はその技術に早くから目をつけ、投資を続けており、今ではいくつかの録音・再生機を私蔵していた。
テルヌは、その機器を用い、自身の最期の意志を「音」として後世に残していたというのだ。
「その話は……本当ですか? まさか、そこまでお考えだったとは……」
マルフレアは心から驚いた。だがその驚きの奥には、深い敬意を覚えた。命の終わりを見据えながら、テルヌがどれほど周到に、どれほど真剣にこの国の未来を案じていたか。その重みが、胸を強く打った。
音声があれば、すべてが変わる。そこに込められた「声」は、単なる記録ではない。それは、王家の口から発せられた禅譲の証であり、弾九郎が「正当なる後継者」であることを民に知らしめる、何よりの説得力となる。
マルフレアは静かに息をついた。その吐息には、懸念がひとつ、静かに解けていく感覚があった。
*
「──それで、弾九郎様。新たに建てる国の名は、もうお決まりですか?」
マルフレアの声は、まるで場の空気を裂くように静かだった。だが、その問いが発せられた瞬間、室内の空気がぴたりと張り詰めた。重厚な帳がかかったような静寂の中、そこにいた五人の視線が、自然と弾九郎へと集まっていく。
その注がれる眼差しは、期待と緊張、そして一抹の不安を内包していた。新しい国の名──それは単なる呼称ではない。未来への象徴であり、魂を託す旗印である。弾九郎が何を思い、何を目指すのか、その一言にすべてが凝縮されるのだ。
弾九郎はわずかに目を伏せた。そして、静かに頷いた。
「うん……もう、決めた」
その声には、不思議と力が宿っていた。決意の中に、どこか懐かしさを含んだ響き。彼の胸には、その名が自然と浮かんでいた。過去に生きた国。そして、最も充実した時間を過ごした場所。心と技を鍛え、友と笑い、時に涙を流した、かけがえのない日々の記憶。
弾九郎のまなざしが遠くを見つめる。そこにはかつての山河の風景が、朧げに浮かんでいた。
「ヤマト……俺が建てる国の名は……ヤマトだ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が静かに揺れた。誰もがその名の響きに、言葉を失った。異国の響き。しかし、そこに込められた弾九郎の誇りと願いが、はっきりと伝わってくる。
マルフレアは目を細め、微かに頷いた。ほかの者たちもまた、その名の持つ重みを静かに受け止めていた。
ヤマト──それは、弾九郎の過去と未来が繋がる、たったひとつの名であった。
お読みくださり、ありがとうございました。
百五十年前、異界から現れた一人の人物が、レコード技術をこの世界にもたらしました。
彼は二十世紀初頭のアメリカに生きる時計職人であり、自らの知識と技術を駆使して、多くの革新的な製品を生み出していきます。
レコードもその一つでした。
彼はオロロソ家の庇護のもと、人生のすべてをその開発に捧げたのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




