52.殻
『ホント、バカだよね〜。鏡見た事ないんじゃねーの?』
『言ってやんなよ。コイツ、鏡に写りきるほど小さくねーんだもんwww』
『さすがにそれは草www』
頭に響く、思い出したくない言葉を洗い流すように、俺は何度も何度も、必死に身体を洗い続けていた。
もう二度と、誰かを信じたりしない。
たったそれだけの、心に決めたことを破ったんだ。
この痛みは、その誓いを無碍にした罰。
赤く熱を帯びた腕を、冷水のシャワーでさませば、悪夢からも醒めてきた。
届いた荷物を開け、真新しく律儀に姿勢を正した袋に入った服を取り出す。
サイズは……。少し大きめにしたつもりが、ぴったりだ。
いつの間にか、また太っていたらしい。
一緒に届いた香水……。
柑橘系と悩んだけれど、汗臭さと間違われたらいやだからって、似合いもしない桜の香りだ。
あとは、ゲームのグッズが箱には入っている。キノコの隊長、カーディナルキャップの缶バッジ。
一緒に入っていた黒い帽子に、そのバッジを付けておけば、目印としては十分だろう。
きっと、俺を見つけても気づかなかったフリをするだろう。
けれどせめて、不快な思いだけはさせたくない。その一心で、準備を進めた。
『映画? …………。うん、いいよ』
その言葉は、確かに耳に届いた。
けれど、その言葉の通り実行されるとは限らない。
何度も、何度も何度も。聞いてる側がうんざりするほどに、俺は続けたんだ。
『実際に会ってみて、一緒にいたくないと思ったら、そのまま帰ってくれ』
その言葉は、本当は断ってほしかったという、俺の本心が言わせたものかもしれない。
きっと、まーちゃんの中の俺は、現実の俺とは程遠い。
会ってみたら、がっかりされるかも。
そんな思いが、何度もその言葉を言わせたのだ。
それでも「大丈夫、そんなことない」と言い続けてくれるから、もっと辛くなる。
俺を守ってくれた、ゲームという殻はもうないのだ。
俺が俺として、直接対峙しなければならないのだ。
ただただ不安で、押しつぶされそうになる。
『生きてる価値ナシ! さっさと現世からログアウトしてくんね?』
何もかも忘れてしまおうと、むかしのこと、明日のこと、全部眠って忘れてしまおうと、ベッドへ潜る。
だけど全然寝れなくて、何度も寝返りうって、気づいた時には、窓の外は白く霞んでいた。
どうせ眠れないと起き出し、水で顔を冷やしたら、目の下に隈をこさえた俺と目が合った。
ひどい顔だと笑いながら、湧かない食欲をゼリーを飲んで誤魔化して、装備を変えた。
これから、現実でクエストを受けるのだ。
ただ、映画を見に行って、食事して……。ただそれだけ。
もらったチケットがもったいないから、映画を見に行くだけ。俺のわがままに付き合ってもらったから、お礼をするだけ。ただ、それだけだ。
けれど、ワンルームしかないマンションの、玄関までが遠く感じて、足が動かない。
たった数メートルしかない、いつも荷物を持って歩くだけのその廊下が、とてつもなく長く感じた。
もう、何もかも無かったことにしてしまおうか。
キャラも消して、ゲームもやめて、何もかもなかったことにして、今のままでいようか……。
『楽しみにしてるね』
そんな弱気な俺に、笑顔でそう言ってくれたまーちゃんが、脳裏に浮かんできた。
重たい体を引きずって、俺は玄関のドアノブを回す。
開かれた扉の向こう、まだ少し肌寒い空気と、朝日の煌めきが目に染みた。
「こんな時間に外に出るのは、いつぶりだろう……」
慣れない空気に咳き込んで、そこでハンカチとティッシュがない事に気付く。
けど、部屋に戻ってしまったら、もう二度と出て来られない気がして、俺は振り返らず外に出た。
ガチャリと冷たい鍵の音に、もう戻らないと心に決めた。
たとえ、最悪の結果が待っていようとも……。




