無事日常へ
殺多峠も無事に通る事が出来た。
色々と脅された気もするが結局道が狭くて他の大八車とすれ違う時に『崖から落ちるのでは無いか?』と思った事が一番危険な事だった。
シーリンさんが居なかったら危険が増えていたかも知れない事は否定はしない。
出発前ドカチーニさんが言っていた事はきっと間違い無かった。
ドカチーニさんとの旅だった事を考えるともっと血生臭い旅になっていたと脳内に浮かぶ。
殺多峠の見晴らしが良い所からはシーミズの港町が良く見えた。
今回の旅でもっともヒトが多く集まる集落を見下ろす。
豆粒のような帆船が港へ沢山泊まっている。
海沿いにあるあの一番大きく真っ白な建物がきっとドカチーニの斡旋屋だ。
俺は異世界の故郷へと帰って来たと感じる。
あとは陰気津川を河口付近まで下って川を渡れば異原の城門までは一里(約4キロメートル)ほどとの話だ。
殺多峠を下りると意外な事に田園風景が広がっていた。
タゴノウラの港近辺程では無いが、明らかに農地が平地一杯山の裾野にまで広がっている。
非常に長閑だ。
殺多峠の西と東では風景が全く違った。
陰気津などと不穏な漢字が付いている為、勝手に恐れていた事が莫迦みたいだ。
「陰気津は長閑で良い所に見えますがどうしてこんな不穏な漢字が付いているのですか?神の祝福ってやつを受けていないのですか?」
「おれが生まれる前の古い話だ。どこまで本当かはおれも責任を持てないぞ?陰気津は山に囲まれた満月の門が一つも無い良い土地なんだ。スーンプ城下を支える穀倉地帯の一つだな」
「はい。この景色を見ると感じますね。農地ばかりです」
「当時陰気津を支配していたお貴族様が食料の値段を不当に値上げした。それをスーンプ城の衛士様が衛兵を連れて武力で鎮圧した後『オキツ』は『陰気津』になったとの話だ」
ヒト族同士が争った事もあったのか。
ヒト族に敵対する者が魔族と言われるのだからヒト族同士が争う事は無いと思っていた。
「ヒト族同士が争う事もあるのですね?」
「いや。魔族との争いになるぞ。魔族の認定をするのは神殿だ。お前さんが神殿から『魔族』と烙印を押されれば、その瞬間からお前さんは『魔族』になるのだよ」
「そうですね。『陰気津』も神殿から魔族の烙印を押された土地という事です」
「あたいもこんな角が生えているからさ。子供の頃『魔族だ鬼だ』と言われたのさ」
「わたしも同じような経験がありますよ。子供の男なんてそんなものです」
「神殿が魔族と言えば魔族ですか?納得はいきませんが、そういうものだと思う事にします」
「それが良いでしょう。納得しなくても構いませんが受け入れる事も大事です」
シーリン笑顔マイスターの怒りセンサーが反応します。
私に対してではない何かに怒りセンサーが反応するのは珍しいですね。
シーリンさんも神殿や教会があまり好きでは無いのかも知れません。
私の身近にもベルガーさんが居ます。
熊族は魔族に一番近いヒト族だと聞いた覚えがあります。
街中で何か悪い事をしたらベルガーさんはすぐに魔族認定をされてしまうのでしょうか?
ベルガーさんが引き籠りなのは、そんな事を避けているのかも知れません。
殺多峠の入口から川沿いに南下して陰気津川の河口にある集落へとやってきた。
集落はタゴノウラと同じで木の柵で囲われているくらいのものだ。
こちらからだと川を渡った先の方が発展している。
集落を護る壁が木の柵と言うのは、魔族や魔物の襲撃が少ない証拠なのだと思う。
陰気津川は場所を選べば歩いて渡れない事はない程度の水深だ。
おじさんが「荷物を濡らしたくない」と言う事なので渡し船と言うより筏を使って川を渡る。
筏を使い川を渡ると昼食になった。
後は異原を通るとは言え全て陸路だ。
途中細い川もあるそうだが、全て大八車を牽引しても歩いて渡れる。
おじさんには夕方前に城門まで行く算段が付いたのだと思う。
ここ陰気津の名物は『鮎』と言う話。
シーミズの港町では海魚ばかりだったので川魚である鮎は少しだけ楽しみだ。
鮎からはらわたを取って塩を振りかけただけで串に刺し、焚火も周りに置いただけの簡単な調理方法だったが、焚火で焼かれた熱々の鮎はとても美味しかった。
旬は初夏だと言うので少し時期が遅かったかも知れない。
今度は初夏に陰気津へ来て食べよう。
ここまでだったらベスとアンも来られるかも知れない。
その頃にはベスも自分の足で歩いていると最高だ。
美味しい昼食を食べ、愛しい我が娘の2人を思い浮かべて、最後の旅路を行く。
陰気津の門を出ると左手に青い海が広がる砂浜を見ながら街道を挟んで右手に険しい角度で立つ山に囲まれた狭い平地をしばらく進む。
この細くそれなりの距離がある平地部分。
異原に生息する走り蜥蜴が陰気津に来る事を防いでいるとの事だ。
長閑だ。
大きな魔物の気配も無い。
浜から聞こえてくる波の音が右手の山で反射されているようで余計に長閑さを演出する。
川が大地を削り天然の堀になった異原川とその向こうに存在する万里の長城とも言えるシーミズの港町を護る城壁を見るまでは完全に俺の気は緩んでいた。
途中からすでに平野部分が広がり異原へと入っていた。
俺がのんきにただ歩いている間、シーリンさんは周囲に気を配っていた事に、今気付く。
ここはすでに走り蜥蜴が食物連鎖の頂点にいる世界だ。
いつ輸送隊が襲われても不思議ではない場所だった。
俺は本当に駄目だな。
この旅でシーミズの港町と異原以外の色々な土地を見てきたのにすぐ忘れてしまう。
いつまで経っても自分が『俺無双』の出来ない異世界に来た事を自覚出来ない。
少しでも平和な空気を吸うと、すぐに気が緩む。
陰気津までベスとアンを連れて3人一緒に鮎を食べにくる?
今の俺に2人を護れるとでも思っているのか?
自分達が『捕食される側の立場にもなる』という事を忘れるな!。
城門まで最後の1キロメートル程を俺は冒険者の自覚を持ち気張って輸送隊の護衛をした。
異原の城門をくぐりシーミズの港町に戻って来ると、どっと疲れがやってきた。
一度気を使い出すと、ちょっとした茂みも怖ろしい。
『そこに魔物が隠れているのでは?』と疑ってしまう。
ほんの1キロメートルの移動が凄く長く感じた。
これをずっと続けるのだからシーリンさんは凄いヒトだと尊敬する。
俺は街や集落等のヒト族が集まっている場所が本当にありがたく思えるようになった。
大八車は湾岸通りのメインストリートを行くのかと思ったが、一番海側の道を行く。
ドカチーニの斡旋屋がある道だ。
街中のメインストリートは馬を使った荷馬車が多いし、おじさんは邪魔になると判断したのかも知れないが、俺は少しでも早くベスとアンに会えると嬉しさが増した。
途中で斡旋屋に寄ってもらい、ベスとアンへ「ただいま」の報告をしよう。
大八車を氷室へと通じる通路の海沿いに停め、ぐるりと外観を周り4人で斡旋屋へと入る。
夕方まではまだ時間がありフィーナさんの診療所が終わり夕食で食堂が込み始める前になる斡旋屋から客が居なくなる狭間の時間だ。
ドカチーニさんとフィーナさんが揃って俺達4人を迎えてくれた。
ベルガーさんとマリーは厨房で夕食の仕込みの最中らしい。
シーリンさんが早速斡旋屋を手伝おうとするが、ドカチーニさんに「旅の汚れを落としてからだ」と手伝いを止められた。
考えてみればシーリンさんが一番魔物の返り血を浴びている。
ベスとアンに「ただいま」を言ったら彼女を銭湯へ誘ってみようか?
シーリンフラグが立ちそうな今なら一緒に銭湯へと行ける気がする。
失敗した時は小さな石鹸の代わりに俺の顎がカタカタなるだけだ。
たすきおじさんはドカチーニさんとフィーナさんとに話があるようだ。
今日はこのまま斡旋屋で休憩して夕食まで食べて行くようだ。
ホルスたんもそれに便乗する。
大八車の積み荷が『サクラエビ』と知ると、ドカチーニさんは大八車を氷室へと入れる事を提案し、俺がシーリンさんの指示で氷室へと大八車を入れる事になった。
再び食堂へ戻ると一番にベスとアンの事を確認した。
「ドカチーニさん。ベスとアンは?」
「自分の部屋に居るぞ。ただし覚悟を持って行けよ。かなりお怒りだぞ?」
「分かっています!謝って謝って謝りつくします!!」
自室の部屋の扉の前に立ち……立った瞬間に『 orz 』のポーズを取る事になった。
扉には看板が掲げてあった。
ベスとアン二人べや
ユークリットは
おことわり
この位の事は想定の外だ。
どうという事は無い。
その証拠に心の中が敬語になるだけで済んでいます。
落ち込んでなんていません。
私は元気です。
部屋の外から一度、声を掛けてみましょう。
「ベス。アン。ただいま」
「…………」
「二人共ただいま」
「……ゴソッ……」
「ただいまぁ」
「…………」
中で確かに動く気配はしますが返事はありません。
二人で家出をされていないだけでも良しとしましょう。
扉を無理矢理開けるのは簡単ですが、後が厄介です。
二人が開けてくれるのを待ちましょう。
陽が傾き始めています。
チャンスは夕食です。
トイレに出て来る事も考えられます。
まずは部屋から出て来るアンを捕まえる事にしましょう。
アンがいつ出て来ても良いように私はこのまま扉の前で土下座待機です。
ここが私の誠意を見せる場所だと心得ています。
シーリンさんと銭湯へ行くより大切な事です。
私がいつまで待ってもアンが扉から出て来る事はありませんでした。
この時の俺は忘れていたのだ。
この部屋にはもう一つの入口がある事を。
俺も一度は使った事のある入口の存在を。
そして俺は土下座の恰好をしたまま朝を迎える事になった。
それはアンがその入口を使えるまでに回復した嬉しい事でもあった。
翌朝「仕事に行くよ」とホルスたんに声を掛けられて、俺は目を覚ました。
やばいな。
土下座をしながら普通に寝られるようになってしまった。
エコノミー症候群にだけは気を付けないとな。
「ベス。アン。仕事に行ってくるからな」
「……ペタペタ……」
部屋の中から扉へと近づいてきた小さな足音を聞いたが扉は開かない。
建付けは悪いが開けようと思えば簡単に開く扉を開ける事無く、俺は食堂へと向かった。
シーリンさんが受付をしている。
幸い仕事の斡旋を待つ列はまだ長くない。
ホルスたんと二人仲良く列に並ぶ。
二人仲良く?
「ホルスたん。斡旋屋を移ったのですか?」
「あたいも今日からここの世話になるよ。昨夜から下宿もさせてもらっているよ」
「引っ越しは済んだのですか?そうでなければ仕事が終わり次第手伝いますよ?」
「ありがたい話だけど平気さ。あたいの荷物なんて布袋一つでお終いさ」
考えて見れば俺も『冒険者の装備』を別にすれば貫頭衣を3着、てぬぐい3本、シーリンさんからもらった草鞋以外にこれといった持ち物が思い浮かばない。
オタクグッズに溢れた現代日本の自分の部屋とは大違いだ。
そんな事を考えているうちに自分達の順番がやってきた。
笑顔のシーリンさんがいつもの朝と全く変わらない態度で対応してくれる。
「おはようございます。二人とも同じ荷揚げ屋の仕事でよろしいですか?」
「おはようございます。お願いします。」
「おはよう。あたいも同じで頼むよ。」
「受け付けました。後はいつものように港湾施設でお願いします。」
その後「朝食も一緒に食べるのさ」と言うホルスたんを振り切り、再び『ベスとアンの二人べや』の扉の前に立ち声を掛けた。
「ベス。アン。一緒に朝食を食べよう」
「……ゴソゴソ……」
中からは確実に二人の気配を感じる。
そこへホルスたんがやってきて俺に声を掛けた。
「ほら。あたいと一緒に食べるよ。せっかくの美味しいスープが冷めちまうよ」
途端に扉が開いて、アンが俺が着ている貫頭衣の腰の辺りを掴み、俺だけ部屋へ引っ張り込もうと頑張る。
アンの力で俺が動く事は無い。
勿論俺が自分で動いて久し振りの自室へと帰る事が出来た。
アンはホルスたんに「いぃだっ」と言うジェスチャーをして扉を閉めた。
扉の外からは「仕方ないのさ。娘と仲良くしなよ」とホルスたんの声が聞こえてきた。
俺はホルスたんに無言で感謝をすると、部屋に入れて貰えた事が嬉しくなってベスとアンに「二人共ただいま」と声を掛けるが完全に無視された。
いつの間にか用意されている彼女達の朝食をアンがベスの口に運んでいる。
二人共、俺を部屋に入れてくれた事以外は完全に無視するようだ。
ベスが俺なんて存在しないようにアンへ話し掛けている。
アンも俺なんて存在しないようにベスへと筆談している。
俺は『娘達から空気のように扱われるお父さんの寂しさ』が少しだけ理解出来た。
結局俺は同じ部屋で朝食を食べながら一人で朝食を食べた気持ちで仕事へと出掛ける。
銀色の月は半月を欠け始めた。
家賃を払う新月の日までは残り1週間程だ。
俺はそろそろ本気で今月の家賃を考えないといけない。
今月も銭で払う事は無理だと思う。
金銀は現時点で少なくとも3両は持っている。
前回の銀色の月の満月の夜に出た報酬だ。
家賃を払うだけなら何とかなるが……親娘3人一般庶民の稼ぎで暮らす事は本当に苦しい。
今回の氷運搬でどのくらいの報酬が出るのだろうか?
シーリンさんへと確認した訳では無いが、現在所持する銭束は50本あれば良い方だろう。
最近は斡旋屋の中で俺とベスとアンの3人が使った分の銭は預けてある銭束から引き落としてもらっている。
旅先でも言われたが『俺の懐事情を一番知っている』のは本当にシーリンさんだ。
考え事をしながら歩いていたので、隣で俺へ話し掛けてくるホルスたんに返す言葉が御座なりになっていた。
共に仕事へ向かう途中、怒ったホルスたんに角で背中を突かれた。
最近は旅先でシーリンさんの悪い影響を受けたのか、ホルスたんも少しだけ俺の扱いが酷くなっている気がする。
折角できた瘡蓋を剥ぐ必要は本当にあったのでしょうか?
本当に現代日本の常識は異世界では通用しないのでしょうか?
角で俺の背中を突くのが楽しいのか、湾岸施設に着く頃には、彼女の機嫌も直っていた。
この時の俺は現代日本で見掛ける『バカップル』の行動と自分達の行動がほぼ一致している事に気付く事は無かったのだ。
三次元にほぼ興味が無い現代日本に居た俺でも、今の俺を見たら確実に呪っていただろう。
久し振りの湾岸施設には不穏な空気が流れていた。
いつもボッチで1人仕事をしている俺だが、今日の様子はいつもと少し違って感じる。
不穏な空気を少し気にしながらホルスたんと倉庫へ荷物を運んだ時に理解した。
今日はたすきおじさんが居ない。
俺は『そのせいだな』と結論付けた。
今日も荷揚げの仕事が半日で終わった。
換金所の列に居る時も周囲の不穏な空気は俺に向かっている気がしてならなかった。
午後、倉庫におじさんが居ないので荷物整理の仕事をする事は出来なかった。
倉庫の連中が普段よりも厳しい目を俺に向けていたのは果たして気のせいだろうか?
ホルスたんと共に昼過ぎ頃斡旋屋へ帰ると、たすきおじさんが食堂で俺達を待っていた。
俺達の姿を確認すると、おじさんがシーリンさんを含めて俺達3人を食卓へと呼んだ。
おじさんの隣にはフィーナさんが腰かけていて、ドカチーニさんが後ろへと立っていた。




