エピローグ
どうして戻ってきたの、と訊くと、エリアスは露骨に心外そうな顔をした。
交わした約束は守るというのが彼のルールらしいが、本心から望んで戻ったのかどうか、今ひとつ分からなかったのだ。だって彼は『あちら側』に帰れば上位個体、番人としての務めはあるものの、人間に顎で使われる暮らしよりは遥かに快適なはずだ。
自分の社会に帰る権利を得て、それでもなお『こちら側』を選ぶだけのメリットを、私たちは彼に提供できているだろうか――いくら考えても美味しいスイーツくらいしか思いつかない。
「おまえの方が、居心地がいい」
エリアスは不貞腐れた口調で言って、そっぽを向いてしまった。その言い回し、日本語として正しいのか。私は場所じゃないし、「方が」って誰との比較なんだ。
問い質そうと思ったら、エリアスは黒蛇に変身してしまい、だんまりを決め込んだ。
彼はこの新しい形態がお気に召したらしく、その後もよく床でにょろにょろしているのを見かけた。
けれど一度環希さんにヒールで踏んづけられて、用心したのか彼女が部屋にいる時は別の姿に化けるようになった。環希さん書類見ながら歩いてたから、完全に事故なんだけどね……。
エリアスが帰還を果たしてから三週間後、九十九里さんも無事に退院した。
けれどもしばらくは歩行に杖が必要で、その間は内勤に専念することになった。特種害獣を追いかけ回すなんてもってのほか。必然的に、彼が現場復帰するまでは残りのスタッフで捕獲作業に対応しなければならなかった。
「日下くんが独り立ちするいい機会だよ。蓮村さんに切り札を出させないよう、しっかりやるんだね」
九十九里さんは澄まし顔で日下くんの肩を叩く。私も同感だった。なるべくならあれは二度とやりたくない。
前回の事件の時、九十九里さんも日下くんも私を切り札だと言った。最初から『厄災の声』の利用を算段に入れていたのだろう。まったく捕獲員という人種は、食えない。とはいえ、最後の最後まで私を出さなかったところには良識を感じている。
そうそう、九十九里さんの復帰のタイミングで、彼と環希さんは結婚指輪を着けるようになった。
何でも環希さん、金属アレルギーが治ったらしいのだ。投与された抗生剤の副作用の可能性が高く、この結果にさっそく惣川製薬が飛びついている。
「もしかして花粉症も治ってるかも!」
環希さんは期待して検査を受けたが、残念ながらそちらは現状に変化なし。来年の春も彼女のクシャミが賑やかそうだ。
お揃いの指輪を嵌めても、九十九里夫妻の態度は相変わらず。でも意識してよく観察すると、交わされる視線やちょっとした会話の端々に家族らしい親密さを感じる。これに気づかないとは、私やっぱり鈍感だったなあ。
私が今まで二人の婚姻関係を知らなかったと聞いて、
「あ、そう言えば話してなかったですね。失礼しました」
九十九里さんは書類に些細な誤字が見つかった時のように謝り、
「どうりで変なこと訊くと思ったわ。あっはっは」
環希さんは笑い転げた。前にお鮨屋さんで私が二人の関係を尋ねたのは、夫婦だと分かった上で、もっと精神的な繋がりのことを聞きたいのだと解釈していたらしい。重ね重ね、恥ずかしい。
「おまえ、そういうとこマジで鈍い。自覚しろよ」
日下くんの嫌味に返す言葉もなかった。
日下くんと言えば、いつぞや約束した通り、今度家に招いて手料理を振る舞う予定になっている。レシピサイトを見て献立を決めているところだ。エリアスの血液ドナーを代わってくれたお礼も兼ねて、ご馳走を作ってあげなければ。
日が近づくにつれて日下くんは何だかソワソワし始め、九十九里さんと環希さんはニヤニヤしているのだが、気にしないでおこう。
たらふく食べさせて、ついでにお酒でも飲ませれば、病院のテラスで言いかけたことの続き、白状してくれるかしら。日下くんはどうやら私に鈍い女のレッテルを貼ったみたいだけど、さすがにあそこまで言われて気づかないわけがない。
ま、あとは彼の勇気に期待である。
目下迷っているのは、当日ださパンツで自制心を強化しておくか、あるいはレディのマナーとして夢のあるパンツで不測の事態に備えるか――悩ましいところである。
それから、最後に私自身のことを。
この度私は、晴れてシェパーズ・クルークの正社員に登用された。
「事務に加えて、捕獲作業の補助もやってもらうことになるけど、どうかしら」
環希さんに打診された時、私は少し迷ったが、事前準備や作業中の連絡係などあくまでもサポート業務だと聞いて、受けた。前回の事件で度胸がついたのと、他業種に転職する自分の姿がどうにも想像できなかったからだ。
私はいつの間にかこの仕事に馴染んでいた。
ほんの三ヶ月前、時給と勤務時間だけで決めたアルバイトなのに、今や業務内容にも業界事情にも面白みを感じている。『やりがい』だの『成長』だのと並び立てればとたんに偽善的になるけれど、理屈抜きで惹かれる仕事に出会えたのは幸せだと思う。
あと、最初の印象よりは堅実な業種だったという理由もある。吸血鬼の人間の血への渇望が失われない限り、生体捕獲の需要が消えることはないのだから。
善き羊飼いになろうと、私は改めて決意した。
その夏はとても暑かった。連日の熱帯夜、私は日下くんとエリアスとともに、九十九里さんのいない穴をカバーして特種害獣を追いかけ回したのだった。
SC壊滅の危機を乗り越えられた私たちだ。今後どんな大事件に遭遇しても、あれほどの騒動は二度とないはず。きっと大丈夫。
――私の楽観は、その年の冬に起きた事件によって、見事に覆されることになるのだけど。
「羊飼いのセレネイド~狼と狩人は闇夜に踊る~」完
この物語が、皆様の記憶に残りますように。
2018年1月20日 橘 塔子




