三
闇が、質量を持っていた。
広さも高さも計り知れない部屋である。屋内であるはずなのに天井の位置は見通せず、また突き当たりの壁も見渡せなかった。巨大な体積があるようにも、反対に身動き取れぬほど狭小であるようにも感じられる。
ただ、闇だけがみっしりと詰まった部屋。
人間ならば視覚がまったく役に立たず、一歩も進めずに立ち竦んでしまうだろう。しかし、今そこにいるのは人間ではなかった。
エリアスは軽く鼻を鳴らした。吸血鬼たる彼の目は、暗がりでも物の輪郭を捕えることができた。滑らかな石の床と、木立のように立ち並ぶ何本もの柱、そして遥か上方にある円形の天井――それから。
――何が四十人だ。倍はやられてるぞ。
闇と同じだけ濃厚な血の臭いを、エリアスは嗅ぎ取っていた。侍従が四十人も食い殺されたと聞いていたが、今彼が感知した臭いには、遥かに多くの個性が入り混じっている。過少表現だったのか、あるいは犠牲者のうち侍従は四十人だという意味だったのか。
「おい、いるのか」
エリアスは奥に向かってぞんざいに声をかけた。背後の扉が果てしなく遠く感じる。いったん入室すれば、主の許しなしにその扉は開かない。よく知っているからこそ彼は開き直って、躊躇なく歩を進めた。
「人を呼びつけておいて勿体をつけるな。さっさと出てこい、『レガリア』」
エリアスの足先が何かに触れた。躓くより先に気づき、足元を見下ろす。
床から彼を見上げていたのは、薄緑色の虚ろな目だった。
自由を求めて狡猾に人間を狩り、一時はエリアスをも追い詰めた元同僚は、変わり果てた姿になっていた。全身の水分が干上がった枯れ枝のような体、茶色く縮んだ皮膚、疎らに残った白い髪。美貌は見る影もない。瞳の色だけが変わっていなかった。
彼は焦点の合わない視線を彷徨わせ、弱々しく唇を震わせる。喉元が大きく引き裂かれていたが、もう流れる血は残っていないようだった。ひとつ喘鳴を残して、それきり動かなくなった。
エリアスが膝をつく前に、彼は黒い塵に変わる。燃えた藁束が崩れるような呆気なさだった。
風もないのに舞い上がり、闇の中に消えてゆく旧友の名残りを、エリアスは黙って見送った。わずかに細められた目が、彼なりの哀悼だった。
次の瞬間、エリアスは首筋に痛みを覚えた。
静脈に牙が突き立てられている。
彼の肩に背後から細い腕が巻きつき、その持ち主はもう彼に咬みついていた。一瞬の出来事だ。
気配も物音もしなかった。クラウストルムのエリアスが、何も察知できなかったのである。ここにはそれがいると――棲家だと知っていたのに。
「おまえはっ……」
エリアスが勢いよく振り返ると、それはあっさりと離れた。ほとんど血は奪われていない。それなのに、エリアスの背筋を不快な冷気が駆け抜けた。
「おかえり――エリアス」
それは日本語で言って、くすくすと笑った。エリアスの眉間に皺が寄る。彼の前に立っているのは、彼がよく知る人物だった。
耳の下で切り揃えた黒髪に、目元の涼やかな中性的な顔立ち、黄みの強い肌――彼を捕えた『厄災の声』の女は、細い体に黒いワンピースを纏ってしどけなく立っている。ただし、その唇からは二本の牙が覗いていた。
エリアスは――驚かなかった。
「やめろ。悪趣味だ」
「そう? 喜んでくれると思ったのに」
女の姿はふわりと霞み、すぐに別の形を取った。
透き通る肌に同じ色の長い髪が降りかかる。さらに華奢になった体にワンピースが少々大きい。片方の肩紐がずれて、小ぶりな胸の膨らみが見えかけていた。
美しい少女であった。
人間に当てはめると十六、七歳くらいか。水色の瞳を嵌め込んだ目は大きく、鼻筋は通り、赤みを帯びた唇は花弁のよう。絶世と言ってもよいほど造形が際立っているのに、その表情は豊かで人懐っこい。近寄りがたいどころか、誰もが思わず抱き締めたくなる愛くるしさに満ちていた。
「若作りだな、ユーディット――うわ」
ぼそりと言ったエリアスに、少女はぶつかるようにしてキスをした。そのまま勢いで押し倒す。いつの間にか、彼らの体の下にはふかふかとしたソファかベッドのような物があった。
彼女――ユーディット・レガリアは、吸血鬼のヒエラルキーの頂点に位置する個体だった。『レガリア』と称される唯一無二の存在である。
いったいいつから生きているのか、エリアスも正確には知らなかった。初めて出会ったのは彼がまだほんの幼体の頃だが、その時から彼女は何も変わっていない。すべての吸血鬼たちから傅かれる女王が自分に執心する訳も、未だに理解不能だった。
ユーディットは息つく間もなくキスを重ねて、エリアスの血を求めた。舌先で傷をくすぐり、流れ出した赤い筋を舐め取る。表情はうっとりと霞んでいた。エリアスは好きにさせている。
「……うふふ、やっぱり凄く美味しい。他の人とは全然違うわ。みんな、ちょっと飲んだらすぐに崩れちゃうし」
「節度ってものを知らないのか、おまえは。いったい何人食い殺したんだ」
「やだ、妬いてるの?」
「妬くか。俺の責任だと責められて迷惑してる」
「その素っ気ないところが好き!」
外見年齢に相応しい軽やかさで好意を示して、再び唇を重ねる。舌に絡んだ唾液は血の味がした。
冷たい指がシャツの胸元を押し開き、急いた仕草でエリアスの血管をなぞる。彼がその手を押さえると、ユーディットは可愛らしく唇を尖らせた。エリアスは右掌を開いて見せた。
「おまえ……知ってたのか? 『厄災の声』は混血だと」
彼女はそこに刻まれた歯型を興味深げに眺めている。
「出鱈目な支配能力だった。ほんの数滴の血を飲み込んだだけで、完全に俺を捕えたんだからな。そんな芸当ができる奴を俺は一人しか知らない。いったい……誰の血の末裔なんだろうな」
「知らなーい。そんなにめんどくさい人間なら、殺しちゃえばよかったのに」
ユーディットは俯せで頬杖をついて、足をパタパタさせた。無邪気な口調に含みはない。エリアスは無駄と分かりつつも問いを重ねた。
「どうして今さら俺を呼び戻したんだ? 人間の手先になったことへの断罪か?」
「別に……気にしてないわ」
「じゃあ人間の血を吸ったから?」
「だーかーらあ、そんなことどうでもいいの! 長老たちがうるさいから適当にハイハイ言ってるだけ。あなたを呼んだのは、あなたがいないとつまんないからよ」
ユーディットは焦れたようにエリアスに抱きついた。
彼女の言葉には何ら嘘がないと、エリアスは知り尽くしている。『レガリア』は何も偽らない。隠さない。縛られない。
すべてのモラルとタブーに無縁で心のままに振る舞い、楽しむ女である。彼女に課せられているのは頂点に居続けることだけ――それさえ果たせていれば何をしても許されるし、また咎められる存在はいない。同胞を餌にするのはもちろん、美味そうだと思えば人間の血も啜るだろう。
戯れに人間と交わり、子を孕むことだってあるかもしれない。ただ、気紛れな彼女はすぐに忘れてしまうだけだ。
ふいにエリアスはぞっとした。『レガリア』の奔放さは当然のことであり、彼も受容していたはずだった。気にかけたことすらなかった。
今はそれが無性に忌まわしい。
いつか『向こう側』で聞いた言葉を思い出す。
心で思うのと行動に移すのは全然違う。人間には決して越えちゃいけない一線がある――復讐を唆したエリアスを、あの人間の女はそう言って跳ねつけたのだ。
ユーディットの化け物じみた享楽性に比べれば、彼女の清廉さは脆弱で、危ういバランスの上に辛うじて立っている。その痩せ我慢にも似た意志を、エリアスはいつしか美しいと思うようになっていた。
エリアスの恐れと、ここにないものへの羨望を感じ取ったのか、ユーディットはもう一度首筋に牙を立てた。薄い唇が傷口に吸いつき、喜々として血を吸い上げる。甘い、悍ましい痺れがエリアスの思考を溶かしてゆく。
ユーディットは邪気など欠片もない笑顔のまま、エリアスに跨ってその腕を押さえつける。微笑ましい恋人同士の戯れそのものの姿勢なのに、彼は身動きひとつ取れなくなった。
「私が満足するまで逃がさないわよ。ほったらかしにされたぶん、仕返ししてやるんだから」
満足なんかしないくせに――悪態をつく前に、エリアスの喉は食い破られていた。
どのくらいの時間が経ったのか、エリアスにはだいぶ前から感覚がなくなっていた。
自分の体の衰弱具合から推測するしかないが、ユーディットはわざとゆっくりと彼の血を奪っているようだ。できるだけ長く彼を愛したいのか、あるいは苦しめたいのか――彼女にとっては同義なのかもしれない。
これは死ぬかもしれない――元同僚の末路を思い浮かべてそろそろ不安になってきた頃、ユーディットはようやく彼を解放した。
抱き合っているうちにワンピースは乱れ、肩も背中も大きく露出している。白い肌に赤黒く乾いた血がこびりついて、凄まじく淫靡な姿だった。
「も、いいわ。『あちら側』に帰れば?」
素っ気なく言う。身を起こして長い髪を撫でつける彼女を、エリアスは安堵と不信の入り混じった気持ちで眺めた。彼もまた、はだけた胸が血塗れになっている。すべて彼自身の血だが、喉の傷はもう塞がりかけていた。
「ずいぶん人間にご執心みたいだから、もういっそ吸い殺してやろうかと思ったけど、やめとく」
「どうして、気が変わった?」
「あなた、いい匂いがするもの、エリアス」
ユーディットはエリアスを抱き起して、その耳元に顔を寄せた。フンフンと鼻を鳴らして、
「陽向の匂いね……太陽の匂い。最後に見たのはいつだったかしら。誰から移されたの?」
あなたが惹かれるのも無理ないかもね、と微笑んだ。
エリアスは鉛のような体を動かし、ベッドから降りた。よろめく足を何とか踏ん張る。信じられないくらい力が抜けていた。血液だけでなく、命そのものを吸い取られたようだ。
それでも、歯を食い縛って出口に向かった。
「エリアス」
そんな彼を、ユーディットが呼び止める。平静を装って振り返った先で、『レガリア』は成熟した美女の姿を取っていた。冷たく整った面差しと首から下の妖艶な曲線がひどくアンバランスで、そのぶん魅惑的だった。さきほどの少女が蕾ならば、こちらは今が盛りの大輪だ。
いったいいくつの姿を持っているのか。
「次の繁殖期には戻りなさい。私、あなたの子供なら産んでもいいわ」
「他を当たれ。俺にだって選ぶ権利はある」
「すぐに私が恋しくなるわよ。愛してるわ」
玲瓏たる美貌は、笑みを浮かべたまま、闇の奥へ飲み込まれた。
部屋を出たエリアスに、生き残れたという感慨はあまりなかった。すぐに活きのいいのを二、三人選んで、奪われた血液を補給しなければ――現実的な彼には過去よりも現在がすべてだった。
そして、ほんの先の未来を思う。
よし帰ろう、と決めた。
次話で完結します。




