一
プリントアウトした書類の束をクリップで纏め、私はページ数の抜けを確認した。代表者印が必要な所に付箋をつけ、クリアファイルに収める。発送先の封筒の宛名書きは先にしておいたから、明日環希さんに押印してもらったらさっさと書留で出してしまおう。
私は椅子の背凭れが反り返るくらいに背伸びをした。先に文書をメールで送ってから、さらに押印した原本を郵送だなんて、お役所相手の報告書は手間がかかる。
まあこれで、下っ端にできる急ぎの仕事は片づいた。冷めたコーヒーを飲み干すと、日下くんがそのカップを取り上げた。
「お疲れさん。もう出られるか?」
「うん、ちょっと遅くなっちゃったね」
「電話の転送は俺のスマホ宛てにしといたからな」
日下くんは、野菜ジュースの空パックと私のカップを一緒にキッチンへ運んでくれた。洗ってくれている間に、私はパソコンを切り、出かける準備を始める。
オフィスを留守にするのは気が引けるけど、私も日下くんもここ数日事務仕事ばかりに忙殺されていたのだ、よしとしよう。
パストラルホームでの攻防戦から二週間が経過していた。
捕獲個体数も駆除個体数も、他に類を見ない大捕り物だった。戦果も大きいが破損物も多く、しかも全国の支部の捕獲員が入り混じった作戦だったので、後始末が非常に面倒だった。
報告書や申請書や請求書や始末書、いったい何か所に何通提出しただろう。環希さんが復帰するまでの数日間は、私と日下くんの二人だけで右往左往した。
無事に生成された抗生剤が効いて、環希さんはすんなりと回復した。首の傷も消え、もう何事もなかったかのように仕事に戻っている。今日は朝から外出していて、そのまま直帰予定。あちこちに頭を下げて回っているようだ。環希さん被害者なのに、代表理事の責任はまた別物なのだろう。
迷惑をかけてごめんなさい、と初日に私たちに詫びてから、彼女はまったく以前どおりに振る舞った。あんな恐ろしい目に遭って苦しい思いをして、おまけに――傷ついていないはずはないのに、おくびにも出さない。私は少し心配だった。もちろん心の傷の克服は人それぞれだ。感情を垂れ流しにしていれば安心というわけではないのだけど、無理やり気丈に立っているように思えて痛々しい。
九十九里さんの背中に杭が撃ち込まれたあのシーンが、今でも瞼に焼きついている。環希さんを隔離室から出してしまったことが悔やまれて悔やまれて仕方がない。私ですらこうなのだから、環希さんはひどい自責に苛まれているのではないだろうか。
書類上では片づいても、私たちが事件を消化するにはまだまだ時間がかかる――私はオフィスの空席を眺めた。九十九里さんの席だった。
「あ、役員室の窓開けっ放しだ」
オフィスに戻って来た日下くんが、エアコンのスイッチを切りながら言う。その顔にはまだうっすらと擦過傷が残っているし、腕や脚の打撲も治り切ってはいないはずだった。
エリアスに失神するまで血を吸われた彼だったが、その後すぐに輸血を受けて事なきを得た。体調に変化もないらしい。すでにエリアスの抗生剤を投与された体は、新たな症状を発症せずに済んだのだ。結果的に血液ドナーとしては最適だった。
私は小走りに役員室に行って、ベランダに繋がるガラス窓を閉めた。無人の時はエアコンを止め、かわりに窓を開けておくことにしている。今日は風がないので室温が高い。『彼』がいたらさぞかし文句を言っていただろう。
デスクの脇のポールに目をやった。てっぺんに据え付けられた止まり木に、黒い塊はいなかった。下の方にはハーネスとリードが寂しげにぶら下がっている。
我が物顔で棲みついていたあの生き物の姿が消えて、部屋はずいぶん空虚に見えた。いないんだ、と強く感じた。不在を意識させるなんて、あいつの存在感は私の日常に深く刷り込まれていたらしい。癪だけど。
あの夜、エリアスは私たちの前から去って行ったのだ。
私たちを取り囲んだ黒衣の男女は、エリアスやウィクトルと同じ門の番人――クラウストルムたちだった。
全員が白か銀色の髪で、素晴らしく整った容貌をしていた。だが、百人も集まれば美しさは没個性になり、私は量産されたマネキンに囲まれたような薄気味悪さを感じた。
最上位に近い吸血鬼たちの出現に、私も角田さんたちも緊張した。ウィクトル一人にさえあれだけ手こずったのだ。これだけの人数にいっせいに襲われたらひとたまりもないだろう。
しかし、彼らに殺気はなかった。むしろ興味深げにこちらを観察しているみたい。何をしに来たのだろう。
「彼を引き取りに来た」
リーダーなのかネゴシエーターなのか、一人の男が彼らの言葉で言った。視線は地面に這いつくばったウィクトルに向けられている。エリアスは私を庇うように前に出た。
「こいつを狩ったのは人間たちだ。奴らの用を先に済ませる」
「エリアス、併せて君を連れ戻すようにも命じられている。あのお方に」
「やっとか」
エリアスは牙を覗かせて笑った。
「『厄災の声』の呪いには目を瞑るのか――ごめんだと言ったら?」
「強制的に」
「だよな。しかしこれ以上騒ぎを大きくしたくはないだろう? 大人しく従うから、こいつの身柄は夜明けまで俺に預けろ」
相手はしばし考えて、あっさりと後退した。是、ということなのだろう。
エリアスと同じ色をした瞳が、一瞬だけ私を捕えた。冷たい表情が和らぐ。『厄災の声』に対する侮蔑ではなく――敬意であるように思えた。おそらく成り行きを見守っていた彼らの、それが評価だったのかもしれない。
その後の対応は迅速だった。
ストレッチャーに縛りつけられたウィクトルはその場で採血され、数時間の後に抗生剤が生成された。数多い負傷者も順次病院に搬送されて、適切な処置を受けられた。九十九里さん以外に重傷者はいないと聞き、胸を撫で下ろした。
私は軽い擦り傷程度だったので、ロビーのソファで手当てを受けた。血を飲んだことによる胸焼けは続いていたが、それ以外の不調は出ていない。捕獲員と医療班と施設スタッフが駆け回る中、手持ち無沙汰で待機するしかなかった。
エリアスもまた退屈そうにしていた。人間たちのバタバタを横目に、私の隣で欠伸などをしてる。数十分前に灰になりかけていた男とは到底思えなかった。
「環希を助けてくれてありがとう。蓮村さん、エリアス、あの子に代わってお礼を申し上げます」
とき子理事長に頭を下げられて、私は焦った。他の皆が追い詰めてくれたおかげです、私なんてほとんど役に立てなくて……なんてどもっていると、エリアスは感慨もなさげに言い捨てた。
「俺はやりたいようにやっただけだ。これを恩だと思うのなら、息子に伝えろ。商売っ気を出して俺たちを乱獲するな、と」
理事長は肯いた。矍鑠とした老婦人の顔に、優しいおばあちゃまの微笑みが広がった。
「あなたたちを見ていると、人間と吸血鬼の共存に望みが持てるような気がするわ。信頼し合えばいいだけなのね」
私は――良く分からなかった。私や日下くんたちがエリアスを信頼できたのは、エリアスの個性によるものだと思う。他の吸血鬼だったら違う結果になっていたかもしれない。
合う奴とは合うし、合わない奴とは合わない。相手が人間でも吸血鬼でも同じではないだろうか。合わない奴同士が不幸な出会い方をしてしまった時、どう賢く振る舞うか――結局はそれに尽きる。過剰な恐れを抱いたり反対に見下したりせず、ニュートラルに向き合うことができれば、無駄な諍いは避けられるはずだ。
そんなことを、疲れた頭でぼんやりと考えた。エリアスは再び欠伸をしてソファに寝っ転がった。
クラウストルムの集団が戻って来たのは、夜明け前になってからだった。
正面玄関の前に百体以上の上位吸血鬼が揃うのは壮観だった。角田さんたちは残ってくれているが、こちらの人数は少なく、否応なしに緊張してしまう。
「連れて行け」
エリアスは手にした鳥籠を突き出した。中には黒いフクロウが蹲っている。私の命令で姿を変えたウィクトルである。奴はまだその目をふてぶてしく光らせて、かつての仲間たちを睨み据えていた。
先ほどの男は鳥籠を受け取り、それから仕草でエリアスを促した。
エリアスは、傍らに立ち尽くす私を見た。
「ちょっと、行ってくる」
「戻って……来る?」
我ながら馬鹿な質問だと思った。エリアスはずっと自分の世界に帰還したがっていた。許された以上、こちらに未練などあるはずがない。
この場に私しかいないのが口惜しかった。日下くんも九十九里さんも環希さんも、彼に言っておきたいことが山のようにあっただろう。別れの言葉を贈れるのが私一人だなんて。
エリアスは顔の高さに掌を掲げた。
親指の付け根にくっきりと私の歯型がついた、間抜けな掌。未だ消えない絆の証拠である。
「必ず戻って来る」
「ほ、本当に?」
「冷凍庫のアイスクリームはそれまで取っとけ」
こんな時にどう答えればいいんだろう。社交辞令なんて口にする奴じゃない。彼が言うことを信じようと思った。
お辞儀も握手もハグもキスも、私とエリアスには相応しくない気がした。私は彼の掌に自分の掌をぶつけ、ぱちんと鳴らす。別れの儀式ではなく、再会の約束のハイタッチだ。
少し勢いが強すぎたのか、エリアスは綺麗な顔を顰めた。
見上げた空が裂けていた。
西の空で雲が渦を巻き、巨大な門が開く。私にはそう見えた。
エリアスと彼の同胞たちは、歩み寄る残酷な朝から逃れるように、去って行った。




