ギフト
外は風が出ていた。
昼間の蒸し暑さはすっかり掃き清められ、汗ばんだ肌には少し冷たいくらいだ。空の高い所を雲が流れている。びゅうびゅうと鳴る大気は夜の唄声だった。
あの夜も、こんな風が吹いていた気がする。私の家族が、日常が、根こそぎ奪われた夜。
失って初めて、私はそれらが確かに手の中にあったのだと思い知った。幸福は当然のように与えられていたから、自分が恵まれているとすら理解していなかった。
だからこそ今は、自分が掴んだものの尊さを知っている。幸運な出会いを、他者の善意を、暖かな居場所を――壊れ物だと分かっているから、守るための努力をするのだ。
おまえの役目を果たせ――風に乗ってあの声が聞こえる。ひどく懐かしい響きだった。
もう、何をすべきか分かっていた。私はそっと自分の右腕を撫でた。
正面玄関を出てすぐの場所で、ウィクトルは捕獲員たちに囲まれていた。
他支部からの応援者のほとんどが集合しているんじゃないだろうか。だが、立って武器を構えているのは十人程度だった。半数は地面に倒れ伏している。植え込みの中に体を投げ出すように、駐車場の案内板に凭れて、アスファルトの上に大の字になって――歴戦の捕獲員が視界のあちこちで伸びていた。ウィクトルが暴れ回った証拠だろう。
外に出た私は息を飲んだが、負傷者たちがお互いに声を掛け合っているのを見てとりあえず安心した。よかった、みんな生きてる。
「何つー化け物だ……!」
角田さんが吐き捨てて、UVIのバッテリーパックを投げ捨てた。いったい何発撃ったのだろう。銛撃ち銃はへし折られて転がっている。
ウィクトルは余裕の笑みだ。環希さんを横抱きにしていても、まったくその体重を感じさせない。この状態で十人近くの捕獲員を戦闘不能にするなんて、化け物と言われて当然だ。
群れに囲まれてるんじゃない、群れを狩っているんだ――私は気づいた。獲物はおまえたちだと思い知らせるために。恐怖と無力感を骨の髄まで染み込ませるために。
だからこそ、角田さんたちは退かないのだ。人数も武器も体力も削られつつ、諦める者は誰ひとりとしていない。この害獣を逃してしまったら、環希さんとともにSCの矜持も奪われてしまう。それはとりもなおさず、人間と吸血鬼の関係性が引っ繰り返ることを示す。
彼らの決死の足止めを無駄にしたくはなかった。
私はオジサンたちの間を擦り抜けて前へ出た。角田さんが目を剥く。まさか事務アルバイトがしゃしゃり出て来るとは思っていなかったんだろう。
しばらく手を出さないで下さい、と小さく告げて、私はウィクトルの正面に立った。
「おまえ、『厄災の声』」
人間どもを蹴散らして得意げだったウィクトルが、私を見るなり表情を険しくした。粘つくような憎しみを感じる。
「エリアスは死んだか。自業自得とはいえ、腹立たしいな。ひ弱な人間に囚われて、情を移して……おまえが彼を殺したようなものだ」
自分でやっておいて酷い責任転嫁だが、本気でそう思っているようだった。同じクラウストルムでありながらまったく別の運命を歩む彼への、羨望と敵意、嫉妬と侮蔑、愛情と憎悪――複雑に混ざり合った感情が伝わってくる。
私はベルトからUVIを引き抜き、腹に力を籠めて捲し立てた。
「うるさい、このお喋り男! 人間がひ弱? はっ、どんだけ自惚れてんのよ。私たちは手加減してんの! 殺していいのなら手段なんて選ばない。さっきだって二十匹纏めて焼き殺してやったわ! 分かったかケダモノ!」
引き金を引く。ウィクトルは微動だにしない。当たるものかと舐めくさっているのだ。
「いちいち癇に障る小娘だな」
真っ赤な目が私を射た。まさしく獣の目だ。薄っぺらい理性で隠していても、際限のない渇きが涎を垂らしている。やっぱりこいつ、狂いかけてるんだ。
しかし不思議と怖くはなかった。私にとって本当の恐怖は、大事な人の危機に無力なこと――自分の知らない所で悲劇が終わってしまうこと。今はそうじゃない。私にはできることがある。
お父さん、お母さん、麻人――そこで見ていて。
ウィクトルは牙を剥き出した。片足で地面を蹴る。
捕獲員たちがいっせいにUVIを照射するが、ウィクトルが右手を翳すと、『蝕』の闇が盾のように広がって紫外線を吸収した。その盾の内側に、私は引き入れられる。
私たちは数十センチの距離を挟んで対峙した。
ウィクトルは左手に抱いた環希さんを離した。意識を失った肢体が地面に転がる。角田さんたちに奪われぬための用心か、奴は彼女の胸を踏みつけた。
「この女の前に、おまえだ」
この野郎、環希さんに何てことを、と怒りが湧く前に、ウィクトルの空いた手が私の喉を掴んだ。長く伸びた鋼鉄の爪が皮膚に刺さる。絞殺どころか首を捥ぎ取れる握力の持ち主だ。
「薄汚い混血め。死んでエリアスに詫びろ」
「何、嫉妬? しょーもないわよ、あんた」
痛みを堪えて私は笑った。
ギュッ、と力がかかる。頭が破裂しそうな圧迫感。息が詰まり、視界が黒い霞に覆われる――今だ!
私は夢中で右腕を突き出した。
そこに巻きついていた冷たい物が、袖口からするすると抜けてゆく。ウィクトルに向かって真っしぐらに飛び出したそれを、私は見られなかった。酸欠で視界がブラックアウトしていたのだ。
「ぐうっ……」
ウィクトルの呻きで成功したことを知る。奴の手はすぐに離れ、私は後ずさりながら咳き込んだ。塞き止められていた血と酸素が巡り始めて、のぼせたように頭が痛い。ひいひいと喘ぎながら顔を上げた先で、ウィクトルは自らの喉元に手をやっていた。
そこに巻きついていたのは、蛇――体長一メートルほどの黒い蛇だった。
そいつは黒雲母を貼り合わせたような鱗を艶々と光らせ、ウィクトルの首を締め上げている。奴が引き剥がそうともがいてもびくともしない。顎のところで楕円形の頭がチロチロと舌を出している。
やった……! 作戦の半分はこれで成功だ。
「おまえっ……まさか!」
ようやく気づいたらしく、ウィクトルは驚愕の声を上げる。それを待っていたように、蛇の輪郭が霞んだ。もう何度も目にした光景だ。細胞の結合が解れ、黒い霧に変わり、拡散して別の形を取り始める。
まんまとウィクトルの背後を取ったのはエリアスだった。片腕をウィクトルの首に回し、奴を抱えるような姿勢で拘束している。
「この程度の芸当はできるんだよ、俺でも」
彼は邪悪に笑った。
ウィクトルに気づかれないように接近し、一気に捕える――俺の姿を隠して奴の懐に飛び込め、とエリアスは指示した。
とはいえ、人型はもちろんミミズクでも狼でも大きすぎる。もっと小さなものに化けられないかと訊くと、しばし考えた後、エリアスは蛇を選んだ。
「えっ無理! 蛇苦手!」
「我儘言うな!」
「もっと可愛い動物に化けられないの? ハムスターとか文鳥とか……アマガエルでもいいよ」
「そんなもん、飛び掛かった途端にはたき落されるだろ」
代案も浮かばなかったので、私はしぶしぶ彼を腕に巻きつけたのだった。爬虫類特有のひやりぺたりとした感触は、予想ほど不快ではなかったのだけど。
私はウィクトルを怒らせ、射程圏内に侵入した。本来のウィクトルならすぐに罠に気づいて、安っぽい挑発になんて乗らなかっただろう。でも吸血のせいで直情的になった今の奴なら必ず食いつく――エリアスの読みは当たった。
「あいつらと同じ臭いがするぞ、ウィクトル。残念だ」
エリアスは腕を締め上げ、ウィクトルをぐっと仰け反らせて――。
奴の首筋に深々と牙を立てたのだった。
ウィクトルの動きが一瞬止まる。目を見開き、四肢を強張らせて――しかしすぐにニヤリと笑った。背後にあるエリアスの頭を探り、その白い髪を鷲掴みにした。
「忘れたのか? 私と君はまったくの同格、血を吸われたところで何の影響も受けないよ」
「ああ、よく知っている」
エリアスは口を離し、血のついた唇を舐めた。
「俺は穴を開けてやっただけだ」
その意味を、ウィクトルは瞬時に理解したようだった。険も悪意も吹き飛んだ、呆気に取られた表情を、私は至近距離で眺めた。
エリアスが咬みついて注意を逸らした隙に、私は再びウィクトルの懐に踏み込んでいた。さっきとは逆に、今度はこちらから手を伸ばして奴の肩を掴む。
私にできること。私にしかできないこと。それは。
エリアスがつけた首の傷に、私は思い切り咬みついた。
冷えた生肉に歯を立てたような気持ち悪さ。口の中に塩辛い味が広がる。決して体に入れてはいけないものだと本能が拒絶する。
ウィクトルは凄い力でもがいているようだったが、背後から首と脇をホールドしたエリアスが離さなかった。それでも必死の抵抗は凄まじく、じりじりと彼の拘束が緩んでいく。
「絹、飲め! 早く!」
焦りの滲む声に急き立てられて、私は口に溜まった液体を嚥下した。一口で十分なのに、いったん飲み込むとそれは次々と流れ込んでくる。私が吸い込んでいるのか、傷口から沸き出してくるのか。
私は眩暈がした。あの夢と同じだ。細胞が赤く染まる――。
「ぐああああっ……!」
咆哮に近い叫びを上げて、ウィクトルは強く二の腕を突き跳ね上げた。エリアスの拘束が解け、私は跳ね飛ばされた。背中から地面に叩きつけられる寸前、エリアスに庇われた。直撃は免れたものの、抱き合ったまま数メートルもごろごろと転がる。
「何てことを……何てことを! 『厄災の声』! 先に殺しておけば……っ!」
ウィクトルは首を押さえてよろよろと歩いた。美しい顔が化け物めいて引き攣っているのは、怒りよりも恐れのせい。まさか自分が人間に、狼が羊に咬みつかれるなんて思ってもみなかったんだろう。
「許さんぞ! おまえも……おまえの仲間も! 一人残らず!」
錯乱したウィクトルは、足元に倒れた環希さんに躓いた。全身から噴き出す殺意は、獲物ではなく敵に対するものだ。奴の足が彼女の無防備な喉元へ蹴り下ろされる。
俯せの姿勢で顔だけ上げて、私は叫んだ。
「ウィクトル!」
奴は、止まった。片足を上げたまま。
「ひれ伏せ! ウィクトル・クラウストルム」
口中に残る血の味はまだ濃すぎて、新たな血が湧いたかどうか分からなかった。でも効いている。
ウィクトルは私の命令通り、ゆっくりと膝を折ったのだ。稚拙なコマ写しみたいにギクシャクとした動き。従属本能と反抗心がせめぎ合っているのだろう。ギリギリと歯噛みをしながら、それでも頭を垂れていく。
駆け寄ってきた角田さんたちが、うおお、と感嘆の声を上げた。
厄介な特異体質を遺してくれた両親に、私は心から感謝をした。
トラブルを引き寄せようが混血の末裔だろうが、皆を助けられるならばこの才能は呪いではない。寿ぎだ。
私はエリアスの手を借りて立ち上がり、重い足を引き摺りながらウィクトルに近寄った。全身が痛い。血なんか飲んだせいか、吐き気もした。最悪の気分だ。
ウィクトルは身を屈めて地面に手をつき、私を罵っている。私は勝ちを確信した。
「黙りなさい。あんたのお喋りは聞き飽きたわ」
ああ目が回る。胸が焼ける。でも気を失ってはいけない。こいつへの影響力も眠ってしまう。何としても意識を保っていなければ。
根性で両足を踏ん張る私の唇に、冷たい指が触れた。エリアスはやや雑に私の口元を擦り、奴の血を拭ってくれた。
「よくやったな」
十年来の友人のような口調で褒められるのは、何だか気恥ずかしかった。
「おい! ありゃあ何だ!?」
捕獲員の一人の声で我に返った。オジサンたちがざわめいている。指差している方向は皆まちまちだった。
視線を巡らせた私は、愕然とした。
いつの間にか、周りにはたくさんの人影が湧いていた。正門へ繋がる道路上に、芝生の上に、事務棟の前の車寄せにも。私たちを取り囲むように、等間隔に並んで円を作っている。
その数、百は下らない。これだけの人数の気配に誰も気づかないなんて。
男も女もいるが、揃いも揃って黒い服を着て、真っ白な髪をしていた。
エリアスやウィクトルと同じに。
UVIを構える角田さんたちを、エリアスは手で制した。その瞳は綺麗なライトグリーンに戻っている。
横顔を過った薄い笑みが諦めたようで――。
私は、彼が何かを手放したのを知った。
第七夜 了
次回よりエピローグ。もう少しだけ続きます。




