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駆除人の実力

 私は環希たまきさんを追いかけて肩を掴んだ。


「行っちゃ駄目です!」

「離して!」


 環希さんは身を捩って私の手を振り払おうとする。思いがけない強い力だったが、私も必死だった。暴れる彼女を羽交い絞めにする。


「離して……私あの人に会いたいの! あの人の所に行かせて!」


 あの人、というのは九十九里つくもりさんのことではあるまい。間近に見る首筋の傷は血を流し始めていた。ウィクトルの干渉が強まっている証拠だ。綺麗な顔は蝋みたいに色を失い、唇だけが赤い。瞳孔の開いた目は正気を失っている。

 私は渾身の力を両腕に込めた。


「環希さん! 負けないで!」


 環希さんの頭が激しく振られた。後頭部が鼻面に衝突しそうになり、咄嗟に避ける。その拍子に二人揃ってすっ転んでしまった。環希さんはすぐに起き上がろうとしたが、私はその体をコンクリートの床に押さえつけた。

 初めて正面から見詰め合う――黒くて大きな目が、ふと瞬いた。


きぬ……ちゃん?」


 声のトーンが変わっていた。耳に馴染んだ、本来の環希さんのものだ。聡明で逞しい環希さんの。それで私は彼女が戻って来たと分かった。


「ごめんね私、追い返せなかった……」


 すぐに状況を理解したらしく、悔しい、と唇を噛み締める彼女に、私は大きく首を振った。


「大丈夫ですよ! 今、九十九里さんたちが戦ってます。すぐにあいつをやっつけて薬を作ってくれます」

「ええ……でも絹ちゃん、あいつは強いわ……とても。みんな無事かしら……」


 不安は的を射ていた。日下くんは精神攻撃で倒れ、エリアスは虫の息、九十九里さんがたった一人で応戦中……なんてことはとても口に出せなかった。

 私は環希さんに手を貸して立ち上がった。念のため彼女は地下に隔離しておいた方がいいだろう。私が戻って来るまで生きててよ、エリアス!


 バタンと乱暴な音がして、私たちは同じ方向を見た。

 渡り廊下の先、病棟へ続く扉が開かれ、九十九里さんが後ろ向きに飛び出してきた。銛撃ち銃を肩に構え、その銃口で扉の奥を狙っている。角田かくたさんの使っていたものより小型で、銃身に杭のカートリッジが装填されていて連射が可能らしい。

 声をかけようとしたができなかった。距離を置いていても凄まじい緊張感が伝わってくる。

 爆音とともに銃口が跳ねた。ほとんど同時に、開きっ放しの扉が第二の人物を吐き出した。黒尽くめの服装に白い髪――ウィクトルだ!

 だが何という姿だろう。右腕は袖ごと付け根からなくなっていて、背中と太腿からは細い杭が生えている。奴は端整な顔を歪ませながら、中庭の方へ逃れた九十九里さんを追った。


「九十九里くん……」


 環希さんが祈るように呟く。私も必死で目を凝らした。ぱっと見、九十九里さんに怪我はなさそう。じりじりと距離を取りつつ銃は下ろさない。


 私は迷ったが、環希さんの腕を取った。すると彼女は潤んだ眼差しで私に縋った。ここにいさせて、と懇願しているのだ。こんな顔をされると非常に弱い。

 どうしよう……正気に戻ったとはいえ、標的の環希さんを晒していいものか? エリアスの方も長くはもたない。九十九里さんがここで仕留めてくれれば万事解決なのだけど。

 あっちもこっちも気になって、私は結局焦りながらもそこに留まるしかなかった。


 ウィクトルは九十九里さんを睨み据えながら、脚に刺さった杭に左手を伸ばした。何の躊躇もなくそれを抜く。続いて背中へ――こちらは先端が胸に突き抜けていたので少々てこずったが、力任せに引っこ抜いた。血の飛沫が煙のように噴き出すのが見えた。

 ノーダメージを誇示する意図か、牙を剥いて笑う。しかし赤い両目は怒りに燃えていた。


 もちろん九十九里さんがその隙を見逃すはずもない。続けざまに二発、杭を撃ち込む。間近で聞く銃声は強烈で生々しかった。

 しかしウィクトルの反射神経は尋常ではなかった。たいを躱して一本目を避けた後、二本目を左手で引っ掴んだのである。跳躍しながら杭の向きを変え、九十九里さんに向かって投げ返す。ダンクシュートを決めるような動きだった。

 九十九里さんは横へ跳んで避けた。体勢を立て直し、再び銃口を向けた先にウィクトルの姿はなかった。

 横合いから伸びてきた腕が銃身を押さえつける。離れた場所にいる私にさえ奴の移動は見えなかった。投擲した杭に注意を引きつけておいて、一気に間合いを詰めていたのだ。もしウィクトルに右腕があれば、続く二撃目で九十九里さんは喉笛を裂かれていただろう。

 九十九里さんは銛撃ち銃を手放し、UVIを抜いた。引き金を引きつつ後退する。ウィクトルは不可視の光線に阻まれて踏み込めないようだった。


 なぜ彼が今までUVIを使用しなかったのか分かる気がする。破壊力の強い紫外線が、狭い廊下で万が一にもエリアスに当たらないよう配慮してくれたのだ。ウィクトルを挑発して広い場所に引っ張り出せたのは狙い通りだったのかも。


「おまえは『あちら側』でも有名人だよ、九十九里」


 膠着状態の中、ウィクトルは余裕の口ぶりで言った。失くした腕も杭の負傷も気に掛けていないように見える。


「千年続く駆除人の末裔――いったい何百人の同胞がおまえの血筋に殺されただろうね。雑魚のことなどどうでもいいが、やはり気分は良くないな」


 九十九里さんは無反応だった。話すら聞いてないのではないか。吸血鬼を蚊くらいにしか思ってない――環希さんは彼をそう評していた。獲物と意思疎通を図るつもりなどさらさらないのだろう。そしてこの無情さこそが彼の強みなのだ。

 大事な人の魂が懸かっていてさえ、職務上では私怨を抑えられる。まさにプロだと思った。

 ウィクトルは眉を吊り上げた。


「つまらない男だな。じゃあこうすれば……どうだ?」


 赤い瞳がこちらを捕える。私ではなく環希さんを――とっくに感づかれていたんだ。

 彼女はふらりと中庭へ踏み出した。糸で吊られた操り人形の動きだった。


「駄目っ……環希さん!」


 咄嗟に飛びついた私は、物凄い力で振り払われた。あの細い体のどこにこんな力が? 弾みで廊下の屋根を支える鉄柱に頭をぶつけ、私は尻餅をついた。

 視界に星が飛ぶ。頭蓋全体がじーんと痺れる。


 歩み寄って来る環希さんに気づき、九十九里さんの注意が逸れる。ウィクトルは高く跳ねて飛び掛かってきた。

 九十九里さんは慌てずに大きく後退する。その左手が何か小さなものを投げつけるのが見えた。

 ウィクトルの足元から眩い光が放たれる。白くて無機質な光――音も熱もまったくないのに、それは小さな太陽みたいな明るさだった。

 ヤマムロ・テクノロジー製の発光装置だ。照射される光は自然光に近く、もちろん紫外線も含まれている。殺傷能力が強すぎて、捕獲作業には向かない試作品だったはずだが――。


 全身炎に包まれるウィクトルを想像したが、そうはならなかった。腕を振るうと黒いマントのようなものが現れ、瞬時に奴の体を覆った。頭から爪先まですっぽりと。

 これ……例の『イクリプス』とかいう技の応用じゃないだろうか。陽光を遮り、偽りの夜を生み出す。これで私は二度も真っ昼間に襲われた。

 何て用意周到な! そして確かにエリアスより遥かに器用だ。紫外線にさえ対抗策を練っているだなんて……隙がない。


 私はとにかく環希さんを連れ戻そうと、痛む後頭部を押さえながら中庭に出ようとした。それを九十九里さんの叱咤が止める。


「危険だからそこにいなさい!」


 部外者にまで気を回せる彼の行動は、ピンチではなくチャンスを掴んだそれだった。

 防御のために動きが止まったウィクトルに一気に詰め寄り、UVIをナイフに持ち替えた。至近距離から首の辺りを薙ぐ。闇の守りは物理攻撃には効果がないらしい。ウィクトルは避けたが、逆方向からも刃が襲う。九十九里さんは両手にナイフを携えていた。

 発光は数秒で途絶え、ウィクトルのマントも霧散したが、九十九里さんはすでに懐に入り込んでいた。

 腕を失った右の体側から巧みに攻撃し、奴の喉元を狙う。近接しすぎていて、ウィクトルは左手で彼を捕えることができないようだった。


 凄い……九十九里さん凄い! 片腕と負傷のハンデがあるとはいえ、上位吸血鬼を相手に押している。辣腕駆除人の実力を目の当たりにした気がした。

 私はごくりと唾を飲み込んだ。これなら勝てる!


 ウィクトルは体を半回転させて、強引に九十九里さんを掴もうとした。それを待っていたのかもしれない。九十九里さんは右手のナイフを捨て、逆にウィクトルの二の腕を掴んで引いた。奴のバランスが崩れる。

 無防備に晒された喉へ向けて、下からナイフの煌めきが跳ね上がる――獲った!


 私が拳を握り締めたのと、突然の爆音が耳をつんざいたのは同時だった。


 ウィクトルに刃を突き立てる寸前で、九十九里さんの動きが止まる。

 彼の肩が、溜息をつくみたいに大きく上下した。それから、ゆっくりと背後を振り向いた。

 外灯の下に環希さんが立っていた。小刻みに震えているのが分かる。華奢な両腕には、武骨な銛撃ち銃が不器用に構えられていた。


 ずっと無表情だった九十九里さんが、初めて苦笑に似たものを浮かべた。

 その背中から右脇腹にかけて――一本の杭が深々と貫いていた。


 ウィクトルが左腕を一閃すると、九十九里さんは呆気なく吹っ飛ばされて数メートル先の芝生に叩きつけられた。

 私より先に環希さんが悲鳴を上げた。内臓を全部引き裂かれたような絶叫だった。彼女は銃を投げ捨て、九十九里さんに駆け寄ろうとした――が、すぐに足を止める。


「……おいで、いい子だ」


 ウィクトルが優しい声とともに腕を差し伸べていた。

 環希さんの横顔から生気が消える。彼女は滑るように奴に歩み寄り、その黒い胸に自分から身を投げた。


「やめろぉーっ!」


 私は身に着けていたUVIを引き抜いて照射した。護身用の小型で射程も短く、当たる訳がない。

 ウィクトルはこちらに一瞥もくれず、環希さんの顎を掴み、仰け反ったその喉に牙を立てたのだった。


 ――ああ!


 環希さんの血が、記憶が、魂が吸い取られる。白い寝間着に包まれた背中は一瞬硬直して、すぐに弛緩した。

 彼女にとっての喪失は、ウィクトルには獲得だった。崩れた右腕がみるみる再生する。肩口から骨が伸び、そこに筋肉やら血管やらが絡みついてゆく光景は、植物の成長を早送りで観察しているようだった。

 黒い服の袖まで復元された右腕で、ウィクトルは脱力する環希さんを支えた。笑みを浮かべた唇は鮮やかな赤に濡れ光っている。


 私はUVIを構えて飛び出した。

 ウィクトルは環希さんを抱えたまま、悠々と九十九里さんに近づく――止めを刺すために。九十九里さんは地面に手をついて立ち上がろうとするが、できない。荒い呼吸が聞こえた。


 ここなら届く――私はさっき環希さんが立っていた外灯の下で足を止め、狙いを定めたが、先を越された。

 ウィクトルは機敏に横へ飛んだ。事務棟の方から駆けつけて来たのは応援の捕獲員たちである。角田さんを筆頭に、全部で五名。照射されるUVIから、ウィクトルは距離を取った。


「おまえたちのお姫様は後で返してあげるよ」


 奴は環希さんの髪の匂いを嗅いだ。


「ちゃんと人数分に切り分けておく。目玉が欲しいか指が欲しいか、取り分を相談しておくんだね」

「ざっけんな!」


 角田さんたちが詰め寄る前に、ウィクトルは大きく跳ね上がった。病棟のひさしを足掛かりに、二階のベランダ、そして屋根の上へ。すいすいと遠ざかって行く。


「本命がそっち行った! 逃がすな!」


 角田さんはインカムに怒鳴って、九十九里さんに駆け寄った。もちろん私も。

 九十九里さんは芝生に倒れたまま呻いていた。血はあまり出ていないが、防刃ベストを貫通した杭は背中から脇腹に抜けている。大怪我だということは素人目にも明らかだった。


「しっかりしろ、管理本部長。すぐに救急車呼ぶからな。頑張れ!」

「僕のことは……後でいいから……!」


 九十九里さんは、スマホを取り出した角田さんの腕を掴んだ。


「あいつを追って下さい……早く、早く! 絶対に取り逃がすな!」


 血の気の失せた顔は汗にまみれ、強張っていた。口を利くと痛むのかぐっと眉根を寄せ、短い呼吸を繰り返す。それから、私を見た。

 彼から初めて向けられる、縋るような期待の眼差しだった。圧力、とも言える。


蓮村はすむらさん、あなたは我々の切り札です……手遅れになる前に早く……!」


 私は何も言えずに、ただ肯いた。

 エリアスの所に行って、役目を果たさなければ。

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