半身
私は妙に納得した。やっぱりこいつ、中にいたんだ。忍び込んだ方法とカメラに姿が映らない理由は謎だけど、手下を暴れさせておいて隙を突いたのだ。
それから後悔――ああしくじった。何でいきなりドアを開けてしまったのか。きっと九十九里さんに怒られて日下くんには馬鹿にされる。
痛みが襲ってきたのはその後だった。
痛いというより熱い。服に火を点けられたのかと思った。胸だけでなく腹も腕も、脚までもが熱かった。
ずる、と腕が引き抜かれる。折れた肋骨が反り返り、肺が裂ける感覚がリアルに分かる。生臭いものが気管を逆流してきて、私は咳き込んだ。
自分の血潮が床にぶちまけられるシーンを、だが私は見ずに済んだ。あまりの衝撃と激痛に意識が途切れたのである。
昏倒の瞬間、部屋を出て行く環希さんの後ろ姿が視界を過った。
失神したはずなのに、私はなぜかあいつの姿を認識していた。
憐れむような笑みを顔に貼り付けたウィクトルが、私を見下ろしている。その右手は赤く染まり、先端から滴り落ちる血が床に染みを作っていた。黒い服のせいでよく分からないが、おそらく肘の所までぐっしょり濡れているだろう。私の胸を貫通したからだ。
私は壁に凭れて座り込んでいる。口の中いっぱいに鉄臭い味が広がる。吐き出した血のせいで顎から喉までべたつき、呼吸さえうまくできなかった。
「油断したな。私は君よりも器用なんだよ」
ウィクトルは右手を軽く振った。勢いよく血が飛び散り、壁や床に赤い模様をつけた。
その先に――日下くんがいた。
彼は四つん這いになって蹲り、床に押し付けた頭を両腕で抱えていた。激しい頭痛に耐えているかのよう。
催眠症の発作だ! 私はいつか高層マンションの屋上で見た光景を思い出す。早く薬を、と焦っても体が動かない。
「あんな食い残しに気を取られて……まったく憐れなものだね」
蔑みきった口調に煽られて、自分の失態の経緯が脳裏に甦る。それは私には身に覚えのない体験だった。
侵入しているはずのウィクトルを探し、日下くんとともに病棟内を捜索した。
異変を感知したのは事務棟に繋がる渡り廊下の手前である。黒い霧が――煙のようなものが、ゆっくりと私たちの足元に揺蕩った。それはみるみる濃さを増し、まるで意志を持つように収束した。
鳥や狼や、形を持つものに擬態していれば見抜けていただろう。気づいた時には遅かった。黒い人型は、私たちの間を隔てるようにして日下くんの前に立ち塞がった。
日下くんは腰からUVIを抜いた。しかしそれを構える前に、叫び声とともに崩れ落ちたのだ。
催眠症の発作は精神的な負荷によってたやすく引き起こされる。頭を押さえて床を転げ回る彼を見て、私はあいつが何か干渉したのだと理解した。
私は黒い後ろ姿に手を伸ばし、日下くんから引き剥がそうとした。その私の肩を、別の手が掴んだ。
しくじった――自分の判断ミスを直感したのはその時だった。
避けようとしたが間に合わなかった。そいつは強引に私を振り向かせ、刃みたいな腕で私の胸を刺し貫いた。
焼けつく痛みと、気管をせり上がってくる奔流。私は大量に血を吐いたが、穴の開いた胸から溢れたのは別のものだった。
それは黒ずんだ灰――黒い雪のような。破壊された肉体の奥から勢いよく噴出する。
「……憐れなのはおまえの方だ、ウィクトル」
私は自分の体が内側から焼け焦げてゆくのを感じながら言った。
「まだ自分がまともだと思ってるんだろうが、まともな奴はこんな真似しないぞ。人間が罠を張っていると知ってのこのこやって来て……無駄な争いで大勢死なせて……馬鹿としか言いようがない」
「喋るな。死ぬのが早まるだけだよ」
霧に姿を変えて難なく侵入した上、日下くんの前でフェイクをかけるという芸当まで見せた吸血鬼は、赤い目で私を眺めた。
私は激しく咳込んだ。
「羊飼いどもを殲滅させるとか、束縛から解放されるとか……そんなのは全部言い訳だ。単に……あの女の血が吸いたいだけだろ。他の奴らと同じだ」
血と一緒に口から灰が零れた。それでも私は笑った。
「順列の掟から逃げて、別のものに囚われたな――もう狂ってるぞ、おまえ」
ウィクトルの顔に初めて怒りと、動揺が浮かぶ。
彼は無言で私の肩を蹴りつけた。私が弾みで床に転がると、さらに容赦なく胸を踏みしだいた。
傷口は裂けるのではなくグズグズと崩れ、中から黒い灰を吐き出した。熱い。とにかく熱い。体内が比喩ではなく燃えているのが分かる。ウィクトルは正確に私の急所を穿ったのだ。私は口を引き結んで苦鳴を堪えた。
「残念だよ、君ほど強くて美しい同胞を灰にしなければならないなんて」
ウィクトルの口調には本心からの悲哀が含まれていた。こいつは共感されたがっていたのだろうか。共感が得られると思っていたのだろうか。期待を裏切られた反動の憎しみが伝わってくる。
私は力を振り絞ってウィクトルの蹴りを払いのけた。彼の体勢が少しブレたように見えた――が、それは私のささやかな抵抗の成果ではなかったようだ。
振り返った彼に、日下くんがUVIを向けていた。片膝をついた姿勢で左手で体を支え、何とか構えられている状態だ。狙いが定まるはずもなく、何度か引き金が引かれるもウィクトルには当たらなかった。
「あああっ……ちっくしょうっ」
日下くんは再び頽れた。生きたまま炙られる魚のようにのた打ち回る。
彼の何を覗き、どう嬲っているのか――楽しげに唇を吊り上げるウィクトルは、指一本動かさずに日下くんを翻弄している。
「死に損ないの分際で我々を狩ろうとは無謀だね。へえ……おまえ五人に弄ばれたのか、気の毒に。地獄を見ただろう」
「やめ……ろ! 人の頭ん中を……掻き回すなっ……」
「殺してくれと哀願した? それとも浅ましく求めたか? あれは人間に大変な快楽をもたらすらしいからね。悦びに咽びながら死ぬ奴を大勢見た」
息も絶え絶えに床を掻き毟りながら、日下くんはそれでも意識を保とうと耐えている。諦めて眠ってしまえば楽になるのに、決して闘志を手放さない。
いつか日下くんは私に言った――吸血鬼を狩るのは持病を癒すため、結局は自分のためだと。でもそれは違うと思う。
自分のためだけに戦っている人間がこんなに踏ん張れるもんか!
「弱い者苛めは趣味じゃない。楽にしてやろう」
ウィクトルはぐいと日下くんの喉元を掴んだ。右手で――血に染まった右手だけで彼を引き起こす。
首を絞められて日下くんは呻いた。引き剥がそうともがいても黒い腕はびくともせず、ますます高く吊り上げてゆく。日下くんの爪先は今にも床から離れそうだ。苦痛に歪んだ顔が表情を失い、目は徐々に虚ろに――。
ぼっ、とウィクトルの右肩が火を噴いた。次の瞬間、右腕全体が燃え上がる。
日下くんを投げ出して、彼は身を捩った。初めてその口から驚きの声が漏れた。
残念だった。脚を狙った二撃目は外れてしまったようだ。命中していれば奴の動きを止められたのに。まあ腕一本捥ぎ取っただけでも上出来か。
私は手に握ったUVIに目を落とす。ロビーでの最終打ち合わせの後、九十九里に渡されたものだ。必要な時には使えと言われたが、やはり私には――俺には人間の武器は馴染まない。
「エリアス、貴様……!」
灰になって崩れ落ちる右腕を押さえながら、ウィクトルが牙を剥く。
壁に凭せ掛けた俺の上半身がずるずると滑った。もう体を支える力もない。背筋や腰骨も灰になっているのかもしれない。
絹、助けてくれ。
絹、ここへは来るな。
同じ女に対する正反対の言葉が浮かび、俺は苦笑した。どちらも非常に自分らしくなかった。
ウィクトルは怒りに任せて残る左腕を振り上げた。五指の爪が長く伸び、鋼鉄の輝きを帯びている。俺の首など一振りで抉り取ってしまうだろう。
あの女の匂いがする。すぐそこにいるみたいだ。この匂いが、俺はとても好きだった。のんびりとうたた寝したくなる……ああ眠い……。
ひどく近い場所で爆発音が響いた。
動きを止めたウィクトルは、ちょっと不思議そうに自分の胸を見下ろす。そこには銀色の鏃が顔を覗かせていた。
俺には見覚えのあるものだ――思い出したくもない屈辱的な記憶だが。
視線を巡らすと、ウィクトルの背後、渡り廊下への扉の前にあいつが立っていた。
前時代の武器を肩付けに構え、銀メッキの杭を撃ち出した最後の羊飼いは、九十九里だった。
血色の夢を見ていた。
以前にも見たことがある、怖くはないが不快な夢。じわじわと赤い色が私の体に染み込んで、細胞ひとつひとつが同じ色に染まってゆく。
遠くから声が聞こえる。男か女か分からない声が、波のように高く低く。
――目を覚ませ。
風のように強く弱く。
――おまえの役目を果たせ。
「エリアス!」
私は自分の叫び声で意識を取り戻した。
体の下に奇妙な弾力のある床の感触。霞む視界にベッドの脚が見えた。緊急隔離室の中だと思い出し、私は跳ね起きた。
全身に汗を掻き、全力疾走した後のように呼吸が跳ねている。恐る恐る胸に触れたが、傷の一筋、血の一滴も残っていなかった。
当たり前だ。あれは私の身に起きたことではない。
ウィクトルに胸を貫かれ、血を吐き、瀕死の重傷を負っているのはエリアスなのだ。
彼と感覚を共有したせいで、彼の体験を自分のものとして味わい、混乱した。もう痛みはまったくないが、全身に激痛の記憶が残っている。自分の肉が焼ける臭いまで。
私がやったのは――無人の隔離室を見回して、私は血の気が引く思いだった。私がやったのは、錯乱状態の環希さんをみすみす逃がしてしまったことだけ。
腕時計を見ると、昏倒してから五分も経っていない。まだ、間に合う。行かなくちゃ――私に迷いはなかった。
環希さんを連れ戻す。それから、エリアスを助ける。
あいつ、私に助けを求めたんだから。来るななんて格好をつけてたけど、私には分かる。確かに助けてくれと願ってた。
意識を集中したが、彼の感覚は戻ってこなかった。完全に断絶してしまっている。手遅れでないことを祈りつつ、私は部屋を飛び出した。
階段を上がった先の防火シャッターは開いていた。このシャッターは内側からの操作でも開く仕様になっているから、きっと環希さんが開けたのだろう。そして、九十九里さんの姿はなかった。
予想はしていた。エリアスが最後に伝えてきたあの光景――九十九里さんは日下くんからの通信でウィクトルの出現を知り、加勢に向かったのだ。
遠くから何度か花火のような音が聞こえた。きっと銛撃ち銃の音だ。私は何度もインカムに呼びかけたが、九十九里さんからも日下くんからも返答はない。胸騒ぎがますます足を速めた。
駆けつけたところで、私は何の戦力にもならないだろう。でも、崩壊寸前のエリアスの肉体を救うことはできる。
この局面で適任なのは私だけ――私は汗ばんだ自分の首筋に手を当てた。
やがて事務棟を抜け、中庭へ。照明のついた渡り廊下に至った私は、そこに白い後姿を見止めた。
ふらふら右へ寄ったり左へ傾いたり、覚束ない足取りで歩いているのは環希さんである。間に合った!




