負うた子に
UVIを向けられたエリアスは、目だけで天井を仰いだ。
「どういう意味だよ」
「言葉通りだ。君があの吸血鬼と示し合わせて僕たちをミスリードして、彼女を襲わせたわけでは……ないんだよね?」
九十九里さんの質問は否定形だ。にも拘らず、明らかに決めつけていた。
「ちょっと待っ……」
私は口を挟みかけたが、カチッと音がして、エリアスの髪の毛の一部が燃えた。彼は盛大に顔を顰め、頭から灰を払い落とした。
「九十九里おまえな、こういう真似してるといつか報いを受けるぞ」
「違うなら違うと答えればいいだろう」
「答えるのも馬鹿らしい。何でそういう発想になるんだ?」
「利害が一致しているから、君とあれの。君もSCを潰したいと望んでるはずだ」
「おまえもそうとう疲れてるな。寝ろ」
「『厄災の声』の蓮村さんだけなら君単独で何とかできるだろうが、僕や日下くんはそう簡単にいかない。協調性のない生物とはいえ、昔の仲間と手を組むくらいの知恵はあるよね」
九十九里さんは淀みなく告げる。今思い浮かんだことではなさそうだ。ウィクトルの目的を推理したところまでは私と同じだけど、さらにそこから別角度の可能性に考え至ったのだろう。
見事に私の不安が的中してしまった感じだ。疲労困憊の時には、思考に悪いバイアスが掛かる。普段の九十九里さんなら決してそんなふうには考えないはずなのに。
いや、それとも――。
「手なんか組んでない。絹だけ始末してさっさと逃れば済む話だろ」
反論したエリアスの右肩が火を噴いた。私は口を押える。燃えたのは服だけのようだが、次はきっと肉が焼かれる。
「君にとってSCは檻と同じだろう。野生動物なら食い破るのが本能だ。しかも八年分の恨みもある――やられたことをやり返したのでは?」
「おまえらと一緒にするな。これ以上絡むのなら、その胴に穴を空けるぞ」
牙を見せたエリアスの瞳が朱色に変わる。
九十九里さんはUVIの照準を動かさない。剥き出しの殺気はなかったが、隙もまたなかった。獲物と化したエリアスを見据えるその横顔は、目の下に深い影をこびりつかせていた。
それとも彼は最初から――エリアスを捕えた八年前から覚悟していたのだろうか。いつかは裏切る、と。
「あ、あのっ……!」
極限まで張り詰めた空気に耐え切れず、何とか絞り出した私の声は裏返っていた。声が出たら体も動いた。
「こいつを疑うのならまず私に訊いて下さい!」
私は九十九里さんの体の脇を擦り受けて、エリアスに駆け寄った。彼の前で振り向くと、九十九里さんと対峙する形になる。
「蓮村さん、どいてもらえますか? 怪我をするといけない」
「九十九里さん、誤解してます。エリアスはウィクトルと結託なんかしてない。嘘をついても私には分かります。私たちと同じように騙されたんですよ。だからこんな馬鹿なこと止めて下さい。今は内輪揉めしてる場合じゃな……」
私の言葉が終わらぬうちに、九十九里さんの指が動いた。私の制止など意にも介さぬ冷徹さだった。
人間には無害な不可視光線は、おそらく私の頬を掠めてエリアスの首を狙ったのだろう。噴き上がる炎の予感に身を竦めたが、エリアスは絶妙なタイミングで体軸をずらしていた。すっと身を屈め、私の背後から飛び出してくる――背中を向けているのに、私にはその動きが手に取るように分かった。
「エリアス! 駄目!」
私は体当たりで彼を止めた。口の中に血の味が滲んでくる。エリアスはぐうっと唸った。
「邪魔するな。こいつ、一回シメてやらないと気が済まない」
「駄目だって! ここで喧嘩する意味が分かんない!」
「因縁つけてきたのはあっちだ! 昔のことなんかどうでもいいが、今殺されて堪るか」
殺されるって――エリアスにしがみついたまま、私は九十九里さんを見た。彼は表情ひとつ崩さずこちらを狙っている。
「蓮村さん、どいて下さい」
彼は再度、そう言った。尋問じゃない、処刑する気だ。
八年前、どういう経緯かは知らないが、九十九里さんと環希さんはエリアスを半ば強引に味方に引き込んだ。エリアスはいまだにそのことを恨んでいると、九十九里さんは思っているようだ。だからエリアスを信用していないし、信用されているとも思っていない。
誤解を解くとか、もはやそういうレベルの話ではないのか。
九十九里さんは小さく息をついた。初めて表情に疲れが滲んだ。
「あなたは少し近づきすぎましたね。以前に忠告したはずです。エリアスは人間の味方ではない。決して我々とは相容れない生き物なんですよ」
「それは私がいちばんよく知ってます。こいつ気紛れで礼儀知らずで直情的で……ぶん殴りたくなるのよく分かります」
「……おい」
「でも、順応性だけは高いの! 人間みたいに細かいことに拘らないから、気遣いができないかわりに傷つかない。八年前の恨みなんてとっくに忘れてると思います。おめでたいんですよ」
「おいっ!」
「ウィクトルだってやり口は狡猾だけど、動機は単に人の血が飲みたいだけでしょ。深読みしすぎなんです、私たち。エリアスを疑うのは、九十九里さんの方に負い目があるからじゃないですか?」
背後で不満の声を上げるエリアスを無視して、私は一息に捲し立てた。
九十九里さんはエリアスに恨まれて当然だと信じている。逆に言えばそれは罪悪感だ。拭えない加害者意識が、環希さんという抑えを失った今、過剰に反応しているのではないか。
九十九里さんの頬が震えた。迷ってくれ、動揺してくれと祈る。こんな馬鹿げたこと、迷いなくできる時点で普通ではないのだ。
私の肩が軽く押された。九十九里さんに意識を向けていた私はあっさりとよろめき、その隙にエリアスが前に出た。注意が逸れたせいで一瞬『厄災の声』の効果が弱まったのかもしれない。
低い姿勢から九十九里さんに襲いかかるエリアスと、機敏に狙いを下げる九十九里さんは、スローモーションに見えた。
止めろと叫んだつもりだったが、それより先にバタンという大きな音が響いた。
反射的に視線を向けた先で、会議室のドアが開け放たれていた。九十九里さんの喉元を掴む寸前のエリアスも、照射孔をエリアスの胸に突きつけた九十九里さんも、動きを止めてそちらを見る。
戸口に立っていたのは日下くんだった。到着して、事務室で私たちの居所を聞いて来たのだろう。
彼は室内の様子をちらっと見た後、つかつかと中に入ってきた。無言で部屋の真ん中を横切り、窓際に近づいて、カーテンに手を掛ける。
一度やられているからか、エリアスは察していたみたい。カーテンが開かれる前に、彼はミミズクに姿を変えた。素早く舞い上がって、ロールスクリーンの上に避難する。
日下くんは次々にカーテンを開けた。堰き止められていた日差しが溢れ、室内と屋外の明るさは均等になる。中に籠って淀んだ何かが押し流されるようだった。
振り返った彼は、印象的な三白眼を細めた。
「あんた何やってんの、九十九里さん」
UVIを手にした九十九里さんを見て、だいたいの事情が分かったのかもしれない。
「今回に限っては、あいつ無罪だぜ。ウィクトルとつるんでるとか有り得ねーから」
「確証は?」
「傷が深かった」
日下くんが端的に答えると、九十九里さんは皮肉っぽく微笑んだ。
「争ったように見せかけたのかもしれない」
「あの怪我は自演じゃない。手の指は全部折れてたし、腹なんか肉が毟り取られて内臓が見えてた。いくら吸血鬼でも、演技でつけられるもんじゃないよ」
ウィクトルとやり合って戻って来たエリアスの状態を言っているのだと思う。エリアスは私たちにほとんど傷を見せなかったのに、日下くんが目聡く観察していたとは驚きだった。
そして――エリアスを擁護するのも意外だった。
九十九里さんもそう思ったようだ。
「君まで懐柔されるとは思わなかったよ」
吐き捨てるように言って、天井近くのエリーを睨みつける。エリーは羽毛を逆立ててフーフーと荒い息をついていた。夜の鳥を射る九十九里さんの視線には、憎悪よりも後悔が混じっていた。
「僕が甘かったんだ。あの時、取り引きなんかせずに殺しておけばよかった。そうすれば彼女は起業できず、狙われることもなかったのに――SCを立ち上げたのがそもそもの間違いだった」
低く押し殺された声で、それだけに建前を取り払った生々しい本音が伝わってきて、私は胸を塞がれた。
気持ちは分かる。でも、九十九里さんの口からそれは聞きたくなかった。環希さんが懸命に作り上げた居場所を、間違いだった、なんて……。
同じことを日下くんも感じたようだ。が、彼の方が反応は過激だった。
ふっと小さく笑ったかと思うと、いきなり九十九里さんの頬を叩いたのだ。
拳ではなくて平手だったけれど、結構派手な音がした。
「あんたがそこ否定してどうすんだよ!」
師匠でもある上司を殴った日下くんは、凛々しい眉を吊り上げて叱咤した。ついでに彼の襟元を掴んで詰め寄った。本気で怒っているのが分かる。
「今のあんたは分かりやすいところに答えを探して、焦りと怒りをぶつけてるだけだ。自分でも分かってんだろ? あいつに八つ当たりしたって何も解決しない。しっかりしろ!」
「じゃあどうすればいいんだ! 何が正解なんだ!」
九十九里さんは日下くんの手を跳ね除けて、叩きつけるように叫んだ。
正解なんか誰にも分からない。進む方向が見定められない――何とかなるわと笑ってくれる人がいないから。
私は今さらながら、環希さんがどれほど皆の精神的支柱になっていたのか思い知った。特に九十九里さんにとっては、たぶん方位磁針にも等しい存在だったのではあるまいか。
痛いほど理解しているはずの日下くんは、それでも怯まなかった。
「それを今から考えるんだろ。俺たちみんなで。環希さん、俺たちを信頼して任せてくれたんだから」
九十九里さんはわずかに目を見開いた。
後はよろしくね――咬まれた環希さんが残した言葉を思い出したのかもしれない。あなたたちなら絶対に私を助けられると、全幅の信頼を寄せた証だった。
彼が固まって何も言わないので、焦れた日下くんは再度手を振り上げた。もう一発お見舞いして目を覚まさせてやろうと目論んだらしいが、
「いててて、痛い痛いっ……」
あっさりと腕を捻り上げられ悲鳴を上げる。軽々と二発目を防いだ九十九里さんは、
「僕を二度も殴るなんて百年早い」
なんて冷たく言ってから、表情を和らげた。
「でも、ありがとう。蓮村さん、あなたの言う通りだ。エリアスに恨まれていると決めつけたのは、僕の方に蟠りがあるからでした。予想以上に彼が情緒的な生き物だったから、ますますそう思えたのかもしれません――すまなかったね」
最後の一言はエリーへ投げられたものだった。エリーはくるんと首を回してそっぽを向く。
「帰って、寝るよ。それから仕切り直しだ」
九十九里さんは気だるげな口調で呟き、UVIをポケットに戻した。緊張していた神経の糸がようやく緩み、溜まった疲労を実感したようだ。私は安心した。
日下くんは解放された腕を大袈裟に撫でながら、エリーに向かって声をかける。
「もう苛めないから降りてきな。おまえもまだ本調子じゃないだろ」
彼がエリーにこんな気遣いを見せるのなんて初めてじゃないだろうか。
エリーはロールスクリーンから飛び降りて、私の肩に戻った。酷い目に遭った、あいつ嫌いだ、とでも言わんばかりに私に身を摺り寄せる。うんうん、怖かったね。
「じゃ、帰るか」
日下くんは欠伸を噛み殺しながら、私たちを促した。
オフィスまでは私が運転して帰った。
九十九里さんは後部座席に乗り込むとすぐに寝息を立て始めた。最初は日下くんがハンドルを握っていたのだが、彼まで眠気に襲われウトウトし始めたので、慌てて交代した。ナビがついていて本当によかった。
男二人は後部座席で熟睡、エリーは助手席に置いたバッグの中でやはりスヤスヤ眠っている。
都心に戻る道路は渋滞していて、帰り着くまでに少し時間がかかるだろう。一分一秒でも彼らの眠りが長く続くように、私は安全運転に努める。
まだ何も解決策は見つからない。でもこのかりそめの休息が終われば、私たちは崩れかけたSCをリカバリーできる――そう信じられた。




