プリンスの憂鬱
理事長室から出るまで、小一時間ほどかかった。
失礼しますと言ってドアを閉めてから、私は壁に凭れて大きく息を吐いた。手にはパストラルホームのロゴ入り封筒――検査結果を簡単に纏めた書面が収められている。
「どう思う?」
私は周囲に人がいないのを確かめて、エリーに話しかけた。理事長の話を一緒に聞いていたはずのミミズクは、素知らぬ顔で毛繕いをしている。
理事長室では、手渡されたものよりもっと詳細な報告書を見せられた。私にはグラフや数字の意味を読み解けなかったが、理事長の言葉だけは理解できた。
実に予想外……斜め上すぎる結果だった。
確定ではないのだという。ただその可能性が非常に高いと聞けば、困惑するには十分だ。だからどうするという解決策がないだけに、ちょっと途方に暮れてしまう。
「みんなにも話すべきかな?」
話すも話さないも私の判断に任せると理事長は言ってくれたけど、SCの皆に黙っておくわけにはいくまい。でも今はまずいような気がする。無駄に気がかりを増やしてしまいそう。
エリーは翼を広げて、その付け根を嘴でカリカリと啄んでいる。興味が湧かないのか、特に意見がないのか。一蓮托生の仲だというのにずいぶん素っ気ないじゃないか。今が夜なら、無理やり人型に戻して説教するところだ。
「ちょっとは真面目に考えてよ。私との腐れ縁を切る方法はないって宣告されたも同然なんだよ。私、あんたに一生付き纏われるのなんてごめんだからね」
少し強めに言ってやると、エリーは大きな目をぱちくりさせてホッと鳴いた。何だその傷ついたって顔は。
もしかしてこいつ、とっくに気づいてたのかな……『厄災の声』の本質に。だったら、自由になるためには私を殺すしかないって理解してたはず。にも拘わらず大人しくしてるのは、これで結構私に懐いているのだろうか。
だからといって、この先ずーっと一緒というのはさすがに困る。私はこの時ばかりは環希さんの容態もウィクトルの脅威も忘れて、頭を抱えた。
気を取り直して事務棟のロビーまで戻ると、九十九里さんが待っていた。惣川一家の相手をしていたはずだが、もう帰ったのだろうか。
私は封筒をエリーの入っていたバッグにしまった。話すのはもう少し後にしよう。
問い質されるかもと身構えたが、九十九里さんはそれには触れなかった。理事長から釘を刺されているのかもしれない。
「少し前に日下くんから連絡があって、彼もこちらに向かうそうです。車で来るらしいので……あと三十分くらいで着くかな。帰りは同乗したらどうですか?」
あ、窓の修理終わったんだな。日下くん、修理費立て替えたりせずにちゃんと請求書扱いにしてもらったかな。落ち着いたら保険会社に連絡して……などと段取りを気にしてしまう私は、すっかり事務アルバイトが板についたのだろう。
「はい、そうさせてもらいます。九十九里さんも帰りますよね? 帰って、ちょっと休んだ方が……」
「僕は大丈夫です」
九十九里さんは即答した。自分の体調を気にする素振りが全然なく、私は心配になった。
「大丈夫じゃないですよ。九十九里さん全然寝てないって、理事長がおっしゃってました。ここにいたってできることは何もないですし……」
「ええ、オフィスには戻るつもりです。今後の策を練らなければ。他の支部にも連絡が必要ですね。早晩、襲撃を受ける危険性があると」
その言葉にハッとした。九十九里さんも同じ見解なんだ――環希さんが襲われた理由について。彼女の意識が乗っ取られ、SC全体の機密が漏洩している可能性を危惧している。
あちらには、手下が仲間か知らないが、手駒はたくさんいる。守りを固めるか打って出るか方針を定め、一刻も早く対策を練るべきだろう。それは分かっているんだけど。
今の九十九里さんに必要なのはまず休養だと思えた。理事長によれば彼は昨夜から一睡もしていない。疲労と焦燥が導いた判断は危険だ。そういうの、年単位で経験した私にはよく分かる。疲れた頭には碌な考えが浮かばないのだから。
しかも九十九里さんが優先するのはSCの安泰よりも環希さんの快復だろう。何か破滅的な行動に走りそうな気がしてならない。
「九十九里さん、あの本当に……」
いったん休みましょう、と私が言う前に、別の声が彼を呼んだ。
「ああ、栄さん、ここにいたんだ」
病棟の方から歩いて来たのは、さっき環希さんの病室で会った惣川家のご長男だった。環希さんの弟で、確か名前は……。
「樹希くん、社長と一緒に帰ったのかと思ってたよ」
九十九里さんは親しげに彼を迎えた。そうそう、樹希さん。
「せっかくだから施設を見学させてもらってた。あ、蓮村さん……だったよね。さっきは挨拶もできなくて」
樹希さんは律義に私に頭を下げた。痩せていて撫で肩なので、鉛筆みたいに見える。着ているのはシンプルなTシャツとデニムに、袖を捲った綿のジャケット。黒縁の眼鏡を掛けた細面は、環希さんの弟だけあってよく見るとハンサムなのだが、地味な印象だった。セットしていない黒髪も何だかもっさりしてる。似たような頭でも日下くんは精悍に見えるのに、不思議なもんだ。
と、めちゃくちゃ失礼なことを考えてしまって、私は反省した。改めて自己紹介をする。
「蓮村です。シェパーズ・クルークではお姉様に大変お世話になっています」
「そのミミズクはペット? よく慣れてるね」
「NPOの……マスコットみたいなものです。環希さんも可愛がってるんですよ」
彼は理事長と違ってエリーの事情は知らないようだったので、私はそう説明した。嘘は吐いていないはずだ。エリーは人間の男になんか興味のない様子でそっぽを向いている。
「こんなことになってしまって……何と言ったらいいのか……」
「うん……ショックだったよ。僕の三倍は強い人だったから……あんな姿を見せられると」
樹希さんは表情を曇らせた。本心から落ち込んでいるのが分かる。声も小さく、惣川家のプリンスにしてはずいぶん繊細な人みたいだった。あまりに環希さんと違うので逆に興味が湧いてくる。
「ええと、樹希さんは惣川製薬の社員さんなんですか?」
「彼は薬学部の院生なんです。卒業したら研究職で入社する予定……だよね」
九十九里さんが説明してくれた。続けて彼が口に出した大学名は、偏差値も知名度も文句なしに最高ランク校。優秀なんだ……。
樹希さんは曖昧に肯く。
「そうできれば幸せなんだけど」
チラリと、意味ありげな視線を九十九里さんに送る。まるで、あんたのせいでできなくなったんだとでも言いたげな。敵意ではなく控え目な恨みが籠っていた。
「父はもともと姉を惣川の後継者にと考えていたんだ。姉はあの通り頭が良くて社交的で弁が立って、経営者向きでしょ? おかげで僕は好きな道に進めたんだけど」
ああなるほど、惣川のお父さん、姉弟の適性を正確に見抜いてたんだ。ところが期待の長女が家を出て起業してしまって、そのお鉢が弟に回ってきたというわけか。
それ九十九里さんのせいじゃないと思うぞ。別に彼が環希さんを唆したわけじゃないんだから。
九十九里さんは気にしたふうもなく、
「お父上だっていきなり君を重役に引き抜いたりはしないよ。まずは研究を続けて足場を固めればいい。現場に精通している人間は、経営陣にとって貴重だと思うよ」
「僕なんかが経営に携わったら、あっという間に会社が傾くよ」
樹希さんは実に気弱なセリフを吐いて、苦い笑みを浮かべた。本当に環希さんとは正反対だ。彼女なら自信たっぷりに「私に任せときなさい」なんて豪語しそう。いや彼女の方が特殊で、この樹希さんの反応が普通なのかな。
彼は私の不安げな様子に気づいたのか、気まずげに頭を掻いた。
「でも、そうだねえ、僕がしっかりしないと姉さんが実家に連れ戻されちゃうか。SCを立ち上げてからの姉さん、ほんとに楽しそうだったからなあ。彼女、どこにいても才能を活かせる人だろうけど、本人がいちばん楽しく生きられるのはあそこだと思うんだ」
その口調は他人事を語るように気の抜けたものだったけど、実の姉に対する労りと親愛の情が籠められていて、良好な姉弟関係が伝わってきた。
私は何となく、ありがとうございますとお礼を言ってしまった。環希さんが楽しく生きているその『場所』に、私も含まれているのなら嬉しい。
樹希さんはやおら口元を引き締め、真正面から九十九里さんを見詰めた。
眼鏡の奥の瞳は、やはり環希さんに似ている。真摯な熱を持った黒い宝石だ。
「だからこそ、お願いします、姉を助けて下さい。皆さんのいる所に再び迎え入れてやって下さい。惣川の協力が必要なら、僕が責任を持って父を説き伏せますから」
深々と頭を下げる彼の前で、九十九里さんは何の躊躇もなく肯いた。まるで自らに課せられた当然の役目を受け入れるように。
「……約束するよ」
穏やかな声は、どんな肯定の言葉よりも心強かった。
顔を上げた樹希さんは安堵の笑顔になったが、私は――。
ますます九十九里さんが心配になった。
樹希さんはその後、所長と一緒に施設を見て回ることになった。
丸っこい所長とひょろ長い樹希さん、対照的な後ろ姿が再び病棟の方へ消えていくのを見送ってから、九十九里さんは私に向き直った。
「……さて」
彼が見ているのは私ではなく、肩のエリーだった。心臓が跳ねたのは、その眼差しがひどく冷たかったからだ。暖かな蝋燭の炎が、ふっ、と吹き消されたみたい。
「君に訊いておきたいことがある。付き合ってもらえるかい? 蓮村さんも」
「は、はい」
「ちょうどいい場所があるんです」
九十九里さんは事務所に寄って、鍵を借りてきた。
向かったのは二階にある広めの会議室。長机がコの字に配置されていて、正面にはホワイトボードがある。
私がエリーとともに中に入ると、九十九里さんは扉の脇にあるリモコンを二箇所押した。ひとつは照明のスイッチで、もうひとつはカーテンの開閉だった。
モーター音とともに窓を覆っていくカーテンは、完全遮光タイプのようだった。会議でプロジェクターを使用することがあるのだろう。ホワイトボードの上にはロールスクリーンが備え付けられている。
すっかり外の日光が遮られて、冷たい蛍光灯だけに照らされた部屋の中で、九十九里さんは私に言った。
「彼を、戻してもらえますか?」
どうにも逆らえる雰囲気ではなかった。けれど、私が命令する前にエリーはひらりと舞い上がった。音もなく部屋の後方まで飛翔して、長机の前で着地した時、すでにその姿は人型に変わっていた。
九十九里さんの左手が私の腕を掴む。有無を言わさず自分の後ろへ押しやって、反対の手は――。
「……疲れてるんだよ、俺は」
エリアスはうんざりした口調でぼやきながら、ゆっくり振り返る。その先に見える光景は予想していたようだ。
「一応確認しておきたい。君とあれは――繋がってはいないよね?」
そう尋ねる九十九里さんは、右手にUVIを構えていた。捕獲作業で使うものより小型で、ズボンのポケットにしまっていたらしい。シャツの裾を出していたので気づかなかった。
照射孔はエリアスの頭の高さを狙っている。エリアスは目だけで天井を仰いだ。




