苦いコーヒー
明け方のコーヒーはやけに苦かった。
自分で淹れておきながら私は顔を顰める。日下くんの舌にはさぞかし苦かったと思うが、彼は無言で数口啜った後、指先を温めるようにカップを握り締めた。
窓の外はうっすらと明るみ始めていた。ただし、その窓は今は面積の半分以上がブルーシートに覆われている。壊れたブラインドは外されていた。見慣れた場所に刻まれた非日常の傷痕だ。
「九十九里さんからは……まだ連絡ない?」
私が尋ねると、日下くんは無言で肯いた。
襲撃の夜が明けた。
九十九里さんは、環希さんに付き添って救急車で病院へ向かった。その後日下くんが何度かメールを送るも、簡単な返信が帰ってくるだけではっきり状況が分からない。たぶんそれどころではないのだろうとは思ったが、不安は増した。
「環希さん、きっと大丈夫だよね」
自分に言い聞かせるように、私は口にした。ああなってしまった以上『大丈夫』では有り得ないのだが。日下くんの答えは冷静だった。
「応急処置で鎮静剤を打ったから、錯乱状態は出ないと思う。抗生剤がうまく効けば、ある程度症状を抑えられるはずだ。でも根治はできない」
「そう……そうだよね……」
根治するためには、加害個体の生体組織が必要。その事実は誰よりも日下くんが思い知っているはずだ。環希さんを『大丈夫』にできるかどうかは、彼や九十九里さんにかかっている。
オフィスに残った私たちにもぼうっとしている暇はなかった。
窓が破壊されたため機械警備が作動し、出動してきた警備員さんたちに事情を説明しなければならなかった。少し遅れて到着した警察に対応してくれたのは日下くんだ。職務上、SCは警察と付き合いが深いので、割とスムーズに済んだみたい。
その後ようやくオフィスの片付け。備品庫にあったシートで割れた窓を覆い、ガラス片を纏め、床に散らばった備品を拾い集め……荒れた役員室がほぼ元の状態に戻った時、時刻は朝の四時を過ぎていた。
コーヒーを飲みながら、私と日下くんはぼんやりとソファに座っていた。一段落すると急に疲労に襲われる。頭の奥が重くて眠いのに、神経だけがピリピリしている感じ。
話したいことはたくさんあったが、悪い憶測ばかりになりそうで憚られた。そのぶん疑問符が頭の中を巡る。なぜ環希さんが襲われたのか、ウィクトルの目的は何なのか、この先がまだあるのか――際限なく浮かぶ問いをひとつひとつ吟味するには、精神的にも肉体的にも疲れすぎていた。日下くんもそうだろう。カップを見詰める彼の横顔は青白かった。
唯一、回答を掴んでいるはずの存在は――私は向かいのソファに目をやる。タオルでできたおくるみから、黒い尾羽がはみ出していた。ミミズク型のエリーである。
ウィクトルとやり合ったエリアスはひどい手傷を負って戻って来た。ウィクトルがSCの壊滅を狙っていると告げられたことよりも、私は彼のその有り様に衝撃を受けた。人間とは桁違いの再生能力を持つ肉体がここまで損傷するなんて、上位個体同士の衝突とはそういうものかと戦慄した。
エリアスはすぐにミミズクの姿に変わったが、引き倒されたポールを立て直しても止まり木には上らなかった。自分の血で汚れたカーペットに蹲っている。
「体力を全部治癒に使ったんだな……ほら、もう傷が消えてるだろ。しばらくほっとけ」
日下くんが無遠慮に体を触っても、エリーは目を閉じたまま動かなかった。スリープモードで節電をしているようだ。彼のことだから心配はないはずだが……失血で寒いんじゃないかとタオルを掛けてやると、黒いミミズクはもそもそと潜り込んだ。それきり、ソファの上に運んでもぴくりとも動かない。
「蓮村、おまえもう帰れ」
コーヒーを飲み干した日下くんは、壁の時計を見てからそう言った。そろそろ電車が動き始める時刻である。
「日下くんは?」
「俺はここにいる。あれじゃ物騒だ」
指差した先を見るまでもない。シートで応急処置をしたとはいえ、こんなに派手に窓が壊れた状態では空き巣に入られてしまう。確かに無人になるのは不用心だった。
けれど、日下くんも疲れ切っているはず。一人残して帰るのは気が引けた。
「気にすんな。俺、どこででも寝られるから」
「そうだけど……」
「さっさと帰って寝ろ。俺はシャワー浴びたいんだ」
日下くんがシャツを脱ぎ始めたので、私は慌ててソファから立ち上がった。
マンションをオフィス用にリフォームした際、バスルームは倉庫にしたがシャワースペースだけは残されていた。捕獲作業で体が汚れることがあるからだろう。
「じゃあ、とりあえず帰るね。何かあったら連絡して。なるべく早く戻るから」
「急がなくていいよ。ゆっくり休んできな」
日下くんの声は、たぶん意識的に優しかった。
バッグと傘を手に玄関を出ると、明るさを増した空に眩暈がした。雨が降る気配はない。すぐにでも帰って眠りたいのに、何となく足が重かった。
そうか――日下くんに留守番を押し付けるのが心苦しいのではない。私自身が一人になりたくないんだと自覚した。
血色の夢を見た。
内容はよく覚えていない。ただ赤に塗り潰されたような夢だった。その色がじわじわと私の中へ染み込んでくる。皮膚から、喉から、肺から――私の細胞が赤く染まる。
同時に誰かに名前を呼ばれていた。男か女か分からない、不思議な声で。その呼び声は遥か彼方から響いてくるようにも、私の内側から湧き出しているようにも聞こえた。
嫌悪感はなかった。ただ困惑するだけの、奇妙な夢。
目覚めは悪くなかった。しかし、時計を見ると九時を過ぎていた。
しまった! ちょっと横になるだけのつもりだったのに!
帰ってすぐにお風呂に入って、ベッドに潜り込んだらやっぱり熟睡してしまった。むしろこの時刻に目が覚めたのが奇跡かも。
私は急いで身支度を整え、部屋を飛び出した。お化粧は適当だし、髪には寝癖がついているが仕方がない。途中で日下くんにメールを送ったら、急がなくてOKと返事があった。
コンビニで多めに朝食を買ってからオフィスに駆け込むと、日下くんはちょうどスマホで電話中だった。
「うん……分かった、それ蓮村に伝えとく。いや、こっちは大丈夫だから。何とかなってる……うん、あんたもちゃんと休めよ……じゃあ後で」
スマホを置いてから私に気づき、九十九里さんからだと言った。
環希さんは病院での処置を終え、パストラルホームに移送されることになったらしい。惣川製薬の経営する嗜血生物性催眠症患者療養施設で、理事長の惣川とき子氏は環希さんのお祖母様だ。本来は適合する抗生剤を待つ患者のための施設だが、自宅に帰るよりはずっと安心だろう。加害個体からの再接触の恐れがあるため、当然ながら一般の病院には残れないのだし。
やっと状況が聞けて、私は胸を撫で下ろした。日下くんも同じく安堵の表情を浮かべている。その顎のところに薄く切ったような傷が見えた。
「どうしたの、そこ?」
「ああ……剃刀でやった。コンビニで買ったT字、使い辛くてさ」
彼は面倒臭そうに頬を擦った。着替えの下着と一緒に買ったT字剃刀で髭を剃ったところ、切ってしまったのだと言う。男性もなかなか大変なんだな。
朝食はすでに済ませたとのことだったが、私がコンビニ袋から取り出したおにぎりやパンを見て食欲が復活したらしく、デスクで朝ごはんとなった。
食べているとエリーもひょこひょこやって来て、床から物欲しげに見上げている。羽ばたく元気はまだなさそうだけど、とりあえず動けるようになったみたいだ。
おまえは後でな、とエリーを靴でつついてから、日下くんは私に向き直った。
「午後でいいから、パストラルホームへ行ってくれるか。環希さんの様子見に」
「日下くんも一緒の方がいいんじゃない?」
「そうしたいけど、夕方に窓の修理が入るんだ。誰か残ってないと」
「だったら私が留守番するよ。そのためのバイトじゃん」
「とき子理事長のご指名なんだと」
急に出てきた意外な名前に、私は驚いた。日下くんは卵サンドを二口で平らげ、紙パックの野菜ジュースをごくごく飲む。
「何か蓮村に用があるんだってさ。だからおまえが行け」
「わ、分かった……」
「九十九里さんの様子もよく見といてくれ。ちょっと……心配だ、あの人」
彼の危惧は理解できた。
九十九里さんと環希さんの関係性には、私には計り知れない歴史と深さがある。そんな大事な人を傷つけられて、果たして平静でいられるだろうか。普段冷静な人だからこそ、堰が切れた時を想像すると怖い。
エリーが翼を広げて、じたばたと私のデスクまで飛び上がった。私は慌てておにぎりを避ける。ホホウと鳴いたのは、俺も連れてけとせがんでいるみたいだった。
その後、日下くんと手分けしてマンションの各部屋に挨拶に回った。昨夜の騒動を謝罪するためである。特種害獣被害を知って不安げな住人たちも、被害者は別の場所に移送したと付け加えると少し表情を和らげた。誰だって自分の生活圏に猛獣が襲来するのは嫌だろう。仕方がない。
いくつか事務作業を終わらせてから、私はオフィスを出た。
考案の結果、エリーはバッグに詰め込むことにした。捕獲作業の機材を運ぶのに使うボストンバッグである。駅の改札を通る時はドキドキしたが、見咎められることはなかった。本来ならペット用のキャリーケースに入れなければならないのだろうが、エリーは普通のミミズクではないということで見逃してもらおう。
電車は空いていた。シートに座り、足元に置いたバッグのファスナーを少し開けてやってから、私は大きく息を吐いた。
気分が落ち着くと、ようやく昨夜からの出来事を咀嚼する余裕ができた。
エリアスは、ウィクトルはすでに堕ちている――つまり継続的に人間を襲ってその血を飲んでいると言った。そして狩りの邪魔になるSCを潰すつもりだと。だからそのトップである環希さんを襲ったのか。
でも環希さんは捕獲員ではない。手っ取り早く戦力を削ぐなら、九十九里さんや日下くんを倒した方がよっぽどいい。まず分からないのはそこだった。
足元でバッグがもぞもぞ動いた。
私は周囲を見回したが、疎らな乗客はスマホを見たり本を読んでいたりして、気にする様子はない。ファスナーの隙間からエリーが半分ほど頭を出し、大きな目で私をじっと眺めた。私の無駄な推理を嘲笑っているのだろうか。いや、エリーに伝わるのは私の思考ではなく感情だから、悩んでるっぽいことくらいしか分からないのかな。
あ、そっか――私は自分の唇をなぞった。
私とエリアスの場合はそうだ。私の感情をエリアスが受信している。私の方でも彼の感情と、最近少し思考も読めるようになってきたのだが、それはきっと私が人間だからだ。血を吸った方と吸われた方、人間と吸血鬼の立場が逆転しているから、この程度の緩い繋がりで済んでいるのかもしれない。
翻って、正常なベクトルならどうだろう。私は以前の事件を思い出す。中嶋由理奈さん――精神感応能力の高い個体に咬まれた彼女は、心を読まれるどころか乗っ取られていた。
それが狙いか。環希さんの記憶と思考を読み、SC組織を理解し、効率的に潰していくつもりなのか。
ぞっとした。だとしたらメインサーバをハッキングされたも同然だ。ウィクトルの動機は本能的でも、その手段は実に狡猾である。
「何でそこまでして……人の血が吸いたいんだろう……」
私は思わず呟いた。エリーは何か言いたげに瞬きをしたが、すぐに目を閉じてバッグの中に引っ込んだ。




