三
果物やナッツやアルコールで変化がつけられていても、毎日食べているうちにチョコレートの味には飽き飽きしてきた。
エリアスは赤い箱を放り出し、壁に背を凭せ掛けて目を閉じる。
二回提供された生餌のおかげで、身体的な負傷は治癒していた。脂と砂糖で作られた菓子により、エネルギーも十分充填されている。足首はまだ銀の鎖で繋がれているが、今なら無理やり引きちぎることができそうだ。
環希に乞われて、不承不承ながら血液を提供した。新型の抗生剤を作り、あの子供に投与するのだという。
あんな死に損ないのために、捕獲された咎人と同じ扱いを受けるのは不愉快この上なかったけれど、これで借りはチャラだとエリアスは自分を納得させた。本来なら、敗北を喫した時に九十九里に殺されていてもおかしくなかったのだ。
助命の礼は済んだ。後はどうしようと自分の勝手だ。
もうすぐ環希がやってくる。九十九里も同行しているだろうが、今のエリアスなら強引に押し通れるはずだった。
そうだ、面倒臭いからもう二人とも殺してしまおう。外に出たらすぐに変身して空へ逃れて、それから――。
エリアスは目を開けた――それから、どうする?
しばらく経ってから、重いドアが開く音がした。
照明が灯り、華やかな美貌の女が姿を現した。その背後にはやはり九十九里が付き従っている。端整な顔立ちには何の険もなく、手元だけが冷徹にUVIを構えていた。
「願いは聞いたぞ。もう俺を放せ」
エリアスはとりあえずそう言ってみた。了承されれば、平和裏に出ていける。
「ここを出て、どこへ行くつもり? あなた追放されたんでしょ」
環希はいつもの椅子に腰掛けた。青いベルベットのスカートが大きく広がる。返答に詰まる彼に、
「しかも『厄災の声』のハンデまで背負って。ミミズクのままネズミでも獲りながら生きていく? それとも矜持を捨てて人間を狩る? 言っておくけれど、吸血鬼のあなたが何も犠牲にせずに生きていけるほど『こちら側』は甘くないわよ」
「どうしろと言うんだ?」
まさに今それを考えていたエリアスは、問い返した。
惣川から放逐されたら、彼は本物の放浪者になるだろう。群れに帰れず、かといって別の群れに紛れ込む擬態能力もなく、陽光に怯えながら細々と命を繋いでいくしかない。
唯一の解決法は『厄災の声』を見つけ出して始末することだが、未だに不安定なその声の主は喧しい感情をぶつけてくるだけで、一度もエリアスを呼ばないのだった。
一言、助けてと――そこにいない誰かに向けて救いを求めれば、瞬く間に見つけ出せるのに。
環希は少し間を取った。置かれた状況を見詰める時間を彼に与えたのかもしれない。
「これからも、私たちに協力してくれないかしら」
身を乗り出す彼女を、エリアスは冷ややかに眺める。
「死ぬまで薬の材料になれと?」
「違う。あのね、準備にまだ少し時間がかかりそうだけど、やりたいことがあるの。あなたが力を貸してくれれば絶対に上手くいくわ」
大きな瞳がキラキラと輝いた。子供が将来の夢を語っているようだった。できると信じて疑わぬ楽観と、無邪気なくせに強固な意志を隠そうともしない。
九十九里は溜息をついたが、口を挟んではこなかった。彼はもうとっくに巻き込まれてしまっているのだ。
「協力してくれるなら、あなたの安全は保障します。『向こう側』にいた時と同じように……とまでは無理でも、そこそこ快適な暮らしができるわよ」
「もし『厄災の声』が見つかったらどうする?」
「その時は、その時のあなたが思うようにすればいいんじゃない? 邪魔はしないわ」
嘘を吐け、とエリアスは胸の内で罵った。環希が人間を見殺しにするはずはないし、自分を手放しもしないだろう。それでも――。
「その話、詳しく聞かせろ」
エリアスは、危険なカードを敢えて引いた。胡散臭い、不平等な取引に決まっているが、人間の社会で生きていくには他に選択肢がなかった。
環希は花が開くように笑う。
『厄災の声』さえ、あの小娘さえ探し出せば、やられたことを倍にして返してやる――そう、心に決めた。
庭の芝生でサッカーボールを蹴っていると、九十九里がやって来るのが見えた。冬馬は手を振って合図し、彼に向かってボールをキックした。
九十九里は少し走ってボールを止める。明るく笑う冬馬は、三週間前とは比べ物にならないくらい顔色がよい。冬の冷え切った大気も、まったく苦にならないようだった。
あの吸血鬼の体組織から生成した抗生剤は、冬馬に劇的な回復をもたらした。あらゆる検査結果の数値が改善し、週に一度は起きていた発作が未だ起こっていない。日中はほぼ意識が保てるようになって、体の傷さえその半分以上が消え失せたのだった。
十歳の夏以来初めて、彼は日の下を心置きなく走り回った。
しかし、広い芝生でボールを蹴るのは彼ひとりだった。介護士に車椅子を押されて散歩する患者はちらほら見かけるが、自力で動き回れる者はいない。
「また俺だけ助かった」
戻って来たボールを膝でリフティングしながら、冬馬は呟いた。
新型の抗生剤は、当然ながらこの療養施設の他の患者にも投与された。症状が軽減された者がいる一方、まったく変化が見られない者も多かった。少なくとも、冬馬と同程度に回復した患者は他にいなかった。
効き目の差が体質からくるのか年齢からくるのか、それは今後の研究で明らかになるだろうが、冬馬は手放しで快哉を叫べる心境ではなかった。
再び蹴り返されたボールを、九十九里は膝で止めた。今日はラフなダウンコートとデニム姿で、中学生の遊び相手を務めるのに不自由はなさそうだった。
「僕は冬馬くんが元気になって嬉しいよ。君が生きていてくれたら、僕は自分のやったことに少しは意味が見出せる気がする」
ボールとともに戻って来た九十九里の言葉は、苦みを帯びていた。
それは違う、そんなふうに思う必要はない、と言いかけて、冬馬は止めた。九十九里に必要のない罪悪感を押し付けるのは心苦しいが、もしそれが氷解してしまったら自分との縁も切れてしまうのではないか。そう危惧したからだ。
何て狡くて寂しい人間なんだ――冬馬は胸に広がった暗いものを拭うように、やや乱暴にボールを蹴った。
「あのミミズク野郎に礼なんか言わないからな」
「言わなくていいよ、別に」
「でも、あいつを捕まえたとかいう『厄災の声』? その人にはありがとうって言いたい。会わせてくれる?」
「どこにいるか分からないんだ。エリアスは血眼になって探すだろうけどね。その人を殺せば、彼は自由になれるから」
「そんな……!」
何度か往来したボールが、冬馬の脚の間を通り抜けていく。彼はそれを追いもせずに、じっと立ち尽くした。
年相応の、まだ幼い甘さを残した顔が思い詰めたように強張る。発作を起こしたかと駆け寄る九十九里の前で、彼ははっきりと言った。
「九十九里さん、俺、特種害獣の捕獲員になりたい。九十九里さんみたいに吸血鬼を捕まえて、一種類でも多く薬を作りたい」
頬は上気して、額には汗が滲んでいた。まだ催眠症の完治には程遠いとはいえ、三週間前には息が切れるほど運動できるなんて考えられなかった。
九十九里はエリアスが見たら唖然としそうな優しい目になって、尋ねる。
「それは自分自身のために?」
「うん……そうだと思う。俺、ずっと怖くて……発作も眠るのも夢を見るのも怖くて……死にたくなかった。家族もケイスケもいなくなって一人ぼっちなのに、それでも生きていたかった。浅ましいよな。でも、やっぱり生きていられて嬉しいんだ」
冬馬は汗を拭って、それからその手を見た。掌に血が通って、指先の毛細血管がじんじんと熱かった。自分の鼓動を、呼吸を、彼は改めて感じた。
「もう奴らの影に怯えるのは嫌だ。自分のために、立ち向かいたい」
残りの傷を消せる日が来るかどうかは分からないけれど。暗い道がどこへ繋がるのか誰も教えてはくれないけれど。
待っているよりは、手探りでも先に進んだ方がずっといい。
九十九里の手が、冬馬の頭をぽんと撫でた。
「……考えておくよ。まずは高校に進学することだね」
はぐらかされた気がしたが、拒絶もされていないように思えた。
九十九里は笑いながら踵を返し、冬馬はボールを拾ってから慌てて後を追いかけた。
季節限定の桃パフェとパンケーキを平らげて、エリアスの腹はようやく満たされた。
今日は不本意に変身を繰り返す羽目になったので、冗談抜きでガス欠状態に陥っていたのだ。カロリーが充填され満足げな彼とは対照的に、絹は伝票を見て渋い顔をしている。
ウィクトルの狙いが何なのか、今の時点でエリアスにもよく分からなかった。エリアスのために『厄災の声』を排除すると本人は言っていたが、果たして本心かどうか。ただ害意があるのは間違いなさそうなので、絹を守りつつ早めに追い払うつもりだった。
そのような内容をエリアスが話すと、絹は不安げな様子を見せた。彼が宗旨替えしてウィクトルと結託する可能性さえ考えているらしい。エリアスにとっては実に馬鹿馬鹿しい杞憂だった。
呪いから逃れようと思えば、いつでもできる。絹を殺せばいいだけだ。自分の意志で『こちら側』に留まっているのは明らかなのに、なぜそこを疑うのだろう。
他者の心情を鋭く推し量るかと思えば、くだらない誤解をして右往左往する――絹の、というより、人間の奇妙な思考回路に、エリアスは七年経っても慣れなかった。
「あんたから見れば、人間はさぞ愚かで不気味な生き物なんだろうね。特に私なんかは」
ファミレスから出て駅へと向かう途中、絹はそう呟いた。
外は雨が降っていて、エリアスは別に濡れても気にしなかったが、無理やり傘に入れられた。小さな傘の下で、彼女の体温と呼吸が近かった。
ただ違っていると感じるだけだ、とエリアスは答えておいた。
正直なところ、囚われてしばらくは凄まじい感情の波に翻弄された。どす黒い情念が膨れ上がり、波立ち、『厄災の声』の人格を蝕んでいるのが手に取るように分かった。
これは長くはもなたいな、とエリアスは吐き気を堪えながらほくそ笑んだものだ。おそらくあの小娘はすぐに死ぬ。耐え切れずに自分自身を殺してしまうだろう。
しかし――いつしか彼女はそれに慣れた。
悲しみや痛みが癒えたわけではない。それらは相変わらず彼女の中にある。だが、新たな日常が新雪のように降り積もっていた。他人の言葉、読んだ本、眺めた風景、味わった料理、聴いた音楽……日々重なる経験は、負の感情を覆い尽くしてしまう。彼女の心は柔軟に刺激を受け入れて容量を増し、古い痛みは相対的に存在感を薄めた。
たまにマグマのように噴出することはあっても、彼女はすでにそれを飼い慣らす術を身に着けていた。だからあの時、短絡的な解消方法に走ったエリアスを止めることができたのだろう。
しちめんどくさくて脆くて湿っぽくて――でもしぶとい生き物。ずっと絹と繋がれていたエリアスは、最近少しだけ彼らを面白く感じるようになっていた。
それに。
「おまえはいい匂いがする」
彼が首筋に鼻を近づけると、絹は怯えるでもなくふふっと笑った。
高揚ではなく平安をもたらす、不思議な香りだった。狩猟本能は薄れ、彼は何だか眠くなってくる。どこかで嗅いだことのある匂いだが、よく思い出せない。
この女の寿命など、長くてもあと六十年かそこらだ。それまで待ってやるのも悪くない――エリアスは欠伸を噛み殺した。
第五夜『毒を以て毒を制す』へ続く




