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誰も寝てはならぬ

「そろそろ本当のことを言えよ、ウィクトル」


 通りを三つほど跳び越えた雑居ビルの屋上で、エリアスは私たちに追いついた。振り返ったウィクトルを睨み据えて、そう尋ねる。

 ウィクトルはそれ以上逃げようとはせず、錆びた手摺りに凭れた。


 厚い雲の切れ間から、丸い月が姿を覗かせた。無機質で煩雑な屋上を、刃物のような月光が冷ややかに切り裂く。ずらりと並んだエアコンの室外機が、熱風とモーター音を響かせていた。


「おまえ、何がしたいんだ? 親切心や正義感で俺を助けるわけがないだろう。上から……『レガリア』から命じられたか? 俺を連れ戻せと」


 エリアスの声は穏やかだったが、じりじりと追い詰めるような凄味を帯びている。私を餌にここまでおびき寄せられたことなど、先刻承知だったらしい。しかしウィクトルは軽やかに笑った。


「傷つくなあ、エリアス、友人なのに」

「何が友人だ、気色の悪い」

「仮にそうだとして、名誉だとは思わないか? あの方がそこまで執心する相手は他にいないよ」

「だったら、直接俺に帰って来いと命じればいいんだ。他人を使ってコソコソ工作するのが気に入らない」


 エリアスは吐き捨てた。嫌悪というより、何だかへそを曲げているような風情である。

 ウィクトルは、やれやれと呟いた。ぽいっと、まるでゴミでも投げ捨てるように私を手放す。無様にコンクリートに転がった私は、したたかに膝頭を打ちつけた。


「誤解だ。私は痴話喧嘩の後始末をしに来たんじゃない」

「だったら……」


 エリアスは私の腕を引っ張って立たせて、自分の後ろに押しやった。全身をちらっと眺めたのは、負傷の有無を確認してくれたのだろう。ありがたくて涙が出てくるわ。


「おまえの助けなど必要ない。自分の始末は自分でつける」


 ライトグリーンの瞳が血の色を帯びる。共鳴するように、ウィクトルの両眼も赤味を増した。


 まったく同じ歩調で歩み寄り、至近距離で対峙した二人は鏡合わせのようだった。


 月光を跳ね返す白い髪、およそ血の気のない蒼褪めた肌、朱色にギラつく両眼、そして口元から覗く牙――個別に見れば顔立ちの違いは明確なのに、彼らを構成する要素はまったく同一だった。全身に纏った氷点下の殺気さえも。

 彼らは同じ毛並みをした二頭の狼だった。隙あらば相手の喉笛を食い破ろうと、遠雷のような唸り声を上げている。


 ウィクトルは、ふと、微笑んだ。


「私はね、君のそういう自惚れの強さが嫌いだ。『あちら側』で血の順列に縛られようが、『こちら側』で寄る辺のない身に堕ちようが、自分は変わらないと信じて疑わない。どこにいても楽しそうで――実に鼻につく」


 彼は悪意を隠そうともせず、エリアスの襟元を掴んだ。言葉とは裏腹に、彼を抱擁するかのような仕草だ。

 眉根を寄せたまま動かないエリアスに向けて、


「自分が愛されていると思ってるだろう? 残念だったね――逆だよ。私は君のことなんてどうでもいい」


 笑みを深めた。長い牙が剥き出しになり、眉間に深い皺が刻まれる。笑っているのに、目つきはゾッとするほど凶悪なものになった。


「ウィクトル、おまえ……」

「私は自由になる。君は勝手に野垂れ死ぬがいい」


 エリアスは大きく目を見開いた。この男にして初めて見せる、生々しい驚愕の表情だった。何かとんでもない思い違いに、取り返しのつかない判断ミスに、愕然としたような。


 私が尋ねる暇もなかった。

 エリアスは躊躇なくウィクトルの喉を掴む。ごきりと嫌な音がした。

 エリアスの襟元を握っていた手が、力を失って垂れ下がった。彼が身を離すと、ウィクトルの体はそのまま仰向けに倒れた。


「こ、殺したの……?」


 息を飲む私の前で、エリアスは同胞の傍らにしゃがみ込み、薄笑いを浮かべたその死に顔の上に手を翳した。そして額に五指を掛け、顎に向かって引き下ろした。まるで何かを剥ぎ取るような仕草だった。

 ずる、べちゃ――水っぽい音とともに、彼の手には赤い塊が掴み取られていた。

 私はせり上がってきた声を押し止める。大の字になったウィクトルは――ウィクトルだと思っていたものは、彼とは似ても似つかぬ容貌の吸血鬼に変わっていたのだ。髪の毛の色まで別物になっている。


「何これ……」

「『憑依ポゼッション』だ。血を介して下位の者に力を貸し与え、感覚を共有して分身のように……ああもう、そんなことはどうでもいい!」


 エリアスは手にした血の塊をいまいましげに投げ捨てた。ウィクトルの()()だったそれはコンクリートの上で黒い塵に変わり、あっという間に風に流された。

 同時に、目の前の吸血鬼の死骸も形を失う。あいつの『憑依』とやらがなければ、雑魚の部類に入る個体だったのかもしれない。


「じゃあ本物のウィクトルはどこにいるのよ? 何で手下を使って……」

「嵌めたつもりで嵌められたんだよ、俺たちは。きぬ、俺は先に行く。おまえは九十九里つくもりに連絡を取って……」


 エリアスが立ち上がったその時、慌ただしい足音が湧いた。私たちを追ってきた九十九里さんと日下くさかくんが、非常階段を上ってきたのだ。


「エリアス、仕留めたのか?」


 屋上に私たち以外の人影がないことを確認しつつ、それでもUVIを構えたままで九十九里さんが訊いた。エリアスは返答の時間さえ惜しむように身を翻す。


「裏を掻かれた。奴はSCにいる」

「何だって……」

「本当の狙いは環希たまきだ!」


 九十九里さんの顔色が変わる。エリアスは手摺りの上から飛び降りた。

 流れる雲の下、黒い鳥がSCオフィスの方角へ向かっていく。あまりのことに呆然と立ち尽くす私の前で、九十九里さんもまた勢いよく踵を返した。





 私たちは社用車のミニバンでオフィスへ取って返した。


 ハンドルを握るのは九十九里さんで、冷静沈着な彼とは思えないほど運転は荒っぽかった。

 夜間でも交通量の多い幹線道路を避け、抜け道を選んで進んだのだが、住宅街の中だろうと車幅ギリギリの路地だろうとお構いなく猛スピードで突っ走っていく。一方通行も一旦停止も赤信号さえ無視だった。人を撥ねなかったのが不思議なほど。

 怒りの声を上げるでもなく不安の溜息をつくでもなく、唇を引き結んだままの九十九里さんの横顔は、かえってとてつもない焦りを感じさせた。後部座席で遠心力に振り回されながら、私と日下くんは何も言えなかった。


 それに――その時の私には見えていた。

 目を閉じると、自分のものではない視覚情報が脳裏に映し出される。これはきっとエリアスの見ている光景だろう。以前に、鉄塔の上で経験した現象と同じだった。


 エリアスは今まさにオフィスに辿り着いたところだった。ベランダのある役員室の窓が外からでも分かるほど派手に破られており、ブラインドが垂れ下がっている。エリアスが何を思ったのかは分からない。だが私の心臓は絶望的な予感に締めつけられた。

 割れたガラスの間を擦り抜けて、エリアスは室内に飛び込む。

 役員室は酷い状況だった。パソコンや文具が床に散乱し、ソファの位置はずれ、止まり木のポールは引き倒されている。激しく争った跡だ。

 視点の高さが固定した。エリアスが人型に戻ったのだろう。彼の目は、開いたドアの向こうを捉えた。

 オフィススペースに入ってすぐの所に、彼らはいた。


「環希さん……!」


 思わず声を上げた私の右手に、温かいものが触れた。日下くんの手だった。隣に座った彼は私の異変に気づいたのだろうか。顔は前に向けたまま、私の手をぎゅっと握り締めた。


 私は再び目を閉じる――黒衣の男が、オフホワイトのブラウスを着た環希さんを床に組み伏せている。そいつはすっかり力を失った彼女の体に覆い被さり、その首筋に食らいついていた。

 彼女の美しい顔が苦痛に歪み、開いた唇が震える。弛緩した四肢が断続的に痙攣する――狼に食い殺される羊のようだった。

 皮膚に牙を突き立てたまま、そいつは環希さんを抱き上げてエリアスに向き合った。白い髪の間で、赤い瞳が優越の笑みを浮かべている。

 それは紛れもなくウィクトルだった。


 今宵からは――血に染まった唇が告げる。

 羊飼いどもに眠れる夜はない。


 エリアスが彼に掴みかかるところで光景は途切れた。

 私はひどい頭痛に襲われ、日下くんに凭れ掛かった。


 ほんの数分後、私たちもオフィスのあるマンションに到着した。エントランスに横付けした車から降りた時、三階の窓から黒い塊が飛び出したのが見えた。

 それはエリアスとウィクトルだった。二人の吸血鬼は人間の目では追いつけない動きで揉み合いながら、道路を跳び越え、公園のフェンスを蹴り、屋根の上を跳ねていく。

 人外の争いを一瞥しただけで、しかし九十九里さんは迷わずマンションの中へ走った。私と日下くんも後へ続く。エレベータを待つ時間ももどかしく、私たちは階段を駆け上がった。


 環希さんはオフィスにはいなかった。連れ去られたかとヒヤリとしたが、役員室の方で気配がする。

 慌ただしくドアを潜ると、デスクの脇に座り込んでいる環希さんを見つけた。ぐったりした彼女の膝の上には注射器が二本――左腕の袖が捲り上げられている。


「九十九里くん、ごめん……油断した」


 環希さんは私たちに気づいて、泣き笑いのような表情を浮かべた。綺麗な髪は乱れて頬に降りかかり、脱げたパンプスが傍に転がっている。ブラウスは下着が見えるほど引き破られていた。


 そして左の首筋には無残な傷痕が二つ。


 日下くんはギリッと歯噛みをし、私は目を逸らした。とても正視できなかった。

 九十九里さんは真っ直ぐに環希さんに歩み寄って、膝をつき、その頬に触れる。こちらに背を向けているので、表情までは分からなかった。

 環希さんはホッとしたように目を閉じる。


「そんな顔しないの。応急処置はしたから……後は……よろしくね……」


 声は徐々に細くなった。二本の注射器の中身を私が知ったのは後になってからである。数種類の抗体が混合された薬剤と鎮静剤で、捕獲作業中の事故に備えて常備していたものだったらしい。彼女は気丈にもそれらを自分で注射したのだ。

 九十九里さんは環希さんを胸に抱き寄せた。彼の背に回された環希さんの腕は、すぐに力を失くして垂れ下がった。


「大丈夫……大丈夫ですよ。こんなの何でもない。すぐに治ります」


 囁く声はとても穏やかだった。眠りに落ちる彼女に不安を与えないように、怖い夢を見せないように――。


「……心配しなくていい。必ず()()をあなたの前に引き摺ってきます」


 だから、彼は優しい笑みを浮かべているのではないかと思えた。





 エリアスが戻って来たのは、環希さんが病院に搬送された後だった。

 彼は平静だったが、白い髪も頬も赤い雨を浴びたように血に塗れていた。特に胸から腹にかけて服がぐっしょり湿っている。相当な深手を負っているのが分かった。


「しばらく休めば治る。半分は奴の返り血だ」


 さすがに呼吸は乱れていた。相討ちだったらしいが、取り逃がしたのだ。一縷の望みは潰えた。

 エリアスはさらに、私たちにとって最悪の事実を告げた。


「ウィクトルの目的はSCの……人間の捕獲組織の壊滅だ。あいつ、ずいぶん前から人の血を常飲してる。とっくに堕ちていたんだ」


 いつにも増して青白い顔は、口惜しさと、ほんのわずかな痛ましさを滲ませていた。


 予断と判断ミスが引き起こしたSC最大の事件は、こうして佳境を迎えることとなった。





第五夜 了

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