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反撃の罠

 暗い夜道には私の足音だけが響いていた。

 空は分厚い雲に覆われ、月明かりも星明りも地上には届かない。アスファルトの路面に点在する水溜りは、人工の街灯だけを反射している。

 私は閉じた傘を手に、人気のない道を歩いた。腕時計を確認すると、針は午後十一時を指そうとしている。駅から自宅までの通い慣れた径路ではあるが、いつもより遅い時間だからひどく静かだ。家々には明かりが灯っていても、外に通行人の姿は途切れていた。


 昨夜――というか今日の未明にエリアスが予知した通り、都内の事件は第二接触が起きた。今頃ちょうど捕獲作業が行われているはず。そちらには何の不安要素もない。

 どきどきしてきた胸を、私は押さえた。いけない、何か気持ち悪くなってきた……。


 街灯と住宅からの明かりが途切れる。十字路の手前の一角を、新築中のアパートが占めていた。三階ぶんの足場をカバーが覆い、巨大な壁のように見える。

 来るとしたら、ここだな――そう予測していた場所だった。


 私の緊張に呼応するように、湿度を含んだ空気が動いた。

 背後だ!

 私は躊躇なく駆け出した。靴音も、水溜りの泥水を跳ねる音も聞こえない。ただその気配が追いかけて来るのだけは分かった。


 硬い、石のように冷たい手が私の肩を掴む。力尽くで引き寄せられる前に、私は掴まれた肩を軸にして体を半回転させた。そのまま空いた手で傘の柄を突きつける。

 傘のグリップの少し下には、あの『十』の形をした御守りを結びつけていた。その特徴的な形を前に、そいつはがああっと獣じみた声を上げた。


 赤く燃える両眼、剥き出しになった白い牙――やはり吸血鬼だ。でも。

 二メートルも飛びのいたのは、あのエリアスに似たクラウストルムではなかった。雄体は雄体だが、髪は茶色く体躯はもっとがっしりしている。


 御守りには一瞬戦意を削ぐ効果しかなかったようだ。よほど強い命令を受けているのか、そいつは顔を逸らしながらもじりじりと私に近づいてきた。生理的嫌悪に歪んだ顔はまるで悪鬼のよう。

 私は御守りを掲げたまま後ずさる。


 パッ、と眩い光が弾けた。そいつの胴が火を噴いたのだ。

 強烈な人工の紫外線は、そいつが射程に入るのを待ち構えていた。建築現場の足場の陰から、暗視ゴーグルを着けてUVIを構えた日下くさかくんが姿を現す。


蓮村はすむら! 離れろ!」

「日下くん! こいつ違う!」


 私が叫んだのと、頭上から新たな影が舞い降りてきたのは同時だった。

 黒い上着の裾が翼のように閃き、真っ白い髪が薄闇の中で輝く。音もなく私たちの間に着地した男こそが、ウィクトルと呼ばれた吸血鬼だった。


 日下くんは素早くUVIの狙いを定めるが、最初の吸血鬼が体当たりをしてそれを妨げた。腹から黒煙が上がっている程度、致命傷にはならないのか。日下くんは身をかわすも、その間にウィクトルは悠々と私に近づく。

 朱色に染まったその目――見るな! 私は本能的に直視を避けた。


「ぼけっとするな! 逃げろ!」


 ヒグマみたいに振り下ろされる吸血鬼の腕を掻い潜りつつ、日下くんが叱咤する。その叫びより、


「……これで罠を張ったつもりかな、『厄災の声』」


 眼前のウィクトルの呟きの方が大きく聞こえた。

 攻撃性剥き出しの手下とは対照的に、表情も物腰も穏やかだ。威圧しなくても獲物は逃げないと分かり切っているからだろう。悔しいが、その通りだった。

 私の両脚は地面に縫い付けられ、背骨と筋肉は凍りついたみたいに身じろぎひとつできなかった。呼吸すら苦しくなってくる。


 これほどまでに凄まじいのか、上位の吸血鬼は。

 エリアスに慣れすぎて過小評価していた。本来は、()()なのか。


 ウィクトルは埃にでも気づいたように軽く手を払う。突き出しっぱなしだった御守りは傘ごと弾き飛ばされた。完全に無防備になった私へ、彼はゆっくりと手を伸ばした。


 その動作が――ふいに加速した。

 腕を掴まれたのを感じた瞬間、ウィクトルは私の背後にいた。

 ほぼ同時に私の喉元で光が弾ける。人間の私にとっては痛く痒くもない。でも――。


「もう一人いたか」


 腕一本で私を後ろから抱き竦めたウィクトルは、面白そうに言った。私を盾にしなければ、さっきの紫外線は確実に彼の胸部を捕えていただろうに。

 十字路を渡った向こうから、別のUVIが狙っている。日下くんの得物よりもやや銃身の長いそれを構えているのは、九十九里つくもりさんだった。





 環希たまきさんが提案した作戦は、こうだった。

 二件の特種害獣被害が陽動か否かはともかく、私の行動を監視しているウィクトルは、捕獲作業のある夜がチャンスだと気づいただろう。エリアスは残るにしろ、プロの捕獲員二名は本業に集中するため私の近辺から離れ、確実に警護が手薄になる。

 もし私が作業に同行すればかえって好都合。現場を混乱させてその隙に襲うことが可能だ。

 だったら――それを逆手に取ってやれ。


 第二接触が予想される時間帯、私はわざと単独で狙われやすい場所に出る。あいつの襲撃を誘って、のこのこ現れたら、待ち構えていた九十九里さんと日下くんで迎え撃つ――という手筈だった。

 都内の事件の方は、プランを練ってから実動は甲信越支部に依頼した。この辺は割とフレキシブルに融通が利くみたいだ。


 私のために本来の業務を放棄してもらうなんて、そんな、とんでもない――そう辞退しかけた私を、環希さんは優しく睨んで制した。ついこの間、水臭いと言われたところだ。

 九十九里さんと日下くんも、おおむね異存はないみたいだった。エリーは知らん顔で肉を食っていた。


 これ見よがしに夜道をうろつく私を怪しむんじゃないか、伏兵の二人に気づかれないか、そもそも衝突して勝てるのか……不安要素は多かったけれど、とにかくやってみることになった。

 そして、案外あっさりと獲物は餌に食いついてきたのだった。





 ゴーグルで視界を確保した九十九里さんは、その場を動かなかった。

 私にもウィクトルにもいっさいの言葉をかけず、機械みたいにブレない構えのまま、続けざまに引き金を引いた。実弾でないからこそできる、容赦のない攻撃である。

 不可視の光線はほとんど私の胸や腹に当たったようだが、一発がウィクトルの腕を焼いた。後ろから回された黒い腕が小さな炎を噴き上げ、私は思わず息を止めた。


「ふーん、あれが九十九里とか言う奴だな」


 ウィクトルは腕の痛みも知らぬげに、むしろ面白そうに言った。そしていきなり体の向きを変え、私の胴を横抱きにする。

 やばい、連れてかれる!


 しかしウィクトルの体勢はぐらりと揺れた。服の裾が煙を上げている。

 日下くんが至近距離から撃ち込んだのだ。彼の足元には、さっきの吸血鬼が半分焼け焦げた姿になって転がっていた。

 続けて二発、三発――日下くんは仕留めた獲物を踏み越えつつ撃ってくるが、ウィクトルには当たらなかった。彼は長い上着の裾を闘牛士のマントのように捌く。芝居ががったその動作が照準を惑わせているみたいだった。

 片腕に私を抱えたままで、大した筋力と俊敏性である。紫外線の矢を潜り、自分から日下くんとの距離を詰めた。あっという間に懐に入られて、日下くんは後退する。

 三日月の孤を描く手刀が彼を追い――首をもぎ取られそうな勢いのそれを、彼は身を屈めて避けた。その動きを待っていたように、ウィクトルの膝が下から跳ね上がる。

 日下くんの胸にめり込む寸前に、膝蹴りの勢いが削がれた。側面からの照射に反応したウィクトルが軸をずらしたのだ。日下くんは地面に転がり、すっくと立ち上がる。


 援護したのは九十九里さんだった。彼は、ウィクトルが日下くんに気を取られている隙に道路を横断し、私たちに接近していた。

 がら空きになったウィクトルの胴に一発――と思いきや、九十九里さんは滑るように体をずらした。

 彼の背後から鉤爪を生やした手腕が突き出される。牙を剥いた獣の顔が寸前まで迫っていた。吸血鬼はもう一体いたのだ!


 九十九里さんは慌てる様子を見せない。近すぎてUVIの構えが間に合わないと判断するや、左手でベルトからナイフを引き抜く。下から跳ね上がった諸刃の光は、吸血鬼の鉤爪を五指ごと切断して灰に変えた。怯んだところを、逆の軌跡で一閃。喉元がどす黒い血を噴いた。

 酸鼻極まる光景なのに、その動きがあまりにも流麗で、私は見惚れてしまった。至近距離から心臓の位置に紫外線を受け、全身が炎に包まれるまでそいつは声ひとつ上げられなかった。


 ウィクトルが引き連れてきた手下は加害個体ではない。よって、捕獲の必要はないと割り切っているのだろう。もちろん捕まえれば抗生剤の型が増えるわけだけど、手加減はこちらのハンデになる。上位個体を相手にする二人の、覚悟の程が窺えた。


「つくづく、凶暴な生き物だ」


 ウィクトルは消炭になった手下を感情の籠らぬ赤い目で眺め、呟く。その左手は脇から突き出された日下くんの杭――あの伸縮性のやつを握り締めて、簡単にへし折った。

 手下は片付いても、当のこいつには歯が立たない。私を捕えた腕の力も衰えない。不自然な姿勢で抱えられた私は、もう息が詰まりそうだった。


 九十九里さんは目の高さにUVIを構える。息ひとつ乱れてはいないが、半分ゴーグルに隠された表情に焦りを感じた。

 そうなのだ、私たちはもともとこいつに勝てるとは思っていない。作戦を提案した環希さんさえ、彼らにウィクトルを捕獲もしくは駆除させようとは考えていなかった。

 じゃあなぜこんな危険を冒したのかというと――。


 黒い影が、街灯の光を一瞬遮った。それは翼だった。

 天空から一直線に降下してきた黒い鳥は、見た目よりも長い脚でウィクトルの頭に蹴りを入れつつ、鮮やかに着地する。暗いアスファルトの路面と同化した影は膨らみ、縦に伸び、黒衣の男の姿を取って私たちに対峙した。


「遅え!」


 苛立って文句をつける日下くんに、


「勘づかれないように距離を取れと言ったのはおまえらだ」


 と、エリアスは冷淡に答えた。それからよく似た容姿の同胞に向き直る。


「私用で二人も死なせるとは、上に知られたらどやされるぞ」

「それは殺した奴らに言うべきだろ。人間と共闘するなんて幻滅したよ、エリアス」

「勝手に幻滅してろ。とりあえず()()を離せ」


 ウィクトルを誘い出して、逃げられない状態でエリアスに引き合せるのが私たちの目的だった。

 話し合いで解決できるのか殴り合いになるのか予想がつかないが、上位吸血鬼に対抗できるのは上位吸血鬼だけなのだ。


 ウィクトルは右腕に抱えた私をちらりと見て、唇の端を吊り上げた。


「嫌だね」


 言うなり、地面を蹴って跳ね上がる。私はひゃああと情けない悲鳴を上げた。

 ブロック塀、鉄骨で組まれた足場の上段、隣の住宅の屋根へと、ウィクトルは軽やかに飛び移る。私の名を呼ぶ日下くんの声はたちまち遠ざかった。

 こんな出鱈目な逃走、追跡できるのはエリアスしかいなかった。彼もまたポンポンと足場を伝って追ってくる。見上げたウィクトルの横顔はちょっと楽しげ――鬼ごっこでもしているつもりなのかもしれない。冗談じゃないぞ。交互に襲ってくる衝撃と浮遊感に、私は酔いそうだった。


 揺れる視界と唸る風音の中、恐怖感とともにわずかな違和感を覚えた。

 『厄災の声』の排除が目的なら、私を攫ったりしないでさっさと殺せばいいのに、何でこんなことをしているんだろう。いくらでもそのチャンスはあった。今だって、私を地面に叩きつければ済むことだ。

 まるで――まるでエリアスを誘い出しているみたいじゃないか。

次話で第五夜終了です。

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