表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
45/73

代役デート

 雨はまだ降り続いていた。

 九時半を回っていたが、改札を出て帰路を急ぐ人たちはまだ多い。私たちも傘を広げ、彼らに混ざって歩き出した。


 肯定も否定も曖昧にして話を打ち切ることもできたけど――。


「私は、人間に家族を奪われた。でも、だからと言って、世の中の人間全部を疑うのは違うと思う」


 私は踏み込んだ。

 自分はできたのだからおまえもやれと押し付けるのは独善が過ぎる。私と日下くさかくんの傷は別物なのだ。しかし、拡張した憎悪と憤りを『罪のない』吸血鬼にまで向けるのは不幸な気がする。彼の心が無駄に削られるだけだ。

 日下くんは少し間を置いて、


「それは、別の人間には助けられたから……」

「日下くんだってエリアスのおかげで回復したんでしょ? 環希たまきさんたちに強制されたのかもしれないけど、自分の一部を人間に提供するなんて、あいつにとっては屈辱だったはずだよ。そこを我慢して協力したのに、日下くんから敵視されたらかわいそうだよ」


 心から信用しなくても、せめて憎まないでほしい――そんなふうに擁護したくなるのは、私が過分に彼らの側に寄っているからだろうか。


「懐柔されやがって」


 案の定、日下くんは不愉快そうにぼやいた。


「もともと私、彼らに恨みはないもの」

「俺もエリアス個人に恨みはない。いちいちムカつく野郎だけど。でもな」


 細い息がふっと漏れる。私は彼の方を見た。


「あいつらを容認することは到底できそうにない。おまえも咬まれてみれば分かるさ。この世に存在していい生き物だとは、どうしても思えねーんだ」


 低いトーンの声は物憂げで、長めの前髪が降りかかる横顔は強張っていた。肉体に刻まれた痛みはたやすく理性を覆す。彼の言う通り、これはもう実際に経験した者にしか分からないのだろう。いたずらに彼の傷を抉ってしまった気がして、私は罪悪感を覚えた。


 駄目だなあ、私、しょっちゅう距離感を間違える。

 日下くんの荷物を軽くできるほど、私たちの関係は近くも深くもなかった。まだ、立ち入れない――意外なくらい落胆した。


 以前にエリアスに連れ出された時、社用車で送ってもらったことがあるので、日下くんは私のアパートまでの道順を記憶していた。しとしと雨の降る夜道は一キロもないはずなのに、会話が途切れるとずいぶん長く感じた。


「……蓮村はすむらを俺と同じ目には遭わせたくない」


 ふいに日下くんが呟いた。

 自動車のヘッドライトが、私たちを背後から照らした。歩道のない細い生活道路である。日下くんは道の端に私を引き寄せて、徐行する自動車をやり過ごした。

 肩に触れた手は、衣服越しでも温かい。あれ、昼間はあんなに冷たい手をしてたのに……。

 再び歩きながら、彼は、


「ほんとはそれだけなんだ。そのためにならエリアスでも何でも利用しちまえばいいと思うけど……俺が助けになれないのは、正直、悔しい」

 

 とだけ言った。やるせなさの滲む声である。彼の悔しさは理解できた。彼ほどの腕があってもなお、対等に戦えない害獣がいる。プロの捕獲員としては忸怩たる思いだろうな――と、納得しているのだが。

 なぜか、私の心拍数は上がっていた。

 何かこう、浮ついた感情が喉元までせり上がってくる。殺害予告を受けた対象にあるまじき暢気のんきさで、私は我ながら困惑した。


 それが日下くんの本音だとしたら。意地とか信念とかは後付けの理由で、単純に私の身の心配だけをしてくれてるとしたら。義務感抜きに友人として大事に思ってくれてるとしたら。

 嬉しい、なんて感じるのは不謹慎だろうか。


 日下くんは急に速足になって進んでいく。その背中は素っ気なかったけれど、私の視線を意識しているのが分かる。私は自然と緩む口元を押さえて、後を追った。

 何か話しかけたかった。でも言葉が浮かんでこなかった。


 不幸になんかなったらあいつの思うツボよ、きぬは幸せになってみせなきゃ駄目――いつか安奈あんな叔母さんに言われたことを思い出していた。必ず、あんたを大事に思ってくれる人に巡り合うから。

 ああ私、真っ当に歩いてきてよかったなあ。


 もう少しだけ喋りたかったけれど、アパートではすでに黒いミミズクが待機していた。集合ポストの上の雨がかからない所に止まって、ライトグリーンの目を光らせている。


「部屋には入れるなよ。じゃあまた明日」


 日下くんは諦めたみたいにそう言って、あっさりと踵を返したのだった。





 あの時の私は事態をあまりにも軽く考えていた。危機感はあったものの、特種害獣のプロであるSCスタッフの指示に従っていれば大丈夫だと高を括っていた。

 何よりエリアスがいる。直接の攻撃は彼が防いでくれると信じていた。


 だって、吸血鬼は嘘は吐かないはずだったから。


 その油断が――というより思い込みが、厄介な事態を招く結果になるなんて予想もしていなかったのだ。





 第二接触はその週の土曜日だった。

 前日に、例によってエリアスが捕獲対象の越境を察知した。気配は遠く、二つの事件のうち遠方で起きた方であろうという。さっそく甲信越支部に連絡を取って、共同作戦となった。

 これは休日出勤だなと覚悟していたら、


「蓮村さんは、今回は参加を見送って下さい」


 と、九十九里つくもりさんにきっぱり言われてしまった。


「万一これがくだんの吸血鬼の企みだとしたら、捕獲作業の混乱に乗じて襲われる可能性がありますから」

「だったら逆に、皆さんと一緒にいた方がよくないですか? お仕事の邪魔になってしまったら申し訳ないですけど……」

「その点は大丈夫、エリアスも置いて行きます。人手は十分に足りていますし、彼が出なければ蓮村さんが同行する必要もないでしょう――ボディガード、しっかり頼むよ」


 念を押されて、黒いミミズクは目を閉じたままホウと鳴いた。


 他の支部のスタッフに会ういい機会だったのにと、ちょっと残念に思った私はやはり暢気だったのだろう。がっかりしたのが伝わったのか、日下くんに呆れ顔をされた。


「私も今回は留守番なの。被害者家族との打ち合わせはもう終わってるから、行ってもやることないのよね」


 遠征の準備を進める九十九里さんと日下くんを尻目に、環希さんはデスクに頬杖をついた。

 捕獲員でない彼女は基本的に実作業には手を出さない。以前に手負いの獲物を仕留めて引き摺ってきたことはあるが、あれは例外中の例外。度胸は十分な気がするんだけど。


「絹ちゃん、明日は暇?」

「あ……はい、特に予定は」

「半日ほど付き合ってくれないかしら。美味しい物を食べさせてあげるから」


 休日に上司となんて……とは思わなかった。私にとっては魅惑的な誘い文句であり、一も二もなく承諾した。


「少しだけおめかししていらっしゃいね」


 にっこり笑う環希さんの脇で、九十九里さんが困った顔をしていたが、何も口は挟まなかった。





 おめかし、というのは正直プレッシャーだった。何しろお金に余裕のないアルバイト生活である。ここしばらくデート的なものにも縁がない。

 悩んだ挙句、首周りにビーズのついたアンサンブルニットに膝丈のフレアスカートという無難な組み合わせになってしまった。せめて七センチヒールのパンプスを履いてみる。


 待ち合わせ場所はオフィスの最寄駅。

 颯爽と現れた環希さんは、エメラルドグリーンのワンピース姿だった。ふんわりしたドルマンスリーブと、長いパールネックレスが涼しげだ。普段から綺麗にしている人だけど、今日はいっそう華やかで見惚れてしまう。あの口紅どこのブランドだろう……素敵な色。


「よしよし、絹ちゃんにしては女の子っぽい格好ね」


 環希さんは私を眺めて、微妙な褒め方をしてくれた。


「それに長袖でよかった。劇場は寒いかもしれないからね」

「劇場ですか?」

「さ、行くわよ」


 ピンヒールの音が小気味よく改札を通った。





 中トロなんて食べたの何年振りだろう。

 ヒラメ、コハダ、アナゴ、ウニ――お任せで握られる宝石みたいなお鮨を、私はありがたく味わった。環希さんは隣の席で冷酒をちびちびとやっている。私に負けず劣らず食欲旺盛で、ついさっきまで食べる方に専念していたところ。今は中休みだ。

 都心にあるお鮨屋さんで私たちは夕食を摂っていた。

 小上がりもある割と広いお店で、何でも老舗の二号店なのだという。まだ早い時刻だったにも拘わらず席は結構埋まっていたが、私たちは予約の札がついたカウンターの奥の席に通された。仕切りはないが、椅子と椅子の間はゆったりしているので落ち着いて座れる。


「このお店は初めて来たけれど、本店に劣らない仕事ね。さすがだわ」


 環希さんが言うと、カウンターの向こうで板前さんが頭を下げた。私にはただ美味しいということしか分からない。

 ていうか、廻らないお鮨自体が久し振りだ。中学生の頃に両親に連れて来てもらったのが最後かもしれない。生命保険のおかげで高校までの学費と生活費には困らなかったけれど、そう贅沢もできなかったから。


「ほんとにご馳走になっちゃっていいんですか?」


 環希さんの御猪口にお酒を注ぎ足しながら、私はおずおすと尋ねた。まあ、今さら割り勘だと言われても困るんだけど……。


「私が誘ったんだから気にしないで。ほら、もうちょっと飲める?」


 注ぎ返されて、私もお酒を口に運ぶ。淡麗辛口というのだろうか、とてもさっぱりした味わいの日本酒だ。


「付き合ってくれてありがとうね。楽しんでもらえてよかったわ、オペラ」


 ほんのり頬を赤くした環希さんは、心から嬉しそうに微笑んだ。

 チケットが余っちゃったから、という理由で、彼女は私をオペラ鑑賞に連れて行ってくれたのだった。しかも、あれきっといちばんいい席……一階中央前方の、オペラグラスなしで舞台がばっちり見える席だった。

 恥ずかしながら、私はオペラどころかクラシックコンサートすら初体験だった。理解できるかしらとかなり不安だったのだが――。


「面白かったです。生で聴くと凄い迫力ですね。音楽だけじゃなくて衣装とか舞台装置とか……何もかも豪華な感じで、別世界でした。総合芸術なんですね」


 素直な感想だった。

 オペラというと洋風のものばかりかと思っていたら、舞台が中国だったのが意外。中国の冷酷なお姫様が主人公の、御伽噺おとぎばなしめいたラブストーリーである。有名な演目らしく、私ですら聞き覚えのあるメロディのアリアが登場した。


「でも、ストーリーはちょっと納得できなかったかな……だってあのお姫様、王子のことをめちゃくちゃ嫌ってたじゃないですか。問答に負けたのにごね倒すくらい。それなのに、あんなキスひとつでコロッと好きになったりするでしょうか」


 私が素朴な疑問を口にすると、環希さんは声を上げて笑った。


「私も最初に観た時はそう思ったわ。恋なんかしなければ、永遠に気高く冷酷な王女でいられるのにって」

「ですよねえ」

「けどね、何かの拍子でストーンと落っこちちゃうことがあるのよ。あのキスはただのきっかけなんだわ。本当はとっくに恋をしていて、気づかなかっただけかもしれないし」


 はあ、そんなものだろうか……私の乏しい恋愛経験では、知り合いから友人になり、いつの間にか彼氏に変わってたパターンばかりなので、その『落ちる』感覚がピンとこないのだ。デートだって、大勢で行くか二人で行くかの違いくらいで、友人時代と同じようなコースだった。

 大人のデートってものは、こうやって観劇してディナー奮発して……特別感が大事なんだろうな。


 ――おや?

 私は心の中で首を傾げた。そうだよ、これまるっきりデートじゃん。それも本命用の。


「環希さん、今日のこのプランってもしかして……」


 約束をしていた誰かの都合が悪くなって、勿体ないから私を誘ってくれたんじゃないか。

 例えば、急な休日出勤が入った、とか――。


「もしかして、本来のお相手は、つ……」

「絹ちゃん、日下くんのことどう思う?」


 尋ねる前に、環希さんの悪戯っぽい眼差しが私を捕えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=598083516&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ