いちばん長い夜
この朝、鶲村では六世帯で同様の事態が起こっていた。二十一歳の男性から五十六歳の女性まで、実に六名の村人が自宅で襲われたのである。
村の診療所ではとても処置が追いつかず、被害者に鎮静剤を打つのが精一杯だった。約一時間後、隣接する市から救急車が続々と到着し、静かな鶲村は騒乱と不安に包まれた。
特種害獣被害者は、基本的に一般の病院では受け入れられない。奴らは臭いを辿って被害者を追ってくる。そうなった場合、医療機関では第二接触、第三接触に対応ができないのだ。
マニュアル通り、被害状況は村役場から県へと報告され、県内の特種害獣捕獲員に捕獲依頼が出される。今回は複数個体が拘わる特殊ケースであったため、他県への依頼が検討されたが、その前に協力を申し出てきたのが惣川製薬だった。各地の捕獲員とパイプを持っている惣川家は、いち早く状況を把握していた。
この辺りの事情を日下くんが知ったのはずっと後になってからで、その時の彼は、昏々と眠り続ける母を見守ることしかできなかった。
希望はあった。翌々日には捕獲員たちが村を訪れ、第二接触に備えて罠を張る。すぐに抗生剤が作られ、日下くんの母も他の人たちもみんな元の生活に戻れる。酷い目に遭ったねと笑いながら、残りの夏休みが過ごせる――はずだった。
九州の西端を掠めて大陸に抜ける予定の台風が、急に進路を変え、四国から中国地方を縦断するようになった。強い雨雲を伴った大型の台風である。
鶲村でも風雨が強まり、広範囲の空路や陸路が止まった。当然、捕獲員の到着も延期された。
こんな天気じゃ化け物だって出てこれねえさ――不安がる日下くんの頭を撫でて、消防団員を務めていた父は地区の警戒に出て行った。
台風の接近に伴い雨はますます強さを増し、バケツを引っ繰り返したような土砂降りになった。
午後になって村内全域に避難勧告が出る。増水した河川が氾濫する危険があったからだ。避難場所は、地区ごとに指定された高台の学校や公民館である。
しかし、そこへ被害者を連れて行くことはできなかった。
いつ次の襲撃があるか分からない状態で、大勢が集まる場所に餌を置くわけにはいかない。本当に申し訳ないと、自治会長が被害のあった家全部を回って頭を下げた。
被害者と一緒に家に残る者もいたが。日下家は避難を選択した。消防団員の父は住民を誘導しており、日下くんは祖父母に連れられて公民館に向かった。
その時はまだ、彼は母が置き去りにされたことを知らなかった。後で車か何かで連れて来るのだと思っていた。しかしいくら待っても母は来ない。
母さんはここに来るのか、別の場所へ運ばれたのか、と何度も日下くんは祖父母に訊いた。夜になって合流できた父もまた、母さんは心配ないとしか答えない。
彼の疑念は決定的になり、ある決意が固まった。
夜半になって雨は弱まった。未だ風は強いが、台風のピークは過ぎたらしい。
とはいえ、洪水の危険性が高まるのはこれからだ。上流で増水した流れが押し寄せ、水位が上がる。避難した人々は、座敷に雑魚寝して朝を待っていた。
日下くんは祖父母が寝入ったのを確かめると、部屋を抜け出した。
眠れないのか、ロビーや廊下で時間を潰している人がぱらぱらといた。彼はそんな人たちに紛れて外へ出て行く。周辺には夜通し警戒する消防隊員や警察官がいたが、すばしっこい彼は闇に隠れて擦り抜けた。
丘を駆け下りて行くと、近所を流れる川の水かさが増して今にも道路に溢れそうだった。真っ暗な中に水音がどおどおと響き、住み慣れた村の光景とは思えなかった。日下くんは川の方を見ないようにして走った。雨で全身びしょ濡れで、時折風に煽られて転びそうになった。それでも走った。
自分に何ができるか分からない。だが、弱った母をひとり放り出すなんて彼には耐えきれなかった。正義感よりも、もう二度と母に会えなくなるかもしれないという恐怖が十歳の少年を煽っていた。
全力で走って十五分、ようやく自宅に到着する。祖母の鞄から取ってきた鍵で玄関を開けると、中は電気が点けっぱなしだった。
母さん――呼ぼうとして、日下くんはためらった。家の奥から風が吹いて来たからだ。出がけに雨戸を全部閉めてきたはずなのに。
どこかの窓が開いている。閉め忘れたのか、開けられたのか。
日下くんは考える前に廊下を進み、母の寝ている和室に向かった。
少し開いた襖が風でガタガタと揺れている。窓が開いているのはこの向こうなのだ。とてつもなく嫌な予感がして、日下くんは襖の隙間に顔を近づけた。
熊だ――彼は最初そう思ったという。
黒くて巨大な何かが布団の上に身を屈めている。それを凶暴な動物だと認識したのは、窓が雨戸ごと外側から破壊されていたからだ。ガラスは破片になって床に飛び散り、雨戸は大きく裂けてサッシから外れていた。力任せに叩き破られたのが一目瞭然だ。
その黒い何かは、腕に日下くんの母を抱えていた。片手でうなじを掴み、喉元に食らいついているのだ。彼女の四肢はだらりと垂れさがり、時折痙攣している。薄く開いた両目、緩んだ口元。顔色は蒼白なのに、なぜか表情は恍惚としていた。
恐怖ではなく、生理的な嫌悪感が日下くんを突き動かした。彼はやめろと叫んで室内に飛び込んだ。
真っ白い顔が上がる。血に塗れた口元からは長い牙が剥き出しになっていた。黒い袈裟のようなものを着たそのケダモノは、吸血鬼だ。日下くんの体が凍りついたが、首から血を流す母を見て、腹の底から怒りが湧いてきた。
無謀にも体当たりしようとした日下くんを、吸血鬼は悠々と避けた。彼はもんどり打ってすっ転ぶ。そのTシャツの背中が、ぐいと掴まれた。
吸血鬼は母を投げ捨てて、かわりに日下くんを吊り上げる。立ち上がると、鴨居に頭をぶつけそうな巨漢だった。何か喋ったようだが、日下くんには理解のできない言葉だった。ただ、赤い目を細めたその表情は笑いだった。
次の瞬間、日下くんの肩口にそいつの牙が突き刺さっていた。
焼けた鉄を押し当てられたような痛みの後に、ひどい冷気が体を駆け抜ける。彼は悲鳴を上げてもがいたが、拘束はびくともしなかった。
ごおごおと不気味な音が耳の奥で響くのを、日下くんは聞いた。自分の血が吸い出される音だと思った。頭が痛み、眩暈がし、呼吸ができない。失血の前に窒息死しそうだった。
その時、ぐらりと体が揺れた。相手の力が緩んだので思い切り身を捩ると、床に落下して尻餅をついた。
吸血鬼の足元にしがみついていたのは、正気を失っていたはずの母だった。
その子に触らないで――彼女は畳に這ったまま、必死の形相でそいつの片足を引っ張っている。冬馬、逃げなさい、早く!
日下くんは動けなかった。恐怖と痛みで足に力が入らない。涙で視界が歪み、ごおごおという耳鳴りはますます激しくなっていた。
母が蹴り飛ばされるのと、大きく部屋が揺れたのは同時だった。
不気味な軋みとともに壁に亀裂が走り、内側に撓み、耐え切れずに弾け飛ぶ。入ってきたのは大量の土だった。
あの音は耳鳴りではなかった。崩れた山から土砂が押し寄せる轟音だったのだ。
吸血鬼は土に足を取られて転倒した。土砂の流入は止まらず、その体はたちまち埋もれていく。腹まで泥に沈んだ吸血鬼は、いまいましげに倒れた鏡台を跳ね飛ばした。
今だ、と日下くんは思った。雷に打たれたような感覚だった。
すぐ手近に外れた窓枠が転がっていた。アルミフレームは半ばでへし折れ、先端は荒っぽく尖っている。日下くんは迷わずそれを握って立ち上がった。
やり方は知っていた。特種害獣について紹介された学習漫画は、学校の図書室で子供たちに人気があった。彼も何度も読んでいる。
日下くんは土に埋まった吸血鬼の下半身に跳び乗り、肩口を踏みつけた。吸血鬼は恐ろしい声を上げて払いのけようとしたが、彼は怯まなかった。
今しかない――彼もまた獣の雄叫びを上げながら、渾身の力でアルミの杭を振り下ろした。
尖った先端が黒い胸に沈む。があああっ、と絶叫が声が耳をつんざく。日下くんは目を瞑って思い切り杭に体重を掛けた。肋骨が砕け肉が裂ける感触はむしろ爽快だった。
死ね! 死ね! 死ね!
ほんの数秒の断末魔だった。吸血鬼の咆哮は悲鳴に変わり、やがてふっと静かになった。と同時に手応えも消えて、日下くんはバランスを崩す。目を開けると足元に吸血鬼の姿はなく、人型の黒塵が土砂に混じっているだけだった。
やっつけたよ母さん、と歓声を上げる暇はなかった。
日下くんの足元が揺れる。傾いだのは部屋全体だった。バキバキと音を立てて残りの壁が崩れ、床が歪み、天井が落ちてくる。
土砂の圧に耐えられなくなった日下家が、ついに倒壊したのだった。
「気がつくと、俺は腰まで泥に埋まっていた。目の前に屋根が崩れてて、家が引っ繰り返ったんだって分かった。俺は運よく窓から投げ出されたんだな。電線が切れて辺りは真っ暗だったけど、泥が水で緩んでるのが分かった。土砂で埋まった川から水が溢れてきたんだ。俺はもう夢中で体を引き抜いて、ベソかきながら母を呼んだよ。でも返事はなくて、どんどん水かさが増してきて……とにかく逃げなきゃ死ぬと思って、その場を離れた」
近所の家々もみな土砂に飲まれていた。
日下くんは避難所へ戻ろうとしたが、完全に道が塞がれてしまっている。街灯も倒れており、周囲は真っ暗だ。雨は止んでいて風の音だけが上空で唸っていた。
もしかしたら山崩れは避難所の方で起きたのかもしれないと思い、彼はゾッとした。父や祖父母は無事だろうか。そして母は……。
思い悩んでいる時間はなかった。土砂は動きを止めているが、川の水が上がってきている。日下くんは公民館とは逆方向へ歩き始めた。そちらへ続く道路も泥が覆っていたが、まだマシだった。
ぬかるんだ足場は最悪で、日下くんは川や水田に転落しないように注意しながら進んだ。咬まれた肩がズキズキ痛む。悪寒に苛まれているのに、体の芯は燃えるようだった。異常な状況下で恐怖感が薄かったのは、催眠症の初期症状が出始めていたからだろう。
日下くんは熱に浮かされるようにある場所へ向かった。
長い石段の上に鳥居が見える。高台にある鶲神社は子供たちの格好の遊び場だった。
あそこまでは水は来ないだろう。朝になったら父と一緒に母を探すのだ。もう吸血鬼はいない。もう心配はない。
大丈夫大丈夫と繰り返して、日下くんは涙を拭いながら石段を上った。いつもなら友達と競争して駆け上がる距離も、暗闇の中ひとりで上ると時間がかかった。
ようやく辿り着いた境内は、下の災禍が嘘のように平穏だった。鳥居も社も無傷で、雑木林が風にざわめいている。常夜灯は消えていたが何とか周囲が見えた。雲が切れて月明かりが降り注いでいたからだ。
日下くんは拝殿の賽銭箱の前に蹲った。傷は痛み続けていたが、頭がぼうっとして妙に現実感がなかった。酒に酔ったみたいにふわふわした心地だった。
どのくらい過ごしただろうか。ふと人の話し声が聞こえて、日下くんは顔を上げた。
他にも逃げてきた人がいるのかと思ったが、かなり近づいてきてもその会話は聞き取れない、日本語ではないようだった。
日下くんは総毛立った。
月明りの下、境内に集まっているのは五つの人影たち。その風体は明らかに普通ではなかった。夏にも拘わらず丈の長い黒い服を着て、異国の言葉でさざめいている。男も女もいるようだったが、みな一様につるりとした青白い皮膚をしている。
さっきの奴の仲間が逃れてきたんだと直感した。日下くんは咄嗟にその場を離れ、拝殿の後ろに回った。
すぐに山の斜面になっていて、岩肌の一部がぽっかりと口を開けている。入口には柵があるが、日下くんはその先の洞窟へ何度も忍び込み、神主に見つかって大目玉を食らった経験があった。
ここに隠れてやり過ごそう――日下くんは慣れた動作で低い柵を跨ぎ、中へ入ろうとした。
その肩が背後から掴まれた。氷みたいに冷たい手で。
生臭い息が耳に吹きつけた。
手を振り払って必死で洞窟の中へ逃げ込むも、すぐに捕まった。他の吸血鬼が次々と集まってくる。
そいつらは日下くんの傷を見て、何やら言葉を交わした。赤い視線が憎々しげに彼を睨めつける。その剣呑さは獲物ではなく敵に対するものだった。仲間を殺した奴だと分かったのかもしれない。
ご神体の岩の前で、日下くんはごつごつした石の地面に引き摺り倒された。両手両足を押さえ込まれたが、そんなことをされなくても恐怖で身動きが取れなかった。
首に肩に腹に腕に足に――五頭のケダモノが牙を立てたのと、洞穴の入口で大きな音が響いたのはほぼ同時だった。
こちらの丘でも崖崩れが起き、滑り落ちた大量の岩や木が彼らを閉じ籠めたのだった。




