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泥に沈む

 日下くさかくんの自宅はSCのオフィスから三駅離れた所にあった。

 自転車通勤だからてっきり近いのかと持っていたのだが、優に五キロはあるのではないか。毎日往復十キロのサイクリングはいいトレーニングになりそうだ。

 最寄駅で降りた私は、スマホの地図アプリで再度住所を確認した。反対の手にはレトルト食品やスポーツドリンクが入った袋。電車に乗る前にスーパーで仕入れてきた。野菜ジュースもある。何か料理を作ってあげようかとも考えたけれど、キッチンの状態が分からないし、あまりに図々しい気がして、結局病人がすぐ食べられそうなものを買った。

 五月の午後五時はまだ明るい。私はひとつ息を吸って、初めての町を歩き始めた。


 日下くんの様子を見に行くのならゆっくり休むよう伝えて下さい――退勤間際に九十九里つくもりさんにそう言われ、私は片付けていた書類をばら撒きそうになった。何も言っていないのにバレている。職員名簿からこっそり日下くんの住所をメモってたの、お見通しだったみたいだ。

 エリーは行かせないからごゆっくり、と環希たまきさんもにこにこしている。実に意味深な笑顔である。役員室から顔を覗かせた彼女の後ろで、ギイイッと悲愴な鳴き声が上がった。エリー、飛び出して来ようとしてはたき落とされたのだろうか。

 彼らに言い訳するのも妙な気がして、私は大人しくオフィスを出た。絶対に何か誤解されてる。


 病欠の同僚を見舞うだけのこと、別にやましくないやましくない――私は自分に言い聞かせながら日下くんの住むアパートを探す。

 私の住んでいる所とそう変わり映えのない街並みだった。チェーンの飲食店が立ち並ぶ駅前を抜けると、平凡な住宅街に入る。自転車に乗った中学生の集団が賑やかに私を追い越して行った。

 実は完全なアポなし訪問である。我ながら大胆ではあるが、来なくていいと断られたら反撃の余地がないので、敢えて連絡しなかった。迷惑そうだったら、玄関先で差し入れだけ渡して帰ろう。

 会って何を話せばいいのか分からないけれど、とにかく心配だったのだ。またあんな発作を起こしていたら……。


 九十九里さんから聞いたばかりの話を思い出す。

 日下くんの催眠症は薬で抑えられているが、自律神経の乱れによる恒常的な眠気に加え、突発的に本来の症状に襲われることがあるという。過度の疲労やストレスが引き金になって、ふいに昏倒してしまうのだ。意識を保とうと抵抗すると酷い苦痛に苛まれるとか……昨夜のように。

 もう十二年も、日下くんの戦いは続いている。

  




「彼はひたき村という所の出身なんですよ。この地名に聞き覚えはありませんか?」


 と言われても、すぐにはピンとこなかった。けれど、九十九里さんがパソコンで検索した新聞記事を見て思い出した。

 抉れた山肌、押し流された木々、土砂に埋もれた民家と、救出活動をする自衛隊員――凄まじい惨禍を写した報道写真には、確かに見覚えがある。

 山陰地方の山間やまあいにある小さな村だ。台風による集中豪雨で大規模な山崩れが起こり、集落はもちろん避難所になっていた公民館まで土砂に埋まった。最終的な死者は四十一名。

 画面上で記録を見ているうちに記憶が甦ってくる。確か夏休みに入ってすぐの出来事で、関東にはほとんど影響のない台風だった。小学生だった私は、泥に沈んだ村の映像を遠い世界の出来事として眺めていた。


 こんな大惨事の印象が薄れていたのは、毎年のように全国各地で自然災害が起きているからだと思う。人間は繰り返される悲劇に慣れてしまい、たやすく忘却するものなのだ――それが他人の悲劇である限り。

 世間が私の家族の事件を忘れたように、私自身もまた余所で起きた災害には無関心だった。

 記事の日付は十二年前。日下くんの発症時期と合致する。これが日下くんの傷なのか?


「数年前に隣接の市と合併して、現在は鶲地区と呼ばれているようですが……この時、僕も救助隊に同行していたんです。数人の同業者と一緒にね」

「吸血鬼の捕獲のためですか?」

「ええ、前々日に村から捕獲依頼を受けていて、本当なら土砂崩れのあった当日に訪れる予定でした。でも台風の進路が変わって道路や鉄道が麻痺して……天候の回復を待っているうちにあの災害が」

「鶲村で被害者が出たということですね。あっ、それが日下くん……?」


 パズルのピースが嵌った気がして、私はハッと顔を上げた。けれど、九十九里さんは首を振る。


「被害者は全員が成人でした」

「全員?」

一時いちどきに六名が襲われたんです。特種害獣の集団被害としては、戦後最悪でした」


 同時に六名の被害者なんて聞いたこともなかった。いや、一晩にして村人全員が吸い殺されたなんて怖い昔話もあるにはあるが、そんなのは伝説、御伽噺おとぎばなしの範疇だ。

 でも九十九里さんがここで冗談を言うはずもなく、信じるしかなかった。


「当時はまだ捕獲駆除のネットワークが確立されておらず、各地のフリー捕獲員がそれぞれに依頼を受けている状況でした。僕はその頃まだ学生でしたが、すでに家業を継いでいて、他の捕獲員とともに現地に派遣されたんです」

「東京からわざわざですか?」

「雇用主からの業務命令で……」


 九十九里さんはそこでちょっと言葉を切った。許可を求めるように環希さんを見やる。環希さんは息をついて、代わりに答えた。


「九十九里くんはね、惣川そうかわ製薬に雇われた捕獲員だったの。九十九里くんのお祖父様の代からずっとね。抗生剤開発のために、とにかく吸血鬼を狩りまくってた時期があるのよ」


 自分の実家の話をしているにも拘らず、環希さんの綺麗な顔に嫌悪の影が流れた。何となく、彼女と惣川家の関係性を垣間見た気がする。

 催眠症の特効薬が世に出たのが約五十年前。その夢の薬の研究開発のため、完成してからは種類を増やすため、各々の製薬会社が凌ぎを削っていたのだろう。競争が過熱するあまり、捕獲対象のデータを独占したり隠匿したり、必ずしも被害者のメリットにならない駆け引きもあったのかもしれない。

 それを考えると、SCの設立は画期的だったのではないだろうか。捕獲依頼の窓口を一本化し、国を通すことで情報の扱いをフェアにしたのだから。


「まあ、今は僕の話はどうでもいいです」


 九十九里さんは小さく息をついた。


「一晩明けた鶲村の様子は酷いものでした」


 加害個体は複数頭であることが予想されていた。昨夜のうちに逃げおおせたかもしれないが、土砂に埋まっている可能性もある。生命力の強い奴らのこと、日光の当たらない泥の中で息を潜め、夜になったら這い出してくるだろう。そこを捕らえようと彼らは救助隊に同行したのだが――。


 被害者のために生体捕獲をという当初の方針は、現場で即転換された。ヘリから俯瞰する以上の惨状が待っていたのだ。

 地表は岩と泥の海に変わっていた。山が丸ごと崩壊したような有り様で、谷間にある集落のほとんどが飲み込まれている。森も田畑も家屋も、すべてが埋まっていた。催眠症患者が無事に退避できたとは、とても考えられなかった。


「僕たち捕獲員は被害者宅があったはずの場所を重点的に捜索したのですが、家すらどこにあるのか分からない状態で……地盤が緩んで近付けない場所も多く、確認に数週間はかかるだろうと覚悟しました」


 凄まじい土砂の質量を前に、いかに強靭な吸血鬼とはいえ自力でこの下から脱出するのは無理だろうと、九十九里さんは実感したという。救助活動中にうっかり掘り出してしまった場合に備えて警戒する――すでに彼らの活動目的は救助隊員の警護にシフトしていた。


 私はとても嫌な予感に胸を塞がれた。

 日下くんは助かったのだろう。でも、ひょっとして彼の家族はもう……。


「道路が分断されて大型重機が入れなかったので、ほぼ手作業で生存者の捜索が続きました。けれど生きた人間も吸血鬼も見つからなかった。呼びかけても応えはなく、泥の下から見つかるのは人間のご遺体ばかりでした」


 九十九里さんの声は深い陰影を帯びる。この人だって当時は二十歳を少し越えたくらいだったのだ。いくら特種害獣のプロでも、たくさんの人間の死に直面するのは初めてだったに違いない。

 彼は捜索活動中に見たものについて、それ以上は語らなかった。


「夕方、救助隊の第二陣が到着してから、捜索範囲が広がりました。僕は救助チームに同行してやや高台になった場所を探していたのですが……地形図を調べていた隊員が、この先に洞穴があるはずだと気づいたんです」


 大崩落した山肌とは反対側にある丘だった。麓が神社になっている。こちらも小規模な崖崩れを起こしており、境内に岩と土が盛り上がっていたが、拝殿や鳥居は無事だった。土地勘のある者ならここへ逃げ込んだかもしれない。

 拝殿の後ろの斜面にある洞窟は、岩と薙ぎ倒された木々で入口が塞がれていた。

 隊員たちが大声で呼びかけると、人の声らしきものがわずかに返って来た。初めて見つけた生存者である。さっそく砕岩機やチェーンソーで付近の障害物が取り除かれ始めたが、緩んだ斜面は未だに崩れ続けていたので、細心の注意を払いつつの作業となった。人ひとり通り抜けられる隙間が穿たれたのは、約二時間後、辺りを夕闇が包む時刻になってからだった。

 今そっちへ行きますと声をかけて中へ入ろうとする隊員を、九十九里さんはほとんど本能的に引き止めた。


 臭いが――洞窟の中から独特の臭いが吹きつけてきたからだ。

 淀んだ汚水のような、彼には馴染みの臭いが。


「中にいたのは吸血鬼でした」


 九十九里さんに止められた隊員が体を引くのとほぼ同時に、隙間から生っ白い腕が突き出された。まるで紐で引っ張られるような動きで飛び出してきたのは、泥だらけの吸血鬼。三日月型に裂けた口からは、長い牙と獣の唸り声を漏らしていた。

 太陽はすでに山の端に姿を隠している。九十九里さんは救助隊員たちに下がれと指示しながら、携帯していたUVIを撃った。当時のUVIは現在のものよりずっと大型で、出力も強かったらしい。もとより手加減する余裕もなく、額の真ん中に紫外線を浴びたそいつは一瞬で燃え上がった。


 だが吸血鬼は一頭だけではなかった。続けざまにあと三頭――九十九里さんと他の捕獲員たちは次々と駆除していった。出口が狭いのが幸いして一頭ずつ仕留めればよく、さほど困難な仕事ではなかった。

 合計四頭を灰にしたところで、瓦礫の隙間は静かになった。

 被害者は六名、まだ加害個体が残っている可能性がある。九十九里さんは吸血鬼が出てきた隙間に身を潜らせ、洞窟に入った。


 内部は思ったより広く、少し身を屈めれば歩ける程度だった。灯光器で外から照らしてもらうと十メートルくらいの奥行きが見えて、誰かが蹲っているのが分かった。


「僕がUVIを構えた時、いきなり横合いから銃身を掴まれたんです。岩の壁の隙間に身を潜めていた吸血鬼でした。僕はとっさに押し返して……」


 流れるような彼の動きが私の脳裏に浮かぶ。

 掴まれたUVIを右手で押し返し、相手の重心を崩してから、左手で腰のナイフを抜く。喉元を掻っ切るスピードに迷いはなかっただろう。シャワーみたいに血を噴いて崩れる吸血鬼に向けて、UVIを一撃、二撃。洞窟の中が炎に照らされる。


 これで五頭目。九十九里さんはさらに奥の人影に銃口を向けた。最後の一頭のはずだった。

 しかし――。


「かすかな呻き声が聞こえました。高い……子供の声で」


 洞窟の最奥には人の背丈ほどの岩があった。この神社のご神体らしく、注連縄しめなわが結ばれている。

 その岩の前で膝を抱えていたのは、十歳くらいの男の子だった。泥だらけの体はほとんど裸で、ぶるぶると震えている。

 近づいた九十九里さんは愕然とした。男の子の全身には惨たらしい咬み痕が刻まれていたのである。この時点で、九十九里さんは自分が取り返しのつかないミスを犯したことに気づいた。


 男の子に意識はあった。

 焦点の合わない目が九十九里さんを見上げ、紫色になった唇がこう動いた。


 あいつらを殺してくれてありがとう。


「それが日下くんでした」


 ああそういうことか――九十九里さんが日下くんに感じている責任の理由を、私は理解した。

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