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背信までの距離

 なぜ、どうして、という疑問が頭の中を駆け巡った。

 嗜血生物性催眠症患者――つまり未治癒の吸血鬼被害者は、意識障害を発症し、最終的には昏睡状態に陥るはず。日下くさかくんは昼間よく居眠りをしているものの、日常生活に支障はなさそうだった。ごく最近咬まれたばかりなのか? そしてあの傷痕の数。一体にあれだけやられたのか、それとも複数に?


 エリアスは半目になって日下くんたちを眺めていた。これは事情を知っている顔だ。私の視線に気づくと、何を誤解したのか、


「俺じゃない」

「分かってるわよ。でも知ってるんでしょ?」

「本人に訊け」


 至極もっともな対応で、食い下がれなかった。日下くんのプライバシーだ。それに今は彼の持病に言及している場合ではなかった。


「おまえの底には恐怖があるな。そういう奴は簡単だ」


 雌吸血鬼は笑みを深くした。日下くんのこめかみが震えたように見えたが、彼は逡巡なしにUVIの引き金を引く。距離は近い。外しようがない。

 しかし、彼女の体はどこも火を噴かなかった。UVIの照射孔は夜空に向けられている。照射の瞬間に日下くんの姿勢が崩れたのだ。彼は片手で頭を押さえ、くずおれかけていた。


「ぐっ……あぁ……! ちくしょ……っ」


 初めて日下くんが声を漏らした。酷い頭痛に耐えるように髪を掻きむしり、コンクリートに膝をつく。苦しげに歪んだ表情は悪夢にうなされていた時と同じ。右手はUVIを握ったままだが、とても撃てる状況ではない。


「ほら、ちょっとストレスを掛けてやればこの様だ」


 彼女は日本語で嘲って、日下くんに近づいた。右腕を踏みつけられ、ギラギラした三白眼が下から睨み上げる。


「勝手に……人の頭ん中掻き回してんじゃねえよ……」

「眠れよ。楽になるぞ?」

「ああくそっ……化け物女……!」


 がああっ、と彼は咆哮に近い悲鳴を上げた。頭を抱えて転げ回る。意識を奪おうとする何かに、必死で抵抗しているような姿だった。

 こんな状態じゃ簡単にやられてしまう! 私はもう我慢できずに飛び出しそうになったのだが、エリアスに引き戻された。彼は私の頭からインカムを剥ぎ取り、


冬馬とうまが発作を起こした。急げ」


 とマイクに告げた後、


「薬は奴の腰だ」


 私にはそう言って、次の瞬間には風のように救助スペースに向かっていた。

 彼女は、足元で悶える日下くんに向かって長い爪を振り下ろすところだった。だが動きを途中で止め、予備動作なしで背後へ飛び退る。彼女と日下くんの間に割って入ったのはエリアスである。


「あんなを庇うのか。情けない」

「人間の血に狂った奴よりましだ」


 じりじりと牽制し合う二人の吸血鬼を尻目に、私は日下くんに駆け寄った。姿を見られることなんか構っていられなかった。


 日下くんは四つん這いになって荒い呼吸を繰り返している。下を向いた顔は恐ろしいものを拒むように歪み、固く目を瞑っていた。これが催眠症の発作なのか。


「しっかりして。薬って……これね」


 デニムパンツの腰にはUVIと杭を収納するホルスター、捕縛用のロープが装着されている。それらとは別にベルトループに細いチェーンが繋がっていた。ポケットに隠れたその先端には金属のピルケース。

 引っ張り出して中を確認していると、日下くんがうっすら目を開けた。


「出てくんな、蓮村はすむら……危ないだろ……」

「今いちばん危ないのはあんたなの! これ飲んで、ほら!」


 私は日下くんの手を引っ張って、掌にピルケースの中身を出した。

 青いカプセル三粒を、彼は一度に全部口に入れる。即効性の薬剤だったらしく、ものの十秒で表情が和らいだ。過呼吸みたいだった息遣いが元に戻り、縮こまっていた四肢から力が抜けた。

 よかった、と安堵しつつ、私はついその胸に目が行ってしまう。仰向けになって呼吸を整える日下くんのTシャツは、熊にでもぶん殴られたように裂けている。空気に晒された上半身に散らばる無残な傷――やっぱりあれだ、由理奈ゆりなさんの首にあったものと同じ。


 日下くんは立ち上がった。足元はややふらついているが、私の手を掴むことはしなかった。


「いずれ話す」


 目を逸らしたまま、彼が昼間と同じセリフを吐いた、その刹那。


「わ、わわわ!」


 私は間の抜けた叫びを上げた。

 胃の辺りに衝撃を感じると同時に足が浮き、耳元で風が唸った。日下くんが私の名を呼ぶのが聞こえ、すぐに着地の衝撃が全身に伝わる。何が起こったのか把握できなかった。


「いいものを見つけた。これが『厄災の声』だな」


 雌吸血鬼は私を俯せに地面に押さえつけた。

 コンクリートに擦れる頬の痛みで、私はようやく状況に気づく。跳躍した彼女に掻っ攫われて、五メートルも引き離されたのだ。

 苦しい姿勢のまま目だけを上げると、辛うじて二人が見えた。エリアスは天を仰ぎ、日下くんは素早くUVIを構える。私は背中を膝で踏みつけられ、うなじを鷲掴みにされていた。黒い爪が皮膚に食い込む。

 これって人質というやつか! 私は今さらながら自分の迂闊さを呪ったが、もうどうしようもない。恐怖心よりも申し訳なさが先に立った。


「取引をしないか、クラウストルム」


 彼女はエリアスに向かって持ちかけた。


「貴様はこの人間が邪魔だが、自分で殺すことはできない。ならば私が代わりに殺してやる。だから貴様はその食い残しを片付けて私を見逃せ」

「えっ、ちょ……」


 私の声は途中で遮られた。彼女が破り取ったコートの切れ端を私の口に詰め込み、上から手で塞いだのである。これでもうエリアスの自由意思を妨げることはできなくなった。

 まさかね……私はエリアスの様子を窺う。協力すると約束した、と言い切った男は、緑色の目でこちらを見詰めていた。私ではなく、私を拘束する同胞を。

 彼は何事か口に出し、彼女がそれに答えた。私の耳では意味が聞き取れない。エリアスが翻訳を止めたと分かり、漠然とした不安はとてつもなく悪い予感に変わる。彼の瞳の緑が赤に染まった時、予感は確信になった。


 ふっざけんなよトリ頭! エリアスに投げつけた罵倒はモゴモゴと閉じ込められるばかり。

 私は首を捻じ曲げ、満足げな彼女を睨みつける。至近距離で見るその顔は全体が細かい皺に覆われ、吊り上った目の下は黒く変色していた。下手な厚化粧が崩れかけているみたいに不気味な有り様。やはり傷んでいるのだ。

 こんな腐りかけの吸血鬼の提案に乗るの? 本気で? 私は彼女の腕を逃れようともがくが、岩に挟まれたみたいにびくともしない。首筋を掴む爪に力が籠り、今にも皮膚が破れそうだ。


 日下くんはUVIをこちらに向けたままギリッと歯噛みをした。引き金を引いたとして、彼女が燃えるのと私の首が裂けるのとどちらが先だろう。表情の変化はわずかだが、彼の葛藤が手に取るように伝わってきた。

 ふいに、UVIの角度が跳ね上がった。エリアスが日下くんの右腕を弾いたのだ。


「おまえっ……」

「悪いな、冬馬」


 日下くんは瞬時に狙いを移す。彼女から、エリアスへ。

 エリアスはひらりと舞い上がる。その位置へ一撃、二撃――不可視光線の矢から逃れ、彼は日下くんに正面を向けたまま何度も跳躍した。女吸血鬼の動きがゴムボールなら、彼はまるで水面を切って走る石。爪先で軽く地を蹴るだけで、すいすいと距離を取っていく。

 瞬く間に、エリアスは救助スペースを離れて屋上の端まで移動した。照明は届かず、黒ずくめの全身が同じ色の闇に飲まれた。


 沈黙が落ちる。風の音さえ静まったようだ。

 鋭い爪から逃れて顔を逸らしつつ、私は目だけで彼らの姿を追った。


「勿体をつけるなぁ」


 私の耳元で、彼女は日本語で囁いた。冷たい吐息は死んだ魚の臭いがした。

 日下くんは見えないはずのエリアスを見詰めている。その石のような表情は、さっき杭で戦っていた時と同じ、凄まじい集中力を感じさせた。


 彼の視線の先で、闇が動いた。

 エリアスの速度は、離脱の時よりもずっと早かった。低い姿勢で真っ直ぐに接近してくる様は、まさに黒い猛禽類のよう。ロックオンした獲物目がけて急降下する。

 対して、日下くんはUVIを構えたまま微動だにしない。十分に引きつけて、一息に仕留めるつもりなのだ。今の彼は確かに狩人だった。


 照明の範囲に入ったエリアスの表情が見えた。赤い両眼は歓喜に燃え上がり、口元には薄い笑みが浮かんでいる。敵意もなく憎悪もなく、ただ楽しそうなのが恐ろしい。きっとこいつは自分がやられることなんて考えてもいないんだろう。

 冗談ならもうやめろ――私は叫んだつもりだったが、くぐもった呻き声が漏れただけだった。彼女は牙を剥いて笑っている。


 射程距離に入ったエリアスが嘲る。


「死に損ない」


 狙いを定めて日下くんが言い返す。


「化け物」


 UVIの引き金が引かれた時、両者の距離は一メートルもなかった。外しようがないし、避けようもない。

 人工の紫外線がエリアスの胸の中央へ吸い込まれてゆく――見えるはずのないその軌跡が、私には見える気がした。彼の体が、心臓が、焼かれる――。


 ボン、と爆発音が聞こえて、白い炎が爆ぜた。

 エリアスの胸ではなく、私のすぐ隣で。


「ぎゃあああっ」


 獣じみた叫びとともに、私にのしかかる体重が消えた。

 跳ね起きた私が見たものは、無様に尻餅をつく雌吸血鬼の姿――その右大腿部が衣服ごと黒煙を上げている。

 何が何だか分からなかった。誰が彼女を撃った?


 私は口の中の布を吐き捨て、急いで立ち上がった。走るつもりが膝がガクガクして、今にもすっ転びそうな足取りだ。背後で獣の唸り声が聞こえる。彼女が負傷した脚で追ってくる。

 駆け寄ってきた日下くんが私の腕を掴んだ。自分の方に引き寄せながら、私の肩越しにUVIを構える。もう一度絶叫が響いた。

 撃った瞬間、日下くんは体を半回転させて私を庇った。彼と立ち位置が入れ替わった私は、彼女の腹が火を噴くのを見た。蛋白質の燃える嫌な臭いが、煙とともに吹きつけてくる。

 呪いの言葉と血を吐きながら、彼女はその場に頽れる。私は日下くんにしがみついたまま、しばし呆然としていた。


「……蓮村、済んだよ」

「ああ、はい、お疲れ様……」


 場違いな応答をした後、我に返って身を離した。日下くんはちょっと困った顔をしている。いやいや、照れてる場合じゃないんだ!

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