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晒された傷痕

 『彼女』――加害個体の雌吸血鬼は、迷うことなくベランダの端に近づいた。太陽光パネルの所まで後退した私たちに気づく様子はない。柵越しにじいっと薄明るい夜の闇を見詰めている。赤い視線の先にいるのは由理奈ゆりなさんだ。

 彼女の唇の端が吊り上った。何て邪悪な笑いだろう。尖った長い犬歯が剥き出しになる。見つけた――そんな声が聞こえてくるようだった。

 彼女は高い柵を握り、足を掛け、よじ登ろうとする。十五メートル程度の距離を跳躍する吸血鬼はざらにいると聞く。ここから由理奈さんを攫うつもりだ。


「待ったぞ」


 エリアスはわざとらしく大きな声で言って、支柱の陰から足を踏み出した。

 雌吸血鬼は勢いよくこちらを振り向き、登りかけていた柵から下りる。威嚇するように赤い目を吊り上げたのは、驚きと警戒の発露だ。


「これが本体か。女だとは意外だった」

「追放されたクラウストルムか――人間の飼い犬め。よくここが分かったな」

「おまえの浅知恵などこっちはお見通しだ」


 エリアスは遠慮なく彼女を挑発する。

 異邦の言語で交わされる会話の内容が、私には理解できた。今はエリアスが翻訳機になっているのだろう。凄く便利なのだけど、彼の口調に含まれた侮蔑まで分かる。黒い背中からは冷たい敵意が噴き出し、パネルの陰に潜んでいても私の皮膚がピリピリした。完全に処刑人モードに入っているみたい。


 私たちがいるのは中嶋なかじま家のあるマンションではなく、その西側の棟だった。同じデベロッパーが分譲する同規模のマンションが、道路を挟んで東西に隣り合う作りになっている。

 彼女がここへ現れることを予測したのはエリアスだ。


 由理奈さんを襲った二頭のうち、下位の方はさほど脅威ではなかった。おそらく正面からやって来る。エレベータを止めてしまえば、非常階段か、あるいはベランダ伝いに外壁を上るか、とにかく馬鹿正直に突入してくるだろうと容易に想像できた。

 でもそれは陽動。


「上位の方は賢い。それに被害者の精神に干渉することが可能です。捕獲作業の混乱に乗じて、被害者を任意の場所に呼び出そうとするでしょう」


 昼間のミーティングで、九十九里つくもりさんはそう言い切った。

 屋上だ、とエリアスはすぐに示した。ミミズクだったので例のパソコンでの会話ではあったが、彼に迷いはなかった。獲物を屋上におびき出して、自分はノーマークの隣の棟へ上り、跳躍して襲うはずだと。


「何で分かる?」


 胡散臭げな日下くさかくんをチラリと見て、


『たかいところがすきだから』


 端的な答えだった。今イチ信用できなかったけれど、同類だからこそ分かる習性なのかもしれない。

 それで中嶋家のある二十五階から上りのエレベータのみ動かし、最上階から屋上へ続く階段も開錠しておいた。言い方が悪いが、由理奈さんを囮にしたわけだ。


 標的は見事に引っ掛かってくれた。

 私はそっと頭を出して、隣の東棟の屋上を窺った。由理奈さんが激しく暴れているのが見える。後から現れた九十九里さんに柵から引き剥がされたのだ。もちろん被害者を一人で行かせるわけもなく、ちゃんと追跡する手筈になっていた。


「現在、第二目標個体とエリアスが接触中です」


 インカムのマイクを口元に引き寄せて、私は小声で報告した。


「私を罠に嵌めたつもりか」


 彼女は柵から手を離し、エリアスに向かい合う。睨み据える表情は険しかったが、追い詰められた動揺の気配はない。それが不気味だった。

 エリアスは無言で彼女に近づいた。何ら気負いのない足取りなのに、背後にいても息苦しいほどの圧を感じた。明確な殺意を持った時の彼はこうなるのか。このまま彼ひとりに任せればきっと本当に殺してしまう――割と本気で不安になった。


 彼女はエリアスの迫力に気圧されまいと身構える。

 一歩踏み出そうとして――だが、素早く後ろに跳び退った。その動きは恐れのためではなかった。

 薄茶色の髪が大きく跳ね、その毛先がポッと火を噴いた。彼女が動かなければ上半身のどこかが同じ目に遭っていただろう。エリアスが舌打ちをするのが聞こえる。

 二度、三度、続けて閃光が視界を過る。彼女は見事なバック転でそれらを避け、最後にぽーんとトンボを切って宙を舞った。まるでゴムボールみたいな動き。着地したところはRの字が書かれた救助スペースだった。


 そこには日下くんがいた。暗視ゴーグル越しにUVIで彼女を狙っている。

 彼はさらに引き金を引こうしたが、彼女は素早く間合いを詰める。突き出された右腕は異様に長かった。爪が――黒い爪が指先から三十センチも伸びているのだ。ただの硬化した蛋白質ではないのかもしれない。


「殺気を出しすぎなんだよ、あいつは」


 エリアスは腕組みをして呟いた。冷えた鉛のような気配は消え失せ、他人事を傍観するみたいに気楽な佇まいである。


「だから気づかれたんだ。九十九里なら一撃で仕留めてたぞ」


 彼の嘆息は分からなくもなかった。由理奈さんを囮におびき出しても、待ち伏せに気づかれる恐れがある。だからエリアスを使って逆に相手の注意を引きつけ、死角から日下くんが襲う作戦だった。強い精神感応能力を攪乱させるため、彼はわざと存在感を見せつけたのに、肝心の日下くんが気取られてしまったのでは話にならない。


 エリアスには劣るとはいえ、吸血鬼の腕力、瞬発力は人間を遥かに凌駕する。日下くんは距離を取ろうとするが、彼女は巧みに踏み込んでいく。懐に入り、凶器の爪で日下くんの喉元を狙っている。UVIで狙うどころか構える隙も与えない。こうなると飛び道具は不利だった。


「加勢してあげてよ!」


 私はパネルの陰から這い出して、エリアスの服の裾を引っ張った。エリアスは嫌な顔をする。


「それは命令か? 九十九里から補助に徹するよう釘を刺されてるんだが」

「えー……」

「俺が手を出すと相手を殺すぞ?」


 この役立たず、と私は小さく罵った。

 確かにエリアスは手加減を知らない。これまでも加害個体の行動予測と追い込みが主な役目だったらしい。以前に日下くんが「隙あらば獲物をネコババして食っちまう馬鹿猟犬」と評していたことを思い出した。

 でも、この相手は今まで捕獲した中でもかなり強い部類に入るはず。ええと、殺さない程度に攻撃するように命令すればいいかな……と、私が迷っていた時。


 彼女の攻撃を避けつつ、日下くんが自分のインカムに向けて何か言った。

 数秒後、突然周囲が明るくなった。場違いな人工の光は、救助スペースを照らす照明灯だ。一瞬彼女が怯み、日下くんは間合いを取ってゴーグルを投げ捨てる。

 屋上に向かう加害個体を途中で止めず、ここに辿り着くまで待ったのは、周辺への危険が少ないからだ。注意喚起しているとはいえ、フロアや共有部で荒事を起こせば住民に危害が及ぶ。屋上ならば広い空地もあり、合図ひとつで照明を点灯してもらうこともできる。


 それでもまだ利は彼女の方にあった。彼女は体勢を立て直し、低い姿勢から日下くんに迫った。UVIの距離には近すぎる。

 日下くんも心得ているようで、後退しながらUVIをホルスターに収めた。かわりに腰から抜いたのは、三十センチほどのバトン。強く振ると、一メートル近くに伸長した。


「お、本気出したな」


 エリアスがちょっと身を乗り出す。私は唾を飲み込んだ。

 日下くんが手にしたのは伸縮式の特殊警棒みたいな武器なのだが、先は鋭く尖っている。いわゆるステークと呼ばれる対吸血鬼用の武器で、強化プラスチックの本体に銀メッキが施されていた。吸血鬼の体を貫いて動きを止めるのが本来の使い方だ。

 下から突き上げてくる彼女の腕を、日下くんは杭で払い落とした。ほぼ同時に、脇腹を襲う左手をグリップの方で叩く。腰を落として相手を見据える彼は、いつにも増して精悍だった。UVIで狙撃している時よりも集中して見える。

 彼女は攻撃の手を緩めない。右腕、左腕、足技も使って日下くんに肉迫する。日下くんはその不規則な攻撃を正確に弾き飛ばしていった。角度と方向によって杭を短く長く持ち替える様は、剣術というより杖術に似ている。防御だけではなく、タイミングを計って踏み込み、鋭い先端で相手の胴を突こうとしているのが分かった。


 凄い、日下くん強い! 吸血鬼とタイマンで負けてないじゃん!

 興奮に拳を握り締める私とは対照的に、エリアスはもどかしげな様子だった。自分の肘をしきりに指で叩いている。


「甘いなあ、冬馬とうま……ほら見たか今の。左ガラ空きだ。あっそこだ……くっそ、何で外すんだよ。イライラする」

「文句があるなら助けに行けばいいでしょ!」

「あいつがやられたら出る」


 シュッと空気を切って突き出された彼女の右手を、日下くんは際どいところでかわした。距離感は計算通りだったのかもしれない。左頬を爪が掠めたが、彼は構わず杭のグリップで彼女の喉元を突く。カウンターを食らって黒いコート姿がよろめいた。


「取った……!」


 私は思わず声を上げた。

 日下くんは素早く構えを反転させて、杭の先端で彼女の腹を刺した――ように見えた。

 銀色の杭は彼女に踏みつけられていた。人間では有り得ない体重移動で、彼女は仰け反った姿勢から攻撃を防いだのだ。瞬時に日下くんは杭を手放す。間髪入れず、左手の爪が繰り出される。今度は日下くんが身を反らせる番だった。


 袈裟がけに振り抜かれた黒い爪が彼の胸を抉ったように見えて、私は息を飲んだ。

 しかし、皓々と照らされたコンクリートの広場に血飛沫は散らなかった。日下くんはギリギリでよけたのだ。

 彼は無理に踏み止まらず、地面に転がった。滑らかな動きで立ち上がったのはさすがだ。長袖のTシャツは肩口から脇腹まで斜めに切り裂かれ、布地が無残に垂れ下がっていた。少し反応が遅ければ、確実に肉を持って行かれていただろう。

 杭は手放してしまったが、かわりに距離が取れた。日下くんは再びUVIを抜く。

 彼女は撃たせまいと接近して――ふと動きを止めた。朱色の目がじっと日下くんの胸を凝視している。大きく布が破れて露出した皮膚を。

 明るい照明の下で、それは私にも見えた。が、すぐにはピンとこなかった。エリアスが溜息をつくのが聞こえる。


 半分ほど晒された日下くんの上半身は、あの俊敏な動きに相応しく綺麗に引き締まっていた。職業上、当然のように鍛えているのだろう。軽量級ボクサーみたいに無駄なく筋肉がついている印象だ。

 でも、あれは何? 私は気恥ずかしさも忘れてまじまじと眺める。


 彼の、皮膚。

 若干色の白い皮膚の上には傷があった。


 錐で刺されたような赤黒い点が二つ並んだ傷である。それが、胸元から腹、わずかに見える背中の方まで点在している。いくつもいくつも、数えきれないほど。

 その傷痕の形状には見覚えがあった。なぜそれが日下くんの体にある?


 表情を変えず、UVIを下ろさない日下くんの前で、彼女の口元が歪んだ。嘲笑の形に。


「ほう、おまえ……()()()()か」


 その言葉で、何かがストンと腹に落ちた。まさか、と信じられない気持ちはある。だがそれ以上に納得の思いが強かった。

 吸血鬼に向ける強い憎しみ、頻繁に居眠りをする体質、そして今日のあのうなされ方――これまで見てきた日下くんの断片が、ひとつの回答に集約される。


「催眠症患者……」

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