優等生の本音
役員室を出ると、オフィスでは日下くんがA3サイズのコピー用紙を広げていた。現場となるマンションの見取図らしい。デスクの片隅にはエリーが止まって、同じく神妙な顔で眺めている。
「エレベータ止めて、こことここ塞げば、侵入経路がひとつ防げるよな。あと可能性としてはこっち……」
シャーペンで印をつけながらミミズクに話しかける日下くんは、事情を知らない人が見れば完全に不審者だろう。エリーは相槌を打つみたいに瞬きを繰り返す。時折ペン先をつつくのは、そっちじゃないと言いたいのだろうか。
「今夜、蓮村さんにも参加してもらうことになったよ」
九十九里さんがそう宣言すると、日下くんはえっと声を上げた。
「危なくないか?」
「捕獲要員ではなくて」
九十九里さんの視線が一瞬エリーを捕える。こいつの見張り役とはさすがに口に出さなかったけれど、日下くんは察したようだった。
「足手纏いにならないように注意します。大人しくしとくから」
私はなるべく謙虚に会釈した。ド素人が迷惑なんだよ、と嫌味を言われるのを覚悟していたが、日下くんは本気で心配そうに眉を寄せた。おや、意外な反応。
私の怪訝な顔を不安と捉えたらしく、彼はペンをくるくるっと回して見取図に目を戻した。
「……害獣がおまえに気づく前に仕留める。でも念のため、捕獲が始まったら俺たちには近づくなよ」
なんて、事もなげに言い捨てる。
「うん、よろしくね」
背中をポンと叩いたら、シャーペンが滑って芯が折れた。日下くんは慌てて消しゴムをかける。実はかなり肩に力が入っているようだ。
やっぱり私がいると逆効果かなあと考えつつ自席に着いた時、インターフォンが鳴った。受話器を取った九十九里さんが、日下くんに来客を告げた。
ヤマムロ・テクノロジーの守さんだった。
「おはようございます。朝早くからすみませんね」
「SCさんの急な呼び出しには慣れてますよ。今夜本番なんでしょ?」
応接スペースに通された守さんは、アタッシュケースから機材を出して、さっそくUVIのメンテナンスを始めた。捕獲作業のある日は毎回こんな感じなのだろう。日下くんと九十九里さんの二人分、さらに予備も含めて四挺ある。
お茶を出しに行った私は、つい興味が湧いて、作業をする守さんの隣で足を止めた。
「蓮村さんは捕獲作業には携わらないんですか……って、おお!?」
守さんは私を見上げた途端、椅子ごと体を反り返らせた。引き攣った表情は驚きから怯えに変わり、片手で庇うように頭を押さえる。
私の肩に止まったエリーは心持ち前傾姿勢になって、尾羽をふるふる震わせていた。ライトグリーンの目が凝視しているのは守さんのぺたっとした髪の毛だ。
あ、そういえば、エリーは守さんのかつ……じゃなくて髪を毟った前科があるんだっけ。彼にとっては危険極まりない武器を開発、販売している人間だから、本能的に敵だと認定してるんだろうな。
日下くんはあっち行けと口を動かし、掌を払う仕草をしている。
「大丈夫です。躾は万全なんで。エリー、悪さしたらハムスターの刑だからね」
私が睨んだら、エリーは恨みがましい鳴き声を漏らし、それから首を百八十度回してそっぽを向いてしまった。
「いやいや、ちょっとびっくりしただけですよ、ハハハ……エリーちゃん可愛いねえ」
守さんは額の汗を拭き拭き愛想笑いをする。プレッシャーをかけると申し訳ないので、私は見学を諦めてオフィスに戻ろうとした。
「そうだ日下さん、これ」
少しトーンの変わった守さんの声に振り返ると、彼はアタッシュケースの中から取り出したものを日下くんに手渡していた。
「先日ご依頼のあった製品、試作してみました。こんなに小さくてよかったんですか?」
「お、早いですね……ええ、大きすぎると作業の邪魔になるので」
「アイデアとしては面白いんですけどね、実用性はちょっと……相当に息が合わないと使えませんよ」
守さんは呆れたような口調だったけれど、日下くんは真剣にその作りを確認している。何に使うものなのか、私にはさっぱり分からなかった。
午前中に計画と手順を打ち合わせした後、午後から全員で被害者宅に向かった。社用車には捕獲に使用する機材一式が積み込まれ、いよいよだという緊張感が高まった。
ちなみにエリーは狼型に変身し、後部座席の真ん中に陣取っている。作業は夜なので今何に化けようと関係ないのだが、前回の訪問がこの姿だったから、中嶋さんに怪しまれないよう気を遣ったのかもしれない。
九十九里さんの運転するミニバンは、渋滞にも嵌らず目的地に到着した。
マンションのエントランスでは管理会社の社員が数人待っていた。九十九里さんと日下くんは彼らと最終打ち合わせのために事務所へ、環希さんと私とエリーは中嶋さんの部屋に向かった。
中嶋家では、単身赴任中の父親が帰宅していた。赴任先は中東だったはずだが、何とか帰国できたのだろう。四十代半ばの眼鏡をかけた実直そうな男性だ。
初対面の環希さんが名刺を差し出すと、彼も生真面目に自分の名刺を出して、よろしくお願いしますと頭を下げた。傍らでは母親が心許なげに立っている。数日前に比べてさらにやつれているようだった。
「ご連絡した通り、今夜第二接触が予想されます。管理会社の方には話を通しましたので、捕獲作業の準備を始めます」
環希さんはリビングのテーブルにマンションの見取図を広げ、説明を始めた。彼女の華やかな容姿とテキパキした物腰に夫婦は気を飲まれているようだったが、ひとしきり話が終わると、中嶋さん父の方が気まずげに言い出した。
「もし……その、もしですよ、捕獲に失敗して抗生剤が作れなかった場合、由理奈はどうなります?」
「やめて! そんなこと口に出さないで!」
ナーバスになっているらしい中嶋さん母が耳を押さえる。中嶋さん父は溜息をつきながら首を振った。
「念のためだよ。万一の事態への対処も考えておくべきだ。親として」
「今回捕獲できなかった場合は、次の第三接触を待ちます。襲撃を繰り返すのが特種害獣の習性ですから。同じ人間を七度襲ったという記録もあります」
「……長丁場になるかもしれないのですね」
「そうならないよう、最大限努力します。これまで私どもの請け負った案件の九十パーセントは、第二接触で捕獲が完了しています。どうぞご安心下さい」
環希さんはうっとりするような営業スマイルを浮かべた。中嶋さん母は蒼褪めた頬をわずかに綻ばせたが、中嶋さん父は眉間に険しい皺を刻んだ。
「それでも十件に一件は取り逃がしているんですよね? ああいえ、あなた方を信用していないわけではないんですが、私は留守がちなもので、今できる限りの備えをしておきたいんです。長期療養が必要になった場合の受け入れ施設などは……紹介して頂けるのでしょうか?」
「ええ、必要とあらば」
「あなた、いい加減にして!」
環希さんの回答に、中嶋さん母の金切り声が重なった。彼女はソファの隣に座った夫の膝を強く掴み、揺さぶった。
「今はこの人たちを信じて、由理奈が治ることだけ祈るべきでしょう? どうしてあなたは先回りして悪い方に考えるの? まるで他人事みたいに」
「馬鹿言うなよ。俺は親の責任として、由理奈の先々を考えてるだけだ」
「何が親の責任よ! 肝心な時にいないくせして、いつもいつも偉そうに指図ばかり! これまで由理奈の学校行事に来たことある? 進路相談に乗ったことある?」
「仕方ないだろ! 俺は君たちのために働いて、忙しくて……」
「仕事を持ち出せば許されると思ってるの!? だいたい何よ、施設って。看病なら私がやります。あなたと違って私はあの子を愛してるのよ!」
二人のやり取りは急激にヒートアップして、私は焦った。いい年の夫婦が他人の前で喧嘩なんて普通はしないだろうに、それだけ追い詰められているという証拠か。環希さんを見ると平然としているので、割とよくある事態なのかも。ソファの下で、エリーが大きく欠伸をした。
「お二人とも、いったん落ち着きませんか」
頃合いを見て環希さんが口を挟んだ時、エリーがピンと耳を立てた。ライトグリーンの視線の先で、リビングのドアが細く開いていた。
「……何やってんのよ……恥ずかしい……」
戸口に立っていたのは、由理奈さんだった。チェックのパジャマ姿で、縋るようにドアノブを握っている。
中嶋夫妻が同時に娘の名を呼び、由理奈さんに駆け寄った。彼女は部屋に入ると同時に座り込んでしまう。血の気の失せた顔は重病人そのものだった。しかし、体を支えようとした両親の手を彼女は乱暴に払いのけた。
「触らないで! パパもママも嫌い! この家も嫌い! あたしもう……ここにいたくない……」
今にも意識を失いそうなのに、両親へ向ける嫌悪の眼差しはきつかった。激しい拒絶を受けて、中嶋さん父も母も呆然としている。娘を宥めようとするも、由理奈さんは嫌い嫌いと繰り返し、顔を覆ってわあわあと泣き始めた。
催眠症の患者は、初期の錯乱が治まった後も突発的に興奮状態に陥ることが多い。由理奈さんの症状もそれだと思うが、優等生の彼女が抑え付けてきたものが漏れ出している、そんな感じがした。
環希さんが立ち上がり、由理奈さんの傍に膝をついた。こんな状況には何度も立ち合っているのだろう。穏やかな横顔に動揺はなく、パジャマの肩を擦る手付きは優しかった。
嗚咽に体を震わせる由理奈さんは、子供みたいだった。
「あたし、本当は塾をサボって遊んでたんです。クラスの男の子と」
ベッドに身を横たえた由理奈さんは、天井を見上げたままぽつりと言った。
数日前に顔を覆っていたガーゼは小さな絆創膏に変わっていたが、そのぶんこけた頬が露わになっている。可愛らしい顔立ちだけに、くすんだ肌色が不憫だった。
「彼氏?」
「ううん、友達……でも、ちょっといいなと思ってる人」
私の問いに、由理奈さんははにかむように口元を緩めた。ほんの少し生気が戻っただけで雰囲気が変わる。やっぱり凄く綺麗な子なのだ。
今、由理奈さんの自室には、彼女以外私とエリーしかいない。由理奈さんをベッドに戻した後、これ以上彼女を刺激しないように、ひとまず両親には退出してもらった。ちょうど九十九里さんと日下くんが合流して、リビングで改めて注意事項を話しているところだ。
由理奈さんはだいぶ落ち着いたようで、独り言のように話をしてくれた。
「だから罰が当たったのかな……彼と別れて駅に戻る途中に腕を掴まれて……凄く冷たい手で……後はよく覚えてないんです」
「思い出さなくていいよ。それにデートしてたのは関係ない。運が悪かっただけ」
「蓮村さん、優しいんですね」
彼女は顔だけこちらに向けて、辛そうに笑った。
「何かこの家、息が詰まりそうで。ママはいつもいっぱいいっぱいって感じで……あたしがいい子でいないと潰れちゃいそうでしょ。パパはパパで、半年に一回しか帰ってこないのにママやあたしに偉そうに説教するの。ほんとはいつもムカついてた」
包帯が巻かれた指先が、気だるげに額を擦る。表情が徐々に虚ろになってゆく。
「今、頭の中で声が聞こえるの。そこにいたくないだろ、こっちにおいでって。怖くて堪らないけど、もういいかな……その方が楽かなって思えて……」
私の隣に蹲っていたエリーが身を起こし、前足をベッドに掛けた。何かを確かめるように由理奈さんの顔に鼻面を近づける。いやいや、耳を澄ませてもその声は聞こえないと思うよ。
いきなりでっかい犬にフンフンやられてびっくりしただろうに、由理奈さんは笑顔になった。可愛いと喜んで、エリーの頭を撫でる。以前に見せた際どい誘惑が嘘のような、無邪気な姿だった。
私はほっとした。大丈夫、まだ彼女の心は死んでいない。感性まで吸い取られてはいない。
「ここにいたくなければ出て行けばいいよ。家族の距離感って、きっと近ければいいってもんじゃないから。でもね、その時は自分の足で出て行くの。自力で歩けるようになったら、胸を張って別の場所へ行けばいい。あなたを傷つけた奴の声なんか聞く必要ないよ」
私が願いを籠めてそう言うと、由理奈さんはエリーを撫でながら私を見詰めた。はい、と答えた唇は、さっきより血色を増したようだった。




