三
「その人、私に用があるみたいなんだけど」
さっきの女が、射手の男の肩に軽く手を添えていた。男は構えはそのままに、横目で彼女を見る。
「これは害獣です。お嬢さんは下がっていて下さい。服が汚れますよ」
「今度お嬢さんと呼んだらぶっ飛ばすわよ。九十九里くん――相変わらず前時代的な得物を使ってるのね。完全に銃刀法違反でしょこれ」
女は興味深げに銃身に触れようとした。九十九里と呼ばれた男の顔に初めて表情が生まれる。危ない、と窘めて銃を下ろしたのだ。
「UVIは?」
「あれは殺傷力が強すぎて生体捕獲には不向きです。当たり所が悪いと全部灰になってしまう」
「じゃあ今回も生体捕獲すればいいじゃない。だいたい何で夜更けにそんなもの持ってウロウロしてるの? まさか裏庭かどこかで試し撃ちしてたとか?」
可愛らしい顔立ちが無邪気に微笑むが、九十九里はそこに籠められた脅しを感じ取って眉根を寄せた。
「おじょ……環希さんこそ、煙草やめたとかおっしゃってませんでしたっけ? 隠れてコソコソと……お父上に言いつけますよ」
女――環希は渋い顔をして、カーディガンのポケットを押さえた。磔になった吸血鬼を前に、何とも緊張感のない応酬である。
環希はひとつ咳払いをして、身動きの取れないエリアスを眺めた。
「彼、私に、惣川の血縁者かと訊いたの」
「日本語を解するのは、日本語を母語とする人間の血を啜った証左です」
「ええ、でも……とても綺麗よ」
「環希さん、面食いですか」
「そうじゃなくて」
「分かってます。確かに……どこも傷んでない」
九十九里も検分するようにエリアスを凝視した。そして、いきなり腰だめの姿勢で引き金を引く。エリアスの左手の甲を矢が貫き、わずかに可動域が残っていた左腕を完全に封じた。
「九十九里くん!」
「それにこの色素の薄い髪。かなりの上位個体かもしれませんね」
念入りに相手の自由を奪った九十九里は、エリアスの白い髪に触れた。それから頬を掴んで皮膚の状態を調べる。傷んでいないと評した自らの言葉を確かめるような、無遠慮な仕草だった。
エリアスは強く首を振ってその手を跳ね除けた。
「気安く……触るな……!」
睨み据える瞳の色は、まだ赤い。九十九里は、お、と感嘆の声を上げた。
「喋った」
「こんな単純な言語など、血を介さずとも習得できる。俺はクラウストルムだ。雑魚と一緒にするな」
人間ならばとっくに痛みで失神している状況なのに、エリアスの声は明瞭で目の焦点も合っていた。ただし呼吸音は笛の音のように高く、喋った後にまた血を吐いた。
環希は恐れるどころか微笑んだ。瀕死と思われた吸血鬼が意外と元気なので、安堵したのだろう。そして彼の言った意味も理解しているようだった。
「門の番人がこんな所で何をしてるのよ?」
「訳あってあっちに戻れなくなった……ああくそ、血が勿体ない! 惣川と我々には契約があるはず。助力を求めに来た」
環希と九十九里は顔を見合わせた。
「それならそうと早く言ってよ」
「言おうとした! おまえら……ちょっとは人の話を……」
エリアスの顔が強張った。損傷した肉体は激痛に苛まれているが、それとは別種の息苦しさが戻ってくる。首根っこを掴まれて地面に押し付けられるような、屈辱的な感覚。呪いの主の意識が復活したのだと分かった。
細胞の結合が勝手に解けて黒い霧に変わってゆく。彼は一瞬だけ物理的な束縛から自由になり、別の生き物の形に変わった。
力なく地面に落下したのは黒いミミズクであった。背後では血塗れの矢が六本、引き戸に突き刺さっている。
「まあ、可愛い」
翼を広げる気力もなく血溜まりの中に蹲るミミズクを、環希は嬉しそうに抱き上げた。
あの敗北は、彼の人生の中で最大の失敗だった。気力体力ともに衰弱していたとはいえ、人間ひとりに完璧に仕留められ、不平等な取り引きを承諾させられた。まんまと罠に嵌められたようなものである。
重傷を負ったエリアスを介抱しつつ、巧みに懐柔したのは環希の手柄だ。あの女も相当だが、とにかく最悪なのはこの男だ――急須に湯を注ぐ九十九里を、エリアスは睨んだ。肉と骨を貫く痛みを思い出すと今でも不愉快になる。
あの時わずかでも九十九里に気負いがあれば隙を突けただろうに、彼は実に淡々と、それこそ壁に釘でも打つようにエリアスを貼り付けにした。この男、吸血鬼に対しておそらく何の感情も持っていない。
罪人を追って『こちら側』に出入りを繰り返してきたエリアスは、昔から二つの種族の関わりを見てきた。人間が吸血鬼に対して抱く感情は様々だ。憎悪、恐怖、嫌悪、侮蔑……例は少ないが反対に尊敬や羨望の念を持つ者もいる。
だが九十九里はどれとも無縁だった。決して情緒のない男ではないが、彼にしてみれば害獣駆除もデスクワークも同じなのだろう。だから高揚も躊躇も殺気もない。時折、こんな人間がいる。
剥き出しの敵意を隠そうともしないもう一人の捕獲員とは好対照だった。あっちはあっちで面倒なのだが、こいつよりは遥かに扱いやすい、とエリアスは苦々しく思っていた。
「蓮村さんの傷を弄るのはやめた方がいい」
九十九里は緑茶の入った湯飲みをエリアスの前に置いた。自分も湯飲みを傾けながら、
「負の感情を媒体に依存し合うようになると、お互い不幸だよ。特に君たちの関係は、隠し事ができないだけに厄介だ。本心を暴くことと相手を理解することは、必ずしもイコールじゃない」
「言われなくても分かってる。そこまであの女に興味はない」
エリアスはふうっと湯気を吹き散らしてから茶を飲んだ。投げ遣りな口調はわざとである。
それを見抜いたのかどうか、九十九里は湯飲みを持ったまま、事件の資料を手に取った。数ページのコピー用紙は、シュレッダーに放り込まれるとあっという間に裁断された。
「僕としても、彼女には長くここで働いてほしいと思ってるからね。君の手綱を握れる人間がいるのはとても助かる」
「おまえの仕事がひとつ減るもんな」
皮肉めいた言い草になるのは無理もなかった。捕獲作業中、日下とエリアスがメインで働いている間、サポート役の九十九里はエリアスを監視している。
彼のUVIは、捕獲対象ではなく、常にエリアスを狙っているのだった。協力関係にあっても所詮は別種族、端から信用などしていないのだろう。エリアスが暴走すれば、容赦なく引き金を引く。
ライトグリーンと黒色、二つの視線が湯気を挟んで絡み合った。表面上とても穏やかに、奥底に冷ややかな牽制を隠して。
示し合わせたようなタイミングで、二人は同時に茶を啜った。
「さて、じゃあ僕は帰るから、出かけるのならもう出てくれ。窓の鍵を閉めておく」
九十九里はデスクの上を片付けて、パソコンをシャットダウンした。
「明日はよろしく頼むよ、被害者宅への訪問」
「承知した。ああ、九十九里、言っておくが――」
エリアスは役員室へ向かいかけて、振り返った。九十九里は上着に袖を通しながら顔を上げる。
「以前のようなヘマは二度としない。万全の体調なら、胸に穴を開けられるのはおまえの方だ」
笑みを浮かべた唇の端から、白い犬歯が覗く。
九十九里もまた微笑んで、上着の襟を整えた。
「万全の状態の君に喧嘩を売るほど、僕は無謀じゃない。その時は、まず君にハンデを負わせる手段を考えるよ」
窓の外は初夏の夜である。地上の灯りに照らされた都会の空は、水で薄めた墨の色をしていた。ベランダに出たエリアスは嗅ぎ慣れた街の臭いを楽しんだ。
今のところ彼の胸は穏やかだ。『厄災の声』が悪い夢を見ずに眠っている証拠なのだろう。だが、時折襲ってくるあの不快な波を根治するには、原因を取り去るしかない。
エリアスはほぼ心を固めていた。背中に感じる無機質な視線は無視することに決めた。
彼は一瞬でその姿を黒い夜の鳥に変えると、薄闇に沈む世界へと身を躍らせた。
第三夜『タワー』へ続く




