一
彼の気配は気取られないはずだった。
事実、たいていの人間ならば、真後ろに立たれても気づかない。彼の息が首筋にかかり、冷たい両手で肩を掴まれるまで、自分に迫った危険を察知できないのだ。
もちろん、本気で襲う気はなかった。ちょっと驚かせてやるつもりだった、はずなのに。
「今日は夜の散歩に出ないのかい?」
九十九里はデスクに向かったまま振り向きもせずに言う。今まさに背中を叩いてやろうと腕を伸ばしていた彼――エリアスは、逆に驚かされた。
「後で行く。俺の取り分を貰ってから」
行き場を失った手で自分の首筋を撫でながら、エリアスはデスクの脇を通り過ぎた。さり気ない仕草だったが、かなり悔しがっている。足音や空気の流れではなく、役員室のドアが軋んだせいだと胸の内で呟いた。
深夜と言っていい時刻、SCのオフィスに残っているのはエリアスと九十九里だけだった。エリアスの方は役員室に住みついているわけだが、九十九里の方は他の人間が帰った後も何やら調べ物をしている。パソコンを立ち上げたまま、紙の資料を捲っていた。
エリアスはそちらを気にしつつも、キッチンの小さな冷蔵庫に歩み寄った。中には彼の言う『取り分』が仕舞われている。ラップが掛けられた豆大福――昼間、環希が買ってきたものだった。ミミズクの体では食べることができず、人型に戻れる夜を楽しみにしていた。
「……硬くなってる」
一口齧ってから彼がそう呟くと、九十九里はようやく回転椅子ごと振り返った。線の細い柔和な顔が、疲労で少し陰っていた。眉間を揉み解しながら、
「半日経ってるからね。お茶でも入れる?」
「いい」
若干乾いた餅の表面を恨めしげに眺めて、それでもエリアスは最後まで平らげた。
頻繁に変身を繰り返す彼は、実はその度にかなりのエネルギーを消耗している。効率よくカロリーを摂取するには甘い物が最適だと、彼は『こちら側』に来てすぐに理解した。そのため、夜間にはよく菓子の類を口にしている。
粉のついた指先を舐めつつ、エリアスは九十九里のデスクに近づいた。
「何を読んでる?」
九十九里は特段隠す素振りもなく、椅子を移動させて場所を空けた。広げられた資料は新聞記事をプリントアウトしたもの。パソコンに表示されているのもニュースサイトだった。
覗き込んだエリアスの眉根がわずかに寄った。
新聞記事、週刊誌記事、まとめサイトやネット掲示板の画面コピーまで、資料はすべてある事件に関する記録だった。八年前の殺人事件――閑静な夜間の住宅街で突如起きた凄惨な事件である。
会社経営者夫婦とその小学生の長男が、自宅に押し入ってきた男に刺殺された。子供まで殺害した残忍な容疑者は、犯行現場で自殺体になって発見された。しかも帰宅した長女がそれを見つけてしまうという救いのなさである。悲惨すぎる顛末は世間に衝撃を与え、当時は連日その続報がテレビや紙面を賑わした。
事件そのものは被疑者死亡をもって終了したのだが、犯人と被害者の間に雇用上のトラブルがあったことが報道されると、別の形で長く尾を引いた。パワハラや不当解雇など真偽が定かでない情報まで流れ、世間の人々は半ば興味本位で一つの家族の不幸を消費し尽くしたのだった。
「調べたのか」
エリアスは数枚のコピー用紙に目を通した後、それを投げ捨てるようにデスクに戻した。鋭くなったライトグリーンの眼差しの先で、九十九里は冷めたコーヒーを飲んでいる。
「被害者の名字は蓮村さんだったね」
「よく気づいたな」
「彼女の履歴書、緊急連絡先がご両親じゃなくて叔母さんになっていたから、ちょっと気になってたんだ……気の毒に、生き残った娘さんの実名を晒してるサイトがあったよ。この事件、君が『厄災の声』に捕まったのと同時期だ」
「そういうの、おまえらの言葉で、プライバシーの侵害ってやつじゃないのか?」
「ここにあるのはすでに公になってる情報だよ」
九十九里はカップを置いて、椅子に座ったままエリアスを見据えた。威圧の気配は微塵もない。にも拘わらず、エリアスは非常に不快な何かを感じた。胃がぐっと押し下げられるような、それは感情ではなく身体反応だった。
「もちろん君は知ってたよね?」
「俺と遭遇した直後の出来事だ」
エリアスは腕を組んで息をついた。基本的に彼は嘘を言わない。その代わり、不都合な事柄についてはひたすら沈黙を守るのだった。
「で? それが何か問題なのか?」
やや苛立った問いかけに、九十九里も溜息をついた。
「さあ……ただ、蓮村さんに付け込まれる傷があるのは危険だと思うよ」
「付け込まれるって、誰に?」
「うん、一人しかいないよね。君は彼女を気に入っているようだし、彼女も君に気を許している」
もっと殺伐とした関係になると思ったけど意外だった、と彼は苦笑する。
あの『厄災の声』の持ち主のことを気に入っているかどうか、正直なところエリアスは自分でもよく分からなかった。今のところ協力しているのは無理やり結ばされた約束のためだが、反故にできたとしても躊躇なく殺すことはできないような気がする。
家族を失った――それがどれほど傷になるのか、これもエリアスには実感できない。吸血鬼の優劣は遺伝で受け継がれるものではないので、彼らは生まれてすぐに各々の能力に応じた階層に組み込まれ、その社会で育成される。ゆえに、肉親の情はないも同然だった。エリアスにも親と呼べる存在はいるが、単に自分を生み出した個体という認識しかなく、生死さえ気にしてはいなかった。
ただ、自分たちとは違う、彼女の慟哭は身をもって知っている。八年間で体に染み渡った嘆き、憎しみ、孤独、後悔――その主と直接出会ってしまって、エリアスは以前のように冷淡に割り切れなくなっていた。情が移った、というのがいちばん近い。
だから再会したあの夜、助けを求める声に応じて変身が解除されたあの時、さっさと殺しておけばよかったのだ――今さらながら彼は口惜しく思う。
エリアスの複雑な胸中を見透かしたのか、九十九里は少し身を乗り出した。
「君が感応しているのは、蓮村さん本人というより、彼女が抱えた闇なんだろうね。八年も繋がっていれば、自分と相手の境目が分からなくなる?」
「勝手な憶測はやめろ。人間の感情など理解不能で気色悪いだけだ。さっさとここから追い出したい」
エリアスは自分の胸に手を添える。感情を処理しているのは脳だと分かっていても、重く痛むのは心臓である。
あの日『厄災の声』に囚われるまで、彼のそこは明るく乾いていた。自分の成すべきことと存在理由が明確で、一分の迷いもなかった。
それがあの面倒な女のせいで――無遠慮に流れ込んできたものは濁った泥水に似ていた。いつまでもしつこく渦を巻き、完璧であったはずの彼の内側を侵食する。今や胸の中に黴さえ生えているような気がして、エリアスは我知らず顔を顰めた。
九十九里は手元に視線を落とす。エリアスが投げ捨てた資料の中には、当時の蓮村家の交友関係から経済状態まで書き立てた記事もあった。少し検索すると次々に現れる情報は、決して消えない亡霊のようなものだ。
「……中学生の女の子によく耐えられたと思うよ。どれほどの精神的ダメージだっただろうね」
彼はやるせなげに呟いた。
「あの時、君が消耗していたのも納得できるよ」
「おかげでおまえに殺されかけた」
エリアスは底冷えのする声で答える。翡翠に似た瞳に、一瞬だけ血の色が浮かんだ。
「やっぱりお茶を入れようか」
かつて辣腕の駆除人だった男は、それを春風のような笑顔で受け流した。




