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羊飼いのセレネイド ~狼と狩人は闇夜に踊る~  作者: 橘 塔子
第三夜 箱の中身と誘惑者
24/73

エンゲージメント

 最悪のファースト・エンカウントではあったけど、考えてみれば私はエリアスのおかげで命を救われたのだ。

 そう解釈できるようになったのはここ最近だった。それまで八年間ずっと、私はあの夜自分を襲った吸血鬼を恨んでいた。あれにさえ出会わなければ、私は真っ直ぐ家に帰れて結果は変わっていたのに、と。


 でも、違う。それはエリアスのせいじゃない。


 あの夜、公園で辛くも吸血鬼を撃退した私は警察官に保護された。通りすがりの人が通報してくれたらしい。とりあえず最寄りの交番へ連れて行かれ、事情を訊かれた。おまわりさんたちはずいぶん優しく接してくれたけれど、中学生の私はショックでずっと泣きじゃくっていた。

 吸血鬼に襲われたけれど噛まれてはいない、そいつはまだ付近を徘徊しているかもしれない――これだけ伝えるのに三十分もかかった。よく喋ってくれたね、怖かったね、と担当の警察官が言ってくれたので少しほっとした。聴取が終わると、親に迎えに来てもらうため、家に電話をしてくれた。


 しかし――自宅の固定電話には誰も出なかった。

 私は自分の携帯から母の携帯にかけてみたが、延々と呼び出し音が鳴るばかり。二時間前まで早く帰ってこいとメールが送られていたのに。続いて父の携帯を呼び出すも、やはり出ない。

 しばらく待っても繋がらないので、私はパトカーで送ってもらえることになった。後で考えれば幸運だったのかもしれない。あれをひとりで見つけるなんて、私には耐えられなかっただろうから。


 家にはいつも通り電気が点いていて、何も変わったところはなかった。ただ、玄関ドアの鍵が掛かっていないことを、私は少し訝しく思った。


 ただいま、と声をかけながらドアを開けると、玄関ホールに弟と母が倒れていた。


 あまりに唐突な光景に脳が追い付かなくて、リアクションに困った。解釈ができない。

 二人ともこっちに足を向けた俯せで、体を丸めた弟の上に母が覆い被さるような姿勢だった。ずれた玄関マットの上に上半身が乗っていたのだが、そのマットは変な色をしている。あれ、うちの玄関マットってあんな赤黒かったっけ――私はぼんやりと考える。

 お母さん、麻人あさと、と呼びかけたが返答はなかった。近寄って体に触れてもぴくりともしなかった。ベージュ色の玄関マットは赤い液体を吸い込んでいて、それは床の上にも広がっていた。

 お母さん、麻人――私は二人を揺さぶった。力を失った体はごろりと横向けに転がり、生臭い臭いが立ち上った。母のエプロンも弟のトレーナーもマットと同じ色だった。二人とも固く瞼を瞑り唇を歪め、苦しげな表情を刻んでいた。


 私を送り届けてくれた警察官二人が、異変に気づいて入ってきた。君はここにいなさい――彼らの制止を無視して、私は家の中に上がった。玄関から廊下へ、赤い染みが点々と続いていた。

 悪い冗談に付き合っている気分で、私は奥へ進んだ。みんなで悪戯を仕掛けてるんでしょ、分かってるんだから、とぶつぶつ呟きながら。


 リビングのドアは開きっぱなしだった。ズボンを穿いた二本の脚が廊下にはみ出している。

 仰向けに倒れていたのは父だった。左手で胸を押さえた格好で、着ているシャツとカーディガンはやっぱり真っ赤に染まっている。薄目を開けたまま固まった表情は別人のように見えた。


 蓮村はすむらさん駄目だ、という警察官の声を遠くに聞きながら、私は視線を上げた。奥のダイニングテーブルにはバースデイケーキが見えた。麻人の大好物の海老フライも山盛りになっている。でも手を付けられた気配はない。私の帰りを待っていてくれたのだ。

 それで、あの人は誰だろう――私はぼんやりとテーブルの端を眺める。

 父の席には知らない男の人が座っていた。背凭れにだらしなく凭れ掛かり、上を向いてぽかりと口を開けた様子は、電車で眠り込んでるオジサンそっくり。ただし口元から喉にかけて赤く汚れ、垂れ下がった腕の下にも赤い水溜りができていた。椅子の下には、何だろう、包丁かナイフみたいなものが転がっている。


 意味が分からなかった。うちの家が、私の家族がなぜこうなっているのか、理解できなかった。

 足先に不快な湿り気を覚えて、私は足の裏を見る。白いソックスは赤く濡れて、振り返ると廊下に私の足跡がべたべたと残っていた。

 どこかで悲鳴が聞こえる。耳を塞ぎたくなるような金切り声。叫んでいる人間の喉は破れて血が流れているに違いない。

 それが自分の声だと気づく前に、私はその場にへたり込んだ。





「何で……助けたの……?」


 腹から込み上げてくる痛みに耐えながら、私は掠れる声で尋ねた。まるで泣き喚いた後のように喉がヒリヒリしている。もしかしたら悲鳴を上げてしまったのだろうか。


「私が死んだらあんたは解放されるんでしょ? その気になればすぐに殺せるくせに、何で……?」

「少し黙ってろ。本当に死にたいのか」


 エリアスは珍しく苦しげに言った。彼の右腕は私の胴に巻きついている。空中で荷物みたいに横抱きにされて、体重全部が胃の辺りにかかり、こちらも苦しいことこの上ない。でもここで暴れたら地面に叩きつけられてしまう。

 私が滑り落ちた瞬間、エリアスは私の体を掴んで一緒に飛び降りた。そして途中の鉄骨に手を伸ばして墜落を防いだのである。人間にはとても不可能な俊敏さと身のこなしだ。

 しかし彼にとっても際どいタイミングだったらしく、左手の指先が辛うじて鉄骨に掛かっている状態だった。


 体勢が落ち着くのを待って、エリアスは足場を探り、私の体重などまったく感じさせない滑らかな動きで鉄骨によじ登った。やや乱暴に引き上げられた私は、どうにか水平の鉄骨に体を乗せることができた。

 さっきよりたぶん五メートルほど下の位置。足元には十五メートルの深さの闇がある。私は見下ろしてゾッとした。エリアスがいなければ死ぬところだった。いや、こんな目に遭ったのはそもそもエリアスのせいなんだけども。


 何で助けたのだろうか――絶好のチャンスだったはずなのに。


「とりあえずそれを仕舞え。視界に入るだけで吐きそうだ」


 エリアスは明後日の方向を向いたまま言った。私は胸元にぶら下がった御守りを服の中に隠す。彼にはもう、目障りな相手を排除しに行くだけの気力は残っていなさそうだった。


「私が生きていてあんたが得することなんて一個もないでしょ。どうして助けたの?」


 私は弾む呼吸を整えながら、さっきの問いを繰り返した。エリアスは切れ長の目でじろりと私を見る。怒っているのではなく呆れているようだ。瞳の色は赤から緑に戻っていた。


「おまえ……自分で言い出した約束だろうが」

「え?」

「呪いを解除する方法が見つかるまで協力すると約束した」


 何と答えを返せばいいのか、とっさに思いつかなかった。

 確かにあの夜あの焼肉屋で、半ば強迫するようにエリアスに約束させた。でもそれは『厄災の声』の優位性があってこその強制で、隙あらば反故にしようと狙っているのだと思っていた。


「俺は……きぬ、俺たちはな、履行できない約束はしない。妥協の産物の歩み寄りだとしても、いったん交わした約束は必ず守る。それは当然のことだ」


 なのにおまえは疑うのか、おまえの言葉はそんなに軽いのか――言外に責められている気がして、私は素直に反省した。そうだ、手を結ぼうと持ちかけたのは私の方。エリアスは愚直と言えるほど誠実に、それを守っている。

 エリアスにとっては私の猜疑こそが理解不能だっただろう。怪訝そうに眉根を寄せる彼の表情には、他意はなさそうだった。倫理や道徳の通用しない野生動物――九十九里つくもりさんの比喩は的確だが、動物は動物なりに鉄のマイルールを持っているのかもしれない。

 私は頭を下げた。


「疑ってごめんなさい。助けてくれてありがとう」

「……まあな、俺も本心では殺した方が手っ取り早いと思ってる。それを堪えて協力してるんだから、おまえと同じだな。うん、だいたい理解できた」


 とんでもない失言を、実にあっけらかんと吐いてくれる。やっぱこいつは信用できない。じりじりと距離を取る私の隣で、彼は足を組んで大きく息を吐いた。


「おまえの感情だ、おまえが何とかしろ。ひとりで抱えるのが重いのなら、他の奴にも撒き散らしてやれ。でないと俺が迷惑するんだ」

「余計なお世話よ。えっらそうに」

「言っておくが、言葉にしないと伝わらないぞ、俺以外には。あの――馬鹿にも」


 エリアスは下方へ顎をしゃくった。うっすらと街灯に照らされた道路、そこを見慣れた白いミニバンが走って来ていた。

 結構なスピードを出していたその車は敷地のフェンスぎりぎりに横付けされ、エンジンをかけたままの状態でドアが開いた。

 私は身を乗り出し、降りてきた人物を確認する。長袖のTシャツにホルスターを吊るした姿は日下くさかくんだ。エリアスは苦笑した。


「よくここが分かったな」

「私が教えた」


 私はパーカーのポケットからスマホを出した。

 つい最近、私は九十九里さんに言われてあるアプリをインストールした。捕獲作業中の不測事態に備えて、SCのスタッフは全員導入しているアプリだ。起動すればお互いの位置がスマホで分かる。これも立派な不測の事態だと判断して、部屋を出る時にGPS機能をオンにし、「エリーに拉致られた」とメッセージを送っておいたのだ。


 やって来たのは日下くん一人のようだ。何だ、九十九里さん来ないのか……と密かに落胆したことを日下くんに知られたら、たぶん彼めちゃくちゃ怒る。


「おーい、こっちだ」


 暗視ゴーグルを装着してキョロキョロする日下くんに、エリアスはからかうような声をかけた。日下くんは鉄塔を見上げ、即、フェンスに足を掛けた。二メートルはある防護フェンスだったが、彼はあっという間に上り切って、敷地の中に飛び降りた。


「エリアス! てめーこら下りて来い!」


 彼はホルスターからUVIを抜いた。照射孔でエリアスを捕えながら怒鳴る。


「焼き殺すぞ、この性悪ミミズク!」

「甘いよなあ、あいつ。獲物を本気で仕留める気なら、威嚇する前に撃てばいいんだよ」

「エリアスは獲物じゃなくて同僚でしょ――日下くん! 声大きいよっ……深夜だから!」


 私は唇に人差指を当ててたしなめた。日下くんは一瞬ぽかんと口を開け、それからこっちを指差して何事か毒づいた。さらわれた奴が何でそんな暢気のんきなんだよ、とか何とか……一応声のボリュームは落としたが、ゴーグル越しの尖った視線が痛い。

 メッセージを発信してから三十分と経過していない。オフィスからここまでの距離を考えると、日下くん、すぐに飛んで来てくれたのだ。そりゃまあ怒るだろうな。

 エリアスは余裕たっぷりで立ち上がり、私をひょいと抱き上げた。


「ちょっとっ……」

「肩に担がれたいか? 舌噛むなよ」


 そう言うや否や、この自己完結型の吸血鬼は、何のためらいもなしに飛び降りやがったのだ。

 水平の鉄骨を何度か足場にしただけで、彼はすんなりと地面に辿り着いたのだが、私は不覚にもずっと悲鳴を上げていた。

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