レオンのためらい
間が空いてしまったので登場人物紹介 「マッコイ・ショーテルズ」ジパレイズの第一ステージである南海の孤島に一人で暮らす初老の男性。戦時中に島に流れ付き、終戦を知らぬままで生きている。2年前に愛犬のシロを亡くしている。
☆☆☆
それはゴシップ週刊誌の小さな記事だった。
『怪奇? 呪いの石ヶ丘の謎。 東京のとある住宅街、一見すると普通の中流家庭が集まる何の変哲もない町に見える。しかしここでは今、異常とも言える事態が進行中である。全体が一つの丘の様になっているこの町では、数年前より急激に人口が減り続けているのだ。回りの地域では特にその様な変化はなく、むしろ緩やかではあるが住人の数は増え続けている。にも関わらず、この石ヶ丘では不自然かつ局所的に人口が減り続け、今ではまるでゴーストタウンの様相を呈している。
筆者は実際に石ヶ丘を歩いて来たのだが、なんとも言えぬ不気味な場所である。人の気配はおろか物音一つなく、通り過ぎる家には人が住んでいる様子が全くないのだ。決定的だったのは持参した地図と(市販されている最新版の地図である)実物の町が明らかに異なっているという紛れも無い事実だ。地図にはない道があり、あるはずの公道がなくなっている。突然の豪雨に襲われその日の取材は断念したが、後日大規模な調査を実施する予定である。
さて取材を続けていくうちに一人の人物が浮上した。ここでは仮にK氏としよう。
そのK氏は、どうやらこの石ヶ丘町の土地を買い漁り、更地にしているようなのだ。K氏の陰謀は着々と進んでいる様で、巧妙に偽装されてはいるが筆者の見た所、すでに石ヶ丘の半分以上はK氏の手に落ちていると推測される。近隣の不動産屋を隈なく回ってみたが、誰もが固く口を閉ざし、目の前でシャッターを閉める不届き者さえいた。そんな取材の最中に唯一聞こえてきた言葉が「呪いの石ヶ丘」である。取材拒否の不動産屋の一人が、あそこの土地は呪われているから関わらない方が身の為だよと、こっそり耳打ちしたのだった。
しかし筆者は疑問に思う。果たして本当に都市伝説的な呪いなのであろうかと。いや違うはずだ。
かつてバブル時代には悪質な地上げと土地の買占めが横行していた。
この石ヶ丘からはその時と同じ巨大な利権の匂いがプンプンしているのだ。恐らく、確信に近い推測ではあるが、たぶん呪いの石ヶ丘というのは何らかの計画を進行中の組織か団体のいずれかが、隠れ蓑とする為に積極的に流したデマなのだろうと予測している。
筆者は追及の手を緩めるつもりはない』
パソコンに取り込んだ記事を読み返しながら、オレは心の中で溜息を付いた。何か手を打った方がいいのだろうか。金の管理を任せている魚肉の老人にでも相談してみるか。
そんな事を考えていると、ジャージ姿の竹美があくびをしながらリビングにやって来た。
ちょっと前に竹美はアパートの二階に引っ越してきたのだが、何もやる事がないのか休みの日も寝巻き姿のまま頻繁に顔を見せるようになっていた。竹美は少し看護師さんと真面目に話してから、モニターに写っている記事を覗き込み、ニヤリと笑った。
「おはようK氏」
「おはよう暇な人」
「あら、気を悪くしたかしら? じゃあ呼び直すわね。おはよう……パパァ」
「……ハッハッハッ、覚えとけよ」
竹美の奴、人の気も知らんでからかうとは。
いや、知っているからこそ雰囲気が暗くならない様にふざけてくれているのか。
オレは、すやすやと眠り続けるユキの神々しいまでの美しさを眺めた。
仮に赤ん坊が無事に生まれたとしても、パパもママも新しい命を抱き上げてやることは出来ないのだ。
あっちのレオンは元気に動くことが出来て、当たり前のようにユキを抱き締めることが出来るのに。なんだか不公平じゃないかと少しだけ思った。そう思った瞬間に、服の下の心臓がまるで釣り針に引っかかった魚の様にブルンと震え、差し込むような痛みを感じた。
――――――――――――――――
マッコイ・ショーテルズの釣竿はそのすべてがお手製だ。
鳥の骨を使った針に、植物の繊維を使った糸。
オレが入り江に垂らした木製の釣竿を引っ張り上げようとすると、マッコイさんが静かに肩を叩く。
「レオン殿、まだです」
「……」
「まだです」
「……」
「今!」
釣竿を持ち上げると、虹色の魚が見事に食いついている。
手に伝わる心地の良い反動を楽しみつつ獲物を引き寄せると、マッコイさんが素早く魚を捕まえて切れ味鋭いショーテルで内臓を刳り貫いた。海水で手早く洗い、やはりお手製の草籠にひょいと投げ入れた。伊達にロビンソン・クルーソーを何十年もやってはいないマッコイさんは、釣りも狩りも達人の域だ。
再び釣り針を投げ入れようとするオレを、マッコイさんが手で制して向こうに顎をしゃくった。
四十メートルほど先の岩場に丸々と太った海鳥が止まり、無防備に羽を伸ばしている。
マッコイさんから渡されたパチンコに石を挟み狙いを付ける。焼き鳥、蒸し鶏、から揚げも捨てがたい。マッコイさんが野球のアンパイアの様に後ろに立ち、オレの構えと狙いを微修正する。ぎりぎりとゴムを引き絞り発射すると、これまた見事に石が直撃した。
「やった!」
「お見事です」
マッコイさんは身軽に岩場に登り、まだ息のある海鳥の首をくいっと捻った。こちらに戻ってくるついでに岩に貼り付いた巻貝をショーテルでいくつかこそげ落とす。
「もう十分ですな、昼飯にしますか」
「うん、今日はまたバーベキューがいいなあ」
「そう仰ると思って、炭の準備をして置きました」
マッコイさんは穏やかに笑いながらそう言った。初めて会ったときはゾンビの様であったマッコイ・ショーテルズはすっかり様変わりをしていた。白髪の混じった髪の毛を軍人風にきっちりと刈り上げて、毎朝しっかりと髭を剃り、新調した布の服はアイロンをかけたかの様に皺一つない。
獲物を抱えて住居のある洞窟に向かって歩きながら、マッコイさんはあちこちに仕掛けた罠をオレに説明しながら、獲物がかかっていれば素早く回収した。途中で少し回り道をして非常に見晴らしの良い峠まで来ると、マッコイさんは立ち止まった。
「レオン殿、この峠は島を防衛する上での最重要地点でしてな。ここからならば島全体の八割方は目視できます」
「……なるほど」
「さらに東側から西側に移動する為には、必ずこの峠を通らなければなりません。ここさえ抑えておけばたとえ敵兵に上陸を許しても、主導権はこちら側にあるのです。私はこの地点をポイント・シロと呼んでおります。シロと出会ったのがこの近くだったものでしてな」
シロというのはマッコイさんの長い間の相棒で二年前に死んでしまった犬型モンスターである。
マッコイさんは枝を拾い上げて、近くの草原に向けて放り投げた。着地と同時に、木製のトラバサミが枝を真っ二つに噛み砕いた。このポイント・シロはそこらじゅうがトラップと塹壕だらけなのだと言う。
オレはマッコイさんの背中にぴったりと体を張り付かせた。
なにせマッコイさんが仕掛けた数十年分の罠が敵軍の上陸を今か今かと待ち構えているのだ。正しい道を一歩踏み外せば、吊り橋から足を踏み外したも同然だ。『木を植えた男』は何十年も木を植え続けて森を作ったが、マッコイさんは罠を埋め続け地下壕を掘り続け、峠全体を要塞化していたのだ。ネットゲームのレベル上げなど比較にもならない、気の遠くなるような時間と労力をかけて独力で作り上げたのだ。
戦争はとっくに終わっているのでそれは全部無駄でしたよー、と一体誰が言えようか。
もしも今日の朝に戻れるのならば、自分に言ってやりたい。
言いづらい事を言うのを先延ばしにしていると、どんどん言いづらくなるぞと。
マッコイさんはまるで事務報告でもするような淡々とした口調で、峠の地下通路の位置や大規模な罠の場所を説明していった。出来るだけ真剣に聞いてやるのが、このタフで勇敢な男と関わった者の義務であると思い、オレはじっと耳を傾けた。しかし耳を傾ければ傾けるほど、言いづらさは増していく。
マッコイさんの瞳からは何の感情も窺い知れない。
峠から引き返す途中には、竹林の横を通った。
「レオン殿、ちょうどこの位置から竹林に入り、真っ直ぐ200歩ほど行った場所に非常用の食料と予備の武器が隠してあります。他にもいくつかそういう場所があるので通った時にお教えしましょう」
「なあマッコイさん」
「なんですかな」
「オレ……言わなくちゃならない事があるんだけどさ」
「聞きましょう」
「実は…………飛行機のことなんだけど、やっぱり二人乗りは難しそうなんだ」
オレはどうしても戦争は終わったとは言い出せず、咄嗟に別のことを言った。
「脱出用の人力飛行機のことですな。やはり私もそう思っておりました。構いません、レオン殿が思う様にやってくだされば」
「うん、ジパレイズの本土に行ったら、どんな手を使ってでも迎えの船を連れて来るからさ」
まるで告白出来ない中学生の様にマッコイさんの背中に熱い視線を注いでいると、あっという間に住処のある洞穴に辿り着いてしまった。修復された柵の中でのんびりと草を食んでいたヤギ系動物が、切れ長の目をじれったそうに細めてオレを見つめた。
以前は放置されていた畑には、オレがあげたガロモロコシがすくすくと育っている。
マッコイさんは炭に火を付けてから、さっき取ったばかりの新鮮な肉や魚をショーテルの刃で手早く捌き始めた。Cの字に歪曲したショーテルは非常に切れ味が良く、テンポ良く食材を切り刻んでいく様はまるで大道芸のようだった。オレが見ていることに気が付くと、マッコイさんは片目を瞑ってからショーテルを指の上で回転させて、さらに放り投げたガロモロコシを八つに刻んでみせた。
「凄い、剣が手の一部のようだ」
「マッコイ・ショーテルズの技で眠れ、野菜たちよ」
オレは一瞬きょとんとしたが冗談だという事に気が付き、げらげらと笑った。この島に足繁く通っていたおかげで、ついにマッコイさんと軽口を叩き合う仲になったのだ。和やかな雰囲気にチャンスを感じたオレは、再び話を切り出す。
「あのさ、マッコイさん」
「なんですかな?」
「あの、えーと」
「ふむ? 言いづらいことですかな」
「……実は……その緑の野菜は少し苦手なんだよね」
「苦いですからなあ。ではやめましょう」
マッコイさんは串に刺しかけていた緑の野菜を戻し、代わりに貝の剥き身を串刺しにした。
真っ赤に焼けた炭を石で囲い、漂流物の鉄の網を被せる。そして肉、野菜、魚、貝が連なった串を所狭しと並べて焼いていった。溢れ出た肉汁がガロモロコシの黄色い粒粒をつたって炭に垂れ、じゅうじゅうとたまらない音を鳴らす。ランドセルの中で死んだ様に眠っていたアポロが目を覚まし、何のためらいもなく鉄の網の上に前足を乗せた。
「アポロ、まだ焼けてないからな。あと足を降ろせ、肉球が燃えちまうぞ」
アポロはオレの事をちらっと見てから、しぶしぶ片足だけを下ろした。マッコイさんが鮎にそっくりな魚に串を通し、海水から作った天然塩をパラパラとふりかけた。こちらは石の間に立てて遠火でじっくりと焼き、一匹だけはその場で食べて後はフラニー達のお土産に持たせて貰うのだ。
アポロはさすがに熱くなったのか右足を降ろして、代わりに左足を乗せた。
「おいアポロ、我慢して足を乗せたって別に優先権はないからな」
やがて肉と野菜の串焼きがこんがりと焼きあがった。年長者のマッコイさんが先に口をつけるのを待ってから、オレとアポロもがつがつと食べ始める。やはり自分で狩った獲物だと思うと、美味さが倍増するようだ。残さず食べてだいぶ幸せな気分になったオレは、食後に姿勢を正してマッコイさんの前に座った。
「マッコイさん」
「どうなされました? 正座などして」
「実はですね……」
「何か相談事ですか?」
「え?」
「どうぞ、仰って下さい」
「……はい。実は嫁が妊娠したのですが体が悪いものでして、どうすべきか悩んでいます」
「なるほど、それで今日は思い悩んだような顔をずっとなされていたのですな」
いえ、違います。
マッコイさんは自分も正座に座り直してからしばらく考え込んだ。そして思い出しながら、ゆっくりと話し始めた。
「私には昔、将来を約束した女性がおりました。しかし私は戦争に行くことになり、出征前の最後の夜にその女性とお互い初めての契りを結びました。偶然ですがその女性も病弱でありました」
「……」
「この島に流れ着いてしばらくして、あの夜、もしかしたら新しい命が生まれていたのではと考えるようになりました。そんな可能性は低いはずですが、そう思わずには居られませんでした。しかし、もしそうならば大切な時期に、私は彼女のそばに居てやる事が出来ない。私は夜空の星に向かってそのことを謝りました。むせび泣きながら何度も何度も謝りました」
オレは言葉が出ずに唾を飲み込み、話の続きを待った。
「彼女は花の様に美しい女性でしたが、子供が居れば私の帰りを待たざるを得ないだろうという歪んだ考えに、取り付かれていた時期もあります。彼女が他の男に抱かれている様を想像し、怒りと悔しさで拳が血だらけになるまで岩を殴りました。最初の五年ほどは島からの脱出だけを考えていましたが、3隻目の船が海の魔物に壊され、私も死にかけた時に脱出を諦めました。その頃からですかな、あの峠に地下要塞を築き始めたのは」
「ポイント・シロですね」
「ええ。この島を守ることは、妻と子が住んでいるジパレイズを守る事に繋がると私は信じました。一度だけ遠くに敵国の甲鉄艦が見えたことがあり、私はいよいよ要塞作りに励みました。家族を守っていると思うと不屈の力が湧き上がり、私は飽きることなく土を掘り返し、新式の罠を考案しました。……少し話が逸れてしまいましたな」
「いえ、聞かせて下さい」
「つまり私が言いたいのは、新しい命というのはそれだけの価値があるということです。一人の男を生かし、虚妄の大要塞を作らせてしまうほどに。レオン殿の奥方様のことは存じあげませんが、私はそう思います。当たり前のことですが、人間は一人ぼっちでは新しい命は作れんのです、ハッハッハッ」
マッコイさんは穏やかな笑い声を立てた。何度も何度も自死を考え、何度も何度も正気を失いかけて、それでも生き抜いた不屈の精神。人間は僅か一パーセントでも希望や可能性を感じられるのならば、簡単には死なないのだ。虚妄の大要塞と言ったマッコイさんは、おそらく戦争は終わっており、自分が忘れられた存在であることを内心では分っているのだろう。あの要塞は敵から島を守る為の物ではなくて、この隔絶された島から自分を守る為の物だったのだ。戦争が続いていると信じれば、自分の故国が滅んでいるとは思わずに済む。
考え込んでいるオレを見ていたマッコイさんが、頭を掻きながら話した。
「この島に来てから、恐らく30年近いでしょうな。途中までは数えていましたが、満月の数を刻んでいた木が倒れて朽ち果ててしまってからは数えなくなりました。わざわざ日にちを刻まなくても、同じぐらいの木が朽ち果てるのを待っていれば大体の年月は分りますからな。ここではそれで十分です。……あまり役に立つ話が出来ずに申し訳ない」
「いやマッコイさん、ありがとう。なんとなくだけど迷いが晴れた様な気がするよ」
オレは身を乗り出した。お互いの心の内を少しづつ曝け出し、より絆の強まった今ならば言いづらいことも言えそうだ。いや、マッコイさんの為にも今こそ言うべきだ。
「ねえマッコイさん、絶対にジパレイズに帰ろう。そしたらさ、一緒にその女性を探そうよ。子供に会えるかもしれないぜ。それにマッコイさんはきっと英雄扱いされるから、他の女性にもモテまくるぞ」
「はっはっはっ、それは楽しみですな」
「うん……でも知って置いて欲しいことがあるんだ。もうジパレイズの戦争は――――」
「しっ!」
マッコイさんが険しい顔で身を屈めた。オレは口を開けたまま硬直したが、すぐに遠くから聞こえる異常な音に気が付いた。これは何の音だ? 風の音ではない、まるで車のイグニッションを空回しさせたような連続音。これは。
「レオン殿! 死神ゼミです、早く洞穴の中に」
マッコイさんに腕を掴まれて、引き摺られる様にして洞窟に向かう。アポロを見るとそろそろ焼き上がりそうだった鮎の塩焼きを回収しようとしていた。
「アポロ! いいから急げ」
すでに不審な音は耐え切れないほどの騒音にまでなっている。洞穴の中に入り、城門並みに重い扉をマッコイさんと二人がかりで閉めにかかる。アポロが一匹だけ鮎を咥えてようやく洞穴に入った。扉が閉まる寸前に外の様子を覗うと、モンスターの姿がはっきり見えた。
「ミーンミーンミーンミーンミーンミーンミーン、シネシネシネシネ」
サンドバックほどの大きさの蝉がやたらとうるさく鳴いている。そしてふらふらしながら高速飛行でマッコイさんのヤギに接近し、何かですっぱりと首を切り落とした。そのままヤギの上に着地して、むさぼるように食べ始めた。前足二本が大きな鎌のようになっているのが名前の由来か。
「レオン殿、閉めますぞ」
オレが首を引っ込めると、扉がガチリと閉まった。マッコイさんはロウソクに火を灯し、額の汗を拭った。
「危ないところでした」
「今のは?」
「この島の生態系の頂点、死神蝉です。普段は土の中で眠っておりますが数年に一度目を覚まして、たらふく食べて飽きるまで殺し、また眠りに付きます」
「ヤギがやられちまったな」
「ええ、可愛そうなことをしました。さあレオン殿も座って下さい。死神蝉はここの扉は破れません。難破船の残骸から剥がした特殊装甲ですからな」
マッコイさんはそう言うとお茶を入れ始めた。
「レオン殿には申し訳ないが、あのセミが再び眠るまで一日半はかかります。退屈させてしまいますが、食料は十分にありますので」
話を聞いていたらしいアポロが、それならばと鮎の塩焼きを早速食べ始めた。マッコイさんは小さな木の塊を持ってきて、それをショーテルでじゃりじゃりと削り始めた。手持ち無沙汰になったオレはお茶をずずっと啜った。
「そういえばレオン殿の話を遮ってしまいましたな。何か言いかけておられたが」
「ええっとそれは。戦争です。実は戦争が――――」
「シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ」
扉の近くで死神蝉が鳴いているのか、不快な爆音が聞こえた。頭痛がするほどの大音量である。オレとマッコイさんは耳を塞ぎ、死神の大合唱が終わるのをじっと待った。
「失礼、もう一度よろしいですかな?」
「戦争がお――――」
「シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ」
「おわ――――」
「ミーンミーンミーンミーンミーンミーンミーンミーン、シネシネシネシネシネ」
「うるさいぞ、馬鹿ゼミが! 生きる!」
発狂したオレは金切り声で叫んだが、もちろんマッコイさんには何も聞こえなかった。扉を破れない腹いせなのか、そのまま死神蝉の精神攻撃は十分ほど続き、やっと少し離れた所に飛んで行き再び鳴き始めた。
「大丈夫ですかな、レオン殿」
「少し横にならせて頂きます」
マッコイさんは寝転がったオレに優しく毛皮をかけると、胡坐をかいてまた木を削り始めた。アポロはしばらくうろちょろした後で、オレのお腹の上で丸くなった。
少しの間うつらうつらしては、蝉の鳴き声で叩き起こされるというのを何度も繰り返す。アポロは騒音が全く気にならないのかすやすやと眠っている。羨ましい。眠るのを諦めて起き上がると、マッコイさんが削っていた木の塊に息を吹きかけて、おが屑を飛ばしていた。
器用なマッコイさんが作った木彫りの像は、日本の道端によくあるようなお地蔵さんにそっくりだった。小さなお地蔵さんである。マッコイさんは立ち上がり、相棒シロの毛皮が置いてある神棚の上に、お地蔵さんを置いて静かに祈った。
「……ねえ、マッコイさん?」
「実はあの死神蝉はシロの仇でしてな。二年前に草原の真ん中であの蝉とばったり遭遇して、運の悪い事に身を隠すタコ壺や塹壕がない場所でした。私とシロは逃げましたが、とても逃げ切れそうになかった。するとシロは身を翻して死神蝉に向かって行ったのです」
「……」
「私は待てと言いましたがシロは従いませんでした。私が戻ろうと振り返った時には、すでにシロは絶命しており、私はシロが食われている間に逃げ切ることが出来たのです。シロの奴がわしの命令を無視したのは、後にも先にもあの時だけでしたな」
オレは立ち上がってマッコイさんの横に並び、手を合わせた。
わりとオレの命令を無視しがちなアポロだが、オレの気配から戦いの時が来たことを察したのだろう。起き上がり、残忍な顔でニヤリと笑った。
「私も一緒に仇討ちをしたいですが、足手まといになることは明白ですな。どうか死なんでください」
マッコイさんはそう言うと、片目ぶんの隙間だけ残して特殊装甲の扉を閉めた。オレは準備運動をして、装備の点検をする。ユキから貰ったジーンズに、もう何着目か分らないハードレザーアーマー、星銀の爪とランドセルにぶら下げた投げ縄。アポロが鼻をくんくんさせながら、うろちょろし始める。
アポロがいつもうろついているのにはちゃんとした理由がある。足場の固さや隠れる場所の有無を再確認しているのだ。この場所には何度も来ているし昼飯の前にも確認していたはずだが、アポロにとってそれはもう過去の事なのだ。世界を制した古代ローマ軍が、二時間の休息の為にわざわざ砦並みの陣地を作った様に、抜け目の無い戦闘種族であるアポロはこの手の確認を絶対に欠かさない。
自分に都合の良い予想は決してせずに、一時間あれば落とし穴が出来ていると考えるのがアポロだ。
一通りチェックを終えたアポロは、放置されていた鮎の塩焼きを一つ咥えて戻って来た。すっかり焦げてかちかちになってしまった鮎を悲しげに眺めてから、もしかしたら中は柔らかいとでも思ったのか、ガブリと噛み付きすぐに吐き出した。
「……アポロ、死神蝉の鳴き声が近づいて来た。来るぞ」
「オォエ、オェェ」
アポロの背中をさすってやっていると、死神蝉が高速で接近してきた。大小四枚の羽をばたばたと上下に振っているが、あまり飛ぶのが得意ではないのか右に左に揺れている。上空から接近して前足の鎌を振るい、それをオレにかわされるとすぐに上昇した。鎌の一撃は見えないほどに速い。
死神ゼミは上空からの一撃離脱攻撃を数度繰り返した。今まで自分よりも強い敵と戦ったことがないらしく、自分の攻撃が当たらないことにかなり苛立っている様だ。徐々に攻撃が大振りになってきている。
五回目の鎌の振り下ろしを紙一重でかわしたオレは、両足に力を込めた。
セミが上空に逃げる前に跳躍して、腹に一撃を加えるのだ。
「ニャー!」
アポロの鋭い鳴き声を聞いたオレは、跳躍攻撃にストップをかけて顔を上げた。よく見ると死神ゼミが尾っぽを僅かに持ち上げている。次の瞬間、セミのお尻から消防車の放水並みの勢いで、謎の液体が発射された。
横っ飛びでかわしたが、全部はかわしきれずに飛沫を浴びてしまった。
ハードレザーアーマーが溶け始め、穴ぼこだらけのチーズの様になっていく。慌てて脱ぎ捨て、自分の体をペタペタと触って確認する。ユキのジーンズにも謎液体がかかったが、幸いなことに防具の耐久性の方が上のようだ。
「セミのしょんべんか。大切なジーンズに穴が開いたら許さんからな」
再び上空からセミの攻撃が始まるが、強力なしょんべん技を見せられたせいでなかなか反撃の糸口が見い出せない。オレが苦戦していると、様子を見ていたアポロが「ニャア」と鳴いた。オレは言われた通り洞穴の方まで一旦下がり、今度はアポロが戦い始めた。しかしアポロも、オレと同じように相手の攻撃をなんとか避けるばっかりで、攻撃のチャンスはないようだ。オレが加勢しようと踏み出すと、アポロがまるで待てと言わんばかりに「ニャ」と鳴いた。
死神ゼミは非常に不規則な動きで飛び回り、一瞬で距離を詰めて超高速で長い前足の大鎌を振ってくる。そしてすぐに離脱。攻撃、離脱、攻撃、離脱、攻撃。じっと見ているうちにだんだんと死神ゼミの鎌の動きが見えるようになって来た。なるほど、アポロはオレに見させていたのか。確かに速いが攻撃のリズムは単調だ。これならばパリィが取れるはずだ。
焦れた死神ゼミは、両方の鎌を大きく左右に開き、挟み込むように同時に繰り出した。アポロはそれを難なくかわすと、ひょこひょことこちらに戻って来た。恐らく今の挟み込み攻撃が敵の最後の手札だったのだろう。ここでバトンタッチだ。
再びセミと相対し、しばらくは回避に徹する。膝に刺すような痛みを感じてチラリと見ると、先ほど浴びた酸液がユキのジーンズをついに突破して穴を開けていた。オレは奥歯を噛み締めた。一刻も早く脱いで洗わなければならない。しかし何で洗えばいいのか、お酢から試すか。はやく、はやく、あの攻撃をしてこい、死神ゼミ。
鎌の攻撃が初めてオレの頬を捕らえ、切り傷を付けた。
ダメだ、落ち着け。防具がオレを守っているのであって、オレが防具を守っている訳じゃない。
再び集中して回避を続けていると、攻撃と離脱を繰り返していた死神ゼミがついに両方の鎌を左右に広げた。待ちに待った、やや大振りの強攻撃。
オレの胴体を挟み込むように左右の鎌が閉じられる。オレは膝を胸に抱えるように素早く跳躍して、敵の攻撃をかわした。かわすと同時に、両方の爪を敵と同じ様に左右からクロスさせて、足の下を通り抜けた大鎌を弾いて加速させてやった。
空中での爪パリィ、それも両腕で同時にだ。
さてどうなる。
まず死神ゼミは自分で自分のことをきつく抱きしめた。
もちろん手には大鎌が付いているので、ざっくりと体に突き刺さった。
しかしそこからは何も起こらずに死神ゼミは空中で0.5秒ほど完全に静止していた。
パリィで右側に弾いてやれば右に転ぶ、左に弾けば左に転ぶ、しかし同時に弾いてしまったらちょうどよく均等が取れてしまいパリィの転倒効果が発生しないのか。まるでバグのように空中で固まっているセミを見て、失敗したかなと思った。
風に吹かれた一枚の葉っぱが、ひらひらと飛んで来て、死神蝉の左側にぶつかった。
その瞬間、均等が崩れた。
暴走したコマのように死神蝉は地面を跳ねながら転げ周り、内臓をこぼしながらあちこちにぶつかり最後は岩肌にドカンとぶつかった。
しかし、死神蝉はすぐに立ち上がった。さすがは昆虫類の生命力と言うべきか。
羽が千切れてしまったのか足を使って動き始めた。
「マッコイさん! 止めを!」
すでに洞穴から出てきていたマッコイさんを促した。
死神ゼミは最後の力を振り絞って、マッコイさんに向かって突進した。マッコイさんはそれをひらりとかわし、Cの字のショーテルを仇の脳天に深々と突き刺した。
「レオン殿、アポロ殿、感謝いたす。お二人の助力を得て、マッコイ・ショーテルズ、シロの仇討ちを果たしたり」
オレとアポロは駆け寄って、マッコイさんの手を取り、肩を叩いた。するとメッセージが出ていることに気が付いた。
――――爪、ナックル系統の最終スキル『召喚パリィ』の予備条件をすべて達成しました。
「ただいま」
「おかえりなさい」
丘に帰ると、エリンばあさんとフラニーが突き合わせながらソファーで編み物をしていた。フラニーが編み棒を置いてトコトコとやって来た。
「おかえりなさい。どうでしたか? その晴れやかな顔を見ますと、マッコイさんに言えたようですわね」
「いや結局言えなかった」
「あら?」
「代わりに悩みを聞いてもらって、仇討ちを手伝ってきた。それより見てくれ」
エリンばあさんの肩を軽く抱いてから、水晶玉に触れて三人で覗き込んだ。
『スキル、召喚パリィ(待機状態) 固有性のあるモンスターを屈服させたあとにこのスキルを成功させると、使役獣として石版世界外に召喚します。
スキル解放条件
ブラッド・デビルモンキーを相手にパリィの成功。
イエロープラチナ以上の爪もしくはナックル武器の所持と装備。
召喚の受け入れ先に別記の条件を満たした神殿の建設。 』
☆☆☆
オレはパソコンに取り込んだ週刊誌の記事に目を通していた。
『続報、呪いの石ヶ丘に驚愕の新事実が。 前の記事の掲載以来、大きな反響を呼んでいる石ヶ丘問題。取材を進めていたところ、急展開があった。しかし、その前にお伝えしたい事がある。本記事の掲載にあたり、差し止めを求める非常に強い圧力が編集部にかかったのだ。一時は掲載を諦めた筆者であったが、辞表提出を条件に記事の掲載に成功した。よって以後の続報は筆者の個人ブログにてお知らせすることになるので、そちらの方も是非よろしく願いたい。
さて本題に入ろう。先月末より石ヶ丘にて何やら大規模な建設工事が始まっていたのだ。筆者は情報を追い求めたがどこもかしこもガードが堅く、確実に情報封鎖がなされていた。コネクションをフル動員し、粘り強く取材を続けた結果、ついに建設中の建物の設計図を入手した。
設計図を初めて見た時の戦慄は今も忘れることが出来ない。
それは明らかに何かの神を祭る神殿だった。しかし建物のデザインもやたらと目に付く石版風のシンボルも既存の宗教とはかけ離れた気味の悪いものであった。そう、呪いの石ヶ丘の実態は、噂すらも聞いたことのない新興宗教団体だったのだ。もちろん我が国では信教の自由は認められている。しかしその隠匿性や土地を丸ごと買占める資金力と組織力、恐らく信者以外の住人を追い出した排他性。これだけ揃えば、誰もが不気味さを感じるはずである。
しかし彼らは未だ説明はおろか、会う事さえ拒否し続けているのだ。
彼らが国法に則った宗教団体であるのならば、そうであると言えばいい。その時点で筆者は深く謝罪しよう。しかしそう言わない以上、筆者は公益の為にも追及の手を緩めるべきではないと確信している』
何度か記事を読み返していると、パンダ模様のパジャマを着た竹美が暇そうにやって来て、モニターを覗き込んだ。
「よ! 教祖さま!」
「……」
「よ! パッパ!」
「…………ああ、パパだ」
「あら、あらあらあら!」
竹美が感極まったようにオレを抱きしめた。そしてオレの手を掴み、隣で寝ているユキの手の上にそっと重ねた。
「じゃあ今夜はお祝いのパーティーね、準備するわ。飛行機野郎たちも呼んで構わないわよね? さあ忙しくなるわよ」
竹美はパンダ模様のパジャマをずり上げると、準備の為に駆け足で去って行った。
次回『辺境同盟初陣』です。よろしくお願い致します。




