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ジパレイズ上陸

 布団の中で湯たんぽの様に眠っているアポロを起こさぬ様に、そっと毛布から滑り出た。アポロの方はオレの方こそ巨大な湯たんぽだと思っていることは間違いない。手早く着替えてキッチンに向かう。

 気温が急激に下がり始めており、すっかり忘れていた冬の厳しさをたった一回の洗顔が思い出させた。今年はオレ達の丘にも雪が降るかもしれない。


 手早くお茶を飲んで外に出ると、すでにグリが頬っぺたを真っ赤にしながら剣の訓練に励んでおり、監視塔の上ではエリンばあさんが弓の手入れをしているようだ。オレも負けじと自作したサンドバックの前に立ち、攻撃強化の特訓を始める。

 大きく踏み込んで左をちょんと当て、体ごと右ストレートを叩き込む。そしてすぐに左右のどちらかに消える様に飛び跳ねる。その動きだけを愚直に何度も何度も繰り返す。仲間達がぞくぞくと起き始めた頃に、オレは両方の靴を脱いで素足になった。


 そしてサンドバックに蹴りと膝蹴りを、皮膚が破れ血が滲むのも構わず打ち続ける。それが一段落付くと今度はハービーに手伝ってもらい、投げや絞め技等のいわゆる組み打ちの訓練をする。

 パンチに拘らず色々な攻撃手段に挑戦してみようというのが、オレの新しい試みだった。特に絞め技は、組み付いてさえしまえば隻眼のハンデが大きく軽減される様な安心感があり、トレーニングにも一層熱が入った。敵の咽喉を掻き切るか心臓に穴を開けた後で、回復も逃走も許さずに絶命するまできっちりと締め上げるのだ。

 これから増えていきそうな人型タイプの敵に対して、かなり有効な手段になるはずだ。


 ハービーの巨体を相手にして、まだまだお遊戯レベルの寝技の練習を黙々と続けた。訓練を終えると、赤いポニーテールを汗で光らせたグランデュエリルがやって来た。


「レオン、最近やたらとハービーと仲がいいんだな」

「ああ、共通の敵が出来たからな」


 先日ハービー共々ケツを蹴り飛ばされた事を思い出して、笑いながらそう言った。すると驚いたことにグラはしゃがみ込んでオレの片足を持ち上げて、蹴りの練習で擦り切れた足の甲に塗り薬をたっぷりと擦り込んだ。逆の足にも同じことをした後で「朝飯を頼む。早くしないと私とエリンばあ様で作るからな。どうなっても知らないぞ」と言って屋敷に入っていった。

 フラニーがいないので、気を使ってオレの世話をしてくれているのか。

 ケツを蹴られた件は許してやろう。


 ハービーの体を布で拭いていると、グリが昨夜も夢の中で悪霊と戦っていたのか眠そうな顔でやって来た。


「レオンさん、おはようございます」

「おはよう、グリィフィス」


 グリの胸の辺りをじっと見つめるが、繋がりを示す青い糸は、やはり見えて来なかった。色々と試してみたのだが、どうもあの能力は現実側のオレだけが手に入れた力のようだ。代償を支払ったのはオレではなくて、向こうの相棒の方だったからなのだろう。

 ベッドで眠る相棒の事を思い出すと、自分であるはずなのに何故だか他人の様に思えてしまうことが最近たまにあった。


「レオンさん」

「うん」

「昨晩、帳簿を見直したのですが、完璧でした」

「そうか! フラニーが帰って来るのはたぶん明日ぐらいだから、凌ぎ切ったな」

「はい。もしまた誤差が見つかったら、次は蜂の王の祠に何を付け足そうか悩んでいましたが、その心配もなくなりました」


 実はちょっとした誤差が判明する度に、馬で蜂の王の祠までひとっ走りして、灯篭もどきやガラガラ鳴る鈴等を付け足していたのだ。誤差が出ても修正が容易に出来る事が分かってしまうとやはり気が緩み、増築する場所に困るほどに、王の祠は日々豪華になっていたのだ。


「グリの素晴らしいアイデアと行動力のおかげでなんとか上手くいったな。オレ1人ではとても無理だった。いや、実質的にオレは何もしていない様なものだ」

「えーと、はい……ありがとうございます」


 グリィフィスは良心の呵責と戦いながらも、褒められた嬉しさからか眩しい笑顔をみせた。

 準備は万端に整い、後はフラニーの帰還を待つばかりだ。フラニーが帰ってくれば、丘は色々と動き出すであろう。オレは新しく生まれ変わる自分の丘の風景を、ワクワクと想像した。





「ただいま帰りました」

「おかえり、フラニー」


 フラニーはまた少し背が伸びた様だった。水色の眼に、短い金色の髪の毛。枯れ枝の様に細かった手足は、丘に来てから少しずつ肉が付き始めていたが、それでもまだ強く握り締めれば折れてしまいそうなぐらいに華奢だ。しかしその細い体からは、歴戦の戦士をたじろがせるほどの濃い魔力が発せられている。


 フラニーは、まるで電車通学している小学生の様な小綺麗さと、緊張感のある面持ちで、仲間達全員と抱擁を交わした。それが済むとほっとしたのか幾分表情が緩む。オレは暖炉の火のそばにフラニーを連れて来た。



「レオン、ありがとうございました。ラッコ石をお返ししますわ」

「おう」

「ごめんなさい、ここに小さな傷が付いてしまいました」

「大丈夫。これぐらい唾でも付けとけば直るさ」


 ワープ移動の負荷のせいで、ラッコ石の表面に小さなヒビがはいっていた。

 フラニーは屋敷の中を見回して、確認する様にうんうんと頷いた。


「レオン、今日から丘でばりばり働きますわ」

「ちゃんと休んでからな。向こうでは忙しかっただろう、ライルさんは元気だったかい?」

「ええ、ドライフォレストにいる間、ずっと一緒に居ましたわ。そして、おじい様は快く私の事を送り出して下さいました」


 オレは堪らなくなって、もう一度フラニーの事を抱き締めて、髪の毛をクシャクシャにした。

 おかえりフラニー、また会えて嬉しいよ。


「フフッちょっとレオン、くすぐったいですわ。報告を聞いて下さいな」

「ああ、そうだな」

「はい。まずゴブリン達ですが大森林に国の建設を始めました。ドライフォレスト人が所有している農業ゴブリンを解放する時に一悶着が起こりましたが、狂王を倒した麦を転ばす者を敵に回したいのかという殺し文句と、新政府が補償の金銭を出した事により、すべてのゴブリンが森で暮らせる様になりました」

「それは良かった!」


 フラニーを囲む様に座っている仲間達が小さな歓声を上げ、フラニーはオレの顔を誇らしそうに見上げた。


「次にフォレスビール麦ですが、しばらくはゴブリン族が独占して畑作していく事になりました。最初は食料の確保が優先されると思いますが、数年後にはゴブリン族にとって大きな財源になると私は確信しています」

「そうか」

「ええ。市場の酒場から上がってくる報告書によれば『一度フォレスビールを飲んだら、他のもんは馬の小便と同じ』というのが客達の評価だそうです。フォレス人の口に合わないはずはありませんわ。もしダメだとちょっと困りますが」


 真面目な表情で馬の小便などと言ったのが可笑しかったのか、エリンばあさんとグリィフィスがくすりと笑った。グラはそうだそうだ小便だな、という風に頷いている。


「最後にお土産です。ラッコ石に負担がかかるのであれもこれもとはいきませんでしたが、お菓子を少々と新政府の首相に貰った最高級の魔法茶です。レオンのおかげで私は国賓級の扱いでしたわ」

「ニャ?」

「アポロ、ちょっと待って下さい。そっちの箱はお菓子じゃなくてお茶ですわよ。あと2つあるのです。1つは新政府で大臣になられた方から頂いた物ですが……試作品と仰っていましたが、純金です」


 フラニーは懐から一枚の金貨を取り出して、オレの手の平に乗せた。

 金貨には、葉っぱをこんもりと茂らせた見た事も無い様な大樹の絵が描かれている。フラニーが「名前は知りませんが、大森林の主と崇められている大木です」と補足した。

 オレはゴクリと唾を飲み込んで金貨ひっくり返した。


 そこにはオレの肖像画が描かれていた。

 いや、正確にはそれを肖像画とは言えないだろう。なぜなら、眉毛の上の辺りで見切れており、金貨にはオレのアフロヘアーしか描かれていないからだ。仲間達が金貨を覗き込んだ。


「それをくれた大臣からの伝言があります『あんちゃんの顔を硬貨に刻むという約束だったが、今まで金貨には王族の姿しか描かれて来なくてな。デリケートな今の時期に革命側の英雄の顔を金貨にするのは色々と問題があってな。まあ、誰なのかはそれでも大体分かるから勘弁してくれ』とのことです」


 仲間達が遠慮もなしに吹き出し始めた。フラニーさえも笑っている。アポロは一心不乱にお菓子の箱に噛み付いている。


「やいレオン! やいレオン! 面白いぞ、フハッハッハッハ」

「ほっほっほっ」

「レオンさん、金貨になるなんて凄いじゃないですか、プークスクス。失礼」


 オレは金貨を床に放り投げた。


「ちくしょう、変な物作りやがって。それに裏の生い茂った大木はなんなんだよ。これじゃあ、パッと見、どっちが表か裏か分からんぞ。あきらかに悪意がある」


 グラが素早く金貨を拾い上げて、大樹の絵に向かって騎士の誓いをやり始めた。調子に乗ったグランデュエリルをこらしめて、みんなでひとしきり笑った後にフラニーを見た。


「もう1つあるんだろ」

「はい」



 フラニーが居住まいを正して真剣な顔になった。

 空気が変わり、仲間達も座り直す。


「ティナ――――いえ、ゴブリンの女王クレメンティーナより、レオンにお礼の品があります」


 フラニーはそう言うと、紹介状代わりにティナに預けていた自分の絵が描かれたカードを、オレに手渡した。そして右腕の服の袖をゆっくりと捲り上げて、ずり堕ちない様にヘアピンで留めた。オレの心臓がドクドクと高鳴る。

 フラニーの華奢な二の腕の外側にタトゥーが刻まれていた。ナスカの地上絵と同じ様な図柄で、白い腕にエメラルドグリーンの線が走っている。腕を動かすとタトゥーがピカピカと光りを放った。


「女王よりゴブリン族の召喚魔法を教えて頂きました。入れ墨は、人間がゴブリンを召喚する為にはどうしても必要のあるものでした。この召喚魔法はゴブリン族の中でも代々の女王しか知る事の出来ない、本当に本当に特別な魔法なのです。女王の、そしてゴブリン族のレオンへの感謝の気持ちがどれほど強いものであるのかを、私は証明しなければなりません」


 フラニーはそう言うと緊張で瞼を震わせながらリビングの中央に行き、呪文を詠唱し始めた。

 皆が立ち上がりフラニーを見つめている。

 やがて異次元パリィが発動した時とそっくりの闇のオーロラが、フラニーの目前に出現した。


「ティ、ティ、ティー」


 闇のオーロラの中から一匹のゴブリンらしき生き物が、奇声と共に召喚された。

 それは手に平に乗るぐらいの大きさのトンボの様なゴブリンだった。

 薄い四枚の羽を持ち、見かけだけで判断すれば貧弱で小狡そうなゴブリンが中空でホバリングしている。萎びたもやしの様な手足があり、待針にそっくりな剣を装備している。

 汚いティンカーベルというぴったりの言葉が、オレの頭に浮かんだ。


 召喚されたトンボ型ゴブリンは、オレ達の顔を順に見回していき、その視線が胡坐をかいて座るハービーに辿り着くと、奇声を上げながら逃げ出した。そして再び現われた闇のオーロラにそそくさと飛び込んで、煙の様に消えていった。


 フラニーが、がっくりと膝を付いて四つん這いになり、口の中で何かをぼそぼそと呟いている。


「ティナ、ゴブリンのみんな、ごめんなさい。フラニーはみんなの気持ちを証明できませんでしたわ」

「だ、大丈夫かフラニー?」

「ああレオン、ごめんなさい。向こうで練習している時には、戦士タイプのゴブリン召喚に何度か成功していたのです……。日々手応えは感じているのですが、難しい魔法なのです」

「そうか」


 フラニーの手を掴んで引き起こした。


「ティナさんは身の丈10メートルはある戦士ゴブリンや、ドラゴン型のゴブリン等を簡単に召喚していました。つまり本来なら門外不出の種族魔法を教えて頂いたのです」

「ああ、分かった。ティナの感謝の気持ちは充分に伝わったよ」

「いえ、伝えきれていませんわ」


 落ち込むフラニーを仲間達が慰め始めた。ネーミング好きなオレは、フラニーの召喚した汚いティンカーベルの姿を思い出して『カンシャノキモチ』という名前をこっそりと授けた。フラニーが傷つくので、もちろん口に出す事はないだろう。


「あの……レオン。……ごめんなさい」

「気にするなって上達しているんだろう?」

「えっと、そうではなくて」

「ん?」

「勝手に、体に入れ墨をしてしまってごめんなさい」

「お、おう」


 フラニーの金髪頭をもう一度ごしごしと擦り、エメラルドに光るタトゥーを指先で突いた。






 ドライフォレストであちこち駆けずり回っていたフラニーの為に、2日間の休日を取る事にした。オレ達の激しい訓練の疲労もピークに達していたので休むには丁度良いタイミングであった。ただ丘の行く末を決める会議だけは何度か開くつもりだ。


 お昼ご飯をみんなと食べた後で暖炉の前でゴロゴロしていた。カードゲームによるフラニー、エリンばあさん、グリィフィスの三つ巴の戦いを見物していたのだが、いつの間にか眠ってしまったようだ。

 目が覚めるとお腹の上で寝ているアポロ以外は誰も居なくなっていた。

 畑で剣の素振りをしていたグランデュエリルに尋ねてみると、みんなは自室でお昼寝をしているらしく、フラニーだけはカインの背中に乗って草原に出かけたという。


「フラニーは、例の蜂の祠を見に行くと言っていたな」

「そ、そうか。グラも程々にな。休むのも戦士の仕事だぞ」


 どこかで聞いた様なセリフを言いながら屋敷に戻ったオレは、大慌てで身なりを整えて出掛ける準備をした。取りあえず市場にでも行こうと思い、サイドボードの上にある石版に手を伸ばした時に、屋敷の扉が開いた。


「あら、レオンお出かけですか?」

「うん、ちょっとな」


 フラニーは脇にぶ厚い帳簿を抱えているが、その表情は柔らかい。


「そうそうレオン、その石版の台座ですが」

「ああ、これか。凄いぞこれは」


 オレは別の話しになった事に内心喜びながら、嬉々として石版の台座の説明をした。そしてガロモロコシを1つ持って来て、水晶玉で鑑定してみせた。


「まあ、これはガロモロコシの合成情報ですわね」

「ああそうだ。すでに知っていた事も多いがそうでない物も多い。市場でこの情報を売るだけでもひと財産作れそうなぐらいだ。実際に市場には合成情報のレシピを売り買いしている店もある」

「素晴らしいですわね」


 フラニーがニコニコと笑っているので、オレは饒舌になった。


「例えばガロモロコシと鋼の剣を畑に一緒に埋めると、爆裂モロコシ剣というのが出来る。これはまあまあの攻撃力がある上に、インパクトの瞬間に爆裂してスナック菓子を撒き散らすというおまけ効果もあるんだ。もしオレが鋼の剣を使っていた頃にこの情報を知っていたら運命は大きく変わっていたはずだ。間違いなくポップコーン屋さんになっていただろう」

「情報というのは恐ろしいですわね。レオンちょっと待ってて下さいな」


 フラニーはそういうと自分の部屋に行き、沢山のアイテムと紙の束を抱えて戻って来た。


「せっかくですから色々な情報を紙に記録して置きましょう。水晶玉はレオンしか扱えませんし、もしもレオンに何かあったら情報が死んでしまいますわ」

「そうだな。だが、オレは今から市場に――――」


 フラニーが笑顔のままサイドボードの上にあった帳簿を掴み、叩き付けるようにバンッと音を立てて置き直した。暖炉の前で寝ているアポロが耳をピクリと動かす。


「そうだな。出掛けるのは少しやってからにしよう」


 紙媒体に情報を書き写す作業が始まった。

 オレがアイテムを水晶玉に当てて合成情報を浮かび上がらせ、それをフラニーがこりこりと紙に書き付けていく。さすがステージのクリア報酬と言うべきか、垂涎もの情報がどんどん出て来るので中々楽しい単純作業ではあったが、さすがに2時間もたった頃にはだいぶ飽きてきた。サイドボードの周りには椅子2つと、無数の鑑定済みのアイテムが転がっていた。


「なあフラニーそろそろ休憩にしないか、市場にも用があるし――――」


 フラニーがぶ厚い帳簿をバンッっと叩き付けたので、オレはパイメロンを水晶玉で鑑定した。目を覚ましたアポロがやってきて、オレとフラニーの顔を見比べた後で、サイドボードの一番邪魔な場所で再び眠りに付いた。オレはフラニーの顔色をちらちらと窺いながら、この間偶然に気が付いた合成情報を水晶玉に出した。


「なあフラニー、実はこれを作ろうと思っているんだ」

「エレメンタル・ウォーターバードの巣箱、ですか。始めて聞きました」

「ああ、たぶん知っている奴はほとんどいないはずだ。明日の会議にかけるが丘の防衛体制の一翼を担ってもらうつもりなんだ。鳥だけにな」

「そうですか。次の合成情報をお願いしますわ」

「……」


 さらに2時間ほど作業を続けたが全く終わる気配が見えなかった。

 いつもとは違うフラニーの厳しい態度からして、帳簿の不正がばれた事はほぼ間違いない。例え帳簿を間違えたとしてもフラニーはこんなに怒ったりはしないだろう。むしろ自分が不在だった事を謝りさえしたかもなと、今になっては思う。たぶんフラニーは間違いを隠そうとした事に怒っているのだ。

 もしも時間を戻せるのならば、馬鹿な事は止めろと自分に言ってやりたい。でも無理だ。彼はとうに罪を犯し、怒られているオレだけが残った。


「なあフラニー、帳簿の事だがあれはグ――――」


 バンッ、もう一度、バンッ。


 オレは口を噤み、黙々と作業に戻った。

 やがて夕食の準備の時間が近づいて来た頃に、フラニーがニコリと笑った。


「ではレオン、いったん中断致しましょう。夕食が終わった後に、またここに集合という事で。片付けはお願いしますわ」


 フラニーはそう言うと、紙の束をトントンと揃えてから2階に上がっていった。

 もしかしたら今日の夜は、フラニーが寝かせてくれないかも知れない。






「どうしたよ? 眠そうな顔をしてるぜ」

「やあトムさん、昨日寝かせて貰えなくてさ」

「はっはっ美人の嫁さんでも出来たのか」


 初心者向けの変わり映えのしない商品とドラゴンの素材をふんだんに使った高級装備が混在する、いつものトムの店の風景だった。この店で買い物をする機会はだいぶ減っていたが、オレは無駄話をする為にちょくちょく遊びに来ていた。


 木彫りのカウンターに寄りかかると、トムが武骨な金属製のコップに熱い紅茶をそそいでくれた。寝不足の体にトムの優しさが染み渡る。

 昨日は結局朝方まで、フラニーと一緒に合成情報の書き出し作業に従事した。それでフラニーの機嫌も幾分直ったようなので頑張った甲斐はあったのだが、何しろ欠伸が止まらない。

 午前中に仲間達全員での会議を済ませ、昼飯を食べたオレは、フラニーから逃げる様にトムの道具屋に駆け込んだのだ。


「ところでトムさん、うまい儲け話があるんだが」

「そうかい、断るよ」

「儲け話ってのはまあ冗談だ。実は丘債を発行する事になってな」

「ほう、あんたの丘もそこまで成長したって事かい」


 トムは小柄な体で腕組みをした。歳をとってはいるが引き締まった体には無駄な脂肪が一片もなさそうで、眼光はいつでも鋭い。トムは険しい顔をした後に少し首を振った。


「あんたの丘債を譲ってくれるという話しだろ?」

「ああ、そうだ」

「悪いが少し考えさせてくれるかい。おっさんになると過去に色々と嫌な思いもしていてな」


 考えるとは言ったがやんわりと断られたのだという事が、付き合いも長くなってきたオレにはなんとなく分かった。オレはすぐに話題を変えて蜂の王とその祠の話しをした。


「あんたもエリンのばっちゃんも無事で良かったよ。よし、義指をトムおじさんが探して来てやろう。感覚も伝わる優れものがあるんだ」

「本当かい! オレもあちこち探し回っていたんだけど、いい物が見つからなかったんだよ」

「はっはっトムの道具屋の仕入れ力を見せてやるぜ」

「ありがとう。そういえばエリンばあさんの故郷のジパレイズに行く事になったんだ。そこが新しいオレの戦場だ」

「何?」


 トムがかなり驚いて言葉を詰まらせた。そしてカウンターの上にあった自分の紅茶に、手をぶつけてひっくり返した。普段冷静なトムのそんな振る舞いは、初めて目にする光景だった。唐突に訪れた重い沈黙の中で、トムがカウンターを拭く様子をオレはじっと眺めていた。


 しかしオレは何も質問をしない。


 お互いの過去は向こうが話さない限りは決して詮索しないというのが、オレ達の友情の不文律だった。そしてその事が現実とゲームの狭間で彷徨っていた時期のオレにとって、どれだけ救いだったのか忘れてはいなかった。

 やがてトムは雑巾を投げ捨てると、静かに微笑んだ。


「エリンのばっちゃんとは同郷なのさ……」

「……そうか」


 エリンばあさんが丘に来た時に、火の精霊石などという超貴重なアイテムをくれたのには、ちゃんと理由があったのだ。オレは心の中で自分に毒づいた。お前はいつだって考えが足りない。

 トムが紅茶を淹れ直しながら明るい調子で話し始めた。


「なあ、あんたのさっきの丘債の話だが――――」

「いや、あの話は無しだ。悪いが」

「まあそう言うなよ。儲け話なんだろ? 一枚噛ませてくれ」

「いや、悪いが気が変わったんだ」

「分かってるって!」


 トムがかなり大きな声を出した。オレは木彫りのカウンターに目を落とす。トムは優しい口調に切り替えて先を続ける。


「あんたがそんなつもりでジパレイズの話しを持ち出したんじゃないって事はよーく分かってるのさ。もし知っていたらあんたは決してしなかったはずだ、そうだろ?」

「ああ、そうだ」

「でも聞いちまった以上は聞いちまったんだ。エリンのばっちゃんと同じでこっちも帰れないもんでな。それにあんたの丘債は元から買うつもりだったんだぜ。焦らして少しでも値下げさせようと思っただけなのさ」

「本当かい?」

「ああ、本当だよ。商売人だぜ?」


 オレとトムは視線を合わせてにやりと微笑んだ。そしてお互い照れながら、おずおずと握手を交わす。

 握手をしながらオレは、明日ジパレイズに上陸する事を決心した。疲れも取れたし、力も少しは戻ってきた。偵察ぐらいならば十分だろう。






 アポロを肩に乗せ、石版に触れる。行き先はジパレイズ。

 眩い光が視界を塞ぎ、ワープ移動時特有の体の細胞が一瞬ばらばらにされる様な感覚の後に、オレはもう別の場所に移動している。空気の匂い、地面から伝わる熱、重力すらもほんの少し違いがある事が分かる。

 昔の様に目が眩んでいるからと言ってもう慌てはしない。アポロをそっと大地に降ろす。


 さあ何が見えるのだ。

 今度の景色は麦畑とあぜ道ではないだろう。


 まず海が見えた。

 遥か眼下に大きな湾と砂浜があり、ヤシにそっくりな木がぽつぽつと生えている。人はいない。どうやらオレとアポロは山の中腹にいるようだった。後ろには密林が広がっており、前方は急勾配の草原で少し進むと断崖絶壁になっている。


「ここがジパレイズなのか? 随分と暑いが」


 まず石碑に触れてちゃんと丘に帰れる事を確認した。高さ1メートルほどの石碑に何やら細長い布が引っ掛けてあったので、しばらく観察してから無用の物と投げ捨てた。

 新しい遊び場に軽いトランス状態のアポロが、密林の繁みに中に突入した。


「アポロ、オレはそっちには行きたくないぞ」


 軽々と無視してアポロは進んで行ったので、そちらに何かあるのだろう。肉食獣でなければいいが。

 オレはもう一度景色を見回して、民家や人影が無い事を確認してから密林に踏み込んだ。星銀の爪を振り回して、竹の様に頑丈な草木を払いながら山を登って行く。


 口に入った小さな虫を吐き飛ばしたり、謎の動物の奇声に脅えながらアポロを必死で追いかける。どう考えてもジャングル向きではないアフロヘアーが、掃除機さながらに草や種や綿毛や蠅等をどんどん吸引して薄汚れていく。

 帽子やシャンプーに思いを馳せていると、突然に視界が開け、ごつごつとした山肌が剥き出しになり始めた。


 先に山頂に辿り着いたアポロが「凄いんだから早くおいでよ!」という風にオレを見下ろしている。

 最後はほとんどロッククライミングをして、山のてっぺんにある小さな台地に文字通り転がり込んだ。そのまま仰向けに寝転び、澄んだ空気を胸一杯に吸い込む。


 途中からチラチラと景色が見え始めていたので、なんだか見たい様な見たくない様な複雑な気持ちであった。思い切って立ち上がりその場で一周したオレは、思わず悲鳴を上げた。


「ぎゃあ、凄いなこれは。夢にまで見た光景じゃないか」


 前は海。

 後ろも海。右も左も海海海。何所を見ても水平線が世界を仕切っている。

 この島以外には陸と言えるものは1つも無い上に、島にはどう見ても人間が生活している痕跡が見つからなかった。つまりここは文明と隔絶された南海の孤島である可能性が高い。


 ロビンソンクルーソー、十五少年漂流記、蠅の王。


「ここは恐らくジパレイズではないな。つまりこの無人島から脱出して、ジパレイズに行くまでが最初の試練ということか。しかし、小さな道具ならば持ち込めるのだから、簡単ではなかろうか」


 オレは元来た道を下りながら、無人島の脱出方法をあれこれ考えた。船を作るというのが定番だが、他にも何か方法があるか。気球やプロペラ機ぐらいならば作れるかもしれない。

 一度帰る事にして石碑に触れようとした時に、先程放り投げたはずの布切れが元の場所に戻っている事に気が付いた。

 10メートル先の草むらをアポロがじっと見つめている。

 アポロが特に警戒している様子がなかったので、オレも気配のする辺りをただ見ていると、やがてもぞもぞと草むらが立ち上がった。そして、その草むらは低く落ち着いた声で喋り出した。


「貴様か、儂のふんどしを捨てたのは。その見かけ、妖怪の類いか。いや、まさか敵兵なのか? 敵兵か……待ちに待ったぞ」




 ――――マッコイ・ショーテルズが現われました。






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