パンとビスケット
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ドライフォレストの王都が遠くにぼんやりと見える農村の外れに、麦わら帽子を被った1人の農夫が居た。その農夫はひどく年を取っており、3代前の王の時代からフォレス麦を作り続けていた。太陽がたっぷり染み込んだ皺くちゃの顔、土を触り続けた頑強な手の平。
この老人にとって王都の争乱などは、流れ去っていく大きな雲ほどの意味しかなかった。決して平穏とは言えなかった王家の争いを何度も見て来たからだ。
老人は鎌を振っていた手を止めた。
「おやおや、どうしたんだアンクル、ボサッとしておるのう」
老人が声を掛けたのは、一緒に農作業をしていたハーベストゴブリンだった。そのハーベストゴブリンは無表情で空をじっと見上げている。
「早く作業に戻らんか、相棒。儂に鞭を使わせないでおくれ。鞭を町まで買いに行かにゃならんからな。お前さんは知らないだろうが鞭だけを売ってる大きな店があるんじゃぞ」
「……」
ハーベストゴブリンは、老人の事を悲しそうな目でしばらく見つめた後で、抱えていた麦の束を放り出して、ゆっくりと歩き始めた。相棒の感情が籠った表情も、フォレス麦を放り出した姿も、老人にとっては初めて目にする光景だった。老人は、婆さんが死んだ時と同じ、悪い予感に胸を鷲掴みにされた。
「アンクル、どこに行くんじゃ! 戻って来ておくれ――――」
アンクルを追い駆けてあぜ道に入った老人の肩に、何かがぶつかった。それはまるで鉄の塊の様にがっしりとしている。老人は何十年となく往復を繰り返した、見慣れたあぜ道を振り返った。
「こ……こんな事は初めてじゃ、王都で、一体何が起こっているんだ?」
あぜ道には怒りに燃えた顔で黙々と行軍する、数十体のハーベストゴブリン達がいた。
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巨大倉庫の裏口から抜け出たオレ達は、包囲政府軍の主力が陣取っている建物に忍び込んだ。見張りの数名を音も無く殺し、階段をそっと駆け上がる。息を殺して平べったい屋上を覗き見ると80人程度の敵兵が背中を向けていた。革命軍の仲間達が動けずにいる倉庫の陰に向けて、絶え間ない砲撃と斉射を繰り返している。訓練の行き届いた動きではあったが、幸いな事に大砲の威力も精度も対したものではなさそうだ。
近衛兵1人1人が精鋭揃いだとしても指揮官クラスがそうだとは限らない。革命軍には包囲を破る方法はないと舐め切っているのだろう。無防備な後ろから思いもよらない攻撃を受ければ、精兵といえども大混乱に陥るはずだ。オレは新選組の池田屋斬り込みをなんとなく思い出し、小さく笑った。
しかしレオン組の面々を見回すと青ざめた顔をしている者が多い。
彼らが武芸に身を捧げた手練ればかりである事には間違いがない。しかし人を殺すという経験は環境が整っていなければ、おいそれと積めるものではないのだ。10人の中で落ち着いているのは元傭兵の中年の男を含めて2、3人だけである。オレは声を潜めて仲間達に言った。
「なあみんな。みんなは強い奴らばかりだけど、人を殺すことにはまだ慣れていない様だ。そこでオレから1つコツを教えよう」
「お願いします」
軽口を叩きたいという欲求があった。しかしオレは、武器をくるくると回してクルンスッスーってやるんだよとは言わずに、珍しく真面目な事を言ってみた。
「人を殺す時は、斬るんじゃなくて突くんだ。落ち着いている時や敵の動きがはっきり見えてる時は斬ったり、技を出すのもいいだろう。でもそうじゃない時は、体重を乗せてただただ突きを出すのが勝つ確率が一番高い。これは絶対だ」
「……」
若い戦士達が分かったと言う風にうんうんと頷き、自分の獲物をギュッと握りしめた。すると口髭を生やした傭兵の男が、身を乗り出して口を開いた。
「私からもコツを教えよう。剣をだな……こうやって回しつつ、突き出す。クルンスッスーとな」
若い戦士達が口元を押さえて忍び笑いを漏らした。肩をプルプルと震わせて、血の気の無かった顔に色が戻る。みんなの緊張が上手い具合にほぐれた様だった。若干1名だけ歯をギリギリと食い縛る者がいたが。
口髭の元傭兵を捨石にして斬り込むという作戦が一瞬思い浮かんだが、すぐに気を取り直してランドセルから火炎瓶を取り出した。もちろんただの火炎瓶ではない。瓶に巻かれているラベルは魔法を込める事が出来る特殊なスクロールで、ダーマ・スパイラルに頼んで広範囲火炎魔法が装填されている。瓶の中の液体も最高品質の混合オイルなので、絡み付いた敵を燃やし尽くすだろう。
これ1本作るだけで数日分の稼ぎが飛んでしまうので実験をしていなかったが、グリィフィスが製作してくれた物なのできっと大丈夫だ。持って来た全部である3本を仲間に渡しながら、作戦を説明した。
「こいつを投げる。炎が巻き起こる。オレとアポロが突っ込むから、みんなは炎から逃げ出る敵を討取ってくれ。範囲が広い分だけ威力は低いから、火炎だけでは殺しきれないはずだ」
そう言うと元傭兵が水筒の水を頭から被り、さらに仲間達の手持ちの水を自分にかけさせた。この男は確か外国の人間で、ドライフォレストの女を孕ませてしまった為にこの国に留まっているらしい。嫁と子供の未来の為に命を賭けるか。
「よし、行くぞ。3、2、1、投げろ」
3本の火炎瓶が放物線を描いて、近衛兵達の真ん中に着弾した。火炎魔法が発動し、屋上全体に高さ2メートルほどの炎が巻き上がる。オレとアポロと口髭の傭兵は、視界のほとんどないオレンジ色の炎の中に飛び込んだ。銀色の鎧を着た近衛兵達が炎の中で立ち尽くし、何が起こったのか分からないまま身を縮めている。あまりの高熱の為に声を出す事すら叶わないのだろう。オレはガロモロコシを収穫するよりも簡単に、近衛兵の頭を刈り取っていく。我ながらえげつない作戦を考え出したものだ。オレとアポロとダーマのおっさんがチームを組めば、千人相手でも負ける気がしない。相手にとっては地獄の業火でも、オレとアポロにとってはバリアに近い。
炎がやや弱まり始めた。すると離れた所で元傭兵が声を張り上げる。
「革命軍の大軍団だ。ここはもうダメだぞ、すぐに次の炎が来るぞ!」
近衛兵達に動揺が走る。持ち場を守り、炎が収まるのをじっと待っていた彼らであったが、心の弱い者から逃げ出し始めた様だ。視界の悪い炎の中で鎧と鎧がぶつかり合い混乱が拡散し、誰かが屋上から飛び降りたのか絶叫が響いた。下りの階段に向かった者は、仲間達の待ち伏せに合うだろう。
オレは収まりゆく炎の奥にどんどん潜っていった。金色の鎧を着た奴が1人だけ居たが、たぶんそいつが指揮官だ。そいつを殺せばもう収拾は不可能になる。土の焼ける匂いを嗅いだ時、目標の指揮官の姿が見つかった。部下に土嚢の中身をぶちまけさせて、火の消化をさせている。ぶ厚い金の鎧、三角コーンを被った様な同じく金色の不気味な兜。
アポロと口髭の傭兵も同じ事を考えていたのか、同じ場所にやって来た。2人は状況を一瞬で把握すると、部下の近衛兵達に向かって突っ込んだ。オレは指揮官に向けて駆ける。
近衛隊長はオレの頭に向けて、大斧を軽々と振り下ろした。それを躱し、一撃を与えるが鎧が硬すぎる。防御を一切考慮せずに振り回される大斧を、なんとか躱しながらこつこつとダメージを重ねていくが、金色の鎧は星銀の爪と同等以上の材質の様だ。
火炎瓶の炎が収まり始めている。敵の半数ぐらいは殺したはずだが、それでも残り40体。こちらは10人。まずいぞ。
オレは唇を噛みながら、近衛隊長の攻撃を躱し続ける。これだけの重攻撃を繰り返せば、必ず息が上がり速さが落ちてくるはずだ。そこにカウンターでパリィを決めて一撃で沈めてやる。もう少しだ。もう少し威力が落ちれば、大斧だろうが大剣だろうがパリィで転ばしてやる。さあ、もっと振ってこい。
しかし、大斧攻撃の精度がまるで落ちない。
先程オレは、指揮官だからと言って指揮能力が優れているとは限らないと思ったが、それは正しかった。ドライフォレストの将校は単純に強い奴が選ばれるのだ。
オレは右手と左手を組み合わせて、振り下ろされる大斧に向けて角度を付けて叩き付けた。近衛隊長が僅かにバランスを崩し、オレはなりふり構わぬタックルで押し倒す。そして三角コーンの兜を抑え付ける様に馬乗りになった。左右の連打で三角コーンを殴り付ける。
近衛隊長は斧を捨て、金色のガントレットを握り締めた。下から腕を伸ばし、オレの左目と左耳を嫌というほど殴り付けた後で、ようやくダラリと力を失った。ノーダメージで倒せるはずの相手だったが、オレの火力が足りないせいでずいぶんと殴られてしまった。気を失うのを何とか堪えながら立ち上がり、大将の三角兜を掲げて見せた。いつの間にか炎はほとんど収まっている。
「お前らの隊長はオレが討ち取ったぞ!」
そう言いながら近くにいた兵隊をさらに殺す。さすがの近衛兵も士気を失い逃げ出し始めた。オレは階段付近で戦っている革命軍の仲間達に、退路を開ける様に指示した。
少しでも数を減らそうと走り回っていると、元傭兵の男に肩を掴まれた。
「ほら見ろよ。決死隊の味方が呼応して倉庫の陰から飛び出しているぞ。あちこちの建物にいる敵の小部隊も、ここの壊滅を見て逃げ出し始めやがった。役目を果たしたぞ」
「そうか! みんなは無事か――――」
元傭兵の顔を見たオレは思わず息を飲んだ。顔の半分以上が焼け爛れ、髪の毛が燃えて無くなっていた。元傭兵の男はニヤリと笑った後に、少しだけ寂しそうな顔をした。
「口髭が燃えちまいやがったからな。やっとオムツの取れた息子が父親だと分かればいいんだが……」
「……分かるさ。絶対にな」
「ああ、そうだな。ハッハッ、それにしても契約者ってのはすげえもんだなあ、その燃えやすそうな髪の毛が1本も燃えやがらねえとは驚きだ。さあて、合流しようか」
「ああ」
オレは足にこびり付いていた肉片を、何も感じずに蹴り飛ばした。
広場の片隅で決死隊の仲間と合流を果たした。
頬を摺り寄せて再会を喜び合い、手持ちの携帯食料をお互い交換して素早く栄養を補給する。ギャンブルのおっさんが、オレの配ったダイヤモンドナッツをがりがり噛みながら、軽い調子で話し掛けてきた。
「あんちゃん、さすがだな」
「おう」
「それでな悪いニュースが3つあるんだがどれから聞きたい?」
「今、3つって言ったか?」
「ああ、3つだ。まず魔力集積砲が被弾しちまってな、修理するのに少しだけ時間が掛かる。次に本隊からまた連絡があってな。段階的な撤退を開始したらしい。敵の方でも連絡があったのか、近衛兵の主力の半数がこっちに向けて引き換えして来ている。このままいけば決死隊は挟み撃ちだ」
「なあ文句を言いたくはないが……いや、止めて置こう」
「すまん。近衛兵の士気は低いと踏んでいたが、あいつらやる気満々でな」
市民に泥を投げられた事で、職業軍人の心に火が付いてしまったのだろうか。
「それでもう1つは?」
「ああ、それなんだが……ゴブリンのお嬢ちゃんの様子が変なんだ。ちょっと見て来てくれるかい? その間に治療と修理を終わらせちまうからさ」
「……」
少し離れた場所でクレメンティーナが壁に寄り掛かって座り、アンとスーラが両脇で見守っている。
オレが歩み寄ると、ティナは辛そうに顔を上げた。
「レ……レオン、良かった。もう出発?」
「いや、少し休息だ。大丈夫か、ティナ?」
オレは正面に屈み込み、手を伸ばしてクレメンティーナの緑色のおでこに触れた。ティナは顎を上げ、猫の様に自分のおでこをオレの手の平に擦り付けた。数日前に出会ったばかりであったが、一緒に過ごした時間はどれも濃いものばかりだった。娼館で寝泊まりしている間、ティナはあれこれとオレの世話を焼いてくれ、しぶとく営業を続けている養畜街の店にオレを連れ回した。ずっと娼館で隠れる様に暮らして来たティナにとって、オレは物珍しかったのだろう。
伸ばしていた手を下ろすと、クレメンティーナが唐突に言った。
「実は今、母が王と戦っています」
「何? 母って女王のことだよな?」
「ええ、王の間で一対一で戦っています。母の方から王に仕掛けた様です」
「勝てるのか?」
「いえ勝てません…………レオン、私達の話を少し聞いてもらえますか?」
「……ああ」
オレは地べたに胡坐を掻いて座り込んだ。
「母は沢山の子を産み育ててきました。母の愛は分け隔ての無いものですが、やはり子供達の能力に差が出てしまうのは致し方のない事です」
「……」
「母がまだ若かった頃に、特別な力を持った子供が生まれました。そのゴブリンは強く賢く、ゴブリン族の1つの完成形と言っても過言ではありません。その兄弟の名はハーベストゴブリン」
オレはゴクリと唾を飲み込んだ。
「最初のハーベストゴブリンを研究所で生んだ時に、母は自分達の国が出来る夢をはっきりと見ました。しかし、そのままにして置いては、優秀過ぎるハーベストゴブリンの存在を当時の王や研究者達は許さなかったでしょう。根絶やしにされてしまうか、厳しい管理と血の契約の下で僅かな数が奴隷として生きるのがせいぜいです」
広場を散歩していたアポロがやって来て、クレメンティーナの膝の上に乗った。アポロでさえもオレ達の緊迫した空気に気付き、出しかけた欠伸を引っ込めた。
「そこで母はすべてのハーベストゴブリンに厳命を与えました。愚鈍に、従順に振る舞えと。機械の様に一切の感情を殺し、その日を待てと。彼らは人間にも勝る知性を持ちながら、鞭で叩かれ、汚い部屋に押し込まれて眠り、人間の為にフォレス麦を育て続けました。だから私はこの国のパンが嫌いです。粥もビスケットも何も食べたくはありません! あれは血の味がします!」
興奮したクレメンティーナがぼろぼろと泣き出した。スーラが肩を抱いて慰め、静かな口調でオレに言う。
「何も知らない人はね、フォレス畑の黄金色の稲穂を見て、まあ綺麗ねって言うのよ。でもね、フォレス畑の半分以上は、元々は私達ゴブリンの住んでいた森だったのよね。後からやって来た人間達が森を枯らし、私達を奴隷にしたの、あいつらは…………これぐらいにして置くわ、今は味方の人間もいるのだから」
落ち着きを取り戻したクレメンティーナが涙を拭いて立ち上がった。
「長い年月の間に凍り付いてしまった、ハーベストゴブリンの力を開放する為には、母が呼び掛けるだけではもはや十分ではありませんでした。しかし……まさか母がこんな事をするなんて……私の最初の命令は、子供達に嘘を付いて死なせる事になるわ……怖い……私に出来るの?」
娼婦護衛兵のアンとスーラが、ゴブリンの娘を強く抱き締めた。
「ティナ、あんたの事はアタシ達が守るからね」
「ティナ、もうティナなんて呼ぶのもこれが最後なのね」
「アン、スーラありがとう。レオンもありがとう。短かったけど、レオンと過ごした時間は一生忘れないよ」
「お、おう」
オレは訳が分からないまま、何かが起こる予感で胸がはちきれそうだった。
「母が王に殺されました…………来ます」
アンとスーラが両脇で跪く。
それはまるで爆発だった。
今まで見た事も無いほどの魔力が、フラニーやダーマ・スパイラルのおっさんさえも遥かに上回る膨大な魔力が、その場にいる全員の肌を焼きながらクレメンティーナの体の中に流れ込んだ。風さえもティナを恐れて道を譲り始める。
「女王の全魔力とスキルの引き継ぎに成功しました。フフッフッフ、これだけの力がありながらなぜ母は……フッハハハッハ、ヒャハッハッ――――」
クレメンティーナが胸を掻き毟り、狂った様に地面を転げ回った。
しかしアンもスーラも跪いたまま、ピクリとも動かない。
革命軍の面々が遠巻きにこちらの様子を窺っている。
アポロが僅かに毛を逆立てた。
気の遠くなる様な長い数分間の後に、クレメンティーナはよろよろと立ち上がった。
そして今までとは明らかに違う声色で、空に向かって語り掛けた。
「母の最良の子供であるハーベストゴブリン達に、新女王クレメンティーナが告ぐ。その日がついにやって来ました。長きに渡る辛い年月だったでしょう。でも母はずっとお前達を見守っていましたよ。今こそ、その力を解き放ちなさい。そして母の仇を……王都に向けて走れ! 王と近衛兵を一兵残さず殺し尽くせ!」
その瞬間、ドライフォレスト中の麦が揺れた。
あらすじを少し変えてみました。その際、レビューや感想で頂いた言葉を使用させて頂きました。ありがとうございます。次回もよろしくお願いします。




