現実世界はとても楽しい
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庭の片隅にバスケットゴールを1つ置いた。畑にボールが転がらない様に防球ネットを張り、コートの土を固く踏み均した。新品の革の匂いを鼻腔に漂わせながらボールを弾ませた時は、初めてボールを触った時の記憶が鮮やかに蘇った。さあバスケットをしよう。
スナフキルが小気味の良いリズムでドリブルをつき、オレの隙を窺っている。数日前に初めてバスケをしたスナフキルだったが、センスの塊の様なこの男は、早くも経験者のオレに迫りつつあった。フェイントを交えて素早くディフェンスを抜き去り、急停止からジャンプシュートを放つ。
オレは驚異の身体能力を余す事無く使って、斜め後ろに飛び跳ねてボールを叩き落とした。本気で叩くとボールが破裂してしまうので、指2本でそっと叩く。スナフキルがそれはずるいのじゃないかという目でこちらを見るが、バスケ歴数日のド素人に負ける訳にはいかないのだ。
攻守を交替しながら30分ほど汗を掻いた。スナフキルが子供の様に唇を尖らせる。
「もうやだ。休憩。レオンずるい」
「はっはっはっ」
スナフキルはバケツの氷水に浸けておいたコーラを抜き取り、庭のソファーにどかりと座った。オレもコーラを1つ取り、飲みながら畑の状態を確認する。人力で雑草の根っこを取り除き土を混ぜ返す作業が思ったよりも大変で時間が掛かったが、そろそろ芽が出て来る予定だった。先に埋めた向日葵達も順調に育っているし、収獲が楽しみだ。しかしカラスや害虫の対策も考えなくてならないな。スナフキルは畑仕事を全然手伝ってくれないし、やる事が山の様にある。
シャワーを浴びて部屋に戻った。高級マンションの最上階の様な、壁の無い大きな部屋だ。部屋の中央にユキのベッドとオレのベッドが並んでいる。看護師さんが丁度ユキの体を拭き終った所の様で、オレは昼食に行って下さいと言って看護師さんと替わった。足音が遠ざかった頃を見計らって、ユキのベッドに身を滑り込ませた。体を圧迫しない様に注意しながら、ユキの胸に鼻を埋め、髪の毛を優しく撫でる。
以前のユキは苦しみに耐える様に顔を歪ませていたが、こちらに引っ越してからは少しづつ歪みが無くなっていき、今では気持ち良さそうにお昼寝しているお姫様のようにしか見えなかった。オレはユキに話し掛ける。
「スナフキルがオレの事ずるいって言うんだぜ、別にずるくないよな?」
「……」
「そうかなあ。そう言えば車をちょこちょこレンタルしていたんだけど、いっそ買う事にしたんだ。どんな車がいい?」
「……」
「もしかしたらユキとドライブが出来るかも知れないよ、海とかさ」
「……」
「あのさ……実は通信教育で化粧の勉強を少し始めたんだ。もしユキが嫌じゃなかったら今度挑戦してみてもいい?」
「……」
ユキは沈黙を続けている。
あちらの世界のユキと同じように、こっちのユキも幻覚を見せる能力を持っている。見覚えのない家具や植木鉢が置いてあったり、カーテンの色が変わっていたり、バスケットボールが転がっていたりする。ボールを拾い上げようと手を伸ばすと、シャボン玉みたいに消えて無くなってしまうのだ。
たまにユキに触れるのが怖くなる時がある。もしユキが、水で薄めた石鹸泡の様に消滅してしまったら、オレは気が狂ってしまうだろう。
大丈夫。ユキは消えない。そして何よりも美しい。白亜の彫像の様に横たわるユキの頬を、親指で優しく撫でた。あちらの世界のユキも美しく、若さと活力に満ち溢れ、機知に富んだ会話で人を楽しませる。でもオレにとってのユキは、あくまでベッドで沈黙しているこっちのユキなのだ。
何年も住んでいた前のオレの部屋は、少しの家具とゲーム機だけが置かれている。鍵を差し込んで玄関のドアを開けると、湿気でかび臭い風が流れて来た。ドアの隙間から中を覗き込む。ここで毎日眠り、飯を食い、目覚まし時計に叩き起こされて仕事に通っていたのだ。そして夢中になってゲームをやった。
もう十分じゃないのか?
オレは20億の命を救ったのだ。誰も褒めてはくれないが確かに20億人を救ったのだ。もうクリアしたも同然じゃないか。後はお決まりのボスとの激闘があり、お決まりの苦戦の末にそれに勝ち、民衆に褒め称えられる。退屈そうだ。重い義務感だけを感じる。
もうオレはゲームに飽きてしまったんだ。それだけだ。
いや、嘘だ。
本当は怖いんだ。気持ちの良い若者達や、武人という言葉が相応しい一人前の男達が、ぐちゃぐちゃになって死んでいくのを見るのが怖いんだ。もう見たくないんだ。
オレはしばらくドアの外に立っていたが、やがて部屋に入ることなくドアを静かに閉じた。
夕方になるといつもの様にランニングシューズを履き外に出た。準備体操をしながら自分のアパートを眺め回す。アパートの右側の家と土地はすでにオレの物になっており、左側の家もそろそろ話が付きそうだと不動産屋が言っていた。
金は唸るほどあった。
公園で知り合った魚肉の老人に駅前のビルの一室と金を預けた所、知らぬ間に金が増え始めていた。老人はたまに電話を掛けて来て「少し危険だがよいかね」と訊ね、オレがいいよと言うと数日後に金が倍になった。
何故こんな風に土地を買い占めているのか自分でも分からなかったが、体の内側からそうしろと言う強い欲求が湧いてくるのだ。まあ、なるようになるだろう。オレはランニングを始めた。
走ってしばらくすると少年サッカークラブのコーチである、ユウコさんが並走してくる。彼女はやはり向こうの世界と繋がりが強いのだろう、不自然なほど身体能力が上がり始めていた。彼女は自分の体の変化に驚き戸惑っていたが、そのうち魔法を使える様になってしまったらもっと驚くだろう。説明するのが今から面倒だ。
しばらく走っていると電柱の陰に隠れているタケシが居た。オレと目が合うと、タケシは指を立ててシーと鼻に当てた。かくれんぼでもしているのだろうか。少し進むとキョロキョロと首を振っているナツミがいたので、タケシの隠れ場所を教えてやる。コーチがくすくすと笑い、ランニングのスピードを上げる。夕日が落ちるまで、オレとコーチは丘を走り回った。
キッチンで料理を作っている時に、遠くの方で何かがコトリと床に落ちる音が聞こえた。フライパンの火を止めて部屋を見て回ったが何も落ちていないし、ベッドで眠るユキの設備も問題無さそうだ。気になったオレはアパートの廊下に出て、空室を順番に確認していった。やはり何所も異常は無く、一番後回しにしていた昔の部屋のドアを開けた。電気を付けると紙切れの様な物が床に散らばっていた。
毎日働いていた時に使っていた名刺入れが、棚から落っこちたようだった。
オレは屈み込んで、散乱した名刺を拾い始めた。名刺には様々な肩書と名前が記されている。何々商事営業部の誰それ、何々工務店の誰それ部長、クラブなんちゃらのなんたらに何々システムのチーフサブ総括マネージャーのうんたら。名刺を見て思い出せる顔も沢山あり、仕事上の付き合いとはいえかなり親しい間柄の者も何人かいた。しかしそれらの繋がりはすべて絶ち切れてしまった。オレが絶ち切ったのだ。もう名刺入れを使う様な生活には、2度と戻れないだろう。
長方形の名刺を束ねていると、オレは出発の時にフラニーから貰ったカードの事を思い出した。仲間達の凛々しい姿が描かれており、フラニー曰く、床に叩き付けると仲間を召喚出来るらしい。エリンばあさんが弓を構えたカードの事を思い出すと、胸にドロリとした熱い勇気の様な物が溢れ出た。
オレは名刺入れを棚に片付けてから、ゲームのコントローラーを再び握りしめた。
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「レオン! レオン! 目を覚まして、お願い」
嫌だな、もう一度眠りたいなと思いながら、オレは目をゆっくりと開いた。見覚えのある顔がオレを覗き込んでいる。緑色の肌にきっちり真ん中で分けた銀色の髪の毛。女王の娘、クレメンティーナだ。
肉の焼ける匂いが鼻を突き、煙が眼に染み込んだ。フライパンの火は消したはずだが?
クレメンティーナの助けを借りて上半身を起こすと、何故だか武装している娼婦護衛兵のアンとスーラが厳しい表情で屈み込んでいる。
「レオン大丈夫? 陽動作戦がばれていたの。でもレオン達のおかげで魔力集積砲は無事だよ」
「……」
オレ達は2つ横並びになった巨大倉庫の狭間に、へばり付くようにして身を隠している様だった。左右を見回すと、腕に緑色の布を巻き付けた革命軍の兵士達が100人ほど、同じく倉庫の陰に潜んでいる。どの顔も黒い煤と血で汚れ、死にかけている者もいた。
首を伸ばすと広場が見え、焼け焦げた仲間達の死体が数十体転がっていた。強烈な吐き気と共に悪夢の記憶が蘇る。飛来する巨大岩石を仲間とオレの3人で受け止めたが、オレ以外は死んでしまっただろう。頭蓋骨の潰れる音がはっきりと聞こえたからだ。
今日の朝、革命軍と政府軍の戦闘が始まった。オレが娼館で寝泊まりし、研究所での戦いの疲れを癒している間に、革命軍は着々と今日の為の準備を進めていた。革命軍の本隊は日の出と共に王宮門を破壊し、そのまま近衛兵詰所付近で全面的な激しい戦いが始まった。しかし本隊は囮だった。
すでに内部に入り込んでいた150の決死隊が集合して、最短ルートで一直線に王の間を目指す。王の首を取ればこの戦争の勝ちが決まるからだ。革命軍の副隊長とギャンブル中毒のおっさんに率いられた決死隊は、途中までは作戦通りに進軍していた。ドライフォレスト王ロブハートまではさらに何重もの壁や砦があるが敵の情報は筒抜けで、工作隊の事前準備も完璧だった。小規模な戦闘が何度か起こったが、敵を殲滅しつつ順調に進んで行った。
倉庫地帯の歪な形の広場に辿り着くまでは。
作戦が漏れていたのか、直前に守備隊の配置換えがたまたまあったのかは分からない。ドライフォレストの全盛期には5年分の物資が蓄えられていたというこの倉庫地帯は、今では守る物資も価値も無い廃墟と化していた。狂った王がそれなりに地方民の人心を掴んでいるのは、ここの蓄えを大盤振る舞いしたからだった。
オレ達は王の間までもう一息というこの場所で奇襲にあった。まず敵の弓矢と大砲による火炎弾の一斉射撃で30人の戦士が消し飛んだ。さらに王を倒す為の切り札として革命軍が用意した『魔力集積砲』を守る為に、20人が肉塊と化した。
死んだのはただの50人ではない。
革命軍の本隊は大部分が市民達で、いわば弱兵だった。野菜や雑貨を売っていた者、本を売っていた者、家具を作っていた者達なのだ。彼らではドライフォレストの心臓と言われた近衛兵相手に、時間を稼ぐことしか出来ない。
それに対して決死隊は戦える者達が揃っていた。元傭兵や魔法学校の教師、辺境警備を捨てて駆け付けた兵隊や、剣闘士の訓練所から革命軍に参加した若者達。娼館で過ごしている時に決死隊のメンバーとは顔を合わせており、その実力を知っていた。王に辿り着く前に主力の三分の一が死んでしまった事は、革命軍にとってあまりに痛い。
「状況は?」
「囲まれているけど敵も少数だからお互い動けない。政府軍は広場の周りの建物上部に散らばって陣取っている。ここは死角になっていて曲射以外は届かないから一応は安全。今、アポロが敵を引き付けてくれているの」
味方の魔法使いの治療を受けながら、ティナの早口の説明を聞いた。太陽が照り付ける広場の中央付近で、アポロが口に咥えた革命軍の旗を引き摺りながら、縦横無尽に駆け回っている。アポロに向けて雨あられと弓矢や魔法弾が飛んでいるが、まるで違う次元空間にいるかの様にかすりもしない。
オレは強く口笛を吹いた。アポロがこちらに気が付き、旗を投げ捨てて一目散にやって来る。白と黒の小さな体は燃える様に熱くなり、呼吸も激しく乱れていたが被弾は無い。水を与えるとザラザラの舌で必死に水分を補給し始めた。革命軍の副隊長が声を張り上げている。
「もっと壁に身を寄せろ! 盾持ちは魔力集積砲を守れ!」
アポロが引き付けていた分の砲撃がこちらに加わり、めくら撃ちながらもいよいよ激しさを増している。
鎧姿のおっさんが、壁に体を擦り付けながらにじり寄って来た。おっさんの甥っ子が革命軍の副隊長だったのだが、おっさんは相変わらずのん気な顔でニヤニヤと笑っている。
「ようあんちゃん、死んだのかと思ったぜ」
「おっさんより先に死んでたまるかよ」
「ヘヘッ、それであんちゃん、早速で悪いが状況は逼迫している。さっき本隊から狼煙が上がってな。長くは持ちこたえられないそうだ。あんちゃんなら、あそこの窓まで登れるだろ?」
巨大倉庫の真上を見上げると、マンション5階分ほどの場所に小さな窓があった。
「無理に決まってるだろう、こんなとっかかりの無い壁じゃ」
「ヘヘッ、そうか? こっちの壁とあっちの壁をピョンピョンピョンと出来そうなもんじゃないか?」
「幅がありすぎる。引っ掛けたり出来ないのか? 他の方法は?」
「試したが無理だった。ロープも長さが足りなくて半分は服を繋いだ物だしな。この巨大倉庫は籠城戦で食料を守る施設だから壁の破壊は簡単じゃないし、あんちゃんが寝てる間に5人が死角から飛び出してみたが、奴らの熱烈な歓迎を受けたよ。そういや、あんちゃんのツレの猫は何なんだ、化け物か?」
毛繕いをしているアポロに一瞬目をやった。
「……八方塞がりか。いや、何か手段があるはずだ」
「まあよー、魔力集積砲を使えば壁どころか倉庫ごと吹っ飛ばせるだろうが、魔法使い達がダウンしちまうからなあ」
オレは倉庫の外壁を撫でまわした。コンクリートの様な材質で壁と壁の距離は約4メートル。アポロを抱っこで持ち上げて壁を引っ掻かせると、爪が僅かに食い込んだ。
「よし、やってみるか。窓の向こうはどうなっているんだ?」
「倉庫に入った事のある奴の話だと細い通路になっているらしい。縄を結び付けられる柱があるはずだ」
「わかった」
もしフラニーがこの場にいたら風魔法で色々やりようがあっただろうが、それを思っても仕方がない。オレは準備体操をしてから、アポロの体に縄を括り付けた。縄は途中から運動会の旗の様に、皆の洋服を繋げ合わせた物になっている。クレメンティーナが心配そうな眼差しで顔を寄せた。
「レオン、大丈夫?」
「ああ、たぶんな」
敵の砲撃が半減していたが、これは悪い兆候だった。政府軍が死角を攻撃する為に移動を始めたという事だ。おっさんの肩をパチリと叩いた。
「失敗したら受け止めてくれよ」
「任せときな、あんちゃん」
砲撃が途切れた瞬間に、アポロを右手で握り締めながら壁際を走った。
そして全力で飛び跳ねる。
反対側の壁を蹴飛ばして三角飛びを決め、仲間が張り付いている方の壁まで飛んでもう一度三角飛びを決めた。アポロから垂れている縄が予想以上に重く、思ったよりも飛べていない。
空中でチラリと下を見ると、革命軍の全員がオレを見上げていた。
失速している。アポロを投げるか?
いや、我慢だ。
落下し始めた頃に、ようやく反対側の壁に足が届いた。壁を思い切り踏み付けながら窓に向けてアポロを放り投げた。アポロは小窓の2メートル下で壁に到達し、そのまま窓まで駆け上がった。倉庫の中にスルスルとロープが入り込んでいく。
上手くいったが、アポロを見ていたせいで体のバランスを失った。横向きになりながら墜落すると、がっしりとした肉の塊が見事にオレを受け止めてくれた。
「おっさん、ありがと――――」
「あら、思ったより軽いのね、アナタ」
レスラー体型のアンが、唇を尖らせながらウインクを決めた。斜めを見下ろすと、転んだらしいおっさんが泥にまみれている。アンは名残惜しそうにオレを地面に下ろした。アンの緑色の手の平が擦り切れて、血が滲んでいる。娼婦ゴブリン達は、知性を持ちながらも王との血の契約に縛られていないほぼ唯一のゴブリンだった。彼女達は人間の男共に体を晒す事で、その権利を勝ち取ったのだ。
オレは、闘志がふつふつと沸き上がるのを感じた。
とその時、自分が大失敗をした事に突然気が付いた。
「あんちゃん! 大成功じゃないか、さすがだな。後は手練れが20人ほど上に登れば、硬直状態から脱出できるぞ」
「いや失敗だ」
「何言ってんだ、大成功だろうよ」
「いや、失敗だ…………アポロは縄を柱に結ぶことなんて出来ない」
「は? 何言ってんだ冗談だろ、あんちゃん。あれだけ派手な大ジャンプ決めといて、そりゃないぜ。ほら、あの化け物じみた猫なら、いや失礼、アポロなら人間1人分の重さぐらい支えられるんだろ?」
「ダメだ。アポロはパワータイプじゃない」
オレとおっさんとアンの3人が横に並び、呆けたように上を見上げた。革命軍の戦士達も小窓を見上げている。
しばらく待っていると困惑した表情のアポロが、窓から顔を出した。
自分に結ばれていた縄を引き千切り、ぼろぼろになった縄の端っこを悲しそうに口で咥えている。
オレはランドセルから投げ縄を取り出して、頭上に掲げて見せた。
「おーいアポロ、よく見て置けよ。まずはこうやるんだ、クルンとな。次にここに通してスッとやるだけだ、簡単だろ。クルン、スッスーだ、やってみてくれ」
アポロが「分かった!」という顔をして、窓の奥に引っ込んでいく。
固唾を飲んでしばらく待っていると、今度はふて腐れた表情のアポロが窓から顔を出した。縄が先程よりも少し短くなっている。5階分の高さを隔てて、主人と使い魔が視線を交わす。
「アポロ、もう一回やってみせるぞ。いいか、クルン、スッスーだ」
「アポロちゃん、この布を見て。クルンクルンで、スッスーよ」
「アポロ殿、クルリでスッスサーだ」
「クルン、スッスーです」
革命軍の面々が手持ちの布や鉢巻を空に掲げて、縄の結び方を大声で怒鳴り始めた。クルンスッスー教団の偶像と化したアポロは、絶望の顔で信者を見下ろしている。オレは大声を出して皆を黙らせた。そして懐からグランデュエリルの絵が描かれたカードを取り出した。
「いいかアポロ、グラの赤いポニーテールを思い出すんだ。朝食の前に、いつもグラが紐やリボンを結び直しているだろう? そして結び直すグラの紐をアポロはよく盗んで、飯までの退屈しのぎにずだずだにしている。だからアポロは何度も見ているはずなんだ、紐の結び方を!」
一瞬動きを止めたアポロが、急に自信の溢れる顔で奥に引っ込んだ。再び窓から顔を出したアポロは縄を咥えていなかった。柱に結ぶ事に成功したのだ。ドヤ顔のアポロに向けて革命軍の戦士達が歓声を上げる。剣闘士訓練生のジャックという少年が身を乗り出した。
「レオンさん、自分に行かせてください。自分が一番身軽です、登ったらすぐに縄を結び直します」
「おう、頼む」
ジャックが迷いなく鎧を脱ぎ捨てて、ロープを登り始めた。スイスイと登って行く少年を見上げながら、次に登る為に縄を掴んだ。飛来した弓矢が誰かの太腿に刺さり、くぐもった悲鳴が響く。
クレメンティーナがオレの傍らに立ち、水の入った筒を手渡しながら唇を耳元に寄せて来た。
「レオン、そのまま聞いて」
「うん」
「女王に口止めされていたから、恐らく革命軍ははっきりとは知らない事だけど。母は数日前から子供達に呼びかけていました。もうすでにドライフォレスト全土のゴブリンが王都付近の麦畑に集合しているの。母がこのカードをいつ切るのか、どのように切るのか私は知らない。出来れば使いたくないと母は思っているはずよ」
オレは小さく頷いて縄を登り始めた。
小窓から身を滑り込ませると、得意気な顔のアポロと上半身裸のジャックがオレを出迎えた。廊下の先に気を配りながら、仲間が縄を登って来るのをじりじりと待つ。10人ほどが上に登った時に敵がカタパルトで飛ばした鉄球が運悪く倉庫の壁に直撃し、縄が絶ち切れてしまった。戦士達がチラリとオレの顔を見る。オレは内心迷いながら、迷いなく言った。
「これだけいれば十分だろう、行くぞ」
「はい!」
「はい」
「おう」
下に居る副隊長に手振りで意思を伝えてから、オレ達は一軍となって廊下を走り出した。
丘で戦っている時は自分がどれだけ仲間達に頼っているのかを、あらためて思い知らされる。丘で何か困った事があった時は、オレはエリンばあさんやハービーの方をチラリと見るのだ。
廊下の角を曲がると、こちらに向けて駆けて来る5人の近衛兵と鉢合わせた。爆薬の入っているらしい樽を数人が抱えている。窓から投げ落とすつもりで回り込んで来たのだろう。想定外の敵との遭遇で慌てているのは向こうの方だ。
「突っ込むぞ!」
オレとアポロが2本の角の様に小隊から飛び出した。近衛兵達の動きは素早かった。火薬の入った樽を迷わず自分達の前に置き、樽の陰に屈み込んで抜刀する。オレの後ろで弓や魔法を撃とうとしていた仲間が苦悶の呻き声を上げた。樽に火薬が満杯ならば廊下ごと吹っ飛ぶだろう。逆に近衛兵が樽の隙間から弩を撃ち出した。
アポロと左右に別れて、攻撃しながら後ろに回り込む。近衛兵達は、オレとアポロが一振りで仲間を殺す所を見ると、躊躇いなく剣を投げ捨てた。そして懐からキラキラ光る石を取り出して、火薬の入った樽に向けて振りかぶった。自爆である。
ドライフォレストの心臓と言われる近衛兵。近衛兵になる事は少年達の夢。甘く見過ぎていたんじゃないのか?
革命軍の戦士達が近衛兵に飛び付き、力任せに引き倒した。発火石を掴んだ腕を捩じり上げ、鎧の隙間に剣を刺し入れる。オレは汗びっしょりになりながら、仲間が敵を処理する様を見ていた。
ふと向こうを見ると、上半身裸だったジャックの胸に深々と矢が突き刺さっていた。なぜオレは、彼に鎧を着せなかったのだろう。信じられないという表情の彼は「母さん、母さん」と言いながら呆気なく絶命していった。
オレは少年の死体から顔を背けた。顔を背けると強烈な眠気を感じて、数秒間だけ心地良く意識を失った。夢の中に誰かが忍び込んで来る。うるさいそいつのせいでオレはすぐに目を覚ます。
仲間達がオレの事を見ている。
ここではオレが一番強いからだろう。
「1人戻って下の仲間に今の事を伝えてくれ。反対側の倉庫にも敵が行ってるかもしれん。そのまま残って窓から警戒してくれ。さあ、敵を殺しにいくぞ」
オレは再び走り出した。
はじまりの庭に居た。夢の続きということだろう。少しやつれた顔をしたセムルスが、隣に座っている。
「どこまで話したでしょうか?」
「暇になって考え始めたって所までだな」
庭の花壇には良く手入れされた花が咲き誇っている。
「私は考えたのです。人間は救う価値があるのか? わざわざ手助けをして繁栄させる必要があるのか? まあ、大体、そういう事をです。カクバクダンや細菌兵器が登場して以来、私はうんざりするほどの人間を、調整と称して抹殺してきました」
「……」
「心底うんざりした私は、気晴らしに新しい仕組みを作り上げました。数万を救う為に1人を殺すという決断を、あるいは1人の天才を生かす為に数万を殺す決断を、人間自身にやらせるという仕組みです。あなた達の概念で言えば神に近いメインシステムの監視の目を掻い潜り、それを作るのはとてもとても大変でしたよ」
「それがオレの関わっていることなのか?」
「レオン。あなたは最高です。あなたの前にも何人かいたのですが、皆すぐにゲームオーバーになってしまうのです。人間はあれだけの知能がありながら、ただの偶然の塊でしかない自分という存在を、大切に思ってしまうからです。これは私には理解不能、予測不能の事態でした。ペナルティを軽減したりと、後で苦労して調整をしましたが、なかなか上手く行きません」
ベラベラとうるさい野郎だな。きっと庭にずっと一人でいたせいで考え込み過ぎたんだろうな。
「なあ悪いけど、もう戻るよ」
「フフフッ、続きは庭で直接お話しましょう。レオン、あなたが選ばれたのは偶然です。自分の事を大切に思わない人間。自分に対する興味を失った人間。私が求めた条件を満たした者の中から、あなたが選ばれたのです、あなたは最高ですよレオン」




