花嫁泥棒
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小学校が春休みに入ったらしく、タケシ、ケンイチ、ヨシヒコ、ナツミの4人は昼間から公園にやって来る様になった。運動公園の片隅に、コンクリートマウンテンがある。クライミング用のでっぱりや滑り台の付いたその山の内部が、オレ達の作戦司令部だ。
薄暗い内部にはテーブル代わりのミカン箱が置いてあり、地面にはダンボールが敷いてある。さらに壁には地図が張ってあり、ヨシヒコが持って来たノートパソコンまであった。
眼鏡のヨシヒコが咳払いをして、話し始めた。
「さて、現在の状況をわたくしヨシヒコが説明させていただきます。まずレオンさんの戦っている国の事ですが、簡略化するためにD国と呼ばせて頂きます。ヨーロッパ大陸の端っこにあるD国は、かつての冷戦時代には東西の緩衝国として存在していた、農業が中心の国です」
タケシやケンイチがうんうんと頷いているが、本当に分かっているのだろうか。オーバーオールを着ているナツミが、水筒のお茶をオレに渡してくれた。
「D国の政体は民主主義という事になっていますが、実際には世襲制の独裁国です。人口は約一千万人で、そのうち白人系が930万人、アフリカ系のガルブ族が70万人です。ガルブ族は二等市民の様に扱われており、その迫害の歴史は根深く、国際的な会議で何度も問題提起がされています」
ヨシヒコが数日前の新聞を、ミカン箱の上に広げた。D国を写した衛星写真が乗っており、軍隊の布陣を表わす凸型が書き加えられている。
「暴政により経済が破綻しかけていたD国で、数日前に内戦が勃発しました。白人系住民が聖ギブソン大聖堂を本拠地として、政府軍に反旗を翻しました。かなりの住民が裏で表で革命軍に協力している模様です」
ヨシヒコはノートパソコンの画面を開きながら、さらに話を進める。
「政府軍は独裁者の居住している政府宿舎に、大量の兵士を集めています。また政府宿舎を守る様に建設されている3つの軍事要塞がありますが、レオンさんの予言通り、そのうちの1つが革命軍により早々に陥落しました。第一要塞を守っていたガルブ系の将軍がその戦いで戦死した為に、態度を明確にしていなかったガルブ系の住人達は、政府軍側に急接近するだろうと報じられていますが――――」
「恐らく、それは見せかけだろう」
オレは転がっていた木の枝を掴み、ミカン箱の衛星写真にこつんと突き当てた。第二要塞である。
「でも兄ちゃん、大丈夫なのか? そこに兵隊が集まっているだろうってことは小学生でも分かるぜ?」
「……そうだな。1人の力では難しいかも知れない」
オレはお茶を飲み干して、立ち上がった。
「あれ、兄ちゃん。もうトレーニングを始めるの?」
「いや、すまんが今日はいくつか用があってな。駆け足であちこち行かなきゃならない」
「ちぇ、何だよ、せっかく釘付バットを作ってきたのにさ」
ややサディストとしての才能があるケンイチが不満そうな声を上げた。
「ごめんな。隠し金庫の軍資金を使っていいから、新しい武器でも考えて置いてくれ。鞭とかがいいかもな」
「ほんとか! よーし」
「ではレオンさん、わたしはネットを使って、要塞以外に目標となりそうな重要施設がないかを調べて置きます」
「ああ、頼む。じゃあナツミ、行って来るよ」
「いってらっしゃい、レオン」
いつの間にか、こちら側でもレオンと呼ばれている事にふと気が付き、オレは曖昧な表情でナツミに笑い掛けた。
運動公園から一度アパートに帰り、今度は駅のそばの公園まで移動した。昔、働いていた頃に毎日横断していた公園だ。いつもの場所のいつものベンチに、いつもの様に老人がいた。魚肉ソーセージをつまみにして、ちびちびと酒を飲んでいる。
オレは向こうの世界で出会った老人の事を思い出した。
自前の軍隊を率いて市場に攻め込んだが、全滅してすべてを失った男だ。過去の思い出と仲間の死に縛られて、市場の公園の片隅で亡霊の様に酒を飲んでいたのだ。しかしその老人は、まだ魔法の力を失ってはいなかった。
「こんにちは」
「……」
老人はオレの事を完全に無視して、酒を一口飲んだ。オレはポケットから魚肉ソーセージを一本取り出して、老人に差し出した。
「フン、変わり者だな、若いの。誰かが儂に話し掛けて来る事は年に一度ぐらいはあるがな。で、何の用だ? さっさと言え」
「……あんた、金に詳しいか?」
老人はオレの顔に目をやり、ゲラゲラと笑い声を上げた。笑いながら魚肉ソーセージのビニールを剥く。
「可笑しな奴だ。金に詳しい奴が、こんな所で昼間から惨めに酒を飲むかね?」
「じゃあ質問を変えよう。あんたは多い時で何人の部下を使っていた? そして何人殺したんだ?」
老人は鋭い目でオレを睨み付け、黙り込んだ。しばらく待っていたが、老人は何も言わず自分の世界に浸ってしまったので、オレは諦めて踵を返した。両手をそれぞれ塞いでいた、重いアタッシュケースと買い物袋が無駄になってしまった様だ。
数歩、進んだ頃に老人が声を出した。
「100人、いや多い時なら200人程度だったか。ただしその1人1人が最低でも1億は扱っていたし、上の者は小さな国の国家予算以上の金を動かしていた。儂の事を知っているのか?」
「いや、知らないよ。あんたに金と場所、必要なら名を与えたら、金を増やせるかい?」
「儂の知識は随分と古い物になってしまったが、金という化け物はそれほど性質を変えてはおらんはずだ。……ルールを作っている者共に逆らいさえしなければ、増やせるだろう」
オレはアタッシュケースを開き、金貨を換金した札束を老人に見せた。老人は全くの無反応だ。
「これだけじゃない。まだまだある」
「フン、儂を探り当てたことだけ見ても、お前は有能な若者なんだろう。しかし、儂はもう金には興味がない」
「ああ、オレも金には興味が無いよ。ちょっと前までは、数百円を惜しんでいたけどね。これであんたを雇いたい」
オレは買い物袋を開き、中を老人に見せた。中には魚肉ソーセージだけが何十本もぎっしりと詰まっていた。オレが少し微笑むと、老人もつられてニヤリと笑った。
「なるほど。儂を見つけただけでなく、人の心を掴む術も持っているとな。いいだろう、儂の錬金術を使ってお前の金を増やしてやろう。で、増えた金をどうするんだね?」
「そうだな。まずは土地が欲しい。丘1つ分の土地だ」
それを聞いた魚肉の老人は、可笑しそうにゲラゲラと笑い「自分の王国でも作るつもりなのかね、若いの」と言った。
真っ白な大型ワゴン車を運転していた。助手席に座っているスナフキルは、車から見える日本の風景を面白そうに眺めている。丁度、咲き始めた桜たちが、街を桃色に染め上げていた。この美しい花の種か苗を、向こうに持って行く事が出来ないだろうか。
交差点の信号で止まった時に、スナフキルが目配せをした。バックミラーを見ると、100メートルほど後方に真っ赤なスーツを着た大男が2人歩いていた。鏡越しに目が合った様な気がしたオレは、ぞくりと身を震わせる。
「またあいつらか」
「前の奴は殺したから、別の奴らだね。猿みたいにそっくりだけれどさ」
「ウイルスみたいな奴らだな」
「どちらかと言うと彼らは白血球の方かな」
「昔見た映画にあんな奴らがいた気がするな。さしずめオレ達がばい菌ってことか」
スナフキルはハンドガンを取り出して、弾を確認した。
「レオンが一番大きなバグ。僕も含めて繋がりの濃い者達が、レオンに引き寄せられ始めている。そしてユキという女性は、恐らくレオンの次に大きなバグ。この2つが合流する事をあいつらは許さないかもね」
「どこ行くんだ、スナフキル!」
スナフキルは車のドアを開けて、外に出た。風に飛ばされた桜の花びらが、少年の様な男の肩に張り付いた。
「僕の仕事は、僕の名前を知るレオンのことを守る事。大丈夫、誘うだけで戦わないよ。さあ行って、信号が変わるよ」
オレは車を発進させた。スナフキルの事が心配な気持ちを抑え切れず、拳をハンドルに叩き付けた。深呼吸を何度もして、気を落ち着かせる。また信号で止まると、隣のトラックドライバーが、ラジオを聞いているのか大口を開けて笑っていた。オレの視線に気が付いたドライバーがこちらを睨んだが、すぐに脅えた様に目を逸らした。
やがてワゴン車は静かな住宅街に入った。車のスピードを落としてゆっくりと進み、ユキの家の手前に車を止めた。しばらく待っていると看護師が門から出てきて、手招きをした。ユキのそばに最初の時からずっといる中年の女性だ。
オレはワゴン車の荷台からストレッチャーを降ろして、アスファルトの上を転がした。
そして、ユキを盗む為に、他人の家に侵入した。
――――――――――――――――――
新兵訓練所を抜けたオレは、ドライフォレスト地下養畜街を歩いていた。
亡者やゴブリンが蠢き、不衛生そうな店が両脇に並んでいる。ガラスケースにゴブリンの肉厚な首がずらりと並んでいたり、短いスカートを履いた雌らしきゴブリンが、上目遣いで腐食した壁に寄りかかっている。首輪を付けたゴブリンを引き摺っている亡者や、逆に首輪を付けた亡者を連れ回しているゴブリン等もいた。どうやらここは、他の場所とは少しルールが違う様だ。
試験管に入っていた緑色の液体を飲み干した亡者が、普通ではない倒れ方で地面に転がった。横を通った時には、その亡者はすでに死んでいたが誰一人気にも留めない。アポロが死体の匂いを嗅いで鼻をクシャクシャに寄せ、後ろ足で砂を掻いた。
前方に懐かしい顔が見えた。
闘技場で出会ったギャンブル中毒で、半亡者のおっさんだ。金を賭けるだけでは飽き足らなくなったおっさんは、今は革命軍に参加して命をチップ代わりにしている。おっさんは冷たい表情のままオレと擦れ違い、何も言わずに歩き去った。
しばらく養畜街を歩き回っていると、案の定おっさんが横に並んで歩き出した。おっさんが無言のまま一軒の店に入ったので、後に続いて店に入る。人気の無いカウンター席の端っこに腰を下ろすと、おっさんは人懐っこい笑顔を浮かべ、手を差し出した。がっしりと握手を交わす。
「よう、あんちゃん。87番麦を破壊してくれてありがとう」
「ああ。……ダシにされた様な気も少ししたが」
「すまん。力のある石版の契約者の参戦というのが、ゴブリンの女王が革命に参加するのに出した条件だったんだ。地図と手紙を渡した時点では、まだ無かった話だ。すまなかった、この通り謝る」
おっさんは腹をボリボリ掻き毟りながらそう言ったが、目はこれ以上ないほど真剣だった。
カウンターの中に居た店主がオレに小さく頷いて、飲み物と料理を前に置いた。店主の手には剣を毎日振り続けた者だけが持てる、何重ものタコがあった。
「あんちゃんが87番を壊してくれたおかげで、少しだが王宮内にも入り込める様になったんだ。廃人同然の狂った王もさすがにびっくりしたのか、残り2つの87番麦に兵を集めた様だ」
「やっぱりそうか」
「ああ。2つ目の87番は近衛兵詰所にある。兵は200以上に増員されているし、麦のそばには近衛隊長のダニー・ピエールが常に張り付いている様だ」
おっさんは緑カブトムシの串焼きをバリバリと美味そうに齧った。
「そのピエールって奴は強いのか……オエッ」
「強いな。ただピエールが強いと言うより、王から貰った装備一式が強いんだ。宝剣や36番麦をたっぷり使った耐魔鎧。ピエールは力を与えてくれた王に心酔しているし、美しくて強い狂戦士ピエールに多くの近衛兵は心酔している。説得はしてみたが無駄だった。例え血の契約が無かったとしても無理だろう。……食わないのなら貰ってもいいか?」
オレはカブトムシの串焼きをおっさんの方に寄せた。カウンターの上にいるアポロが食べたそうな素振りを見せているが、あまり食べさせたくはない。
「3つ目は?」
「地下研究所の最深部だ。こっちにも近衛兵が増員されているし、マッドサイエンティスト達が作った多種多様のゴブリンどもが守っている。守っているというよりは徘徊していると言った方が正しいがな。こいつらには女王の声も、もはや届かないそうだ」
「なるほど。どっちの87番麦がおすすめだい?」
緑カブトムシを順調に胃袋に収めていくおっさんの事を、アポロが不満げに威嚇していた。
「……どっちとは言いづらいな。お袋の結婚指輪を質に入れて賭けちまった事もあるぐらいだが、他人の墓をどっちにするかを決めたくはないからな。いや、すまん」
「ハハッ、なんなら両方とも壊してやろうか?」
「いや、復興の時の為に87番麦を1つは残して置きたいんだ。まあ、取らぬゴブリンの牙算用だがな」
おっさんの事を脅し始めたアポロを膝の上に乗せて、ポケットからコインを1枚取り出した。ダイヤモンドナッツの代金としてマキから貰った銅貨を元手にして、おっさんとギャンブルで稼いだフォレス金貨だ。オレはお守り代わりの金貨を親指で弾き上げ、手の甲で受け止めて蓋をした。
「表なら近衛兵の詰所。裏なら地下研究所だ」
被せていた手の平を少しだけ持ち上げて、おっさんにだけコインを見せた。
「…………すまん。地下研究所の方だ」
「よし、決まった」
誰もいない店内でおっさんと打ち合わせをした。
決行の日、革命軍とゴブリンの女王はあちこちで暴動を起こす。鎮圧の為に近衛兵が回された隙に、オレは最短ルートを通って地下研究所の87番麦を破壊するという、単純明快な作戦である。闘技場でおっさんと出会ったのは、もしかしたら偶然じゃなかったのかも知れないと思ったが、オレは何も言わなかった。
「研究所に手引きをする者と当日に引き合わせる。ヘッヘッヘッ、楽しみにして置いてくれ。いい女なんだこれがまた」
「女性に付いて行って酷い目に合った事が何度かあるが、まあ期待して置くよ」
「じゃあ今日はこんな所かな。奢るから何か食べるかい? へい親父、カブトムシの踊り食いを2人前頼む」
「…………」
「フッフッフッ、冗談だよあんちゃん。猫の旦那の方は食べたそうだがな」
「む……いや、手を付けなくて悪かった」
「食文化の違いはどこだってあるさ。あんちゃんが遠い所から助けに来てくれて、感謝してる。教会で戦っている革命軍の全員が、あんちゃんに感謝しているよ」
「フフッ、勝った時は金貨にオレの肖像でも刻んでくれ」
おっさんは、オレのアフロヘアーをしげしげと眺めてから、腹を抱えて笑った。
季節が正反対のオレとユキの丘が、同じ温かさになっていた。オレの丘はこれから温かくなり、ユキの丘はあっという間に寒くなって長い長い雪に閉ざされた時間が始まる。いつもの様に塔の最上階の窓際のテーブルに、向かい合ってユキと座っていた。フクタチが少しふっくらとしてしまったので、お土産にお菓子を持ってくることを控えていた。ドライアドの少女は、替わりに持ってきた絵本とアポロを胸に抱いてお昼寝をしている。
ユキは細身のジーンズにフード付のグレーのパーカーを着ていた。昔、何も考えずに洋服を適当に買っていたら、同じ色のパーカーばかり3着も揃ってしまったという話をした所、ユキが面白がって作った物だった。オレが服を着るとシャツでもズボンでもすぐによれよれになってしまうのに、ユキが着ている服はいつだって新品の様に輝いている。ユキの真っ直ぐな黒い髪が、少しだけ下げられた胸のファスナーの内側に入り込んでいた。
「……なあ、ユキ。オレ言わなきゃならない事があるんだ」
「うん。いいよ。言って」
「ユキのお母さんが倒れて入院したんだ。……もう、病院からは出て来れない」
「そう」
ユキは長い睫を伏せて、俯いた。オレは5分ほど、ユキが顔を上げるのをじっと待つ。
「看護師さんから聞いたのだけれど、親戚が集まってユキの事をどうするのか相談したらしい。それで専門の施設に行く事に決まったそうだ」
「そうだね、そうなるね」
ユキは微笑んで見せたが、瞳が震えている。
「オレさ、一応その施設を見て来たんだ。ユキにとってどちらが本当にいいのか、自分の目で確かめたかったから」
「うん」
「それで思ったのは……あそこにユキを連れて行く訳にはいかない」
「……」
「実はさ。今、ユキは、もうオレの横で寝てるんだ。向こうの世界で」
ユキは色んな表情を見せた。驚き、喜び、不安そうな顔になり、母の事を考えたのか泣き出しそうになり、最後には弱々しく微笑んだ。
「ありがとうレオン。確信はなかったけど、向こうでレオンがそばに居る様な気がしてたんだ。フフッ、私たち同棲してるのね?」
「ああ、一緒に暮らしてるよ」
「でも大丈夫なの?」
「うん。同じ看護師さんが住み込みでユキに付いていてくれる事になったんだ。しつこくユキの家に通い詰めて勝ち取った信頼と、まあ、正直お金の力もある。それに看護師さんもユキに意思がある事を、はっきりと感じているんだ」
オレは昨日から始まったユキとの新生活について、あれこれと話した。ベッドを隣り合わせに置いて手を繋いで寝た事や、記念として庭に埋めたヒマワリの種の事を話した。もちろん、ユキには話さない大変な事もいろいろ出て来るだろうが、オレは幸せだった。
ユキと、カーテンの色や新しく揃える家具の事を相談している時に、オレは強烈な不安に襲われて言葉を詰まらせた。
「どうしたの、レオン?」
「なあユキ…………もしかしたらオレ、死ぬかもしれない」
「……」
「いや、簡単に死ぬ気はないけどさ。ただ、逃げる事が出来る状況でも、逃げずに命を捨てて戦ってしまうかも知れない。今更逃げ出すには、あまりにも沢山の死と関わってしまったんだ。無責任でごめん」
ユキは優しく微笑んで、オレの手を握りしめた。
「いいよ。思いっ切り死んで来て。そして、一番大切な私の事を思い浮かべるの。どうなるかは分からないけど。フフッ、他の人のことを思ったら、許さないからね」
オレは胸にしまっていた指輪を取り出して、ユキの指にそっとはめた。
◆◆◆
ユキは塔の最上階で、蝋燭の明かりを頼りに手紙を書いていた。しかし、書き上げた手紙を何度も破り捨て、結局ユキは明け方になっても手紙を書き上げる事が出来なかった。一番最初に破り捨てられた手紙には、こう書かれていた。
『お母さんへ。私です、ユキです。私がユキだと証明する事は、出来るのでしょうか? 私とお母さんしか知らない事を書く事は出来ます。箪笥の後ろに落ちたボタンのことや、台所の赤ちゃん椅子のこと、幼稚園にお母さんがお迎えに来てくれた時の、グーチョキパーの秘密の合図の事など。沢山書く事は出来ますが、きっとそんな事を書かなくても、手紙を読めばお母さんには私だと分かるはずです。
私は今、別の世界で暮らしています。
現実そっくりな夢の中で生きていると言った方が、お母さんには分かり易いかも知れません。私の事をずっと看病していてくれたお母さんの存在を、ずっと感じていました。暗闇の中から必死で叫ぶ私の声が、お母さんにはきっと届いていたとユキは思っています。お母さん、ありがとう。お母さんが苦しい時に一緒にいてあげられなくて、ごめんね。
私はずっと1人ぼっちで、孤独と怒りに心を奪われてしまいました。世界の全部を破壊してやりたくて、その方法を一晩中考えていた事もあります。美しくて傲慢だった14歳のユキは死んでしまい、怒りで顔を歪ませた、醜い少女が新しく生まれました。
お母さん、さっきからユキは自分の話ばかりしていますね。でもお母さんと居る時はいつもそうでした。料理をしながら私の話をずっと聞いてくれたお母さんの姿を思い出すと、悲しくて心臓が潰れてしまいそうです。
このまま手紙を書き続けると、まるで家庭の医学の様にぶ厚い手紙になってしまいそうです。あまり長いと、暗記して書き直さなければいけない彼が大変だし、お母さんの料理も冷めてしまいますね。
お母さん、私は今、とても幸せです。私の事を救い、一緒に居てくれる大切な人がいます。だから、もしお母さんがユキのことで心を痛めていたら、どうか安心して下さい。ユキは大丈夫です。
でもお母さんがそばに居たら、本当は色々相談したかったです。
ユキは彼に言っていない事があります。
彼がユキに会いに来る前に、実は他の人が私の事を探して、訪ねて来たのです。でも、その男は私の所まで辿り着く事が出来ませんでした。諦めて自分の丘に帰ったその男をスノーサイレンスは……いいえ私は、探し出して丘を丸ごと燃やして消滅させました。今となってはその男が、どういう存在だったのか確認する術はありません。
レオンに秘密にするつもりはありませんでしたが、言うのを先延ばしにしているうちに、それは秘密になってしまいました。ユキはズルくて卑怯な女です。でも、怖くて怖くてレオンに言う事が出来ません。もしレオンが辿り付けなかったら、私はレオンを殺していたという事になるからです。
彼のことを愛しています。彼の事を守る為ならば、黒板のいたずら書きを消す時よりもためらいなく、ユキは自分の命を投げ出します。私の命は、髪の毛一本に到るまですべて彼の物です。彼がいなくなってしまったら、私はもう存在しないも同然だからです』




