つらい時に思い出す事
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まるで回復魔法の様な早朝の光の中で日課の走力トレーニングをしていると、見覚えのある顔に出会った。タケシ達のサッカークラブのコーチである。向こうもジャージ姿で汗を流している。方向が同じだったので自然と並走する形になり、軽く挨拶をした。
オレがペースを上げるとコーチもスピードを上げ、少し後ろを付いて来た。別に振り放そうとした訳ではないがペースを段階的に上げていくと、何故かコーチも付いて来て、最後の方は彼女にとって全力疾走に近いスピードで10分以上は走っていた。
アパートの前で足を止めると、彼女は喘息患者の様に苦しげに息を付いた。
「……よく付いてきたな」
「はあはあはあ、もう、息が、整っているんですね。化け物ですか?」
「毎日走っているってだけだよ」
「それは、私も、ですから。いつもは夜ですが」
彼女は相当無理して走った様で、プールから上がったばかりの様に汗が噴き出している。彼女にちょっと待っていてくれと言い、アパートの部屋からタオルと彼女の落としたネックレスを持って来た。
「ありがとうございます! あったんですね」
「うん、やっぱり公園にあったよ」
「へへっ、嬉しいです」
彼女はケラケラと笑いながら汗を拭き、石の付いたネックレスを首にかけた。公園で話した時と少し印象が違うのは、彼女が今はコーチではないからだろう。ベンが領主の時は領主の顔になるのと同じ事だ。
「本当にありがとうございます。探してくれたんですね」
「うん、まあ。……ちょっと聞いてもいいかな?」
「どうぞ」
「正直に言うとさ、さっき走ってた時、付いて来れないと思ってたんだ。どうして付いて来れたの、と聞くのも変だけど」
「へへっ、私、学生時代から我慢するのが得意なんです」
「最近、急に足が速くなったとかではなくて、単に我慢したの?」
「はい」
「……そうか。我慢するこつでもあるなら、オレも教えて欲しいよ」
「えーと、内緒ですよ?」
彼女は恥ずかしそうに小さく笑った。
「自分の事を虫だって思うんです。私は苦しみも痛みも感じない、飛び続ける一匹のバッタだって思うと、つらい時も不思議と我慢できるんです。へへっ、虫に失礼ですよね」
「なるほど。今思い出したけれど、昔オレも同じ様な事をしてた時があった。仕事がつらい時、自分は文房具だって思う様にしてたんだ。ハハッ、文房具に失礼だよな」
「フフフ」
顔を見合わせてクスクスと笑い合った。最初に彼女と出会った時に自己紹介をされた事を思い出す。名前は確か、ユウコかユウだった気がする。
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ドライフォレストの地下養畜街。そこで作り出されたノーマルゴブリンを選別する新兵訓練所。地下はあまりにも広大で、もはや今いる場所が地上ではどこに相当するのかが分からなくなっていた。あるいはフラニーと出会ったあぜ道の真下だとしても、なんら不思議ではない。
「虫が途切れたら右の道へ走るぞ、息は整ったか?」
足の下を緑色のカブトムシが、通り過ぎていく。オレは粗末なベンチの上に立ち、アポロを胸に抱きしめながら脅えた目で虫を見ている。なぜなら緑色のカブトムシは一匹ではなくて、数千万匹はいるからだ。まるで汚い川の水が流れて行く様に、虫の大群が大移動をしている。
「アポロ、あんまり見過ぎると酔って気持ち悪くなるぞ」
通勤電車の窓から電柱を数える時の様に、首をカクカクさせながら地を這う虫を夢中で眺めている。どうやらアポロにとっては、大量の獲物が逃げ出している様に見えるらしい。事実、あのカブトムシは食用だった。
元々はゴブリンだった生き物を科学者や魔道士達が品種改良した、食用ゴブリン、と言うよりか食用虫なのだ。フラニーがこの虫を食べた事があるのかどうかは知らない。
虫の大群が通り過ぎ、オレとアポロはベンチから飛び降りて走り出した。
ここはゴブリン新兵訓練所の最終関門、ドライフォレストの街並みを模した無人の街である。張りぼての家と本物の家が入り混じった風景は、あたかも何処かのテーマパークか、映画の撮影所の様である。
家の窓や壁には人間の絵が描かれており、用水路や井戸に銅像、屋台や街灯に散歩中の犬の張りぼてまでが再現されている。天井に描かれている毒々しい空の絵は、ここを作った人物が正気を保っていない事を顕著に表わしていた。
地下にこんな物をよく作ったなと思うが、感心している場合ではない。
早くも次の、死のざわめきが聞こえている。兎に角、走らなければ。
新たにベンチを発見したがスルーして、その先にあるゴミ箱の上に飛び乗った。やって来たのは虫の大群ではなくて、兎の大群だった。ツルリとした緑色の肌を剥き出しにしている数百匹のゴブリン兎達は、山火事から逃げ出す様にピョンピョンと飛び跳ねている。
一匹の間抜けな兎がゴミ箱に激突して不様に気を失い、上に乗っているオレの心臓を縮み上がらせた。
スルーしたベンチの方を見ると、兎の群れに飲み込まれていた。
「さて、見通しの悪い位置に来てしまったな」
上に乗る事が出来るゴミ箱やベンチは、挑戦する度に配置が変わってしまうのだ。今いる場所の先はT字路になっており、ここらかでは様子を確認する事が出来ない。
アポロは見ずにはいられないのか、通り過ぎていく兎達を、回転するバレリーナの様に首を振って眺め続けていた。興奮と獲物を逃がす悲しみで口から鳴き声が漏れ出ている。
兎の群れがいなくなった瞬間にT字路に向けて全力で走り、素早く左右を確認する。
左の道のすぐの場所に飛び乗れそうな花壇があった。右はかなり遠い場所に大きなポストがある。左に行きたい誘惑をぐっと堪え、右の道に行った。兎ならば左の花壇の高さと強度があれば十分だが、万が一ヤギの群れが来てしまった場合は、死なないまでも結構なピンチに追い込まれてしまう。
ポストに飛び乗ってしばらくすると、地鳴りの様な音が聞こえて来たがやって来たのは兎だった。
オレは思わず舌打ちをする。
この先に待ち受ける地獄では、ほんの少しの残り体力の差が生死を分けるからだ。ポストの上で苛々と膝を揺する。
いかん、落ち着け。
公園で高鬼をしている時に、タケシやヨシヒコに口を酸っぱくして何度も言われた事を思い出せ。
「常に安定行動を取れ、勝負の途中で勝負の事を振り返るな……だ」
再び走り出したオレは井戸の淵や銅像の上などに飛び乗って、順調にコースを進んで行った。この世界に自動販売機がないのが口惜しいが、街灯ならばちゃんとあった。街灯は高さも強度も申し分なく、勝負所で街灯が引けるか引けないかが攻略の鍵になるだろう。
そう思っていると、あっさりと街灯を見つけてしまった。
絶大な安心感のある街灯にしがみついていると、眼下を大量のカブトムシが通り過ぎていった。高さの無駄使いである。もったいないが、まあいいだろう。ふと視線を感じて顔を上げると、目の前の窓に着替え中の下着姿の女性がいた。写真の様に精巧だが、もちろん張りぼての絵である。肩に乗っているアポロと顔を見合わせた。
「フフフッ、今日はついてるかもな。さて、こっからは難易度が上がるが、決め事は覚えているな……命令だぞ、アポロ」
短距離や中距離ではオレよりもアポロの方が足が速いので、この先アポロだけが間に合うという展開が必ず来るはずだった。つまりその時の決め事である。
街灯から飛び降りたオレ達は、呼吸をする事も忘れて必死に足を動かした。
いくつかの食用動物の群れをやり過ごし、未知の領域に足を踏み入れた。今日でクリアをするつもりで走っていると、十字路に差し掛かった。右には乗っかれそうな物が何もない。左もない。そして正面にも何もない。一瞬だけ迷い、一番太い右の道に進んだ。入り組んだ別れ道をいくつか曲がったが、張りぼての家に挟まれた何も無い道だけが延々と続く。すぐ近くから地響きが聞こえてくる。まずいぞ。
先に曲がっていたアポロが引き返しており、道を指し示している。
「行け! いいから行くんだ!」
角を曲がると横に倒れた洋服箪笥が捨てられていた。慌てて縦に持ち上げようとしたが、死を告げる足音が間近に迫っている。仕方なくオレとアポロは倒れた箪笥の上に乗り、身構えた。
……高さがたりるのか?
曲がり角から、緑色のダチョウの群れが姿を現した。ダチョウ達は箪笥を避けて道を走り抜けて行く。
しかし、擦れ違い様に細長い首を伸ばし、くちばし攻撃を繰り出した。オレはアポロを胸に抱え込み、体を丸めた。がっちりと固めた両腕のガードに、ガシガシとダチョウの口が突き刺さる。このままではこじ開けられてしまう。
オレは守る事を止め、ダチョウの首を星銀の爪で切り落とした。次から次にやってくるダチョウの首を大根の様に切り落としていく。ダチョウのくちばしがこめかみに突き刺さり、ぐらりと視界が揺れた。
血を流しながら辛抱していると、ダチョウの弾幕がようやく薄れ始めた。
「アポロ、大丈夫か。ダチョウが通り過ぎたら、まずは箪笥を縦に持ち上げるぞ。上に乗ってしばらく休憩しよう。回復アイテムも沢山ある」
最後のダチョウが角を曲がり切った様だ。道のすぐ反対側の家にバルコニーの絵が描いてあり、寛いだ様子のゴブリン教官兵3匹の絵が一緒に描かれていた。ゴブリン教官の絵は、手に持っていたサンドイッチを道の真ん中に投げ捨てた。その絵はさらに動き、弓を構えたり火炎瓶に火を付けたりし始めた。
「ちくしょう。そんな立体的な絵がある訳ないだろ」
洋服箪笥から飛び降りて、ダチョウの後を追うようにして走った。背中の後ろで箪笥が吹き飛ぶ爆発音が聞こえ、鼓膜が激しく揺さぶられる。
複雑に枝分かれしていた道が、今走っているメインストリートに徐々に集約され始めている様だ。もしかしたらゴールが近いのかも知れない。
しかし、何もない平坦な道が何所までも続いている。正確に言えばベンチや花壇などはあるのだが、その程度の高さしかない物は、もはやなんの存在価値もない。
すでに長い時間、全力疾走を続けているオレは限界が近づいていた。少しペースを落として距離を稼ぐべきなのかも知れないが、死のざわめきがそれを許さない。
「はあ、はあ、はあ、まだか。高い場所はまだか! 頼む」
50メートルほど先を走っているアポロが、脇道に何かを見つけたのか方向転換をした。しかしアポロはすぐにメインストリートに戻り、再び走り始める。通り過ぎる時にチラリと脇道を見ると、ゴブリン教官兵の形をした銅像が、血を流して地面に転がっていた。空っぽの台座があり、そこより少し先に同じ台座に乗っている別の銅像があった。オレが曲がる気配を見せないと、その銅像は動き出してポリポリと頭を掻いた。
心臓がこれ以上ないほどの早鐘を打ち続け、ストーブに頬を摺り寄せているかの様に顔が熱い。内臓がパンパンに腫れ上がり、拷問さながらにオレに苦痛を与え続ける。もうこれ以上は走れない。走るのを止めさえすれば、すべての苦しみから開放されるはずだ。オレは弱気になり始めていた。アドレナリンに身を任せて単純に殺し合うだけというのは、なんという楽な作業なんだろう。
……そうだ、ユキがいるんだ。あの道の向こうにはきっとユキが待っていてくれるはずだ。オレは、ユキに会いに行く為に、一生懸命走っているんだ。丘に帰ったらすぐにユキに会いに行こう。
そう思うと、不思議と足に力が湧いて来た。苦しみから目を逸らす為に、ユキとの楽しい思い出を考え続ける。もし楽しい思い出が何もなかったら、朝起きて歯を磨く事すら困難だろう。
太腿に痙攣が走る予兆が出ていた。涎と血が混じり合い、顎をびしょびしょに濡らしている。
かなり遠くではあったが、曲がり角の手前に街灯が立っているのが見えた。オレは歓喜の悲鳴を上げて、最後の力を振り絞る。あの街灯が必要な物は全部与えてくれるはずだ。
しかし、先行しているアポロが街灯を通り過ぎ、角を曲がって行った。
何故だ?
何故、街灯に飛び付いてしがみ付かないんだ、バカアポロ。
いや、馬鹿なのはオレの方だ。
その街灯は本物の街灯ではなくて、壁に描かれた絵でしかなかった。そしてその事は、アポロがスルーする前に、すでに分かっていた事だ。オレの両足から力が抜け始める。
「ニャーーーーー」
顔を上げると、アポロが立ち止まりこちらを見ていた。屋台がポツンと1つだけあり、屋根の上にアポロがいる。高さは十分だし、なかなか頑丈そうな屋台じゃないか。アポロが安全地帯から飛び降りる素振りを見せた。
「そこに居ろ! もう50メートルもない」
その屋台のカウンターには、ハンバーガーにそっくりな食べ物が山積みにされていた。フォレス麦をたっぷり使ったフカフカのパンに、肉汁が滴るハンバーグ。ハンバーグは何故だか少しだけ緑がかっている。不良品じゃないのか。いや、不良品ではない。
足元が揺れているのは、地震のせいではなかった。
緑色の牛の群れが、向こう側から怒涛の勢いで進軍している。ズラリと並んだ角は、まるで槍衾の様だ。有難いことに、道を埋め尽くしている牛たちは屋台を壊す気はないらしい。アポロの絶叫に近い鳴き声が、牛の大群の地面を蹴り飛ばす音に掻き消された。
これはダメかも知れん。
オレは迫りくる牛の隙間に身を捻じ込み、星銀の爪を牛の鼻に突き刺して強制的に進路を変えさせた。しかし、そんな事が出来たのは、せいぜい最初の10匹程度だった。あとは人間ピンボールの始まりだ。牛に弾き飛ばされ、別の牛に鎧を引き千切られ、また別の牛に弾き飛ばされる。蹴飛ばされた脛や膝の骨はよく頑張ったが、徐々に砕けていった。
でもオレは目をしっかりと見開き、角の直撃だけは避け続けた。何度か地面に転がされたが、その度にすぐ立ち上がり、次に備える。倒れたまま牛に踏み付けられてしまえば、もう終わりだろう。一匹の牛の背中によじ登るとその牛は立ち止まり、仲間達にズタズタに突き殺された。またピンボールが始まる。
あまりの激痛に、脳味噌が世界を認識する事を拒否し始めた。
……大丈夫。痛くない。オレは文房具なんだ。ただのペーパークリップさ。ただのペーパークリップが痛みを感じる訳がない。
何度も自分にそう言い聞かせ、意識を保つ。
背中に牛以外の何かがぶつかった。真上を見上げるとアポロが口をぱくぱくさせて、オレを呼んでいる。牛の尻に足をかけ、屋根の上に飛び乗った。
ぐちゃぐちゃに折れ曲がったペーパークリップが、屋根の上で意識を失った。
目を覚ますと、血を流したアポロがオレを覗き込んでいた。まだ屋根の上で寝ている様だ。回復アイテムを取り出して、アポロの口に突っ込んだ。
「どうしたんだ、血を流して?」
上半身を起こして、周りを確かめた。道には緑色の牛の死体だけではなく、ゴブリン教官兵の死体が30体ほど転がっていた。激しい戦闘があった様で、牛の死体が焼け焦げている。
「守ってくれたんだな、アポロ。何? 何か見つけたのか?」
回復アイテムを全部使い、恐る恐る立ち上がってみた。激痛はどうしようもないが、歩く事は何とか出来そうだ。アポロが屋台から飛び降りて、向こうに歩き出した。
「待てって。大丈夫なのか?」
苦労して地面に降り、どんどん進むアポロを追い駆けた。牛の群れはもう来ないという事だろうか。
しばらく歩くと大きな門に辿り着いた。オレが近づくとギシギシと門が開く。
「多分これはゴールだな。でかしたぞアポロ」
2階建てのお役所の様な建物があった。石碑を探して建物の中に入ったが、事務机や椅子があるだけで意味のありそうな物は見当たらない。もう戦う力は残っていなかったが、石碑が見つかるまで進むしかないのだ。2階の奥の方に豪華な両開きの扉があった。何かがあるとしたら、あそこだろう。
「やあ、お疲れ様。よく牛の群れを突破出来ましたね」
「くそ……アポロ、やっぱり今日は運がなかったようだぜ」
声を掛けて来たのは革張の椅子に座っている人間だった。いや、肌は緑色ではなかったが顔にはゴブリンの特徴が少し入っている。この男が人なのかゴブリンなのかは分からないが、強いという事だけは確かだった。男は穏やかに笑い、葉巻に火を付けた。そしてとても美味そうに煙を吸い込んだ。
「実はあそこの牛の群れはね、突破出来ない様に計算されて作られているのですよ。走るのがいくら早くても、屋台の上には絶対に乗れません。速度に合わせて屋台の位置が変わるからです」
「じゃあ、必死で走ったのは無駄だったな。おかげでハンバーガーは、もう2度と食べる気がしなくなったよ……あんたは人なのか」
男は葉巻をもう一度吹かした。服には勲章の様な物が、沢山付いている。
「いいえ、私はゴブリンですよ。ちなみに階級は中将です。あなたと同じで、私もあの食べ物が大嫌いです」
「なるほどね」
そのゴブリンの頭には、まるで機関車の車輪にひかれた様な古傷があった。恐らく牛の角にやられたのだろう。
「訓練所を最後まで突破出来るノーマルゴブリンは、数えるほどしかいません。なにしろノーマルゴブリンは作るのが簡単なので、今までどれだけの兄弟達がこの狂った施設で犠牲になったのか、もう分かりません」
「……」
「あなたは突破出来たので、望むのなら准将の地位と肌の移植手術を受ける事ができますよ。もちろんこれは冗談ですが」
「フフッ、なかなか面白いじゃないか。それで……戦うんだろ?」
ゴブリン中将は葉巻を一口吸い、寂しそうな顔で火を揉み消した。そして懐から手紙を取り出した。
「本来ならそうなるはずでした。それが私の役目だからです。しかし、ゴブリンの女王から私宛に手紙が来たので、そうはなりません」
昔フラニーから聞いた事があるが、ドライフォレストの多くのゴブリン達は一匹の雌ゴブリンから作り出されているという。もちろんお腹から生まれた訳ではないだろうが、あの緑のカブトムシやハーベストゴブリン達も母親は同じなのだ。
ゴブリン中将は椅子から立ち上がり、奥にある別の扉を開いた。後に付いてその部屋に入ると、見た事もないオレンジ色の光が空中を飛び回っていた。光の中心に、フォレス麦の稲穂がある。
「我らが母親は種の運命を、革命軍とあなたに賭ける事に決めたそうです。狂った王が死んだ暁には、我らはドライフォレストの北側にある大森林を貰う事に決まりました。さあ、87番麦を破壊して下さい。防護魔法陣を消しておいたので、簡単に壊せますよ」
ゴブリン中将は手紙を燃やしながら、嬉しそうにニコリと笑った。きっと、大森林という場所に作られた自分達の国を思い浮かべたのだろう。
宝石の様に眩い光を放ち続ける87番フォレス麦の稲穂に、星銀の爪を叩き付けた。膨大な力を持つ一つ目の87番フォレス麦が粉々に砕け散り、部屋は薄暗さを取り戻した。
振り返ると、名も知らぬゴブリン中将が仰向けに倒れていた。服を少し捲り上げると、血の契約の魔法陣があったであろう心臓の部分に、ぽっかりと穴が空いていた。オレは最初の部屋に戻り、しばらくの間茫然とした。
死んだしまった男が吸っていた葉巻の残り香が、少しずつ空気と混じりあい、やがて何の匂いもしなくなった。部屋にあったもう1つのドアを開くと、家に帰る為の石碑があった。
恒例となってしまった療養生活が始まった。一刻も早く治す為に、ベンに紹介してもらった医者が丘にやって来た。医者はオレの砕け散った両足の骨を魔法で直した後で、足をすっぽり覆うギプスで固定してしまった。全快して畑を跳ね回るアポロを尻目に、オレは寝返りすら打てず、一日中ベッドに横になり体が回復するのをただただ待つ。
大体の世話はフラニーがしてくれて、他の仲間達は暇になるとオレの顔を見に来た。
「やいレオン、調子はどうだ?」
「順調だよ、あと数日かな」
「そうか。レオンがさぼっている間に、道の方はだいぶ進んでいるぞ。ただし、今掘っている所は雑草が凄くて、ほとんどモンスターの様だ」
「へー、雑草か。根っこがやっかいそうだな。どれぐらいの深さなんだ?」
オレがそう言うと、グランデュエリルが悪い顔でにやりと笑った。そして棚にあった帰還の塗り絵から緑と茶色のクレヨンを取り出して、真っ白なギプスに雑草の絵を描き始めた。止めさせようと思ったが、この娘は構うとエスカレートするだけなのであきらめた。
グラが部屋から出て行ってしばらくすると、今度はグリィフィスが不安そうな顔でやって来た。グリは水差しや果物等の状態を念入りにチェックし「失礼します」と言ってオレのおでこに手を当てた。それで少しほっとしたのか、建設予定の鍛冶場の話しをした。金が足りないので半分ぐらいは自分達で作り、どうしても無理な所だけ職人に頼むつもりだった。
グリィフィスは屋根と煙突の形について、身振り手振りで話していたが、やがてチラチラとギブスを見始めた。
「…………クレヨンがそこにあるから、描いてみてくれ」
「はっ! これは失礼を……いいんですか?」
「いいよ」
その後もメモ帳代わりに使われ続けたギプスは、アポロの歯型も増えていき、エリンばあさんが作って爪先に被せてくれた、小さな花冠が萎れ始めた頃にその役目を終えた。
夕日の差し込む橙色の寝室で、ギブスの取れた足をフラニーが念入りに拭いていた。フラニーは寂しそうな目をしており、たまに何かを言いたそうにオレの事を見た。やがて足が綺麗になり、ついでに体も拭いてもらってさっぱりしたオレはベッドに横になった。
フラニーが金色の髪の毛をキラキラ光らせながら、ベッドの隅に腰を掛けた。
「ねえ、レオン、もう――――」
「なあ、フラニー」
フラニーの言葉をオレは遮った。
「なんですかレオン」
「昔、あぜ道で話した事を覚えているかい?」
「もちろん覚えてますわ『契約者様は、本気でドライフォレストをお救いになる気持ちがおありでしょうか? それとも、ただの訓練か何かでしょうか?』でしたっけ。フフッ、生意気な子供ですわね」
「フフッ、今もな。……あの時、オレは嘘を付いたんだ。本当はまだ、ただの訓練だったんだ」
「知っていましたわ。知っていてわざとあんな質問をしたのです。逆の事をレオンに言わせる為に」
オレは、フラニーのおでこを人差し指で優しく突いた。
「でも今はもう訓練じゃない。そしてフラニーとライルじいさんの為だけという訳でもないんだ。……もうこれは、オレの戦いなんだ。だからオレが傷ついたからといって、フラニーが気に病む必要はない」
フラニーは不思議そうにオレのことをじっと見つめた後で、ベッドの中に身を滑り込ませた。ずっと看病をしていたせいで疲れていたのだろう。オレの二の腕に頭を乗せて、スヤスヤと眠りに付いた。
オレはフラニーのお日様の匂いを嗅ぎながら、少しだけ眠り、気持ちの良い夢を見た。それはフラニーと一緒に、ゼロ戦で大空を飛ぶ夢だった。




