神と英雄
よろよろと立ち上がった戦士ハンス・ナバルを、老ライオンがペロリと一舐めした。
戦士ハンス・ナバルの鎧には、粘着質の唾液がべっとりと付着しており、元々の鎧がどんな材質だったのか判別する事は不可能だった。顔を覆い隠すプレートヘルムを被っているのは、オレにとっては幸いである。兜の下の皮膚がどうなっているのか、想像するだけでも気勢を削がれてしまうからだ。
ハンス・ナバルは、おそらく久しぶりの新鮮な空気をたっぷりと吸いながら、右手と左手に2本の星銀の手斧を構えた。
オレの爪と同じ、星銀製。
職人の技量が最も影響する、星銀という金属。
オレは、ダチのガイドフ親方のことを思いだし、ニヤリと笑った。この戦いに勝っても負けても、ガイドフ親方をからかう事が出来るであろう。
オレとハンス・ナバル、アポロと老ライオンが真正面から睨み合った。
アポロに1秒だけ視線を向けてから、オレは老ライオンの方に駆け出した。アポロは、オレと交差する様にナバルの方に向かって行く。
ライオンキングは体の姿勢をほとんど動かさぬまま、右の猫パンチでオレを迎え撃つ。
それを躱したオレに、今度は左の爪を振り上げるが、その時にはオレはもういない。
オレは、ナバルの方に踏み込んでいるからだ。
アポロに手斧を振っている隙だらけのナバルに、星銀の爪を繰り出す。
ナバルは咄嗟にショルダーブロックで急所を守ったが、肩から鮮血が飛び散った。
オレの背中は隙だらけのはずなのだが、老ライオンは攻撃をして来ない。
なぜならオレに気を取られていた老ライオンの横腹に、アポロが1メートルほどの引っ掻き傷をこしらえていたからだ。
オレ達は、そのまま駆け抜けて、敵の背後で合流した。
そして、一つだけ呼吸。
再びオレがライオンに、アポロがナバルを攻める。
老ライオンは、オレを迎撃して来るが、意識の何割かがアポロの方に振り分けられている。しかし今度はスイッチをせずに、そのまま老ライオンを全力で攻撃する。
それぞれの敵に攻撃を仕掛け、またアポロと合流した。
戦いが始まって数十秒で、あちらだけが多量の血を流している。
だが、今の攻撃は失敗だった。
オレ達はそれなりのリスクを冒し、一往復で勝負を決めるつもりだったのだ。
仕方ない、次だ。
オレが一歩前に出ると、アポロが音も立てずに背後に回り込む。
すると突然、ライオンキングが苛立ったように強烈な咆哮を上げた。
間近で大砲をぶっ放された様な衝撃に、オレとアポロは思わず怯んでしまう。
その一瞬の硬直の隙に、老ライオンが陣地の方に駆けて行った。
戦士ナバルはじりじりと後退しながら、手斧を振りかぶっている。
この男が相手では、とても背中を見せる事は出来ないし、二人掛かりでも瞬殺する事は難しいだろう。
「アポロ、陣地の方で老ライオンを頼む。無理せず、エリンばあさん達と連携するんだぞ」
アポロが老ライオンを追い駆けて行き、乾いた土の上にはオレと戦士だけが取り残された。
二人は同じ材質の武器を両手に持ち、背丈も体格も同じぐらいである。
オレは戦士ハンス・ナバルの星銀の手斧に注目した。
あの武器は接近戦に強く、ここぞという時は投擲する事も出来るのだろう。
しかしドライアドの少女の、氷の武器とは違って2本しかないのだから、何らかの手段で投げた武器を回収するはずだ。目に見えない糸を使うのか、あるいは魔法なのか。
ナバルが鋭い踏み込みから、手斧を振ってくる。
それを躱して距離を取ったオレは、わざとバランスを崩してナバルの投擲を誘った。
しかしナバルはさらにスピードを増した突進から、軽々と手斧を振り下ろしてくる。高速の手斧が、オレの皮と肉を削ぎ落とした。
オレは、流れ落ちる自分の血を見ながら、甘い考えも一緒に流し落とした。
単純にでかいライオンと、小細工抜きで単純に強い戦士。
派手な大技や巧妙な騙し合いはなく、地味で単調な力と技術の比べ合い。
ガイドフ親方に話してやる時は、多少の脚色が必要かもしれない。
数度の攻防を繰り返した後、肩と肩がぶつかり合い、組み打ちになった。
傷を負っているナバルの肩をグリグリと押し込むと、ナバルはオレを投げ飛ばそうともがいた。組み合ったまま地面に転がり、そのまま数十メートルほど坂道を転げ落ちる。
ナバルを突き飛ばして立ち上がったオレは、近くの岩陰に、倒れている人間が居る事に気が付いた。
見覚えのある片目の潰れたその男は、ハンナ村の城門にいた兵隊だった。
小さな魔法陣がびっしりと描かれたホイッスルを胸にぶら下げて、荒い息を付いている。通りすがりのライオンキングにやられたのか内臓が腹から溢れ出し、ホイッスルも壊れているようだ。
オレは陣地の方に顎を向けた。
イェニチェリライオン・キングの背中に何本も矢が突き刺さり、アポロが蜂の様に攻撃を繰り返している。しかし陣地の土塁が一か所破られており、雑魚ライオン達が侵入し始めていた。
抑えきれない焦燥感が、オレの体を震わせる。
すると、驚いたことにナバルが鎧兜の中から、くぐもった声を出した。
「……どこを……どこを見ておる…………はやく……はやく殺してくれ!」
言葉とは裏腹に、容赦のない連続攻撃が襲い掛かってくる。
オレは攻撃が切れるのをじっと待ち続け、僅かな呼吸の隙に左フックを繰り出した。
左フックはオレの一番得意な攻撃だった。ネーミング好きなオレは、その左フックに『死神の鎌』という名前を密かに付けていたが、フラニーにさえ言っていない事だ。
戦士ナバルは、死神の鎌に右の手斧を合わせて来た。
パリィに似ているが、少しだけ動きが違う。
武器と武器とのぶつかり合いならば、望むところである。
オレ達が、負けるはずがない。
オレの目の端に、ナバルの鎧が見えた。地面を転げた時に付着していたヘドロが取れたのか、鎧の表面が剥き出しになっている。その金属製の鎧には、無数の牙や爪が誇示する様に埋め込まれていた。
……これは、こいつは! 間に合え!
オレは手首を捻り、武器のぶつかり合いを避けようとしたが、ギリギリ間に合わない。
インパクトの瞬間にナバルの手斧に緑色のオーラが発生し、4本の星銀の爪のうちの3本を根元から切り飛ばしていった。新品同然の星銀製の爪が、オレンジ色の太陽の光を反射してクルクルと空に飛んだ。
親方よ。脚色の必要はなさそうだぜ。生き残れればの話だがな。
こいつは猛獣専門の牙抜き屋だ。
武器を壊されただけではなくバランスも崩さたオレは、不様に尻餅をついていた。
ナバルは返しの左斧で、オレの肩にきっちりと追撃ダメージを取っていたが、深追いはして来なかった。
昔の習性なのかナバルは、土にまみれた爪の欠片を拾い上げた。そしてブローチを試すが如く鎧に当てたのだが、気に入らなかったのかポイと投げ捨てた。
「てめえ、修理代は死体から貰うからな」
そう強がってはみたが、カウンターの武器破壊スキルを見せつけられたオレは、手数が出なくなった。
ナバルが小石に足を躓かせた時でさえ、誘いの様に見えてしまうのだ。
ならばと異次元パリィを狙って見るが、受け技を極めたナバルにはとても通用しない。戦いの時間が長引くにつれて、地力で劣るオレの出血量が増えていく。もはや仲間の状況を確認する余裕もない。
でもオレは、以前に強敵に追い詰められた時の様に、絶望していた訳ではなかった。自分が勝てる道筋だけを、一心不乱に考え続けていたのだ。たぶん死ぬその時まで、考え続けるだろう。
ナバルと再び組み打ちになったが、今度は一方的に投げ飛ばされてしまう。
オレは転がりながら、左手の星銀の爪に細工を施した。
爪を手に固定している革と止め金を破壊して、さらに爪の先端に素早く細工をする。
立ち上がったオレは、一掴みの砂をナバルに向けて投げつけた。ナバルは気にも留めなかったが、狙い通り砂煙が立ち込める。
その後の勝負は一瞬の出来事であったが、オレにはスローモーションの様に感じられた。
スロー映像は、オレの渾身の左フック、死神の鎌から始まる。
ナバルは小さくバックステップを踏み、手斧を、1本しか残っていない星銀の爪にしっかりと合わせてくる。
これを食らってしまえば、もうオレの負けである。
オレは左手を滑らせて、星銀の爪を捨てた。
フクタチの武器捨てパリィ抜けである。
しかしこれが決まったとしても、オレの負けである。
仕切り直しになるだけで、片方武器を失ったオレは、なます切りになるだろう。
でもオレは、戦士ハンス・ナバルの強さと経験を信頼していた。ハンス・ナバルはオレの通った道を、何十年も前に通っているはずなのだ。絶対に武器を弾き返してくるはずだ。それを躱さずに、意表をついて右の爪でナバルの命を獲る。
しかしナバルは、オレの考えの上を行った。
武器捨てパリィ抜けを確認したナバルは、振り掛けていた手斧をオレの頭に向けて投げ飛ばした。
さらに空中の星銀の爪を同じ手で即座に掴み、心臓を目指して一直線に腕を伸ばす。
すでに止められないだけのスピードと重力が、オレの右拳には乗っかっていた。
迫る手斧を見たオレは、死を覚悟した。
オレは……
オレは、ユキのことを考えてしまうだろう。
ユキは、冗談めかして「次に死んだ時は、私の事を思い出してもいいのよ。その替わりに、私はあなたを思い出すわ」と言ったのだ。
ナバルの投げた手斧は、オレの髪の毛の中に潜り込み、頭蓋骨を引っ掻きながら後方に飛んで行った。
心臓に向けられた武器は、まず、刃先に噛ませて置いたダイヤモンドナッツを粉々に砕き、次にハードレザーアーマーを貫き、最後にオレの心臓の1センチ手前でピタリと止まった。
戦士ハンス・ナバルの顔面に、星銀の爪が深々と突き刺さった。
兜の下から大量の血が溢れ出し、鎧を染めていく。
爪を引き抜くと、戦士ナバルは仰向けに倒れた。
そして首だけを何とか持ち上げて、不思議そうにオレを見つめる。
「…………久しぶりで手元が狂ったな……それでも、当たりはしたと思ったが、仕掛けでもあるのか……」
「いや、ただのダサい髪型だよ」
「……そうか……礼を言うぞ……やっと、やっと眠れそうだ、さあ行くんだ」
「おう」
オレは、英雄に一礼をして、陣地に向かって走り出した。
アロエを使いながら、陣地に駆け戻る。
そこでは、血みどろの戦いが繰り広げられていた。
エリンばあさん、グリとグラ、ハービー、全員無事だが血を流していない者は一人もいない。
小屋で休ませていたカインも参戦しており、やはり血を流しながら必死に雑魚ライオンを食い止めている。
しかし敵の方も壊滅寸前だった。
数々の死体や肉片がそこいらじゅうに散らばり、湯気を立てている。
イェニチェリライオン・キングには無数の矢が刺さり、片足を引き摺っている様だ。
そして、アポロ。
白と黒の毛並は血と埃にまみれ、爆発に巻き込まれた子供のようだ。
いつも憎たらしいほど余裕綽々のアポロが、脅えた目をしている。
でも、そんな目をしながらも、アポロは執拗に老ライオンを攻撃し続けている。
「老ライオンを頼む」と言うオレの言葉を、忠実に守っているのだ。
戦場まで後少しと言う所で、アポロが強烈な一撃をまともに食らい、吹き飛ばされて地面に落ちた。
老ライオンは身を屈め、跳躍する。
アポロは空堀の手前で、立ち上がろうとしてプルプルと震えているが、動けない。
そんなアポロに大きな前足の影が迫る。
オレは、頭蓋骨が傷つき心臓近くに穴が開いている事も忘れて、全力で走った。
しかし間に合わない。
死の影がみるみる大きくなっていく。
「アポロ! 避けるんだ!」
オレの顔を見たアポロは、安心したように小さな声で鳴いた。しかしオレに出来る事は少ない。オレはあまりにも無力だ。
背中のランドセルにある投げ縄に手を伸ばす。しかしダメージの深い今のオレが、縄を回す予備動作もなしにアポロを捕える事は難しい。斜め前の空堀に、橋の代わりに使った竜牙の槍が残っているのが見えた。
どっちだ? どっちが正解なんだ?
オレはヘッドスライディングで長槍を引っ掴み、肩が外れるのも構わずに無理矢理ぶん回した。
そして、竜牙の槍の穂先についているバスケットで、アポロを拾い上げた。
タッチの差でライオンキングの前足が、アポロの居た場所に着地する。
オレは立ち上がりつつ竜牙の槍をそのまま一回転させ、老ライオンの鼻先を狙った。老ライオンは反射的に首を竦めて槍を躱したが、バスケットの間から伸ばされたアポロの爪が鼻を切り裂いた。
さらに雄叫びを上げながら槍を一周させ、今度は目に狙いを付ける。
老ライオンはバスケットの付いた穂先を、ガチャリと牙で挟み込んだ。バスケットが噛み潰されてしまうが、もちろんアポロは死角に入った隙にそこから飛び降りている。
脇に抱え直した竜牙の槍を、全力で口の中に押し込むと、ライオンの舌に穂先が埋まる手応えがあった。
バケツ数杯分の血を流しているライオンキングは、穂先を食い止める事だけで精一杯の様だ。体中の切り傷と矢傷から、力を込めようとするたびに水鉄砲の様に血が噴き出す。
しかしオレの方も意識が飛び始めていた。穴の開いた胸から、止めどなく血液が漏れ出ている。
オレの体を登ったアポロが、竜牙の槍を綱渡りしていき、ライオンキングのたてがみの中に飛び付いた。すぐに大量の血が首から滴り始め、穂先を阻む顎の力が弱くなっていく。
その時オレは、自分の身に迫る巨大な危険に気付き、思わず呻いた。
その危険は、オレの後方30メートルほどの場所にあった。
その大きさは、大型の飲料自動販売機ぐらいだろうか。
その色は、緑色。
慌てる様子もなく、ハービーはゆっくりと身を沈め、クラウチングスタートの姿勢を取った。
ドスドスと足音が聞こえ、その音は小気味良くテンポを上げていく。
オレは涙目になりながら、槍の石突の部分を腹に当てて、歯を食いしばった。
「フラニー、オレの背骨をへし折ってくれるなよ!」
ハービーの全速力のタックルが、オレの背中に直撃した。
肉と肉がぶつかり合い、凄まじい衝撃が体全体に電撃の様に走る。オレはあまりの痛みに数秒間だけ気を失った。でも、竜牙の槍がイェニチェリライオン・キングの体を貫く感触だけは、はっきりと手に残っていた。
かつては神として崇められた老ライオンは、最後にニバル山脈全体に響くような唸り声を上げてから、ドシンと横様に倒れ、長い生命に終わりを告げた。神の咆哮を聞いたライオンの子供たちは、尻尾を丸めて散り散りに逃げ出していく。突然の静寂、突然の戦いの終わりに、誰もが茫然としてしまう。
オレは一人ひとりに駆け寄って、無事を確認して回った。
「グラ大丈夫か?」
「……うん、大丈夫だよ。大蛇をぶった切ってやったんだ」
「そうか、勝ったな!」
グラの肩をぽんぽんと叩く。
額から血を流しているエリンばあさんにガッツポーズを見せてから、オレは勝ち鬨を上げた。皆が、声の限り唱和する。先程の老ライオンの咆哮に続き、山の生き物達は何事かとさぞ驚いたことだろう。
「ライオンを操っていた奴を見つけたんだ、方を付けてくるから、みんなは治療をしててくれ」
オレが駆け出すと、元気一杯にアポロが並走してきた。オレは立ち止まり、アポロを抱え上げてそっとランドセルに入れた。
ハンナ村の片目の男は、岩石に寄り掛かり苦痛に喘いでいた。
オレは交渉や人質の可能性を考えて、男の傷口を確かめたが、とても助かりそうになかった。
「よう、久しぶりだな。増援はまだあるのかい?」
「……」
オレは飛び出ている内臓に手を突っ込んで、意識の覚醒を手助けしてやった。
「ない! 本当だ! 誰もあれだけのライオンに勝てるだなんて思いはせん。もう、止めてくれ」
手を戻し、男の持ち物を確かめる。ライオンを操っていた笛は、もう使え無さそうだった。オレが物色している間、瀕死の男は少し先にあるハンス・ナバルの死体を見つめていた。信じられないと言う顔である。
「何故だ? 幻を見ているのか? 山の神と、英雄ハンス・ナバルは儂が生まれる遥か前に相打ちになったはずだ。何故、神と英雄が生きている? 何故だ、村の名前にまでなった英雄の伝説は嘘だったのか?」
「わからねーよ。でも、お前らが動物園ごっこを始めるまでは、イェニチェリライオン・キングは出て来なかったんだろ? あいつはきっと、自分の体を捧げる代わりに何らかの契約をしたんだろうよ。嘘なんかじゃねーよ」
それが戦士の意思でやった事なのか、大昔の弱者の集団による策謀だったのかまでは分からない。
「……そうだな、儂が子供の頃は、英雄の像を粗末に扱ったりしようものなら、棒で10回は叩かれたものだ。……すまなかった。今更だが、儂は反対だったのだ、あのプラウドとかいう男は信用出来ん」
「……楽にして欲しいか」
「頼む」
名も知らぬ男の生きの根を止めた後で、オレはハンス・ナバルの傍らに立った。
墓を作ってやりたい気もしたが、墓はハンナの奴らが作るだろう。2本の星銀の手斧と、破壊された爪を拾い集め、オレは陣地に戻った。
陣地に戻ると、グランデュエリルが戦いの事を興奮状態で話していた。
グリィフィスの膝の上に頭を乗せ、死神に魅入られながら。




