雌猫
青空を旋回する一羽の鳥が、山を登る眼下の一隊を見て、甲高い鳴き声を上げた。それは久しぶりの登山者に対する歓迎の様に聞こえたが、本当は魔物達への食事の知らせなのかもしれない。
先頭の馬車はグランデュエリルが、運転している。
馬車の屋根には、ペジラ砦で取り付けた小さな物見台があり、大盾に囲まれたエリンばあさんが前方を鋭い目で監視している。
後続の馬車はグリィフィスの運転で、こちらには猫の尻尾の様に竜牙の槍が付いており、先端の丈夫なバスケットの中に居るアポロが、後方に注意を払っている。
この2台の馬車を囲む様にして、オレとイノシシのカイン、そしてフラニーを装備済みのハービーが徒歩で随伴している。
無限の様に連なる山と山の間に、かなり広めの土の道があり、モンスターを警戒して道のど真ん中を悠々と進んで行く。
遠くの方に見える山には豊かな緑が生い茂っており、山頂付近に白い雪が見えている山もあった。しかし、元交易路のそばにある山たちはどれもはげ山に近く、黄褐色の山肌が露わになり、しぶとそうな低木だけがちょぼちょぼと生えている。
元から植物が育ち難い地帯であったのか、もしくは交易路の為に月日を掛けて、見通しがいいはげ山に変えていったのか。もし後者ならば、道が廃れてしまった今となっては、物悲しさだけが残る。
オレ達は、まるでアフガニスタンの山岳を進軍する戦車と歩兵の様に、黙々と馬車を進めて行った。
市場とペジラ砦を結んでいた街道とは明らかに空気が違い、歌ったりふざけ合って遊んだりする者は、自然と居なくなっていた。
まあ、元から両方共、オレしかやっていなかったのだけれど。
エリンばあさんが、前方の低い繁みに矢を打ち込んだ。
ガサガサと音を立てて、体に矢が突き刺さった2メートルほどの大蛇が、道に飛び出してくる。
オレは素早く駆け寄って、慎重に止めを刺した。古代数式のお面を被っているカインが近づいて来て、フフンフンと鼻を鳴らし、蛇の死骸を観察する。
消えゆく大蛇はコブラと同じ頭を持っており、その特徴的な頭の上に一角獣の様な角が生えている。
「カイン、気を付けろよ。そいつはモンテスマ・スネークだ。角から染み出ている液体に触れたら、ただでは済まない」
こんな危険なモンスターが湧いているとは。
かつて山脈ルートを使っていた商人達が未亡人製造業と呼ばれていたのは、本当に未亡人を大量生産していたからだろう。オレは、なぜだかユキの事を思い出した。
ニバル山脈には爬虫類系のモンスターが多く、トカゲや蛇に陸亀までが出現した。もちろんどれも巨大で、殺す気満々で襲い掛かってくる。他にもトラッシュ・イタチという、装備や積み荷を腐食させるガスを撒き散らす敵や、同じく積み荷を狙うブルーコンドル等がいた。
ベンが貸してくれた計4頭の毛長馬は、若く優秀な馬ばかりで、緩い坂道を力強く登って行く。
山を登り始めて半日ほどで小さな村に辿り着いたのだが、そこはすでに完全な廃墟と化していた。一応、崩れかけの家を見て回ったのだが、村人は一人もいなかった。
オレ達は、その捨てられた村で、一晩野営をする事にした。
村中央の一番大きな屋敷を勝手に借りて、大鍋で作ったシチューとパンを食べてから、交代で眠る。最初はオレとグリィフィスが見張りをする事になり、毛布を持って屋敷の屋根の上に、並んで腰を掛けた。家の残骸を燃料にして、屋敷の周りにいくつか篝火を燃やしてある。
2、3匹のモンスターを退治した後はちっとも敵が来なくなり、満点の星空の下で轟々と燃えるキャンプファイヤーの音だけが聞こえた。
「全然、来ないな」
「そうですね。モンスター達はまだ村人が居ると、錯覚しているのかもしれませんね」
「平和なのはいい事だが、どうにも眠くなってしまうな。そうだ! いい物があった」
懐から、ダーマのおっさんに貰った紙巻き煙草のセットを取り出した。ボロボロと葉っぱを零しながら紙を巻き、口に咥えてマッチで火を付けた。
煙草を吸うのは数年ぶりだったし、もちろんフィルターなしである。
オレは何とか咳き込まずに、胸一杯に甘い煙を吸い込んだ。頭をクラクラさせながら、吸いさしをグリィフィスに渡す。
帝国育ちの人はみんな若い頃から酒を飲んでいるので、煙草も吸っているだろうと勝手に思い込んでいたのだ。しかし、覚悟を決めた様に煙草を吸ったグリィフィスは、盛大に咳き込んだ。
悪い事をしてしまったと思いつつも、笑わずにはいられない。
「すまん。グッ、はっはっはっ」
「おかげで眠気が覚めましたよ。レオンさん」
オレ達は、ゆっくりと煙草を回しながら吸った。
グリの目元には、まだ薄っすらと青痣が残っている。まじまじと顔を見た事はなかったが、気弱な弟というイメージを忘れて見れば、中々の美少年だ。
「グリも大変だよな、ああいう姉ちゃんだとさ」
「え? 何でですか?」
地獄に居るものは、そこが地獄だと気付かないという事が、稀にあるらしい。
「うーん。まあ、グランデュエリルは強いよな。オレがあの年の頃は、まだまだ鼻を垂らしていたもんだが」
「ご冗談を。でも姉は確かに強いです。子供の頃から、男の子が相手でも負けませんでした。没落貴族の子供はいじめられる事が多いのですが、ボク……私は、姉にずっと守られていたのです。姉に仕返しに来た悪がき連中に僕が攫われた時も、姉はすぐに助け出してくれました」
「……そうか」
「はい。それに、姉は僕に、道を指し示してくれたのです」
「ほう」
「姉の装備品を子供の頃からずっと手入れして来たのですが、自分は剣は下手でも、鍛冶仕事には才能がある事が分かりました。きっと姉さんは、初めからその事を知っていたのでしょう」
普段は大人しいグリィフィスが、今夜はよく喋る。
オレは、グリが吸っている煙草を取り、そっと火を消した。
ダーマのおっさん、まさかマリファナじゃないだろうな。
オレはグルリと辺りを見回して、モンスターがいない事を確認した。
念の為、素数を順番に思い浮かべてみたが、頭ははっきりしているようだ。
「グリィフィスは、鍛冶屋になるのが夢かい?」
「はい、僕の夢は、僕の考えた最高の剣を、姉に使って貰う事です」
「フフッ、グリは姉ちゃんが大好きなんだな」
何気なくそう言うと、グリがぎくりとしたように身を縮めた。
そして正気に返った様に顔つきが変わり、毛布を体に巻きなおした。
オレは旅の事に話題を移す。
「無事に山越えが終わるといいな」
「はい」
向こうの世界の露天商の二人を、ぼんやりと思い出した。
あの二人は、どう見ても恋人同士だった。
帝国貴族や大商人の間では、近親婚は普通に行われている事だと聞いた。
しかし、グリとグラは今は平民である。しかし石版の世界は帝国とは違う。
あちらとこちらの世界。
オレは無意識のうちに懐の煙草を取ろうとしていた手を、ぐっと握り締めた。
ニバル山脈の旅が続く。
いくつかの村を通り過ぎたのだがそのほとんどが捨てられており、何とか残っている村も3、4家族だけが寄り添うように暮らしていた。交易品の砂糖と香辛料を少し分けてやると、非常に喜んで、お返しに見事な毛皮等をくれた。
何度かの野営を経た後に、中間地点となるハンナという村に到着した。
ハンナ村は、ニバル山脈が栄えていた頃は交易路の村々の盟主であったらしく、村というよりは要塞に近い。
急勾配の山の斜面にトーチカの様な建物が沢山へばり付いていて、その建物を防壁や細い階段が迷路状に繋いでいる。
適当なイメージでしかないが、梁山泊という言葉が頭に浮かんだ。
城門と思われる場所に行くと、兵隊が一人降りてきた。
潰れた片目を露わにした強面の男であったが、物腰は商人の様に柔らかい。
「これはこれは、お疲れ様です。馬に水をおやりになられますか。どうぞ、こちらです」
男は城門を閉めたまま、横の道に手の平を向けた。
オレは、ペジラ砦の商人に貰った紹介状を、手渡しながら言う。
「積み荷を売りたいと思っている。あと、出来れば今夜は安心できる場所で眠りたい」
「そうでございますか。少々お待ちくださいませ」
片目の男は手紙を持って、奥に引っ込んで行った。
しばらく待っていると城門が左右に開き、一目でリーダーと分かる老人が、数人のお供を連れて出て来た。
「旅のお方は久しぶりですな。今夜はハンナ村でゆっくりと寛がれますように。ミルガンの小僧っ子は元気にしておりますかな?」
「は、はい。積み荷を用意してくれたのもミルガンさんです」
オレは、老人とお供に馬車の後ろまで来てもらい、中の交易品を見せた。
ハンナ村の住人達は、大袋の砂糖や香辛料を見て喜びの声を上げる。
しかし、なぜだか分からないが違和感があった。
昨日、本当に喜ぶ人の顔を見ていなければ気付かないほどの違いなのだが、ハンナの人々の喜びは上辺だけという感じがしたのだ。
それほどには、物資が不足しているという訳ではないのかも知れない。元は交易路だった道があるのだから、当然と言えば当然だ。
城門を潜ると広場になっていて、百人ぐらいの人が忙しく動き回り、子供たちは好奇心を露わに奇妙な旅人を観察し始めた。広場の真ん中に戦士の銅像があり、その銅像の上にしがみ付いた沢山の子供たちが、オレの事を見てケラケラと笑っている。
馬と馬車を預け、長老の部屋で売買の交渉をした。仕入れ値が安かったおかげもあって、かなりの利益を得る事が出来た。
振る舞われた飲み物を片手に、ペジラ砦の様子などをしばらく話した後で、部屋に案内して貰う事になった。
「クレア、旅の方達を西側の部屋に案内しておくれ」
「はい。長老様」
クレアという14歳ぐらいの少女の後をぞろぞろと付いて行く。急な階段や狭い道を、屋内や屋外を出たり入ったりしながら歩いて行き、煉瓦造りの建物に辿り着いた。男女別の2部屋を用意してもらい、オレとグリィフィスとアポロは、綺麗に掃除されている部屋に腰を落ち着けた。
クレアは女性陣の部屋にしばらく居た後で、こちらの部屋に来てお茶の用意をし始める。
こんな時の為に土産の髪飾りでも用意しておけば良かったなあと後悔しながら、お茶を入れる褐色の少女に話しかけた。
「ハンナ村は、まだまだ沢山の人が居るようだね」
「はい。自分達の村を支えきれなくなった人々が、ハンナに集まってくるので、むしろ人口は増えているのです」
廃墟を延々と見て来たオレは、彼らの行き先が分かって、少しほっとした気持ちになった。
「ペジラでは、ニバル山脈について暗い話しか聞かなかったけれど、町の様子は話とは全然違うようだな。活気もあるし、逞しそうな子供が銅像にびっしりと張り付いていたしな」
「フフッ、私が子供の頃は、銅像に登ったりしたら引っ叩かれましたわ。山を救った英雄の像ですもの」
「そうなんだ」
「ええ、大昔にイェニチェリライオンの王様を、山から追い払った英雄ですわ」
心臓がドキリと高鳴った。
「ニバル山脈にはライオンが居るのか? ペジラで少し調べた時は、聞かなかったが」
「ええと、ごめんなさい、だ、大丈夫です。大昔は山の支配者でしたが、イェニチェリライオンの王が討伐されたので、今はほとんど居ません。北の山からはぐれてきたものが数年に一度だけ姿を見せますが、ハンナの戦士達がすぐに討伐してしまいますし……お、驚かせたようで、ごめんなさい」
オレが急に声を荒げたせいで、クレアは動揺した声を出して小さな手を震わせた。オレは少女に詫びを言い、無理矢理に銀貨を握らせた。
「大きな声を出してすまなかった。念の為にイェニチェリライオンの事を聞かせてくれるかい?」
「はい」
イェニチェリライオンは鋭い牙と残忍な爪を持っているが、それだけではないらしい。イェニチェリライオンは爬虫類や小動物を丸呑みにして、二つある胃袋の片方に大事に入れるのだという。そして、特別な胃液に浸された爬虫類達は、自らの意思を奪われて、主人のライオンの為に死ぬまで戦う子飼いの兵隊になる。
ライオンから与えられる十分な食料と、死ねば終わりの激しい戦闘を生き延びた兵隊達は、同種のモンスターの何倍もの体と強さになるのだと、クレアは話してくれた。
道中でやたらと爬虫類が出現したが、イェニチェリライオンが討伐されて、今は落とし種の彼らばかりが増えているのだろう。
部屋に運ばれてきた食事を済ませると、強烈な眠気が襲ってきた。知らず知らずのうちに野営の疲れが溜まっていたのだろう。
オレは、隣の部屋から聞こえてくるフラニーと世話役のクレアの、楽しそうな笑い声を聞きながら深い眠りに落ちた。
カリカリとアポロが爪を立てる音で目を覚ます。
何時間か眠ったようで、隣のベッドではグリィフィスがすやすやと眠っている。
オレは首だけ持ち上げて、ドアを引っ掻き続けるアポロを見つめた。
「アポロ、どうしたんだ。うるさいぞ」
注意をしてもアポロは止めず、そのうちに器用にドアを開けて外に飛び出して行った。
「おい、アポロ。行くな……ちくしょう」
重い体をベッドから引き摺りだして、アポロの後を追い掛けた。
アポロは建物からも出てしまい、薄暗い階段を登って行く。
「おい、アポロ。ここはオレ達の丘じゃないんだぞ」
オレの事を無視して走っていくアポロを、呼び止めながら追いかける。
曲がりくねった細い道や、建物の隙間を通り抜け、どんどん人気のない場所に進んで行く。
途中、見張りの兵隊に出くわしそうになり、変な誤解をされたくなかったので、オレは慌てて物陰に隠れた。
「アポロ。お前、帰り道はちゃんと分かるんだろうな。オレはすでに分からんぞ」
古びた建物の前でやっと立ち止まったアポロは、壁を駆け登り、鉄格子のはまっている小さな窓の下枠の部分に着地した。そして鉄格子の隙間から、中をじっと覗き込んでいる。
「アポロ、そこに雌猫でもいるのか。ふー、オレも登るから気を付けろよ。ぶつかって落っこちるなよ」
オレは壁を4メートルほど駆け登り、鉄格子の一つに掴まった。アポロを顎で脇に寄せて、建物の中を覗き込んだ。
「ん? なんだ、本当に雌猫か……いや、豹か。いや…………これはライオンの子供だ」
中はボックス席の様に区画が分けられており、何十頭もの子供ライオンが蠢いていた。
オレは素早くアポロを引っ掴み、地面に飛び降りた。
よくわからないが、確実に不味いものを見てしまったという自信がある。
出来るだけ早く、部屋に戻らなければならない。
いくつか角を曲がった所で、オレは小さな悲鳴と出くわした。
「ひ!」
「ク、クレアさんか!」
「ここで何をしているのですか」
世話係の褐色の少女が、驚いた顔でオレを見上げた。
オレが答えられないでいると、騒ぎを聞きつけた兵隊が大急ぎでこちらにやって来た。
そして、腰の剣と胸元の笛に同時に、手を伸ばす。
クレアがオレの事をキッと睨みつけてから、兵隊の方に向き直った。
「旅のお方の猫が、逃げ出してしまったので、私と一緒に探していたのです」
「何! 本当か、クレア!」
「はい。ここで猫が見つかったので、丁度引き返す所だったのです」
兵隊はオレとクレアの顔を交互に見てから、大きく息を付いた。
「そうか。しかし、クレア。この事は報告せねばならんぞ。お前の兄貴とは親友だが、報告せざるを得ん」
「はい、それは分かっております」
オレはクレアに手を引かれて、グリィフィスの眠る部屋まで戻った。後ろに兵隊がピッタリと付いて来る。
部屋のベッドに腰掛けたオレは、心臓の高鳴りが収まるのをじっと待った。そして心臓が収まってから、考えに集中した。
今、見たのは、たぶんイェニチェリライオンの子供だ。
ハンナの村の住人達が、育て、調教しているのだろう。
なぜそんな事をするのか。
もちろん軍事行動の為だろう。
警備の拙さから想像するに、ハンナの住人達が考え付いたことではなく、誰かの指示でしている事だという気がする。
帝国かカンパニーのどちらかから、ハンナの村に金が流れているのだ。
戦争になった時に、ニバル山脈を制する為に。
オレは、あっという間に眠りに付いたアポロのおでこに、優しくデコピンをした。
……エリンばあさんを起こした方が、いいだろうな。今夜はもう眠らずに、明日は出来るだけ早く出発しよう。戦闘にならなければいいのだが。それにしても……。
オレは、笛を吹かれる前にクレアと兵隊を殺そうとした自分を思い出して、自分で自分にぞっとした。
生き物を殺すことに、オレはすっかり慣れてしまったのだ。




