夏服を着た乙女たち
少し話をした後に、ユキは着替えのために奥に下がった。
しばらくして、タイトなジーンズに白いセーター姿のユキが現われて「朝ごはん、食べますか?」と聞いてきた。今は朝なんだなと思いながら、キッチンスペースに向かうユキに付いて行く。
コーヒーのような豆を挽き、手際良くフライパンを温めるユキの後姿を、幸せな気持ちでぼんやりと眺めながら先程の会話を思い出す。
ユキはこの世界の事を何もかも知っているという訳ではなく、逆にオレの知っているセムルスの肩書を聞いて、驚いた顔をした。同じゲームではあっても、オレとユキの通ってきた道は色々と違うようだった。例えばユキはドライフォレストやトムの道具屋に行く事が出来ないが、変わりにオレの知らない国の名前をいくつか口にした。共通しているのは、市場とはじまりの庭ぐらいである。
そしてユキは、はじまりの庭に何度か攻め込んでいた。
「半年かけて準備した上級人形兵と魔道カカシを、30体ずつ引き連れて攻めたけど……負けちゃったわ」
「セムルスと戦ったの?」
「ううん、庭と屋敷の間にモビルスーツみたいな奴がいて、たぶん200体で攻めてもあいつには勝てない」
「そんなに強いんだ?」
「うん。見ればわかると思う。見るだけなら向こうは何もして来ないけど、戦っちゃダメよ」
その時のユキは、出過ぎた事を言ってしまったかの様に口をつぐみ、オレの顔色をさりげなく窺っていた。ユキの男の子に対する細やかな心遣いに気付いたオレは「ああ、今、日本人と話しているんだな」とふと思った。
別にフラニーにそういう気遣いがないと言ってる訳ではないし、外国人と会話した事もほとんどないのだが、なぜかそう思ってしまった。
ベーコンの焼ける匂いを嗅ぎながら妄想を膨らませていると、レジスターを開けた時のようなチーンという音が聞こえた。心臓を凍り付かせながら音のした方を見ると、壁の一部がエレベーターのドアのようにスルリと開き、中から元気一杯のフクタチとアポロが騒々しく部屋に入ってきた。
「アポロ!」
膝を付いて差し出した両手を、アポロはいとも簡単にすり抜けて朝食を作るユキに駆け寄り、細いジーパンの足首に頭を擦り付けた。14歳のユキを少しだけふっくらとさせたようなフクタチも、ユキの腰に夢中になってしがみついている。
楽しそうにじゃれ合う3人にフラフラと近づくと、アポロが警戒するように毛を逆立ててオレに牙を剥いた。
「アポロ、オレだよオレ。まさか、もう忘れたのか?」
悪夢の終わりを告げるレジスターの音が早くなればいいのに。
そう思いながらフレイムキャットに恐る恐る手を伸ばすと、フレイムキャットは手の匂いをクンクンと嗅いだ。そして「あっ、なんか知ってるかも」という顔をしてオレの肩まで駆け登り、さらに頭の匂いを熱心に嗅いだ。
数週間はおフロで洗っていないアフロの匂いを嗅いだアポロは「しまった! 僕のご主人じゃないか!」という顔をして、慌てて頬を擦りつけてくる。
まあ、今回はアポロにも迷惑をかけた訳だから、今の挙動は許そう。
アポロと感動の再開をやり直していると、フライパンを揺すっているユキがフクタチに声をかけた。
「フクタチ、悪いけど予備のテーブルを運んできてくれるかしら」
「うん! 運ぶ!」
ユキに「オレも手伝ってくるよ」と一声かけてから、スキップをしているフクタチの後を追う。
フクタチは部屋にたくさんある植木鉢をわざわざジャンプで飛び越えながら、マイペースでどんどん進んで行く。壁に辿り着いたフクタチが、そこにある扉を開くと中は小さな倉庫になっていた。
「これかな?」
倉庫にあった小さなテーブルを持ち上げようと掴むと、フクタチが薄いグリーンの手をオレの手の甲に重ねてきた。びっくりして顔を上げると、ドライアドの少女が真剣な目でオレを見つめていた。その口元は小さく微笑んでいる。
「お兄ちゃん、ありがとう。あんなに楽しそうなユキちゃんは久しぶりだよ。まるで数年前のユキちゃんに戻ったみたい」
フクタチはそう言ってから、オレのほっぺたに口づけをした。顔を離したフクタチは、テーブルを軽々と持ち上げてさっさと倉庫から出て行った。取り残されたオレは全身が痺れ、わずかに濡れた右の頬に強い熱を感じながら、茫然と立ちすくんでいた。
……あきらめて自殺しないで本当に良かった、誰かに感謝されるってのはいいもんだな。
窓際にあるテーブルに予備のテーブルをくっつけて、オレとユキとアポロとフクタチの4人で朝食を食べた。向いに座っているユキが、パンにバターを塗ってからオレに渡してくれて、フクタチとアポロは口の回りをベタベタに汚しながら、ベーコンの取り合いをしている。
「このパンおいしい! こんな美味いのは初めてかもしれん」
「フフッ、そうでしょう? 手作りなのよ」
「へー凄いな――――こらアポロ、テーブルの上に乗るな」
「それ、わたしのだよー」
「フフフ、おかわりもあるから取り合わないでね」
ユキがその場にいるだけで、ただの朝食が映画のワンシーンのようになってしまう。彼女はそういう類の美しさを持っていた。ユキに口の回りを拭いてもらったフクタチがオレに笑いかけた。
「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは本物の遊園地にいったことあるの?」
「ん? ああ、何回かはあるよ」
「いいなー、わたしも行きたいなー、ねえお兄ちゃんは向こうの世界で何をしてる人なの?」
フクタチの唐突な質問の意味を理解したオレは、パンを持っていた手の動きを止めた。
ユキはそういう事まで、フクタチに話しているのか。
嘘をつきたい。
そんな事を思ったのは、久しぶりだった。
普段、からかい半分にフラニーについている嘘とは違う本物の嘘。
相手に自分を良く見せる為に、簡単に使う事の出来る魔法の言葉。
オレは嘘をつきたい気持ちをぐっと押さえ、本当の事を話した。
自分がほとんど引き籠りに近い状態である事。
まともな仕事も無く、金もなく無く、ちゃんと働こうという気もない事。
話さなかったのは、友達が一人もおらず、恋人もおらず、家族すら裏切っているという事。
もし、一緒に死線を潜り抜けたアポロが横にいなければ、オレは嘘をついてしまったかもしれない。暗くならないようにわざと明るい調子で話したが、自分の声が震えている事に嫌でも気付かされた。
フクタチはポカンとした顔をしており、ユキはただじっと聞いていた。アポロが空気を読まずに、ベーコンをがつがつ食べている事がありがたかった。
朝食が終わり、オレは一度帰る事にした。
ユキと石版の盟友になったので、いつでもメッセージのやり取りが出来るし、次に会う約束もしておいた。追い駆けっこするアポロとフクタチを眺めながら、ゆっくりと帰還の塗り絵を塗り始める。
小さなテーブルを挟んで座っているユキが、クレヨンを擦るオレを優しい目で見ている。
「ねえ、お母さん元気だった?」
「うん、元気だったよ。……ユキに寄り添っていたよ」
「そう……私があっちにいた時は、毎日仕事ばかりで、ほとんどかまってくれなかったの」
ユキはテーブルの上で組み合わせた両手に顎を乗せて、覗き込むようにオレを見た。
「ねえ、私ね。たまにだけど、あの部屋に戻っているのよ。真っ暗だし、意識も無いようなものだけれど」
「そうか……一緒に考えような。向こうとこっちを行き来できるオレがいれば、なにか手段があるかもしれない」
「うん」
塗り絵がもう少しで完成するので、植物の間を走り回るアポロを呼んだ。
椅子から立ち上がったユキがオレの側に立ち、肩の上にそっと手の平を乗せる。
そして小さな声で囁いた。
「私があっちの世界にいた最後の頃、心も体もボロボロになっていたの。このゲームは、人間の意思の力では、きっと逃れる事が出来ないと思う」
ユキを見上げると、美しいユキが慈愛の籠った目で光の中にいた。ユキのその目は「わかっているから、大丈夫よ?」と福音のようにオレに告げていた。
オレとアポロは数週間ぶりに自分の丘に帰った。
石版の前にワープしたオレは、人気のない家の中を感慨深く見回した。
外からはエリンばあさんの弓矢が空気を切り裂く音や、モンスターの上げる断末魔などの懐かしい戦いの音が聞こえてくる。
畑に出ると、アポロが早速モンスターに向って駆け出して行った。
オレもそれに続いて戦いに参戦する。
キラーパペットに取り付くと、エリンばあさんの挨拶代りの一撃が目の前の敵に突き刺さった。
オレが留守の間も、農作業をずっと続けていてくれたのだろう。
見慣れた戦いの風景の中に、見慣れない物が二つあった。
一つは、フラニーがハービーのカゴの中ではなく、城壁の上に立っていた。魔法銀のナッツかたびらを着込み、手には短剣を持っている。そして農作業をしているハービーの側に、ウリ坊のカインがチョロチョロとくっついていた。
カインはだいぶ大きくなっており、ウリ坊の証しである縞模様の体毛が消えかけていた。ウリ坊の縞模様は森と太陽の下では保護色と成り、天敵からその身を隠してくれるという。それが消えかけているという事は、カインは戦う力を身につけ始めているという事だろう。
その証拠にカインは、畑に紛れ込んだ鼠を数匹突き殺していた。
できればカインの成長をきちんと見届けたかったが、留守にしたのはオレの都合なので仕方がない。
農作業を全部終わらせた後に、ばあさんとフラニーに帰還の報告をした。
別に、熱烈な出迎えを期待していたわけではないが、二人のあまりに素っ気ない態度に少し拍子抜けをしてしまう。もしかして怒っているのだろうか。
フラニーの「お休みになられては」という言葉に従って、水浴びをした後に寝室に押し込まれるようにして眠りについた。夢の中でレジスターのなる音を何度か聞いたような気がした。
目を覚ましてリビングに行くと、フラニーとエリンばあさんがソファーで談笑している。
二人は鎧などを脱ぎ、オレの知らない服に着替えていた。
エリンばあさんは緑色のロングスカートを履き、上には涼しげな白いブラウスを着ている。
初めて見るエリンばあさんのスカート姿に、胸をえぐられる様な愛情を感じた。
フラニーは薄いグリーンのスカートに、同じく真っ白な袖なしのシャツを着ている。
オレが二人の洋服を褒めると、笑顔を作ってはいるが心の籠っていない返しをされた。
ソファーに座り、楽しそうに談笑を続ける二人を恨めしい目でチラチラと見ていた。
二人はオレのわからない話を熱心にしており、時々フラニーがエリンばあさんに耳打ちをして二人でクスクスと笑う。途中フラニーが席を立ってお茶をいれにいったが、オレの分だけいれてくれなかった。
オレは立ち上がり、ソファーに座る二人の前に立った。
そして、深々と頭を下げた。
「すまなかった。まさかこんなに長くなるとは……いや、いい訳はよそう。すまなかった、どうか許してほしい」
頭を下げたまま、涙目でそう言った。
二人はしばらくオレの事を見ていたが、やがて渋い顔をしたフラニーがポケットから取り出した一枚の銀貨をエリンばあさんに渡した。フラニーとばあさんに手を引っ張られたオレは、二人の間に座った。
フラニーがクールに話しを始める。
「実は賭けをしていました。エリンおばあ様は、レオンがすぐに謝る方に銀貨一枚。私はレオンが腹を立てる方に銀貨一枚。まあ本当に怒るとは思っていませんでしたが、賭けを成立させる為です。レオンを賭けの対象にするという無礼な行為をした事により、私たちの不満は解消されましたわ…………お帰りなさい、レオン」
「レオン殿、お帰りなさい」
「おっおう、ただいま。ありがとう、ただいま」
それぞれと抱擁を交わし、体を撫で合った。
心の底では強く求めていた熱烈な歓迎を2人から受けて、オレはばれないように少しだけ涙を流す。
「あっ、一つやってほしい事があります」
「やるやるなんでもやる」
「……レオンがいない間、エリンおばあ様と二人で業務日誌を付け始めたのですが、レオンもそれに参加してください」
フラニーがそう言ってぶ厚いノートをオレに渡した。パラパラとノートを開くと、フラニーとエリンばあさんが順番に日記のような物を書いている。フラニーはかなりの長文で主にオレへの不満をぶつけており、エリンばあさんは天気の事やキバゴロウの事を短く書いている。
「これは交換日記のような物かな?」
「いえ、業務日誌です。お茶をいれてきますわね、レオン」
フラニーがキッチンに向かい、エリンばあさんもオレの肩を優しく叩いてからそれに続いた。
二人が帰って来るのを待っている間に、業務日誌を読んでいるとこんな一文があった。
『〇月×日 フラニー。レオンは今日も帰ってこない。最初の十日間は心配で、毎日お祈りをしていたけど、最近は心配が怒りに変わってきました。よく考えてみれば、レオンは美女二人を丘に残して、他の女性に会いに行っているのだから、心配などする必要はないのでは? 頭にきたので、しぶるエリンおばあ様を説得して、少し贅沢をする事にしました。レオンがいないのにも関わらず、律儀に交易に来てくれるグラックスさんに頼み、高価な砂糖菓子と二人の洋服を注文しました。もし後十日間帰ってこなかったら、冬用の毛皮のコートを注文してやろうと思います。ライルおじい様、罪深きフランチェスカ及びレオンをお許し下さい。あの人は夏が終わる前に、帰ってくるのでしょうか?』
『〇月×日 エリン。本日、晴天。キバゴロウ、初めて鼠を討ち取る事に成功。ご褒美にたっぷりと肉を与える』
オレはその夜、業務日誌にオレの世界の事やユキの事、そしてオレ自身の事を、上手く書ける範囲で書きつけていった。それはフラニー以上のぐだぐだと長い文になってしまったが、まあしょうがないだろう。
☆☆☆
初めてユキの家に来た日から、それほどの間隔もなく、再びユキの家を訪ねていた。
怪しまれた時の言い訳を山ほど用意していたが、ユキの母親は何も言わずに快く家にあげてくれた。
母親は風邪をひいているのかマスクをしており、階段を上る途中に嫌な感じのする咳を激しくしていた。ユキの部屋にオレを入れた後、自分は部屋に入らずにお茶をいれにいった。
オレは遠ざかって行く足音に耳を澄ませてから、ベッドで眠るユキの掛布団を少しだけ捲り上げた。
ユキはこないだと同じ苦しそうな顔をしており、水色のパジャマを着ていた。
オレはユキの手を、宝石を扱う様にそっと握りしめた。蝉の鳴く、物悲しい音がどこかから聞こえてくる。ユキの肩の上に、自分の頭を乗せてしまいたい欲望と戦いながらユキの事を見ていると、空間がグラリと歪んだ。
その見覚えのある空間の揺らぎに驚き、目を見開いていると、ユキの眉間の皺が消えゲームの中と同じ完璧なまでの美しい顔に変化していた。
さらに実用的な水色のパジャマが消え、変わりに夏用のセーラー服をユキが着ていた。
オレの心臓がドクドクと早鐘を打つ。
その、すべての男の子が思い描く様な幻は、線香花火の最後の輝きのように数秒で消えてしまった。
元の姿に戻ったユキは、力を使い果たしたようにさらに苦しそうに顔を歪め、呼吸が荒くなっているような気がした。
オレはあたふたとユキに話しかけ、掛布団を元に戻した。
母親を呼びに行こうかと立ち上がった時に、廊下からパタパタとスリッパの音が聞こえてきた。
相変わらず間抜けで臆病なオレは、今起こった事がどういう事なのか、ちゃんと向き合って考える事を先延ばしにしてしまった。もし今のが妄想ではないのなら、オレはもう部屋に籠ってはいられなくなるだろう。




