幕間『竹美』
本編に関係あるかもしれません、ないかもしれません。
「竹美ちゃーん、ご指名入りました」
「はーい」
高く盛り上げた金髪の頭、厚く塗り固めたまつ毛に、薄い緑色のロングドレス。
竹美はヒールの高いサンダルでフロアをコツコツと鳴らし、男たちの待っている革張りのソファーに向かった。
「竹美ちゃん、待ってたよー」
竹美は、スーツを着た男たちの間に座り、新しい酒を作った。
男たちが下らない冗談や、愚痴をこぼしてくるが、竹美は不思議と嫌な気持ちにならなかった。
以前は仕事中に考える事といえば、客にいかにして金を使わせるかという事と、夢中になっていたホストクラブの男に、次はいつ会えるのかという事だけだった。しかし今は、客の男たちのストレスをどうすれば消滅させられるのかと、無意識ながらも考えていた。
最近、この仕事を辞めようかなと思い始めていたのに、竹美の人気は急上昇していた。
竹美と一緒に酒を飲んでいた男たちはリラックスし、一生懸命、竹美に話しかけていた。きっと、また竹美に会いに来るだろう。
竹美は数時間、接客をして控室に戻った。
パイプ椅子に腰を掛けると、後輩の鉄子が嬉しそうに話しかけてきた。
「竹美センパイ、お疲れ様です。明日、休みですよね? 一緒に買い物でも行きませんか?」
「え……いいけど……うん、いこうか」
どちらかといえば嫌われ者だった竹美が、後輩にプライベートで誘われることなど初めてだった。
鉄子は探るような目で、竹美をジロジロと見ていた。
「竹美センパイ、最近なんか雰囲気、変わりましたよね? あんだけ通ってたホストクラブも行ってないみたいだしー、さては特別な人でも出来ました?」
「え? い、いないわよ、そんな人」
竹美は、そう否定したが、自分が急激に変化している事を自覚していた。
以前の様にすぐ寂しくなったり、イライラしたりする事がなくなり、変わりに胸の奥に温かい火が灯っている様な気分に、なる事が多かった。
家族の愛を知らずに育った竹美にはわからなかったが、それは心許せる者たちと一緒に過ごしている時だけに、人間が得られる感情だった。
鉄子はいたずらっぽくニヤニヤと笑い、竹美のカバンから、はみ出していた本を取り上げた。
「センパイ、騙されませんよ。この本がその証拠です。これ看護師資格を取るための案内書ですよね。あの竹美センパイがこんな物を読む日が来るなんて。間違いなく男です」
「ちょっと、返しなさいよ」
竹美は顔を真っ赤にして、本を取り返した。
そして大切そうにカバンにしまった。
「鉄子! このこと誰かに喋ったら、もう二度とあんたがミスしてもフォローしてあげないからね、あんたドジなんだから」
竹美は澄んだ目でそう言い、少し笑った。
――
中年の女が、食事を乗せたお盆をドアの前に置いた。
今、置いたお盆の隣には、半日前に置いた別のお盆が手つかずのまま残されていた。
女は、食べる事が大好きだった、自分の息子の顔を思い浮かべた。
しかし何か月もまともに見ていない息子の顔が今どうなっているのか、わからなかった。
中年の女は固く閉ざされたドアの前で、茫然と立ち尽くしていた。
数年前の無邪気に笑っていた息子の顔を思い出し、悲しげに俯く。
なぜ?
いつもニコニコと笑い、誰からも愛されていた息子。
トップクラスの進学校で、いつも成績上位だった優秀な息子。
それがなぜこんな事に?
母親はしばらく考えた後で、突然、幸せそうに笑った。
あきらめなくても、まだ間に合うんじゃないかしら?
すぐには無理だけど、まずは家庭教師を雇って基礎的な復習を済ませてから、本格的な勉強を始めれば、一年もあれば元の学力に戻るはずだ。
何浪しようが誰も文句を言わないレベルの大学に入りさえすれば、息子はまだやり直せる。
あの子は頭のいい子なんだから。
母親は自分の思いつきに興奮し、嬉々として息子の部屋のドアを叩いた。
「……トオルちゃん、いるんでしょ?」
ノックを繰り返すが返事はなかった。
「トオルちゃん? 母さんね、いい事、思いついたのよ。お話しましょう? ね? トオルちゃん? トオル? トオル? トオル、開けなさい。ドアをあけなさい、お願いあけて!」
母親は狂ったようにドアを叩き続け、泣きながらドアの前に崩れ落ちた。
――
春を目前に控えた冬の終わりに、大都会に大雪が降った。
降り積もった雪が町の機能をことごとく麻痺させ、人々を暖房器具のあふれた家の中に閉じ込めていた。
そんな凍えるような寒空の下、一匹の小さな命が終わろうとしていた。
その生き物は、やっと探し当てた雪の入り込んでいない軒下を、自分の死に場所と決めた。
白と黒の毛並をした小さな仔猫は、体中が傷だらけで、乾いた赤い血が黒い毛にこびりついていた。
雨の多かった今年の冬は、その仔猫に生き延びる事を許さなかった。雨の好きな猫などいないだろうが、自分が雨に打たれると命が削られていくことを、仔猫は理解していた。
なぜ自分だけそうなの?
仔猫はそう思ったが、誰も答えてはくれなかった。
仔猫は死ぬために、ゆっくりと眼を閉じ始めた。
……その時、不思議なことが起こった。
眼には見えないゴツゴツとした物が、自分の体をそっと包み込んだのだ。
その見えない何かはとても暖かく、土の匂いがした。
仔猫は閉じかけていた眼を開いた。
そして、生きるためにもう一度立ち上がった。
――
アポロは、寝室で眠り続ける自分のご主人を、抜かりなく見張っていた。
自分のご主人は結構、頼りない時も多く、無駄な事を毎日何度も繰り返したりするが、嘘はつかない事を知っていたからだ。パイメロンをくれると言えば後で必ずパイメロンをくれたし、何でも買ってやると言えば本当に何でも買ってくれた。
ご主人は心配ないと言ったので、そろそろ目覚めてもいいころだった。
このご主人は普段は割と手を抜く癖に、本当に危険な時は自分が前に出ようとする、使い魔泣かせのご主人でもあった。
ベッドで眠り続けるご主人は、たまに体を震わせて泣いているようだった。
アポロはベッドの上に飛び乗り、ご主人のお腹の上で丸くなり、眠った。




