椅子、土
道は細くなり、わずかに上り坂になっていた。
石畳にへたり込んでいたオレは、ボロボロになったハードレザーアーマーを脱ぎ捨てた。
鎧の下に着ていた服も返り血を浴び、破けていたので、タオルがわりに体を拭いてから捨てた。
最後のアロエを食べて体力を回復させた後、裸の上半身に茶色いランドセルを背負い立ち上がった。
もう一度、石碑を探してみるがやはりない。
大通りを抜けさえすれば石碑があると、完全に思い込んでいたので落胆は大きかった。
もはや大通りを引き返す事は不可能なので、前に進むしかなかった。
鋼の爪が壊れていない事を確認してから、石畳を歩き始めた。
道の前方に一つだけ大きな建物がある。その石造りの映画館のような建物から、地鳴りのような歓声がたまに聞こえてくる。
疲れて思考能力が落ちていたオレは、誘い込まれるようにその建物の大きな扉を開けた。
薄暗い通路を進むと、上りの階段があった。
階段を上るにつれて歓声が強まり、熱気のようなものが伝わってくる。
上りきると、広い空間にでた。
強烈な光に目を眩ませながら下を見下ろすと、2匹のゴブリンが血みどろになって戦っていた。
高い天井にぶら下げられている魔石が、スポットライトのように2匹のゴブリンを照らしている。
円形の石壁に囲まれた土の広場で、2匹のゴブリンが剣を打ち鳴らしていた。
そして500人ぐらいの亡者達が円形闘技場をグルリと囲み、口から歓声と唾を飛ばしながらゴブリンの闘いを見下ろしている。
片方のゴブリンの首が撥ね飛ばされると、500人の怒号と歓声で鼓膜が張り裂けそうになった。
亡者達は手に持っていた紙のチケットを破き、床に叩き付けていた。
闘技場の壁の一部が開き、勝者と死体が運び出され、すぐに次のゴブリン2匹が入場してくる。
オレは、あまりの熱気と濃密な空気に我を忘れ、呆然と亡者達を眺めていた。
すると階段脇の椅子に座っていた中年の男に声をかけられた。
「よう、あんた見ない顔だな、ぼーっと突っ立ってないで座れよ」
小汚いおっさんが、気安く笑いかけてくる。
「ほら、座れって」
「あんたは、亡者じゃないのか?」
「いや、亡者だよ。ただ、人間だった頃から亡者のようなもんだったせいか、あんまり変わらないんだよな、狂っちまった奴も多いがね」
おっさんは人好きのする顔で、ニヤニヤと笑った。
オレが警戒していると、おっさんが隣の椅子をポンポンと叩いた。
「警戒するのも無理はないけど、ここは安全だぜ。ここは殺し合う場所じゃなしに、それを見るための場所だからな」
ニヤニヤ笑うおっさんに釣られて、オレは隣に腰を下ろした。
椅子に座ると精神的な疲れがどっと吹き出し、眠ってしまいそうだった。
ゴブリンの試合が始まると、おっさんはオレの事など忘れたかのように戦いに熱中した。
オレは亡者が襲ってきた時は、すぐに階段に逃げ込める体勢だけは整えて、周りを観察した。
ほとんど男ばかりの亡者達は、誰もがチケットを握りしめて、立ったり座ったり足で床を打ち鳴らしたりと、忙しそうだった。
ボックス席のような場所に、金ぴかの服を着ているでっぷりとした亡者と、首に剣を突き付けられた痩せた老人がいた。老人のプルプル震える手には、やはりチケットが握りしめられている。
「チクショー、また外れたか」
隣のおっさんがチケットを床に叩き付け、それと同時にボックス席の痩せた老人の首が斬り落とされた。
「なあ若いあんちゃん、あんたは賭けないのかい」
おっさんが元のニコニコ顔に戻り、話しかけてきた。
ズボンのポケットを探るとマキに貰った銅貨が一枚入っていた。
「ん……こんなんでも賭けられるかい?」
「ああ十分だ、どっちにする?」
闘技場を見下ろすと、2匹のゴブリンがパドックの馬のようにグルグルと歩いていた。
1匹を選ぶと、おっさんは銅貨を奪いチケットを買いにいった。
……マキから貰った銅貨だったから、とっておけば良かったかな。
おっさんはすぐに帰ってきて、チケットをオレに渡した。
その試合はオレの予想が的中して、銅貨が3枚になってかえってきた。
「次はどうする? あんちゃんに乗っかってみるとするか」
適当にゴブリンを選ぶとまた的中してしまった。
正直、試合もギャンブルもどうでも良かったが、座って休んでいられるのが有難かった。
昔、スロットを打っていた時の事を思い出し、苦笑する。
あの頃、外のどこにも居場所がなく、行く所もなかったので、ただ椅子に座っていたいというだけの理由で数万円を無駄に使ってしまったものだった。
オレはその後も勝ち続けた。
オレと同じゴブリンに賭け続けたおっさんは狂喜乱舞して、オレに抱き付こうとしたので鋼の爪をつきつけた。
手元を見ると、金貨一枚と十数枚の小銭に増えていた。
疲れがだいぶとれたオレは、立ち上がった。
「おい、あんちゃん、どこ行くんだ?」
「オレはそろそろいくよ」
金貨をポケットに入れ、小銭をおっさんの手に渡した。
「なあ、おっさん、石碑がどこにあるか知らないか?」
「石碑? わからんな、それよりもう少し見ていこうや、そろそろチャンピオンのおでましだぜ」
「いや、もう行かなきゃ、世話になったな」
おっさんは悲しそうな顔で頷いた。
階段まで歩いたオレは、最後におっさんの横顔を見た。
おっさんはすでにオレの事などすっかり忘れ、ギャンブルに熱中していた。
オレはクスリと笑って階段を下りた。
外に出ると、中の熱気が嘘のように肌寒かった。
どんよりとした曇り空の下を、上半身裸にランドセルという恰好で歩き始めた。
道は徐々に細くなり、城塞都市らしい曲がりくねった上り坂に変わっていた。
敵を警戒しつつ坂道を上り、石碑を探す。
しばらく進んでいると横から声をかけられた。
「……あの、助けてください」
オレは飛びすさり、爪を構えた。
長い髪の若い女が、震えながらオレを見ていた。
「どうしたんだ?」
「父が……父が襲われているんです」
オレは爪を下ろし、若い女を観察した。肌もつるつるだし、内臓も飛び出ていない。
亡者ではないようだ。
「お、お願いします、父が殺されてしまいます」
「わかった、どこだ?」
女は道を走り出した。
オレはためらったが、仕方がないので女の後を追う。
女は曲がりくねった複雑な道を進んでいく。2つに別れた道を左に曲がり、坂道を上ったり逆に下ったりした。嫌な予感で一杯になり始めた時、女が立ち止まった。
そして、ビルとビルの間のような、人間がやっと通れるぐらいの細く薄暗い道を指し示した。
「この奥で父が襲われています」
女が目を潤ませて言う。
「……悪いが、この道に入ることは出来ない」
オレはきっぱりと言った。
「……私を亡者とお疑いになっているのですね」
若い女は、乱れた長い髪を垂らして俯いた。女はそのままの姿勢でしばらく固まっていたが、やがて覚悟を決めた様にオレを見上げた。
そして服を脱ぎ始めた。
丸裸になった女の乳房が外気に触れる。
女は裸のまま左右に歩き、全身をオレに見せつけた。
「……わかった。亡者ではないと信じよう、服を着るんだ」
女が手早く服を着たのを確認してから、オレはビルの隙間に足を踏み入れた。
最大限の注意を払いつつ、小走りに進む。
女がオレの後ろをついてくる。
しばらくすると袋小路に突き当たってしまった。
オレは壁に手をつきながら後ろを振り返った。
女がピッタリとオレの背中に貼り付いていた。
女の長い髪が乱れ、髪の毛がかぶさっていた左目があらわになった。
その目は人間のものとは思えない、真っ赤な目だった。
女がオレの背中を突き飛ばした。
両手をついていた前の壁がクルリと回転して、オレを別の空間に押し出した。
前のめりに転がったオレの耳に、凄まじい怒号が聞こえてきた。
地面がビリビリと震え、焼け付くように熱い大気がオレの肌を焦がす。
オレは立ち上がり、口に入った土をペッと吐き出した。
目の前には、肌が緑色である事以外はほとんど人間と変わらない、一匹のゴブリンがいた。
やたらと長い緑の腕をダラリと垂らし、不敵に笑っている。
―――――――― ゴブリンチャンピオン、ユグノーが現われました。




