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5話「成長」

 ユウトは首から先だけを外に出すと、左右に視線を巡らせた。

 右よし。左よし。今なら問題なさそうだ。

 廊下に人影がないことを確認し、隠密行動中の軍隊よろしく指をクイッと曲げてゴーサインを出す。

 ユウトの意図を読み取ったアリゼは後方からユウトの傍までやって来る。そして不安を瞳に宿して見上げてきた。

 

 アリゼの言わんとすることを察して、ユウトは頷いた。



「心配するな。こっちは任せておけ。アリゼこそ、余計な混乱を招かないようにな?」

「はい。こんな時にユウトさん一人だけに任せてしまってすいません。エノールをどうか頼みます」

「ああ。それより見られるとまずい。ほら、急げ」



 促すと、アリゼはサッと廊下に飛び出した。彼女が歩き出すのを確認するより早く、ドアを閉めた。



「ふぅ……」



 ようやく肩の荷が下りた。緊張感が開放され、自然とため息が出た。

 ドアを開けている時間は最小限だったし、仮に誰かがいたとしても見られないように隠してある。

 だから問題はないはずだ。


 ただ、もし見られていたとしたら……城内に混乱が生じてしまう。彼女の今後のことも考えると、それはあまりよろしくない。それに少なからずユウトやアリゼにもその波寄が来てしまうだろう。


 しかしどうして朝から緊迫感が漂っているのだろう。


 本来なら今日は昨日より良い日になるはずだった。 

 なのにそれらの希望的観測は全て水の泡と化した。



「はあ、人生思い通りにいかないもんだなあ」



 と、キザったくぼやいてみる。

 臭い台詞に反応したのか、玄関からは見えない位置に移動させておいたエノールがハイハイ状態で姿を見せた。

 

 ユウトは全てを狂わせた彼女――エノールを見やる。昨夜より一回り成長した彼女は元気にハイハイを続けていた。



「なあ、エノール。お前は一体何者なんだ……?」



 可愛らしい姿に口元を綻ばせながら、異変を初めて察知した瞬間に思いを馳せた。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 先に目を覚ましたのはユウトの方であった。

 瞼をこすりながら身を起こす。すると未だ夢の中にいる二人の家族が視界に収まる。

 

 アリゼ・ベルクシュトレームと、新たに家族の一員に加わったエノール。

 二人は本当の親子のように身を寄せ合い、安らかな寝息を立てていた。

 

 幸せな家族の様子を確かめたユウトはよし、と気合を入れた。

 今日は美味しい朝ごはんを作ってやろう。そう意気込み、静かにベッドを離れた。


 この時、エノールは布団を被っていて、顔だけしか見ることができなかった。

 そのために彼女の異常な変化に気づくのが遅れた。ただこの異常の発覚が遅れても早まっても、ユウトやアリゼの対応は何一つ変わらなかっただろう。


 キッチンに立ったユウトはまず、魔力炉を開けた。

 魔力炉はいわゆるガスのようなものである。魔力の扱いが苦手だったり、魔力量が少ない人用の魔力供給サービスだ。

 魔力が空のユウトにとって、この世界で生活していくために必須のサービスだった。

 これがないとまともな朝飯すら作ることができない。


 魔力炉か溢れた魔力と、魔力を元に火を発生させるコンロを使って火を起こす。

 そこから先は元の世界と変わらない。

 あらかじめ用意しておいたベーコンとフライパンに投入。それから卵を取り出し、殻にヒビを入れてからフライパン上空で割り、中身を投入。簡単なベーコンエッグの完成だ。

 同時に隣のコンロで水を沸かす。エノールのためにミルクを作ろうと思うので、まずはお湯を作る必要があった。


 一通り終わると皿に料理を並べ、常温にまで冷ましたお湯に粉を混ぜてミルクを作成。

 まだ二人は起きてきそうではないし、待ってる間に簡単なものをもう一品ぐらい作ってしまおう。

 保管してあったレタスを取り出し、水洗いしてから葉を千切る。次にトマトと包丁を用意。二つの野菜を使って簡単なサラダを作るつもりだった。


 トマトに包丁の刃を当てた瞬間である。

 寝室の方から悲鳴とも驚きとも取れる声が聞こえてきた。


 ユウトが動き出すより早く、エノールを抱えたアリゼがリビングに滑り込んできた。その俊敏さはこれまでで見たこともないほどだった。



「ゆ、ゆゆユウトさんっ!」

「お、おう。どうした?」



 薄ピンク色のゆったりとした寝間着姿のアリゼが物凄い狼狽ぶりを見せる。

 その勢いに押されたのか、ユウトの方は気勢がそがれてしまった。



「え、エノールがっ!」

「エノールが?」

「喋ったんです!」

「何て?」

「私のことを『ママ』って!」



 自分の近くで大声を上げる『ママ』をエノールは無垢な瞳で見上げていた。

 そんな微笑ましいギャップを眺めながらユウトは穏やかに答えた。



「そりゃあれだ、喃語(なんご)ってやつだ。確か生後四ヶ月ぐらいになると、意味のない言葉を発するようになるんだよ。エノールはそれをちょっと早めにやってのけたってわけだ。もしかしたら天才児なのかもしれないな」



 親馬鹿よろしくユウトは言い切った。


 だが笑えていたのもこの時までだった。

 よく見ると、生後三ヶ月後ぐらいだったはずのエノールは随分大きくなっていて、生後から一年経った赤ん坊になっているような……。

 

 事態を呑み込めぬまま、エノールがユウトの方を見やり、短い指を向けた。

 そして口を開いた。



「パパ」



 瞬間、ユウトは驚きのあまり、手に持っていた包丁を落とした。

 もう数ミリ横に落下していたら今頃赤い噴水が湧き出ていたであろう。



「え、エノール、今何て言った……?」



 そんなの聞かなくても明確である。

 あまりにもハッキリとした発音。誰がどう聞こうと「パパ」と言ってのけた。

 けれど聞き返さずにはいられない。



「ほ、ほら、やっぱり喋りました」

「いや、アリゼ、顔を綻ばしてる場合じゃないぞ。まだ生後半年にも満たない子が喋ったんだぞ!? い、いや、それよりも一晩で随分成長したような」

「寝る子は育つって言いますし」

「いくらなんでも成長しすぎだから! それに夜中起きだしてたから充分寝てたわけじゃないぞ」


 混乱のあまり、ユウトとアリゼは声量を制限しなかった。

 夫婦のやり取りを喧嘩と勘違いしたのか、あるいは純粋に不愉快だったのか。とにかく彼らの言い合いはエノールの感情を刺激した。

 見る見るうちに顔を歪めておく。



「ユウトさん」

「あ」



 次の瞬間、リビングに赤ん坊の泣き声が響き渡った。

 二人は別の意味で慌てふためいた。



「ほーら、いいこいいいこ~」

「うええええええええ」

「よしよし、ユウトさんがいないいないばあしてくれるから見ましょうね~」

「唐突に無茶振りをしてきたな!? ええい、ほら、いないいないばあ」



 アリゼがエノールをゆっくりと揺らしてあげたり、ユウトが変顔を披露したり。

 そんな風になんやかんやとあやすことで、どうにか感情を落ち着かせることに成功したのだった。



 二人は朝からグッタリしながら向かい合わせで食卓に腰を下ろした。



「覚悟していたとはいえ、疲れるな……」

「母様の苦労が少しですけど垣間見えました……」



 満身創痍の状態で、暫くは電源をオフにしたい気分だった。

 しかしそういう訳にも行かなかった、



「とりあえず、エノールに何が起きたかを考えるのはまた後でにしよう。今はアリゼの公務について話し合ったほうがいいだろう」

「私もそう思います」



 今日この後、アリゼはエノール関連の手続きを行う予定だった。

 まず、名称不明だった赤ん坊に「エノール・ベルクシュトレーム」という名を与えること、次にエノールをアリゼ&ユウト夫妻の養子とするために正式な手続きを執り行うこと、また市井に向けてエノールの存在を公表するために話し合いを行うこと……などなど。


 

「とりあえず、予定してた内容は全て取り消し……というより、返事を先延ばしだな」

「名前が決まったことだけはお伝えしては駄目でしょうか」

「ああ、それだけは問題ないか……。でも、それ以外は」

「はい。わかっています」



 しかしアリゼの表情は晴れなかった。


 こういう時、もっといい案を練れる頭があればな、と思う。

 ただこれでも苦肉の策なのだ。

 返事を先延ばしにするというのは、事態を遅らせるだけであって、根本の解決にはならない。

 あまりにも急すぎる事態がユウトの頭脳を鈍らせていた。


 それでもこの時、ユウトが分かっている事があったとしたら、エノールの存在を公にしてはならないという一点のみだっただろう。

 これはユウトだけでなく、アリゼも察したことだった。

 二人は一言も交わさずに共通の理解を得たのだった。


 元々エノールは出自不明の子供だ。

 身元のあやふやな子を養子に迎えるだけでもある程度の混乱や反駁は起こるだろう。

 そこに一夜で数ヶ月分の成長を遂げた、なんて情報が加わったらどうなるか。 

 

 王家は得体のしれぬものを飼っている――。


 そんな虚言が広がり、大半の国民の不審を仰ぐことになるのは目に見えていた。



「隠さないと民の混乱を招くぐらい私でも分かります。ですけど、これしか方法がないんでしょうか。これではエノールが可哀想です……」



 アリゼの気持ちは痛いほど分かる。

 

 洞窟の奥で見つけてからまだ十日ほどしか経っていない。

 しかしその期間を二人はエノールとともに過ごしたのだ。

 予定より早かったとはいえ、娘に「パパ」「ママ」と呼ばれている。突発的な擬似家族だったとはいえ、エノールにかける愛情は確かにあったのだ。

 彼女ほどじゃないにしろ、ユウトだって同じものを持ち合わせていたはずなのだから。



「とにかく一体何が起きているのか把握する必要があるな。その方法をどうにか考えてみる。だからアリゼは不審がられないように公務をこなしてくれ。……頼む」

「いえ……その、すいません。私だけ弱音を吐いてしまって。こちらのことは任せて下さい。ユウトさんこそ、打開策の考案を頼みます」

「おう、任せろ」



 こうして異変発生初日の方針が決まり、お忍びの出発が行われたのだった。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「パパー」

「はいはい」


「パーパー」

「おう、どうした」

 

「パパァァァアアア」

「……元気だなエノールは」


 

 初めて覚えた言葉を使いたがっているのか、それとも「パパ」と発言することでユウトが呼びつけられた店員のようにやって来るのか楽しいのか。

 どちらにせよ、今日のユウトはエノール限定の人気者だった。


 朝のドタバタにも関わらず、日中はのほほんとした時間が流れていた。

 確かにエノールの変貌には度肝を抜いたものの、それ以外は大きな変化もなく平和そのものだからだ。

 親をきちんと呼べるようになったのと、体が少し立派になったくらいでエノールはエノールのまま、ともいえる。


 またユウトが割と呑気なのも、朝打ち出した打開策の考案もほぼほぼ決まっていたことがある。

 こういう訳のわからぬ事態が起きたら宮廷魔術師のライナルトに訊く、というのがユウトの出した結論だった。

 

 理由は二つある。

 まず第一に絶対に口外しないこと。ライナルトはその立場上、口に関してはプロメウヒ砦の壁と同じくらい固い。なので安心してエノールのことを相談できる。

 第二に学があること。口が固いことについてはリーチェやレイナなど、王家に仕えるエキスパート達も同じようにいえる。しかし、知識に関していえば、この世界で最先端の研究を行っているライナルトの右に出るものはいない。よって、彼の頭を借りて事象を明らかにする。


 ただしエノールをほっといてライナルトに会いに行くこともできず、実際に相談することになるのは明日になるだろう。

 今日は父と娘の交流を謀るべきかなあ、なんてユウトはうっすら考えていたのだが。



「まあ、成長したといってもまだまだ子供だし」



 パパの二文字を連呼していたエノールはいつの間にか夢の世界に旅立っていた。

 幸せそうに眠る様子は普通の赤ん坊にしか見えない。


 エノールと出会ってから何度も夜を越したが、ナンディガンドの街で噂されていた異音を発生させることはなかった。

 では彼女は異音の正体ではなかったのか、といわれたらそれも否定出来ない。

 実際にエノールを引き取ってからナンディガンドでは異音は発生してないと報告を受けている。


 異音もそうだけど、魔物達が周りにウジャウジャいる環境で生きていたということ事態もおかしい。

 いや、それ以上にあの場に長い間放置されていたにも関わらず、生きていたという方がおかしいのでは。

 

 赤ちゃんがいるって事態に驚いて、その「いる」事が異常なことを察知できなかった。

 登場の段階で既に異常性は見受けられたのだ。

 そう考えると、エノールが一晩で急成長したなんて事実は些細な事柄のように思えてしまう。


 けれど問題はエノールは一体何であるか、ということだ。

 ここは異世界だし、人間の赤ん坊だって成長過程が違うとなればそれだけで一件落着だ。けれどアリゼだって同じように驚いていたし、それほど差異はないように思う。

 となれば、エノールはただの人間ではないということになる。


 例えばエルフとかゴブリンとか……。

 そもそもこの世界にそういった種族はいるのだろうか。

 いたとしても、アリゼのリアクションを見るに彼らの生態は知られてないとか。


 駄目だ。

 知らないものを勘定にいれて考え始めるとキリがない。

 ならば今ある知識だけで結びつけそうな答えは……。


 

 いつの間にか回転を始めた頭はしかし、それほど長い間動くことはなかった。

 昨日と朝の騒動の疲れ、それに深夜にもハプニングがあったりして、身体は充分な休みを取れていなかったのだ。

 昼飯を食べ終えた直後ということもある。

 ユウトの眠気は限界に達していた。


 エノール。ナンディガンド。プロメウヒ砦。魔界。魔王。ディア。リリス。誘う。罠。理由。

 直前に連想していた言葉が頭に羅列として浮かび、ある閃きが生まれた瞬間、答えを隠すように意識は闇に落ちた。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 何か物音が聞こえて、ユウトは短くも深い眠りから目覚めた。

 机に突っ伏すように寝ていたので腕が軽くしびれている。おでこも若干痛い。



「エノール……?」



 どうやら寝てしまったようだ――。

 それを自覚するとともに、同じように睡眠をとっていたであろうエノールの方に視線を向ける。


 だが、エノールは姿を消していた。



「エノール? どこにいるんだ?」



 寝ぼけは一瞬で消し飛んだ。


 慌てて立ち上がると同時に近くから物音が聞こえた。

 バッと視線を向けるとそこには元気に遊ぶエノールがいた。



「なんだ、元気じゃ……」



 呑気に言葉を紡げたのもここまでだった。

 

 エノールは小さなテーブルに乗っかっている。

 普通の人にはどうにでもない高さだが、二足歩行のできない赤ん坊から見たら結構な高さがある。

 エノールは今まさにそこから降りようとしていた。



「ちょ……止まれエノール!」



 立てるのならまだしも、二足歩行をする筋肉がついていない赤ちゃんが足から落ちたらどうなるか。下手をすれば骨折するのでは……?

 足をテーブルの縁からはみ出して、地面を探るようにぶらぶらさせる。今はまだ上半身の半分以上がテーブルに乗っている状態だから落下することはないが、しかし。



「それ以上動くなよ、エノール。怪我するからな」



 エノールを刺激しないようにゆっくりと近づくが、それが仇となった。

 彼女は両手を離し、自由落下に身を任せた。



「エノールッ!」



 ユウトは飛び込んだ。

 もう少し高さがあれば悠々と届いただろう。しかしテーブルから地面の高さは三十センチちょい。間に合うはずがなかった。

 手を伸ばして頭からホームベースにツッコむような体勢で絶望的な視線をエノールに向ける。

 悲劇が待ち受けているだろう先の光景をユウトは見る。



 なんと、エノールは立派に床に足を着いて立っていた。

 体操選手が着地のポーズを取るように、両手をビシっと伸ばして。



「た……た……」



 叫ばずにはいられなかった。



「立った、立った、クラ……エノールが立った!」


「パパ、うるさい」



 この日、ユウトは赤ちゃんが初めて立つ姿の感動と、娘から詰るような視線を向けられる苦しみを経験した。



 無論、後に帰ってきたアリゼが驚地動天するのはいうまでもない。

 


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