4話「深夜の共同作業」
予想はしていたけれど今日は疲れた。
謁見の間での赤ちゃんの顔見せ、それから国王からの追求。その二つが終わって部屋に戻った後はレイナから育児の簡単な手ほどきを受けていたらしいアリゼからその内容を教わる。
お腹が空いてぐずり始めた赤ちゃんを宥めるために大慌てで離乳食の作成を開始。しかし、慣れない料理のために悪戦苦闘。暫くはこらえていたがやがて我慢できなくなったのかダムが決壊、赤ちゃんは大声を上げ始める。アリゼが「もうすぐ出来ますからね。もうちょっとの辛抱ですよ」と語りかけるが、チラッとこちらを向いた時のなるべく早くお願いしますといった哀願の目が網膜に焼き付いている。
それからどうにか作り上げ、お腹が満腹になった赤ちゃんは目を閉じて安眠に入った。落ち着いたようでユウトもアリゼもホッと一安心。
一連の騒動によって疲弊していた二人はいつもより早くベッドに入った。二人の間に赤ちゃんを横たえて川の字で寝たわけである。
横になった瞬間、意識を失うようにユウトは睡眠に入った。夢も見ずに深く深く意識の底に沈んで一日の疲れを体と脳は癒やしていたわけだが……。
「うきゃああああああ!!」
起きた。というより、起こされた。
隈を作って哀しげに天井を見つめる顔にいつもの覇気はない。
「ゆ、ユウトさん……」
当然彼女の横で寝ていたアリゼも目を覚ましてしまうわけで。アリゼは目尻をこすりながら夜泣きを始めた赤ちゃんを見る。
「ど、どうしましたかー……?」
舌が上手く回ってない。いかにも眠そうだ。そして問いかけた相手はまだ言葉を言葉として認識できないために答えが返ってくることもなかった。
「レイナさんから育児を習った時に夜泣きの事は聞かされなかった? どうしたら泣きやます事が出来るとか、あるいはその原因だとか……」
「一概には言えませんが、生活リズムとかストレスが関係してることもあるそうです。特に今日なんかは新しい環境で眠るわけですから」
「そうか、環境の変化も赤ちゃんにとってはストレスになるのか……。生活リズムにしても今日は昼間寝てる時間が長かったしそれもあるか……?」
色々と推理してみても赤ちゃんが泣き止むわけではない。何にせよまずは大人しくさせようと目線で語り合い、擬似夫婦二人は頷いた。
「ミルク飲ませたら少しは落ち着くかもしれない。えっと、ミルクの作り方は……」
「あ、私覚えてます。大急ぎで作りますから暫く任せてもよろしいですか?」
「ああ、頼む!」
アリゼが台所に駆けていくのを横目に、ユウトは少しでも赤ちゃんの機嫌を取ろうと優しく抱き上げる。おお、よしよしと口に出しながら彼女を目線と同じ高さまで持ち上げた所でユウトは気づいた。
……異臭が、赤ちゃんの方から漂ってきている。
「あ、アリゼー! エマージェンシー! エマージェンシーだ! 泣き出した原因が発覚したぞー!」
「え、ええ!? ちょ、ちょっと待って下さい」
アリゼは慌てて火を消してバタバタとやって来る。
この世界にもコンロと呼ばれる物はあった。
ただし、火の元は違う。
ユウトの暮らしていた世界ではガスで火を起こしていたが、こちらでは魔力を火に変えているのである。つまり魔法による発火だ。
ならばコンロはいらないのでは、と思うかもしれないが、コンロはあくまで火をつけやすくするための媒体である。
魔法は魔法を扱う人物のイメージに沿って生成される。要は心の具象を実体化するということだ。
ただ生成される「モノ」によって必要とされる魔力量は上下するらしく、魔力量と想像した魔法の発現はかなりシビアなバランスの上で成り立っているらしい。
魔法の使えないユウトにはさっぱりだが、このせいで軽々しく魔法を扱うことは出来ないだとか。
けれど魔法を発動するプロセスを簡略化することは出来る。
例えば、ボールは丸いもの、火は立ち上るもの、といった風に現象を抽象化させるのである。
コンロは家庭で火を起こすもの――と術者が定義すれば、魔力を注ぐだけであら不思議。簡単に火が起こせてしまうのだ。
この世界ではこういった魔法を使った技術体系が進んでいるらしい。
しかし水道といったインフラは魔法に頼ったものばかりでなく動力も駆使しており(ただ、この動力も魔法で起こしているから結局は魔法技術といえるかもしれない)、全てが全て魔法に頼りきった世界ではなかった。
そんな世界のおかげでアリゼはミルクをササッと作ってくれようとしたわけなのだが、二人に差し迫る危機には世界の技術体系とかインフラ整備なんか糞の役にも立ちはしない。
「どうやら寝ている最中に糞尿を漏らしちゃったらしい。そりゃあ泣きたくもなるわけだ」
「そういうことでしたらおしめを持ってきますね。えっと、確かその辺に……」
二人の部屋で赤ちゃんを寝泊まりさせることに決まった際、レイナの手引によって必要となる道具をあらかた用意してもらっていた。例えばミルクの粉だったり、おむつだったり。
子育てには周囲の協力あってこそ遂行できるもんなんだなとユウトは思ったものだった。
「ユウトさん、これを」
アリゼがおむつを手渡してくる。どうやらオムツという存在はこちらの世界も地球と同じような歴史を辿ってくれたしく、見慣れた形で存在していた。
となれば後は簡単。地球にいた頃と同じ動作で付け替えればいいのだから。
問題があるとすればユウトがオムツの付け替えに慣れていないこと、そして可愛い可愛い赤ちゃんのものとはいえ、立派な屎尿が目の前に展開されるということだ。
ユウトは一度大きく深呼吸をし、次にアリゼと視線を交わす。
オムツの交換作業は一人でパパっと出来るほどの技量はない。なので共同作業で行う。
「よし……いざっ!」
覚悟が決まった所でユウトは柔らかいタオルの上に横たわらせた赤ちゃんのオムツに手を伸ばす。
オムツの腰回りにある縫い目をそっと外し、オムツを展開する。すると中に溜まっていた屎尿が姿を現し、篭っていた匂いが充満する。ほんの少しだけ顔を歪めるが、すぐに匂いを頭の隅から追いやった。
「アリゼ、今だ!」
「はいっ!」
ユウトが赤ちゃんの足の裏をV字になるようにして持ち上げている間にアリゼがおしりふき用のタオルで汚れた部分を拭いていく。アリゼが作業をこなしている間にユウトは空いた手で汚れたオムツを端にどかし、新たなオムツを赤ちゃんの横においた。
「オッケーです!」
「よっしゃ!」
拭き終えの合図と同時に新品のオムツを素早く赤ちゃんの下に滑りこませる。そして赤ちゃんの足をそっと下ろし、アリゼが横からオムツの縫い目を止める。
この間、なんと僅か三分半。
育児経験がない二人にしては驚愕の速度だった。
「ふう……手強い相手だった」
交換が済めばもう怖いものは何もない。
アリゼが赤ちゃんに話しかけている間に汚れたオムツなどを捨てに行った。
最初は耳をふさぐほどの泣き声だった彼女も今は小さな嗚咽を上げるほどになっている。このままあやし続ければ数分で笑顔を見せてくれるだろう……。
体は疲れきっているけど、一連の騒ぎですっかり目が覚めてしまっていた。
少し休んでからまた床に就くとしよう。
自分用の分とアリゼ用の分、二つのコップに水を入れる。
この世界の一般家庭ならば水道から出た水を直接飲むのは体を壊す原因になれど、王宮に流れる水道は直接飲んでも問題ないように作られていた。この点は日本育ちのユウトにとって非常にありがたい措置であった。
「アリゼも水、飲むか?」
「丁度飲みたいと思ってたところです」
赤ちゃんを抱えたアリゼがリビングにやって来た。
アリゼの腕に収まった赤ちゃんは先程までの事がなかったように上機嫌である。
二人同時にコップに口を付け、水を飲み込んで一息をつく。
その様子を楽しげに眺めていた赤ちゃんを見ながらユウトは言った。
「今更だけど、この子の名前まだ決めてないんだよな」
実はこの名前の問題は当初から上がっていた。
識別に難が生じる……ということで仮の名称を付けようとした。しかしいつ赤ちゃんの実の親が現れるか分からない以上、勝手に名前を付けて赤ちゃんがそれを覚えてしまったら困るし、それ以前に名前が付けられていたら彼女は反応してくれないかなどなど。
そんな言い訳じみた理論で名付けるのを後回しにしていたのだった。
「はい。……いい加減、赤ちゃんでは繋がりが感じられなくて嫌です」
「そこに赤ちゃんがいる。なんてほぼ物扱いみたいだしな」
けどこうして一緒に暮らすとなればもはや避けては通れぬ問題だった。例えそれが短い期間の付き合いになるかもしれないといえども。
「もし別の名前を付けられていたら悪いと思うけど、やっぱり付けてあげよう、名前」
「私も賛成です。ただ問題は……どんな名前を付けるか、ですよね」
「それだよなあ」
二人は首を傾げて考え合う。
名前を付ける、といってもどの程度まで深刻に考える必要があるのか中々に難しい問題だった。これから名付ける名称はベルクシュトレーム夫妻の擬似的な親子関係でのみ使うものだ。彼女の実の親のことを思えば、そこまで真剣な名前を付けることはどうかと思われる。
かといって彼女を記号的に表すのは躊躇われる。
ちゃんとした意味はあるけど、重過ぎないもの……。
それが今、ユウト達が模索している名前だった。
「日本なら太郎とか花子とか……いやまあこれもどうかとは思うが……幾らでも思いつくんだがなあ」
またユウトはこの世界の言語を把握しきれていない。故に単語の意味や、そもそも言葉の発音すらよく分かっていないのだ。
そう、実はこの問題もユウトにとっては重要なものだった。
この世界に来た瞬間からユウトは現地人と会話が成立していた。なので奇跡的にこの世界でも日本語が使われていたなんて可能性も浮かんでいた。
しかし一度本や看板なんかを見ると全く知らない文字が書かれているのだ。これは日本語以外の――異世界の言語を使っている証拠にほかならない。
実は細かく観察すると台詞と口の動きが一致していなかったりする。中々見抜けないのは意外と似たような言語体系ではないのかと睨んでいるが……話している言語が違うのは確かだ。
この世界に転移された際、不思議な力が発動したといったら話は早い。しかし、何故不思議な力が発動したか、あるいは誰が不思議な力を行使しているのか。
不思議な力の出処はユウトがこの世界に召喚された原因に直接繋がってくるはずだと睨んでいる。
とはいっても、現状ではお手上げだった。
「私達の娘、という意味を込めた名前はどうかなあなんて思ったんですが、私達の娘ではないですよね」
「うん、それはちょっと重すぎかも。けど発想は悪くない。ふむ……」
ユウトはしばし考える。
「なら私達の宝物、なんてのはどうだ?」
「良いですね!」
とりあえずの代替案で言ったつもりがアリゼに思い切り食いつかれる。
苦笑しながらユウトは応えた。
「じゃあ早速、と言いたいとこだけどまだ言葉は勉強中で……。この意味を名前に込めるとしたらどうなる?」
「そうですね……」
きっと直訳文をそのまま名前にすることなんて出来ない。
文を崩して、語呂よく組み合わせて、かつ女性的な名前に組み立てる。
簡単なようで難しい作業だ。
「――エノール。エノールなんてどうでしょう?」
アリゼはパッと顔を上げると、ユウトと一緒に赤ちゃんにも問いかけた。
して赤ちゃんの反応というと、賛成の意を示すように笑顔を浮かべて手を上げたのだった。
「決まりだな。この子の名前は今からエノールだ」
「はい。ねえ、エノール、これがあなたの名前ですよ~」
子供とは不思議なものだ。
言葉の意味は分かってない。なのに言葉に込められた感情や意志を汲み取る力がある。それは成熟した大人以上に正確だ。
今の彼女にはアリゼの放った「エノール」に込められた親愛の情を深く深く受け取ったことだろう。それはエノールという名前に反応したことと、先程までよりも一層笑いかけていることが証明していた。
「よし、名前も決まったことだし寝直すか。あまり起きてるとエノールの体に悪いし」
「そうですね。さ、エノールちゃん、寝ましょうか」
アリゼが笑いかけて、エノールが「きゃっ」と声を上げて答える。
その様子を微笑ましげにユウトは見守る。
即物的な関係にしてはあまりに幸せな家族だった。
「じゃあ、明かり消すぞ」
「はい。ユウトさん、エノールちゃん、おやすみなさい」
「おやすみ、アリゼにエノール」
エノールを真ん中にして三人は川の字で横になる。
疲れきっていたせいか、ユウトとアリゼの二人はすぐに深い眠りについた。
だから彼等二人は気づくことはなかった。
暗闇の中、エノールが光に包まれていることに――。
今回のお話を書く際に以下のサイトを参考にしましたので載せておきます。
http://192abc.com/10436
http://192abc.com/42074
また、なるべく正確に記述したつもりですがあくまでフィクションですのでこの方法でオムツの交換が出来るとは思わないように。以上!




