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異世界でお姫様と結婚しました  作者: 高木健人
3章 高邁な騎士
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10話「顕現」

 リーチェを説得するのには中々骨が折れた。

 実際に付いて行ってこの目で確かめたいと言うと、「王族の者をそんな危険な目に遭わせるわけにはいかん」と怒声を浴びせられた。一週間共に過ごしただけあって、リーチェとの距離はだいぶ縮まりはしたが、こういったところはきっちり公私をわきまえている。

 それでも諦めずに何度も説得し、真摯な思いが伝わったのか最終的にリーチェの方が折れた。幾つか条件を課すから、それを守れるのなら構わない、と。


 その条件とは、本格的に現地調査に赴く前日の午前中の時間だけ。今は原因究明よりも魔獣の殲滅に重きを置いていて、あらかた数が減ったところで本格的に調査に乗り出す算段らしい。なので魔物が大分減ってるであろう調査日前日なら一人ぐらい連れてきても守り抜けるとのことらしい。

 次に絶対余計な真似はしないこと。何かあった時のために一応武器は持たせてくれるようだが、それを抜くのは原則的に禁止。身の危険を感じた時以外は触れないこと。また、どんなことがあろうと近衛兵よりも前に出ないこと。

 他にももし危険を感じたら即座に砦へ戻ること。現場ではリーチェ以下兵士達の発言は絶対であること、などの条件を付けられた。

 別にフザケてる訳ではないので、それらの要求をユウトは全て呑み込んだ。


 <魔界>に行くまでの数日間はアリゼと共に砦を見学したり、砦で使役している兵士達に挨拶したり、二メートル近い大男にアリゼに相応しいかどうかと値踏みされたりなど、中々に充実した日々を送った。

 出発前日の夜にはリーチェが部屋にやって来て、鞘に収まった二十センチ程の短剣を剣帯と一緒に渡された。それから再度の警告とアリゼに「ユウトは私が無事に連れて帰ります」と盟約を結んでいた。


 そして、当日。外はどこまでも青空が広がっていて、この後危険地帯に入ることが嘘のように脳天気だった。

 剣を腰に差すという慣れない状態で近衛兵達と合流したユウトは、リーチェのすぐ後ろに立って行路にいた。

 

 砦を出てすぐの<魔界>側は草原が広がっていた。地面に連なる道も暫くは岩で整備されている。プロメウヒ砦の壁が遠くなってくると人の手が加えられていない自然なあぜ道になってゆく。

 最初の方は周囲に若草たちの萌ゆる新緑の大地が心地よい風を運んできてくれる。しかし奥に進むと樹が一本、二本、三本と増えていき、段々と木々に囲まれ始めて陽が葉っぱたちに遮られていく。

 話によると林から森へと推移していき、夜のように暗い森を抜けるとジメジメとした湿地帯に出るという。そこでは空気が粘着き、所々に散在する水たまりは濁っているという。絡みつくように荒れ育った樹はいつの間にか梢から葉を落とし、茶色い枝と幹だけを残した枯れ木になってくるという……。

 といっても先人達が踏み込めたのは湿地帯の入り口ぐらいまでで、実際に大地が死んでるかどうかは分からず、あくまで想像らしい。だがその時点で並大抵の魔力では狂うはずのない自然の魔力器官が暴走を始めているということから、更に魔力の濃くなる<魔界>の奥地では死地になっていても全くおかしくないようだ。


 一行の前に初めて魔獣の姿が現れたのは林から森という言葉に置き換えても相違ない地点に到達した時だった。

 肉食獣のような歯牙を持ったコウモリだった。大きさもユウトが想像する本来のコウモリよりも恐らくでかいはずだった。人間の顔と同等のでかさを持ったそれは樹木の髪から急襲してきた。

 しかしリーチェは襲撃を瞬時に見抜き、全く動じることなく襲ってきたコウモリを真っ二つにした。澄ました顔で剣を鞘に納めると、何事もなかったかのように歩き始める。

 後ろで地味にビビってたユウトは兵士の一人に肩に手を置かれて、「最初は驚きますよね。魔物にも隊長の強さにも……。我々にとってはこれが当たり前です。ユウト様もすぐに慣れますよ」と言ってきた。恐るべし、ファンタジー世界……。


 その後も度々、魔獣による襲撃があった。そのほとんどは元の世界にもいた動物たちを巨大・凶暴化させたものだったが、中には動く肉食花だったり、一つ目のカラスだったりと本やゲームの中でしか拝見したことのないような生物もいた。

 ユウトにとっては異形なそれらを見るたびに竦み上がりそうになったが、その前にリーチェや後ろの兵士達が迅速に退治をしてくれた。あまつさえ、ユウトを安心させるように余裕の笑みを浮かべてくれたこともある。

 

 陽光が木々の手足によって殆ど遮られた地点まで来ると、すっかりリーチェ達には全幅の信頼を寄せるようになっていた。どんなに醜い怪物でも彼女たちがいる限り、腰に収めた剣の柄に触ることはまずないだろう。

 だがその頃、一行には緊迫した空気が流れていた。つい先程までは軽口を叩いていたリーチェの口が堅く結ばれていた。常に真剣な表情で辺りを探るように慎重に動いている。

 前を見たまま彼女は言った。



「……もう少し歩くと開ける場所に出る。そこまで行くぞ」



 声量は抑えられていたが、後ろの兵士たちにもちゃんと伝わったようで、地雷原を避けるような足取りで歩を進める。

 少しするとリーチェの言ったように開けた場所に出た。円形の広場だ。まだ陽は高く昇っているのに夕方のような暗さだった森が、ここだけは日差しが多いだけの元の明るさに返り咲いている。

 円の中心にやってくると彼女は剣を鞘から抜き、背中に提げていた盾を構えた。



「総員、陣形を取れ。……ユウト、分かってはいると思うけど絶対に前に出るな。私の後ろにいろ」

「あ、ああ。でも、どうして……」

「囲まれている」



 言われて、ユウトはハッと周りを見た。

 ユウトを守るように剣と盾を構えた兵士たちが周りを囲む。その奥――広場の先、暗い森の中から紅蓮の煌きが二つ、一対となってこちらを見ていた。しかもそれはひとつだけではない。この広場を全方位から見るように幾つもの暴虐な赤色が光っていた。

 嘘だろ、と思わずよろめきかける。



「……少し不自然には感じていたんだ。魔獣は集団で襲ってくることが多い。ただ単体で襲ってくるのも珍しいことではないからな。数が減ったのと、ここ数日の狩りで恐れおののいたかと踏んでいたのだが……私の考えが甘かった。私達は誘い出されたのだ」



 そう、道中の魔物達はどれも個体での出現だった。容量のない昔のRPGのように。

 気になるのは誘い出された、という言葉だ。基本的に魔獣達は同種じゃない限り、連携することはありえない。リーチェ本人にそれを聞いたのだから彼女が分かってないはずがない。

 では、本来連携しないはずの魔獣達が一心同体になる何かがあるということだろうか。魔獣達よりも強く、そして支配できるような圧倒的な存在……。

 ありえない。だが、たったひとつの可能性を思い浮かべてユウトは戦慄した。



「……まさか、魔族が関わってる……!?」



「ピンポーン。だーいせいかーい」



 この場にそぐわない快活な声。

 

 一人の少女が正面から姿を見せた。

 小さい少女だ。身長は百五十ぐらいで、それに合わせて体型はどこも小ぶりだ。成熟しきってない小柄な身体には異性を誘惑するような胸元の開いた漆黒のラバースーツを着用していた。愛嬌のある小顔はしかし、挑戦的な双眸が見た目に合わない色気を出している。

 だが、もっとも異質なのはピンクの巻き髪から生えている二本の角と、尻の辺りから伸びている黒い尻尾だ。


 ――サキュバス。


 ユウトの頭のなかで、その五文字が浮かんだ。



「我々を誘いだしたのはお前か」

「まー、誘導はしたけど、ここまで来たのはあなた達の意思よ。あたしは関係ないから」



 ふふ、とサキュバスは挑戦的な笑みを向けた。リーチェはその挑発には乗らず、毅然とした表情でサキュバスと対峙する。



「我々を罠に陥れた理由は何だ。無謀にも立ち向かうと考えているのではあるまい」

「それはこっちの台詞よ。あたし達はちょーっと探しものをしてただけ。そしたらあんたら人間が勝手に警戒して、大事な仲間を葬ったんじゃん。あまり仲間意識はないとはいえ、良い気分ではないのよね」

「ほう……。それで敵討でも企てたわけか」

「だからー、あたしたちに仲間意識はないって言ってるじゃん。どちらかというとあたしらの縄張りを荒らされるのが困るだけだって。……ま、あなた達がお望みならここらで一戦交えてもいいんだけどね」



 その口ぶりからあちらから戦闘を仕掛けてくる気がないのが見て取れた。あくまで手を出すのはこちら側。魔獣サイドは攻撃を受けたから仕返しをする。

 もちろんそんなのはリーチェもわかってるはずだ。奴の口車に乗るとは到底思えない。必死にこの難境を乗り越えるために脳をフル回転してるであろう。



「……そういえば、あんたの身なり、どっかで見たことあるわね」



 しかし、その言葉にリーチェが顔を上げた。



「何を言っている。私とお前は今日が初対面なはずだが……?」

「そうじゃなくて、あんたに似てる誰かよ。えーっと……そうそう、ウルカト王国近衛軍隊長とか名乗ってたなあ。あんたみたいなか弱い女じゃなくて、背の高いイケメンだったけどね」

「なっ……!?」



 衝撃が走る。リーチェが必要以上に目を見開いているのが見えた。柄をギュッと握りしめる。剣先が震えていた。



「兄を……シリウス兄さんを知っているのか?」

「ああ、そうそう、シリウスとかって言ったわね、あの青年。やっぱりあたしの見当違いじゃなかったのね」



 サキュバスは得意げな顔で自分を抱きしめ、光悦に浸っていた。

 歯をくいしめて押し殺すような声でリーチェは問うた。



「お前、兄さんに何をした……?」



 サキュバスはクスリと口を歪ませて、



「――シリウスとやらはあたしの前で無残に死んだけど?」



 人間の咆哮を生まれて初めて聞いた。それは、獣の叫びなんかと違った感情の篭った生きたものだった。



「貴っ様ぁぁぁああああああ!!」



「駄目だ! 手を出すな、リーチェ!」



 しかしそんな言葉で感情の沸点を超えた彼女を止められるはずがなかった。

 剣を振り上げ、サキュバスに斬りかかる。しかし楽しげに口を釣り上げていたサキュバスは右手を前にかざしたかと思うと、光の本流を手の平の中心から放出した。光線をリーチェは正面からくらい、数メートル後ろへ吹き飛んだ。あの光には相当なエネルギーが篭っていたのだろう。


 兵士の何人かが彼女の地位を叫びながら地面に横たわった彼女に駆け寄る。ユウトもすぐさま彼女の元に向かった。

 身を包んでいた重厚な鎧の脇腹の部分が砕けていた。けれど効果がなかったわけではなく、傷は浅い。それよりも問題なのは頭の方かもしれない。地面に着地した際、頭から落ちたのが見えた。



「あ、ああ……隊長、隊長……」

「あまり揺さぶるな! とりあえず、脈があるか確認するんだ!」



 ユウトの声に兵士が慌てて脈を取り始める。その者は蒼白な顔をしていたが、まだ生きていたことを知るとホッと息をついていた。どうやら意識を失っているだけで命に別状はなさそうだ。



「お前……隊長をよくも」

「あれえ? 先に手を出してきたのはあんた達の方なんだけどなー。こっちに悪役ツラさせないでよ」

「てめえ、馬鹿にしやがって」



 背後では新たに事態が動いていた。リーチェの安否がわかった所で脈を測った兵士に任せる。そしてすぐさま前を向いた。

 怒りに狂った兵士が剣をサキュバスに突きつけている。まだ冷静を保った数少ない同胞が彼らを力づくで抑えている。まさに一触即発。僅かでも遅れたらここは戦場になってしまう。



「やめろ! 絶対に手を出すな!」



 前に出るな、と言われたがこの緊急事態に守っている余裕なんかない。誰よりも前に行き、サキュバスに一番近い存在となった。



「何故ですユウト様! こいつは隊長を……隊長おおお!」

「気持ちは分かるが落ち着け! ここで相手の手に乗ったら思う壺だってのがわからないのか! 安易に手を出したら全滅するぞ!」



 使わないと決めていた剣を抜き、それを兵士の方に突きつけた。興奮していた彼が静まっていくのがわかった。



「ふうん。一人だけ冷静なのね。その割には誰よりも身軽で弱そうだけど?」



 背後でサキュバスがユウトを挑発していた。ユウトは剣を地面に放り投げて、後ろを向いた。



「俺の名前はユウト・ベルクシュトレーム。これでも王族の者だ。ここから先は俺が交渉相手になろう」

「ユウト、ね。風の噂で聞いたわ。どっかの誰かが人間界の姫様と結婚したって。あんたのことだったのね」

「よくご存知のようで」



 負けじとユウトも微笑んでみせた。



「かっこ良く交渉相手になろうって出張ったつもりだけどさ、あなた今の状況わかってる? 先に手を出したのはそっち。あたしらには仕返しする権利がある。話し合いなんて無意味だと思うけど?」

「先に挑発したのはそっちだろう?」

「あたしは別に挑発なんてしたつもりはないけど? 第一、挑発したなんて言質を誰かが取ってるわけでもあるまいし」



 相手が脅威の存在であるのは見に染みて分かっている。

 だが、それが脅威になればなるほど、ユウトの頭の中は冷えていく。冷静になっていく。

 人は誰しも感情を抑えねばならない場面が人生の中で訪れる。心の奥底で感じている本当の気持ちを引っ込めて嘘の感情を表に出すのだ。

 ユウトは『あの日』からこの世界にやってくるまで、それを続けていた。いつしか本当の気持ちを嘘の感情で上書きできる程に。

 だから、こうした緊急事態に陥っても焦った心は前に出ず、代わりに考え嘘を放出することが出来る人間になってしまった。

 


「――そうだな。じゃあ俺達に仕返ししてみろよ」



 見下げるような顔でわざとらしく挑発をした。



「……は? あんた、何言ってるの?」

「言ったとおりだ。仕返しする権利がそちらにはあるんだろう? なら存分にすればいい」



 サキュバスが怪訝そうに眉を釣り上げた。



「えっとねえ、言葉の意味分かってる? 怖くないの?」

「精神的苦痛ならともかく、身体的苦痛には慣れてないからな……。壮絶な痛みが待ち受けてると思うとそりゃ怖いよ。どうせなら一思いにやってほしいけどね」



 疑わしげなサキュバスが益々不審を募らせていくのが分かる。



「どうした? 仕返しするのかしないのか。覚悟を固めたいからさっさと結論を出して欲しいんだけど」

「ちょ、ちょっと何よ!? あんたは何がしたいの?」

「おいおい、これじゃあ押し問答だぜ。いい加減にして欲しいんだけど。まさかだけど、君たちも安易にこちらには手出しできなかったりするんじゃないか?」

「――――!」



 核心を突かれたようにサキュバスは目を見張った。それを見てユウトは己の考えに確信を持つ。



「……やっぱりな。君たちはあくまで自分達が先に手を上げないようにしていた。正当な防衛だと主張出来るようにこちらを煽ってきたんだ」

「くっ……! それが分かったからって何だって言うのよ! いい!? あたしが合図すればあんたもろとも、そこにいる人間たちを灰にすることだって出来るのよ!」

「そうだろうな。魔族と俺ら人間の力の差を考えたら、それこそ捕食者と餌ぐらいの構図になるだろ。なのにあんたらが襲って来ない理由。それは魔族側からしてみれば不利になる事項だからだ」



 リーチェから聞いていた魔族の僅かな情報から一つの道理を組み立てていく。



「もし正当な理由なしに俺たちを襲った場合――例えあったとしても辿る道は同じだろうけど、モラル的問題は百八十度見方が変わる――魔族に殺されたって報せがすぐに伝わるだろう。今までは現状維持を保っていただろうけど、王族の一人と近衛軍の隊長やその手練を殺されたっていうなら話は別だ。ウルカト王国は嫌でもその重い腰を上げることになる。きっと戦争になるだろう。あわや人間対魔物の全面戦争だ。いくら強靭な魔族様といえど、数の差では圧倒的に人間が上だ。例え魔族側が勝利の旗を上げたとしても、戦いの果てには僅かな数の仲間達しかいなくて……絶滅の一途を辿ってもおかしくないんじゃないか?」



 サキュバスがギリ、と奥歯を噛み締めたのが分かった。

 

 魔族は数が少なく、人の前に滅多に姿を現さない。

 これだけの情報なら人とはまるで違う生き物で環境に適した土地で生きているだけ、という考えになってもおかしくない。

 しかし過去の大戦で彼らは日の目を見せた。人間たちの争いに便乗し、領地を拡大していたのだ。

 これを見るに彼らは<魔界>でただひっそりと暮らしているわけでないのが分かる。慎重な肉食動物のように鋭利な爪を隠して獲物が来るのを今か今かと待ち望んでいるのだ。



「これにて俺の講説は終了だ。異論があるなら、ご高説を賜るけど?」

「ぐっ、この……! いい気になるんじゃないわよ、この人間風情があ!」

「いい気になるんじゃない、だって?」



 薄ら笑いをやめて真剣な顔でサキュバスを睨んだ。



「それはこっちの台詞だ。リーチェは怪我をしている。これは正当防衛じゃない。過剰防衛だ。最初から非はそっちにあるんだよ。いい加減それを認めろ」

「……調子に乗らしておけば、お前……!」



 怒りでサキュバスの顔が歪む。彼女の沸点が臨界点を超えたのが分かった。彼女の眼前に光の粒子が集まっていく。強力な魔力を圧縮しているのだ。もはや体裁構わず、ユウト達を葬り去ろうとしているに違いない。 


 これは、まずい。

 

 必死で策を張り巡らせる。だがどれも一筋の光すら見えてこない。言うだけ言っといて、結局最終的な結末は変えられないのか。後ろにいる兵士達は。リーチェは。砦で待つアリゼはどうなる? そして、美香、君は――?


 その時だった。



 ――そこまでだ、リリス。



 何もない空間から荘厳で美麗な声が響いた。

 瞬間、サキュバスとユウトを隔てていた空間が突如蠢動した。ガラスにヒビを入れるように空間に軋みが生まれ、欠片が落ち、空間が裂かれていく。

 その現象に伴うかのように、すぐ後ろにいた兵士が呻き声と共に地面に倒れていく。誰かが後ろで「魔力暴走……!?」と悲痛の声を挙げていた。

 ユウトは魔力を感じない。故にリーチェ達が感じている魔物の気配――これは魔物が持つ独特の魔力を感知することをいうらしい――を察知することはできない。そのためどんなに凶暴な魔物が現れても、見た目と迫力以外では恐ろしさを感じることができないのだ。

 だが、今開きつつ空間の裂け目から感じるのは圧倒的な恐怖と威圧だった。

 魔力がなくとも分かる。こいつはとてつもなくやばいものだと――


 空間の裂け目から細長い足が出てきた。肌白い美しい肢体だ。

 次いで、その全身が露になる。

 背の高い美しい女性だった。切れ目の整った長い睫毛、宝玉のような漆黒の瞳。高い鼻梁に赤く艶のある唇。濃緑の髪が螺旋を描いて腰の辺りまで落ちている。

 肖像画に魂を吹き込み、世に顕現した魔女のようだった。



「そなたがユウト・ベルクシュトレームか」



 魔女はユウトに向き直った。

 あまりの美しさと、その美貌に似つかわしくない威圧感に押されてすぐに動くことができなかった。



「まずはリリスが迷惑をかけたことを謝ろう。我らとて、人間と争うつもりは皆目ないのだ。妾が出現したことによって幾人かの人間が倒れてしまったこともすまぬ。人前に現れるとき、どの程度魔力を抑えれば良いかわからなかったのでな……。なに、早急に手当をすれば命に別状はないはずだ。妾も長居するつもりはないから安心せよ。それよりも……ふむ、そなたは魔力暴走を起こしてないようだな?」



 魔女が興味深そうな視線を寄越してくる。



「あんた……何者だ?」



 少しずつ硬直が溶け始めたユウトが放った第一声はこれだった。



「何者、か。立場があまり明確でない魔族にそれを尋ねるとは。そなた達人間の称号で言うなら、魔族の軍の隊長というべきか……いや、これは違うな……」



 魔女は顎に手を当ててブツブツと呟いていた。



「……そうだな、立場を対等にするためにもこれがいいだろう」



 閃いたらしい彼女がそれを口にする。



「妾は魔族の王――ディアと申す」



 魔族の王。――魔王。

 その響きにユウトは戦慄を覚えた。



「妾に何も言わず、勝手なことをしたようだな、リリス」

「も、申し訳ありませんでした。ディア様! しかし、こいつらが勝手に私達の領へ……」

「言い訳は聞きたくない。どんな事情があるにせよ、こちらにも非があるのは確かだ。先に手を出してきたのは人間といえどな」



 リリスと呼ばれたサキュバスは身を震わせて萎縮していた。



「迷惑をかけたな、ユウトよ。お詫びとして妾達とここら一帯の魔獣は人間界に近寄らせないよう手配しておこう。ただ、間違っても変な気は起こすでないぞ。怪我をしたのはそちらの隊長殿であるが、武器を向けたのはそちらなのだ。……ここはひとつ、痛み分けということで手を打とうではないか」



 ユウトが何かを言う前に物事は収束へと進んでいた。ありがたいことこの上ないが、しかしこのまま終わらせるわけにはいかなかった。



「……ちょっとまってくれ。あんたらは魔獣を操れるのか? どうして俺達の前に姿を見せた。あんたらの目的は……なんだ」

「そんないっぺんに質問されても困るぞ。まず、魔獣を完璧に操ることは出来ぬ。あくまで魔力の流れを制御して彼らに本能的恐怖を与えて位置を誘導するぐらいが限界だ。次にお主達に姿を見せたのはただの偶然だ。それ以上も以下もない。目的については……答えは一つではないから伏せておくとしよう」



 ふふ、とディアは笑みを漏らした。



「しかし後ろの腑抜けた人間と違って真っ向から立ち向かってくるな。中々気に入ったぞ。妾もユウトには少し興味がある。またいずれ会えるものなら会って話したいところだ」



 心なしかディアは物悲しげに眉を伏せた……ような気がした。



「砦の主に伝えろ。暫く魔物の脅威はなくす。魔獣の発生も人間を脅かすために起きたものではないと。それでは、さらばだ」



 ディアはユウトに背中を向けると空気の裂け目を作ってその中に入っていった。次いで、リリスがユウトにベーッと舌を出してからそっぽを向くと同じ裂け目の中に入っていく。二人が完全に消えると、空間の裂け目は閉じた。


 終わった……のか?

 しばし呆然と立ち尽くした後、ユウトはへなへなと腰を地面に下ろした。辺りを見回しても先ほどのように誰かに見られている感じはしない。ディアは約束を守ったようだ。

 落ち着いたところでこれからどうするか考える。魔王の出現によって数人の兵士は意識を失っていた。リーチェの傍にいた兵士達とユウトだけがこの場で動けるようだ。



「帰りが遅いから時期に救援が来るだろう。……魔力暴走を起こした兵士たちの手当は可能か?」



 無事だった兵士たちに近づいて話しかける。



「はい。症状は軽微のようですので、我々でも処置は施せるかと。それよりも優先すべきは怪我をしている隊長でしょう」



 兵士達の機転によって簡単な治療がされていた。傷口には布が巻かれ、出血を抑えている。



「俺はこの場にいても大して何も出来ないだろうし……。リーチェの鎧を脱がすのを手伝ってくれるか?」

「ユウト様、何を……?」

「俺がリーチェを砦まで連れて行く。鎧を外した状態なら俺一人でも背負えるだろ」

「しかし一人では危険で……」

「ディアとやらの言葉を聞いてなかったか? ここいら一帯の魔獣を撤退させるって彼女は言ってた。鵜呑みにするのは良くないけど、信頼できると思うんだ。戻ってる最中に増援部隊と接触できれば情報も伝えられるし、リーチェも助けてくれるしで万々歳だろ」



 兵士達は逡巡してるようだったが、一人また一人とリーチェの鎧を外しにかかる。鎧が外れると黒のインナーだけを纏った美少女の肢体が表れる。普段ならともかく、緊急時だったので欲情はわかない。荷物から大きめのタオルを取り出して、それをリーチェにかぶせた。



「よいしょっと。……筋肉があるからかねえ、少し重いや」



 リーチェを背中に背負ってそんな感想を漏らす。



「じゃあ、残りの兵士達をよろしく頼む。隊長は……リーチェのことは任せてくれ」



 兵士達に現場を任せてユウトは元来た道を歩き出す。



「……安心しろよ、リーチェ。必ず俺が送り届けてやるから」



 遊び疲れた幼い妹をあやすようにユウトは言った。




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