9話「堅固」
ウルカト王国東の国境――プロメウヒ砦は山岳地帯を超えた先のふもとに存在する。北南に広がる山の連なりに合わせるように、堅固な壁がズラリと佇む。まるで巨人の侵入を防ぐような壁だった。
巨大な壁を見上げると、まるで自分が蟻になったような気分になる。眺めているだけで攻め込むのを諦めてしまうような堅牢な盾だった。
ユウト達は反対側のふもとにある街を出発して一日かけてここにやって来ていた。既に辺りはオレンジ色に染まっていて、いつ闇夜に飲み込まれるかわからない。
遠征部隊は精鋭の兵士達とアリゼとユウトのみなので数はあまり多くない。故に移動時間はほんの数日で済んだ。その内の一日が山越えに費やされたので、ウルカト王国はそれほど広い国ではないらしい。
ユウト、アリゼ、リーチェの三人は一行から外れて砦の中を進んでいた。中は外から見るより複雑化されており、細かい部屋や曲がり角がいくつもあった。恐らく道を分かりづらくすることで攻め入られた時、少しでも時間を保たせるためなんだろう。
案内に従ってたどり着いた執務室は他の部屋より大きめにスペースを取られていた。それでも息が詰まるような岩を削ったような壁に包まれてはいるが。
「失礼します。アリゼ様ご一行が到着されました」
案内人がノックして声をかけるとリーチェによく似た凛とした声で――若干、年季が入っているような感じではあるが――返事があった。
返事に従い部屋に入ると執務用のテーブルを挟んで一人の妙齢の女性が三人を出迎えた。黒髪に肩に触れる程度の短い髪。少しほうれい線が入っているが、それが逆に豊熟した色気を放っている。リーチェが年を取ったならこうなるであろう、といった感じの女性だった。
「皆さんの到着をお待ちしておりました。わざわざ遠い所から来ていただき感謝しています」
女性は微笑んだ。ますますリーチェに似ているな、とユウトは思う。
「アリゼ様、お久しぶりです。前にお会いした時よりも依然美しく、立派になられましたね」
「お久しぶりです、ミルカさん。お褒め頂いて光栄ですけど、まだまだ至らない身であります……」
聞いてる限りでは礼節のようにも聞こえたが、それが謙遜ではなく本心から言ってることなんだろうとユウトは簡単に推測できた。彼女の弱さはそうそう直るものじゃない。それは似たもの同士のユウトがよく知っている。そして、弱さを隠そうとする見栄がよくない兆候であることも。
ミルカと呼ばれた女性は曖昧な笑みを見せた後、瞳を横に逸らしてユウトを見た。
「それで貴方が噂の……」
「はい。お初にお目にかかります。アリゼ・ベルクシュトレームの夫、ユウト・ベルクシュトレームといいます」
胸に手を当てて体を折り曲げる。
「プロメウヒ砦防衛軍司令、ミルカ・アルバーナです。お会いできて光栄です」
「いえ、こちらこそ。ミルカさんのことはリーチェ・アルバーナから話を聞いていましたので」
「あら、それは……。娘がお世話になっております」
ミルカは引き締めた顔を緩めて、困ったような笑みでリーチェに肩をすくめた。
リーチェの母親がプロメウヒ砦の司令をしていることはリーチェ家で過ごした一週間の間に聞いていた。
ミルカはアルバーナの性を受け継ぐ前から厳然たる軍人として国を守衛していた。リーチェの父親が近衛軍で頭領として活躍していた頃、出奔先で偶然出会いを果たしたらしい。馬の合った二人は仲を深めて籍を入れた。その後生まれた二人の子供が先代の隊長シリウスとリーチェである。
ちなみに父親の方は近衛軍の頭をシリウスに託した後、防衛軍に入隊した。今は西側――マイアルズ王国の近接地で国を守っているそうだ。
この国はアルバーナの一族によって守られているんだな、とユウトは強く実感したのだった。
「できたら雑談といきたいところですが、まずは仕事の話といきましょう。近衛軍には事前に話を伝えてありますが、改めて援助の依頼をした理由をお話いたします。ここ最近、魔獣達の数が増大、及び活発化しております。今のところは我々だけで対処できていますが、このままではいずれ厳しくなるでしょう。そうなる前に近衛軍にはこの異常の原因の調査及び魔物殲滅の手伝いをしてもらいたい。任せられますか」
「ハッ。任務の方確かに承りました」
リーチェがビシッと敬礼の姿勢を取る。ここでは親子ではなく、あくまで軍人なのだ。
「そしてアリゼ様とユウト様には連日の任務で疲れている兵士達にどうか労いの言葉をかけていただきたいのですが……」
「そのぐらいでしたらお安い御用です。といっても、アリゼ目当ての方が大半でしょうけど」
「うう……」
注目を浴びるのが恥ずかしいのか、アリゼは顔を赤らめて体を縮ませた。
それを見て、微笑もうとしたユウトに意地悪に口を歪ませたミルカが発言する。
「確かにアリゼ様の人望はお墨付きですが、ユウト様を一度拝見したいという者も多いですよ。なんでも、あのアリゼ様に相応しいのか見極めてやると、二メートル近い大男が憤ってました」
「…………」
押し黙ったユウトを見たミルカは破顔して小さく笑い声を漏らした。
「ははは、まあ、そこまで悪いことはいたしませんよ。長い旅路でお二人はお疲れでしょう。ここからは我々の仕事です。部屋を用意させていただいたのでそちらでお休み下さい。……かなり古い施設ゆえ、見栄えの良い部屋でないのはお許し下さい」
語尾にお二人を部屋まで案内いたします、とミルカが言うと、それが合図だったのか一旦部屋から姿を消していた案内役の兵士が現れる。彼は一同にキビキビと頭を下げるとユウトとアリゼを促した。
リーチェは退出してゆくユウト達を見て微笑み、すぐに顔を引き締めてミルカと向かい合った。それを最後に扉は閉じ、再び閉塞感に溢れた廊下に出る。
大人しく連れ従った先に辿り着いた部屋は王宮内よりかは数段品質が劣るが、砦内では一級品に相当する部屋ではないかとユウトは思った。
砦の通路はここが要塞であるのを主張するかのようにゴツゴツした鋼の岩壁が圧迫感を醸し出している。
だが二人にあてがわれたこの部屋は新品に近い白い壁に囲まれ、床には淡い水色の絨毯が敷き詰められている。家具は簡単なデスク・テーブルと小さな収納棚、モダンなベッドぐらいしか置かれていないが、それでもこの施設の本来の主旨を考えるならあまりにも立派だった。
元の世界で何度か利用したビジネスホテルと同等ぐらいのものだな、と異世界人だけの感想を心に宿す。
「お二人の荷物は後ほど我々がお届けします。今は二人だけの時間を満喫ください」
初心な恋人同士を見て思わず微笑んでしまったような笑みを見せて案内役の兵士は出て行った。
ユウトはチラとアリゼの横顔を盗み見た後、よしと決意して声を少し張り上げる。
「いやあ、長い道のりだったな。基本座ってるだけだったとはいえ、疲れるもんは疲れる。ほら、アリゼも立ってないでのんびり羽を伸ばそうぜ」
ユウトは自分なりの満面の笑みを浮かべてみせる。
目があったアリゼは視線を横に流して少し戸惑った後に「はい」と頷いた。そしてユウトの座ったベッドの片端から距離をおいて腰を下ろした。
「…………」
何故、こんな気まずい空気になっているのか。
アリゼの態度が余所余所しくなったのは遠征出発の直前――もっというなら、ユウトがリーチェ家の滞在から戻って来た時からだった。一週間ぶりの再会なのだから、アリゼはさぞ喜んでくれるだろうと胸を膨らませていただけに、ぎこちない笑みで迎えられた時はショックを受けた。
あれから一週間近く経つが、彼女の態度は一向に変わらない。なのでその日だけたまたま気分が乗らなかったとかそういうわけではなさそうだ。
理由については検討もつかない。
一応プロメウヒ砦に辿り着くまでに尋ねる気持ちもあったのだが、行きはリーチェから馬の扱い方を教わる約束をしていたので、馬車の中にいたアリゼとゆっくり話している時間はなかった。また夜を超すために停泊した街中でもアリゼはファンサービスをする有名人のように住民たちと触れ合い、夜は男女別々の部屋にされたため、ここでも話す機会を得られなかった。
そして、目的地のプロメウヒ砦に到着した今日、ようやくチャンスを得ることができた。
アリゼの様子が変わっていないのは予想できたから初日に受けたほどのショックはない。後はどうやって原因を突き止めるかだが……。
「アリゼ、その……ごめん」
下手な小細工なしでユウトは頭を下げた。
「え……ゆ、ユウトさん?」
「アリゼが俺を避けるようになったのは多分、俺のせいだろ? だから……ごめん」
「あ……いえ、これは、その……」
予想に反してアリゼは戸惑いの色を見せる。
「私がいけないんです。私がそれを否定してユウトさんを信じることが出来ていればこんなことになっていませんから……。でも、リーチェは可愛いですし、私よりも魅力的ですし……」
どうしてそこでリーチェが出てくるのかよくわからなかった。
「えーっと……どういうことだ?」
「聞いてしまったんです」
「何を?」
「浮気や不倫の意味を」
「……誰から?」
「リオンとレイナです」
あいつらが諸悪の根源か!
ほくそ笑む二人の少女を思い浮かべて行き場のない憤りを心のなかで叫んだ。
「ですからユウトさんは悪くないんです。全て私が……」
「ストップ、アリゼ。分かったから。なんとなく察することが出来たから」
小さくても真っ白な心を持つ少女はしかし、外界からやってくる邪悪に染まりやすい。だから彼女は、ユウトを信じたい気持ちとリーチェとアリゼ本人の魅力の違いを葛藤させて、妙な疑心暗鬼に陥ってしまった。結果、余所余所しい彼女が誕生してしまったということだろう。
いの一番にレイナとリオンを叱りにいきたいところではあるが、今はまず何よりも目の前の少女を安心させてやることが一番だ。付け焼き刃のような言い訳でも彼女を納得させることも出来なくはないが、ユウトはそれをしたくなかった。
ならば、同じく純粋な気持ちで――中身は全く純粋じゃないけど――真摯に向き合うのが一番だといえる。
「ちょっとだけ俺の話しを聞いてくれ。昔……この世界にやってくる前、つまり俺が元いた世界にいた時の話だ。当時、付き合ってた彼女がいたんだ」
突然過去話を始めたユウトにキョトンとした顔でアリゼは見てきた。
そのまま続ける。
「彼女はとてもお節介を焼いてくれる人だったんだ。付き合い始めた後もその前も……。でも俺は彼女のお節介に段々と苛立ちを感じていたんだ。そんな時だった。俺が通ってた学校には同じ目的を持った集団が団体を組むって制度があった。それらは部活やサークルって呼ばれてる。で、そのサークルの中には当然女の子もいる。その女の子の一人が俺を誘ってきたんだ。本気じゃなくて遊び目的なのは一目瞭然だった。……ここから先の話は聞いててあまり気持ちの良い話じゃない。軽蔑してくれても構わない」
当時のことを思い出す。
彼女との付き合いに段々と苛立ちと疲れをハッキリと感じ始めた時、所属していたサークルで飲み会があった。鬱憤を晴らすために飲みまくり、いい気分になってきたところで隣にいた女の子が囁きかけてきたのだ。
――彼女に不満持ってるんでしょ? 私も最近溜まっててさ。一緒に抜け出さない? お酒飲むよりも気持ちいいことしようよ。
胸元が見えそうなVネックのシャツを着た女の子は前屈みになって、わざと見せつけてきた。
その時、アルコールは頭に浸透していたけれど理性はきちんとあった。だから誘いを受けたのは能動的な行為だった。
「俺は愚かにも誘いに乗ってその子と夜を過ごした。アリゼが言った不倫や浮気を俺はしたんだ。それから数日後、ちょっとしたことで浮気がバレた。カンカンに怒るんだろうと思ってた。別にそれは構わなかった。俺はそん時荒れてて、お前がいけないんだって相手のせいにしてたから。けど、彼女が見せたリアクションは俺が予想してたものではなかったんだ。あれは……」
今でも思い出すと胸が痛くなる。
あの時の表情と台詞はきっと一生忘れることはない。
――ごめんね、ユウ君。
「……悲しい笑顔ってのを俺は初めて見た。あれほど胸を締め付けられる表情はそうそうないはずだ。彼女に不満を持ってはいたけど、根本的に嫌いまでいってなかった。好意ってやつも僅かながらにあったと思う。だからその時、俺はようやくやってはいけないことをしてしまったんだって悟ったんだ。……その事があってから俺は誓ったんだ。俺を信じてくれる人や好きな人は決して裏切らないって。アリゼもその一人だ。アリゼが悲しむって分かってるのに浮気や不倫はすることはない。絶対にだ」
全て語り終える。アリゼがこちらを見てくるのが分かった。しかし罪の意識に囚われたユウトの方が今度は視線を合わせられない。
「そんなことがあったんですね……」
「ああ……。幻滅しただろ? 言っておくけど、俺はアリゼが思ってるよりずっとクズな人間だからな」
自嘲する。
アリゼは少し目を伏せて、それからまっすぐ顔を上げた。
「確かにユウトさんのした行動は良いことではありません。けど、人間ならば一時の感情に支配されてしまうのも理解しています。ユウトさんは過ちを自覚して、きっちり反省しています。なのに責める道理はありません。ごめんなさい、辛い思いをさせてしまって……。でもお陰で私にユウトさんを信じる根拠が生まれました。それにユウトさんのことが知れて、その……嬉しいんです」
えへへ、とアリゼは笑った。ユウトもゆっくりと顔を上げて……慈愛のお姫様と共に微笑んだ。
「あの、一つだけ聞いてもよろしいですか?」
「ああ、構わないよ」
「その方とはどうなったんですか? 恋人同士のままこちらにやって来たなら、私が浮気相手ってことに……」
いやいやいや、と手を顔を横にブンブンと振る。
「もし付き合ってるままならアリゼとも婚姻を結ぶなんて発想を実現することはなかったよ。浮気の件はどうにか解決したけど、あれから色々あって……美香とは結局別れることになったんだ」
「ミカって言うんですね。前にユウトさんを愛してた人は……」
間違って無意識に名前を出してしまった。でもアリゼは嫉妬してるわけでもなし、むしろ満足気に頷いているからよしとした。
「あの、ユウトさん。調子が戻ってすぐにこう発言するのも何ですけど、ユウトさんのいなかった一週間のことをお話したいんです」
「俺もリーチェと過ごした一週間どうしてたか話したかったんだ。……今日はトークタイムといくか」
「はい!」
アリゼが笑顔を見せた。それはかつて美香がユウトに告白してきて、肯定の返事をした時の彼女の笑顔にとても似ていた。
――これからもよろしくね、ユウ君!
眩い笑顔を見せていた彼女は今、一体どうしているだろう。あちらの世界で元気にしているだろうか。異世界に来て初めてあちらの世界を気にかけたような気がする。
間違っても悲しんだりするなよ。俺は異世界でもきちんとやっているから。俺を想ってくれる大切な少女がいるから。その少女を悲しませるようなことはしないから。安心してくれ。
ユウトはアリゼと向かい合った。一週間溜め込んでいた彼女とのコミュニケーションを時間も忘れて楽しんだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「この遠征でやりたいことがひとつあるんだ」
「やりたいことですか?」
「ああ。砦を超えた先には<魔界>が広がってるんだろ? 知識として頭に入れてあるけど、知識だけだ。自分の目で見て確かめてこの世界のことを知りたいんだ。俺はあまりにも世界を知らなすぎるからな」
「私は良いと思います。危険だからオススメはしませんけど……。でも実は私も同じ気持ちなのです。私はリーチェや父様から頑なに止められていますので。代わりにユウトさんが世界を見てきてください」
「わかった。明日にでもリーチェと掛けあってみる」
その日の終わり、アリゼの許しを貰ってユウトは<魔界>に足を踏み入れることを決意した。そこに至る心境の中にリーチェが傍にいるのなら安全だと絶対の信頼があったからだ。
そのため、この時のユウトは真面目ではあったが少しだけ油断の気持ちがあった。
<魔界>に踏み込んだその先に何があるのかも知らぬまま……。




