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長谷川一家

 悠然と空を舞うその機影は十二、降り注ぐエンジンの音に顔を綻ばせながら見上げていた新渡戸はその中の一機が編隊を外れて高度を下げるのを見つけた。緩やかなループを描いて再び海側へと舞い戻ったその機体は操縦のお手本を示す様に低空で近づき、プロペラの後流で渦を巻く水飛沫を棚引かせながら真綿の様にふわりと滑走路に降り立った。流れる様に走り抜けて誘導路へと機首を向ける優雅な姿に目を細める新渡戸が呟いた。

「上手いな」

「あれくらいは芸の内さ」

 そっけなさとは裏腹に長谷川の声には自分の部下に対する評価への嬉しさが滲む、照れ隠しをするように駐機場所へと足を運ぶ彼の背中を眺めながら新渡戸はやはりこいつには彗星なんかよりも九六式陸攻のほうがよく似合う、とぼんやり思う。五尺七寸の背丈に似合わぬ細身の身体は木更津の潮風に飛ばされそうなくらいに頼りなく見える、しかし彼が今までに刻んだ戦歴と戦果はそこからは想像も出来ないほど苛烈で偉大な物だ。

 マレー沖海戦でイギリスの至宝と呼ばれた戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』に一番槍を叩きこんだのは元山(げんざん)(現北朝鮮ウォンサン)海軍航空隊石原部隊第一小隊四番機であったこの男であり、雷撃に天武の才を見せる彼はその後も南方戦線の至る所で最前線を渡り歩いた。一式陸攻への機種転換を断った長谷川が戦況の悪化に伴い北方戦線へと拠点を移したと言う消息を最後に新渡戸は久しく彼との便りを交す事が出来なかったが、その男が今日になって突然ひょっこりと目の前に元気な姿を見せたのだから驚くに決まっている。

 積もる話でもと無理やり彼を引き止めて会議の場まで引きずり込んだのは些か軽率だったかと反省しないでもないが、しかし彼が特攻を命じられたと分かっただけでもこれは神の天啓かと思わずにはいられない。何とかこの男の決心を覆して自分の部隊への参画を促さなければ、と新渡戸は遠ざかる長谷川の背中に強く誓った。


 中攻 ―― 正式名称は九十六式陸上攻撃機と呼ばれる。

(※日本軍の『攻撃機』と『爆撃機』の違い ―― どちらも水平爆撃はできますが『攻撃機』に分類される機体は魚雷攻撃(雷撃)、『爆撃機』は急降下爆撃しか出来ません。大戦後期に登場した『流星』と『銀河』のみ例外)

 先に記したロンドン海軍軍縮条約によって著しい艦船保有数の制限を受けた日本軍はその不利を補う為の攻撃方法を模索していた。当時航空本部技術部長であった山本五十六は陸上基地から発進する海軍作戦支援機の必要性を提案し、その後に恐らく必要になる爆撃機の雛型を決定する為に軍は試作の決定を下す。製造に当たったのは広海軍工廠と三菱内燃機(当時の三菱財閥の製造部門の一つ、終戦時に解体)で、それぞれの試作機の利点を採用した最終案が昭和10年7月に初飛行次いで11年6月に海軍に正式採用された。

 空気抵抗と燃費の低減を計る為に魚雷型のスマートな胴体の採用・日本機初の引込脚など様々な工夫を受けた機体ではあったがコンセプトの古さはいかんともし難く、太平洋戦争で主力となった一式陸攻(九十六陸攻の後継機、現在『中攻』とはこの機体の事を指す)に比べれば防弾性能で大きく水を開けられていた。マレー沖海戦での戦艦二隻の撃沈を最大の戦果として以降徐々に主力機としての地位を一式陸攻に明け渡して、その後は主に輸送任務や索敵に使われて終戦を迎える事になる。


 管制塔とは名ばかりの櫓の先に首を持ち上げて静かに羽を休めるスマートな機体の影があった。新渡戸が歩み寄ると既に機体下部のハッチは大きく開かれて一人の航空兵が長谷川と何やら話しこんでいる、その男は長谷川の肩越しに新渡戸の顔を見つけると大らかな笑顔で右手を小さく掲げた。

「お久しぶりです、新渡戸大 ―― じゃなかった少佐殿。ご壮健で何よりです」

 よく通る彼の声は機体に群がる整備員の注意を促し、一斉に振り返った彼らは驚きのあまり目を見開いて素早く敬礼する。彼らにしてみればなんでこんな場所に将官が、とでも言いたいのだろう。まるで抜き打ち検査を受けた少年兵のような顔で視線を向ける彼らに対して新渡戸は苦笑いを浮かべながら返礼した。

「さっきの着陸は飛田か、どうりで優雅な訳だ。 ―― みんな元気か? 」

「階級と給料(おてあて)は上がらないけど腕だけは上がるって言うのが長谷川一家の常識で。みんな大尉の我儘につきあいながら元気で楽しくやってます」

 礼を解いてお互いに握手を交わすと機体開口部のあちこちから新渡戸の見知った懐かしい顔が飛び出して思い思いに手を振っている。総勢七人の長谷川一家はブーゲンビルで出会って以来誰一人欠ける事無く健在だった。

「曽我部、上空で待機中の富田林に連絡。俺は新渡戸少佐を藤枝まで送っていくからお前達は先に言っててくれと伝えてくれ」

「了解です。今日の壮行会には間に合うように必ず行くと伝えます」

 ただ一人坊主頭の人懐っこい顔をしたその男は長谷川の命令に笑顔で答えるとそそくさと跳ね上げた風防の上から姿を消した。遥か上空で轟々と音を立てて旋回を続けていた編隊がまるで糸でも繰り出すかのように一直線に並んで西の空へと向かう様を長谷川と新渡戸を含む全ての兵士が無言で見上げている、昭和十一年に九六式陸攻の最初の基地として定められた木更津への思わぬ里帰りに誰もが驚き、そしてかつての光景を思い描きながら万感の思いにせまられる。

「先導機は富田林か、奴も一式には乗らなかったのか? 」

「堰川、桑島、鳳もいる。元山空の生き残りが勢ぞろいって所だ」

 頼もしげに機影が消えていく姿を眺める長谷川の影で新渡戸は表情を曇らせた。それだけの熟練兵を一度に特攻に注ぎ込もうとする軍令部の方針にはいよいよもって怒りがこみ上げる、彼らに十分な装備と戦力を与えれば今後どれだけの戦果を日本に齎す事が出来るか ―― 一回こっきりの特攻で上げる戦果などそれに比べれば微々たる物に決まっている。まるで方針に従わない腹いせのように彼らを敵の砲火の前へと送り出そうとする軍の上層部を新渡戸は本気で憎んでいた。

「なあ、長谷川。さっきの話の続きだが ―― 」

「それなら藤枝までの道すがらでしようぜ、一時間もあれば事は足りるだろう」

 そう言うと長谷川は身体を開いて新渡戸を先へと促した。飛田はまるでどこかのレストランの給仕の様に片手を開いて彼をハッチへと導いている。釈然としない面持ちでハッチの下に置かれた踏み台へと足を置いた時、長谷川の穏やかな声が耳に届いた。

「道中の音楽はモーツァルトでいいか? 」


 九六式の機内は構造上、潜水艦の通路の様に胴体の梁が何か所にも飛び出している。新渡戸は久しぶりに見る陸攻の機内を一しきり眺めると身軽に身体を持ち上げた。すぐ傍に待ち構えていた頬傷を持つ武骨な男が無言でそれを支える、妙な違和感によく見るとその男の左手の薬指は見事に根元から欠損していた。

「奥野、その指は」

「キスカ(現アメリカ領キスカ島)で敵にやられました。敵戦闘機の陽動には成功したんですが濃霧でご覧のあり様で」

 上部銃座を担当する彼にとってそれは屈辱だったのだろう、自機を危険に晒してしまった事への後悔を笑顔に滲ませながら彼はとても悔しそうにまだ新しい頬の傷を指で掻きながらそう告げた。報告書の一つも残っていない極秘の作戦を聞かされた新渡戸はにっこりと笑って奥野の肩をぽんと一つ叩く。

「いや、お陰でキスカの『ケ号作戦』は奇跡を起こした。(日本軍の撤退作戦の名称、全部隊が無傷での生還を果たした。「奇跡の作戦」とも呼ばれる)その陰で貴様達の活躍が実を結んでいたと言うのならそれは名誉の負傷だ、誇っていいぞ」

 思わず褒められて恐縮する奥野が俯くとその背中越しに機関席でニコニコと笑いながら最終点検を行っている細面の男がいた。彼は燃料の残量を確かめながら手元の紙に数字を書き込んで計算尺を覗きこんでいる。

「どうせ相手も見つからないんだから丁度いいだろって俺は慰めたんですけどね、奥野の奴「じゃあロシアの女と結婚する、確かロシアの結婚指輪は右手の薬指にするモンだ」って。柄に似合わずそう言う事にはやたら詳しいんですよね」

「遠村、お前はモテるから必要ない知識かも知れんが俺にとってはものすごく重要な事なんだぞ? この戦争が終わったら今まで敵だった連中とも仲良くしなきゃならん、そんな時にえり好みなんぞしてられるか」

 何ともこのご時世に不謹慎な事を平気で口にするこの空気こそが長谷川一家の楽しい所だ、のどかな空気に乗せられて新渡戸も思わず軽口をたたく。

「気をつけろ、ロシアの女は何とも夜が激しいそうだ。ロシアから引き揚げてきた駐在武官殿はそれに恐れをなして一度も情報収集の為の屋外活動に出かけられなかったという噂だ」

「それはほ、本当でありますかっ!? 」

 うおっと言いながら身を乗り出す奥野の目が真剣だ、気迫に当てられた新渡戸が笑いながらのけぞると機内へ乗り込んで来た長谷川が嗜めるように声を掛けた。

「新渡戸、あんまり変な事吹き込んでるとそのうちこいつら単身ででもロシアに亡命しかねん、それにうちの偵察員に白い目で睨まれながら道中過ごす事になるぞ」

 その言葉にはっとなった新渡戸は思わず遠村の向こうの狭い空間へと目を凝らした。魚雷型の胴体を持つこの機体は後部に行くに従って狭くなる、後部左側の張り出し銃座にちょこんと座った小柄な兵士は微笑みながら笑わない目でじっと新渡戸を睨んでいた。

「お、おお。望月。気配がないから分からなかった。すまない、気に障ったか? 」

「いいえ」

 どうやらその偵察兵の怒りの矛先は話を持ちかけた新渡戸よりも身を乗り出した奥野へと向かっていたようだ。ふっと一つ溜息をつくだけでその大柄な男の肩がビクッと竦んだ。

「殿方のそういう話にはもう慣れましたから。それに近所の奥方様達の寄り合い話に比べたらその程度の色噺、さかりの付いた猫の鳴き声のような物ですよ」

 辛辣な口調で将官の言葉をそう評する望月が悪意一杯の笑顔でにっこりと笑った。なんともバツの悪くなった新渡戸が油汗をかきながら笑いかけようとすると奥野の背中で隠れていた右側銃座に座る男が、そのほのぼのとした雰囲気に水を差す様な冷静な声で言った。

「大尉、地上整備員から機外点検完了の合図です」

「新宮、そこから彼らにエンジン起動の準備に入る様合図してくれ。望月は副操縦席、飛田は俺の席に座れ」

「ええっ!? ほんとにいいんですか? 」

 機内へと上がったばかりの飛田が長谷川の言葉に驚いて飛びあがった。勢い余って壁面の出っ張りに頭をぶつけた彼は痛みに顔を顰めながらうずくまる。

「ああ、俺は新渡戸とこれから込み入った話をする。くれぐれも言っておくが慌てず、急いで ―― 」

「正確に、ですね。了解です」

 痛む頭を押さえながら立ち上がったその脇を小柄な望月がするりとすり抜ける、長谷川は操縦席のすぐ後ろにある機長席を新渡戸に譲ると自分は向かい側の爆撃手席に腰を降ろした。副操縦席との間に置かれた分厚い袋を開いてなにやらごそごそと探していたかと思うと一枚の大ぶりな紙封筒を取り出して傍らの小さな箱の上にそっと置く。


 整備員が左右のタイヤに二人づつ、巨大なクランクをエンジンカバーに開いている穴へと差し込むと機長席から少し離れた場所に立つ誘導員が右手の拳を軽く掲げる、飛田は開いた窓から外に向かって大声で叫んだ。

「発動機始動、エナーシャ廻せっ! 」

 翼の下の掛け声と共に両翼付近から発生する回転音、歯を食いしばった整備員二人掛かりでのセル始動は二十秒間、約一万回転に到達するまで続く。風防の天蓋を開けて外に大きく身を乗り出した望月が飛田の頭上のガラスをぽんと叩くと彼は計器盤の上部にあるレバーに手を掛けて怒鳴った。

「回転良シっ、接続っ! 」

 レバーを倒すと同時にセルモーターとエンジンが繋がり、プルルっという音と共にハミルトン・スタンダード社製の可変ピッチ三枚ブレードは二三回転したかと思うと突然勢いよく回りだした。クランクを掴んだ整備士が急いで車止めを引き抜き機体の下から逃げ出した事を確認した飛田はブレーキを外した。足枷の無くなった機体はのろのろと駐機場から動き始める。

 主脚と尾輪の三点支持で支えられる大戦当時の大型機は持ち上がった機首のお陰で前方が見えない、一式陸攻やアメリカの爆撃機は機首に防空用のキャノピーを装備しているので足元を覗きこむようにして前方視界を得るが旧式の九六式にはそれが無かった。故に滑走路を移動する際には副操縦士が風防上部の脱出窓を跳ね上げて身体を出し、周囲の状況を隣の操縦士に指示しなければならない。

 冬用の飛行帽を被った背の小さな望月は足を座席の背もたれに置かなければその役割を十分に果たす事が出来ないのだが、不安定な身体をぐらつかせる事もなく慣れた手つきで次々に飛田へと指示を送る。

「望月は確か偵察員だったはずだが? 」

 恐らく操縦資格も訓練さえも受けていないであろう彼女の身の上と相反するその仕草を眺めていた新渡戸が長谷川に尋ねる、彼は出会った頃の俺達とは違うぞと笑いながら言い、最後にこう付け加えた。

「全員が二つ以上の部署を受け持てる様にしてある。ちなみに操縦しか出来ないのは俺だけだ」

 恐らくそうしなければ激戦の最前線を生き延びる事は出来なかったのだろう、奥野の指がなくなっていると言う状況を思い出しながら新渡戸は感心した様に小さく頷いた。機内を見回してみると目立たないが機体の至る所に補修された跡がある、それはこの機体が中国との戦争で使われた当時のままであると言う事を彼に知らせた。

 戦争の激化により進化していく新機種の諸元や機能は確かに生き延びる為の必要悪だと感じる事もある ―― 自分が使おうとする彗星もその一つだ ―― が、それ以上に大切なのは機体の潜在能力を最大限に引き出そうとする搭乗員の意思と力量と積み重ねた経験だ。この機体と彼らが今までに上げた多くの戦果がそれを証明しているではないか、と新渡戸はさっき言い争った山住や、特攻を国策として推進しようとしている軍令部幹部に突き付けたくなる。

 窓の外で帽子を振って見送る整備員に向かって上下に並んで敬礼する飛田と望月、朗らかな笑顔の飛田はともかくとして整った顔立ちの望月に対してはそれを見送る全員が息を呑み、そして更なる勢いで大きく帽子が打ち振るわれた。こんな美少年が攻撃機の副長だとは、と言う何とも彼女にとっては迷惑な誤解で送られる心からの激励に望月は複雑な笑顔を浮かべた。


 爆撃跡を埋めただけの誘導路を荷馬車の様にごとごとと進んだ機体は主滑走路へ出ると機首を海側へと向けて停止した。窓いっぱいに広がる青空へと視線を向ける新渡戸の邪魔にならない様にと副操縦席へすとんと座る望月の様子を見て彼は驚いた。九六式はスピードが乗って尻が上がり前が見通せるようになるまで副操縦士の誘導が必要な筈だが、とうろ覚えの離陸手順を思い返しながら向かい側の長谷川の顔をチラリと覗く。だが彼はそれがいつもの事だと言わんばかりに、しかも新渡戸の不安げな表情すら面白がっている様にも見えた。

 飛田の手が頭上のスロットルレバーを掴むと左右を交互に動かして開け閉めを行う、左右のエンジンの排気管からバックファイアが走ってカーボンを吹き飛ばした事を確認すると望月がその両側にある短めのレバーを固定した。空気を一杯に取り込んだ金星エンジンは型落ちとも思えない威勢の良さで左右の同調を始める。

「管制塔からの離陸許可を確認、周囲有視界に機影無し。元山空303発進します。 ―― うひっ、一度言ってみたかったんだよなあ」

 肩を揺らしながら嬉しそうに笑うとゆっくりとスロットルレバーを前方へと押し込みはじめる、回転の上がったエンジンが放つ轟音は滑走路に反射して機内にも侵入し話す事もままならないが、それもスピードが上がれば収まる。微妙にスロットルを調整しながら直進を心がける飛田が操縦桿を軽く押し込むとふわっと尾部が上がって前方が開ける、望月の手がすぐさま飛田の手の上に重なってスロットルは目一杯押し上げられた。

 ふわり、と。まるで羽毛の様に静かに空へと舞い上がった機体は朝日に翼を煌めかせながらゆっくりと機首を西へと向ける。熟練兵の見せるお手本のような離陸を目の当たりにした整備兵達からやんやの喝采が小さくなる機影に向かって投げかけられた。


 眼下の海岸線を新宮の目が追っている。航法を担当する彼は羅針盤の値と自動操縦装置の数値を照合しながら、目の前に広げた地図にコンパスで自機の位置を記している。近海ならばそんな事は必要はないのだが作戦範囲が広域になるとそうもいかない、目印の無い場所を時間と太陽の位置と進行速度で正確に割り出す技術は敵を発見するだけではなく自分達が生き残る為にも必要な技術だ。新渡戸が練習生による作戦を無謀だと評したのは単にそれを身につける為にどれほどの経験を積まなくてはならないかと言う現実性による物だった、必要のない所でも念には念を入れて自分の感覚を研ぎ澄ませる努力を怠らない航法士の仕草を見て新渡戸は改めてそう思う。

 遠村は計算尺を床に置いて何かを紙に書きこんでいる。機関士の彼は新宮と連携して燃費の具合と発動機のコンディションを真剣な面持ちで調べている、とはいっても新渡戸が聞く限りでは二基のエンジンは絶好調で気になる様な雑音や息つぎはどこにもない。戦争末期になって十分な部品も供給できない日本軍の兵站にとってこれほど酷使された発動機が良好な状態を保っている事が彼には信じられなかった。まるで旅客機に乗っている様だと思う。

 奥野はいつの間にか機内から姿を消していた。防空担当の彼は多分上部銃座に上って相方である九九式二十ミリ機銃をせっせと磨いているのだろう。『ションベン弾』と揶揄される正式機銃ではあるが奥野は独自に情報を収集してこの機銃での撃墜方法を習熟している、現にこの機が何機もの敵戦闘機を撃墜した事ははっきりと出撃記録に残されている。

 そのすぐ奥では曽我部がじっとヘッドホンに耳を押し当てて聞き耳を立てている。以前道中の彼の緊迫した面持ちに肩の力を抜いて、と指導した事があるがそうではないらしい。曽我部が言うにはモールス波は常に地球上を駆け巡っているので、上空を飛んでいると敵の通信がたまに飛び込んで来てその所在が分かるのだと教えてくれた。日本軍とアメリカ軍のモールス符丁には違いがあるのでその信号の大きさで相手との距離と規模を大まかに知る事が出来るのだそうだ。

「潜水艦の聴音機の様だな」

 と新渡戸が言うと彼は坊主頭を掻きながらその違いを説明した。潜水艦はあくまで敵を攻撃する為に音を拾うが自分はそうではない、目的地まで敵に遭遇しない為に敵との距離を計るのだ、その為の訓練をしろと長谷川から言われたのだと言う。無線と言う物の役割を通信だけに留めず斬新な発想で役立てようとする長谷川の発想に驚き、今思えばそれが彼を克目した最初の時だった。

「相変わらずしっかり者だな、連中は」

 顔を操縦席に向けて索敵の為に常にきょろきょろと首を廻している望月の後ろ姿をにこやかに眺める新渡戸がそう呟くと突然機内に音楽が流れた。エンジンの音に紛れて聞こえるその曲は紛れもなくモーツァルト、新渡戸は目を閉じて耳を澄ませた。

「ケッヘル596 …… 『春への憧れ』か」

 呟きながら新渡戸は長谷川と初めて会ったブーゲンビルを思い出していた。彼と意気投合したのは赤道直下のパプア・ニューギニア、ブインの飛行場の傍の宿舎で自分が持ち込んだ電畜レコードプレーヤーでこの曲を聴いていた士官に興味を引かれたからだった。殺伐とした南方戦線で悠然と自分の趣味の世界に浸る彼を見て新渡戸は驚くと同時に羨ましくも思った、その彼がマレー沖海戦で殊勲を上げた陸攻乗りだと分かったのはずいぶん後になってからであった。自分と同じ趣味を持つ長谷川の生い立ちや軍に入った経緯などを詮索する新渡戸ではなかったがただ一度、彼は自分の将来について語った事がある。もし戦争が起こらなかったら自分はヨーロッパにピアノ留学に行くつもりだったと恥ずかしそうに話してくれた。

 三分足らずの優しい音色が収まると機内に再びエンジンの音だけが響き渡る、傍らの箱から大きなレコード盤を慎重にとり上げながら長谷川は言った。

「この電畜を機内でも使えるように新宮と曽我部が機械を作ってくれてな、電気の事は俺にはよく分からんが何でも直流を交流に変換する機械だそうだ。もっともこいつのお陰で蓄電池を余分に二個積まなきゃならんが、お陰でいつでも音楽を楽しむ事が出来る。音楽はいいぞ、新渡戸。苛立った心をあっという間に癒してくれるからな」

「なあ、長谷川。やっぱり考え直せ」

 追い詰められた様な新渡戸の声は周囲の注目を集める、長谷川はレコードを紙袋に注意深く収めると取り出した時と同じ様に慎重な手つきでそれを袋へと収めた。

「さっきはお前一人と言ったが俺の隊の彗星は複座だ、ここにいる彼らを編入できる余地は十分にある。それに先に飛んで行った富田林や堰川の隊の連中だって予備兵として登録すれば何とかなる、これだけの力を持った連中を特攻なんて言う一回限りの攻撃で全部失ってしまうなんて ―― 」

「特攻っ!? 」

 新渡戸の言葉を遮る様に機長席の飛田が素っ頓狂な声を上げた。驚いた新渡戸が辺りを見回すと薄笑いを浮かべた長谷川以外の全ての乗組員が ―― 奥野等は機銃席から身を乗り出して逆さのままだ ―― 新渡戸へと注目している。

「ちっくしょう、やっぱりそうなったか」

 苦々しくそう告げる奥野の真下で新宮だけがにやりと笑って呟いた。

「 …… 勝った」


「全くお前らは ―― やっぱり賭けの対象にしてたのか」

 長谷川の言葉に驚いたのは今度は新渡戸の方だった。事実を指摘されて照れくさそうに笑う遠村はいかにも残念だと言わんばかりに懐から封筒を取り出して新宮へと手渡した。

「賭け率五対一 ―― 畜生、お前の一人勝ちだな」

「だが残念ながらお前達の賭けは成立しない、その金は全員に払い戻しだ」

 パタンと電畜の蓋を閉めた長谷川がクスクスと笑いながら封筒を手にした新宮にそれを元に戻す様視線で促した。唐突な大岡裁きに納得の出来ない彼らはどんなどんでん返しが待っているのかと全ての作業を中断して、痛いほどの視線で長谷川の顔を見つめる。

「確かに俺は今日、小沢の親父から特攻に行く様に命じられて俺はそれを承諾した。だがそうでも言わなければこれから軍が俺の我儘を聞いてくれなくなるからだ」

「それが三四三空に直援を頼むって事じゃなかったのか? 」

「そんな事じゃないってさっき言ったろ? 」

 神妙な面持ちの全員の前で長谷川はニヤリと笑いながら新渡戸に言った。

「俺がいつお前に特攻に行くって言った? 」


 いやそりゃ誰だってそう思うだろう、と新渡戸は心の中で長谷川に反論した。コーヒーを呑みながら特攻は軍の方針だとか何とか言いながらその一方で推進派の小沢中将にあって来たと言われたら言わずもがなだ。まるで理解の追い付かない話の運びに目を白黒させる新渡戸を長谷川は穏やかに眺めた。

「寺田閣下にお前が言われた事 …… 覚えてるよな」

「? 夜戦で特攻よりも大きな戦果をあげる事が疑わしい、て事か? 」

 長谷川は小さく頷くと外套の内ポケットから海軍仕様の封筒を取り出すと新渡戸に手渡しながら言った。

「じゃあ、お前の部隊以外の誰かがそれを証明できればいいんじゃないか? 」


 真っ先に歓びの雄叫びをあげたのは奥野だった。全員が唖然とする長谷川の言葉の衝撃を振り払うように彼は動物園のゴリラの様に何度も吼えて、その空気を討ち払った。

「みろっ、だから言ったじゃねえか! 今まで必死で生き延びてきた大尉がいくら軍の命令だからってそんな事する訳ないって! 」

 まるで全員の心を代弁するかのように真下にいる新宮へと喚き散らす奥野の声に彼は指で耳を塞いで、にんまりと笑って手を差し出した遠村に封筒を差し戻す。だが新渡戸はあえて賭けが成立しなくなる事をよしとしなかった新宮が自ら悪役を買って出た事に気づいていた。そっぽを向いて景色を眺めながら歪む口元がそれを証明している。

「ま、待て。じゃあ富田林や他の連中は ―― 」

「全員俺の計画に賛同してくれた奴らだ。親父にもそう言って了承された」

 総勢十二機、選りすぐりの九六乗りが揃った攻撃作戦などいつ以来の事だろう。悲惨な現実ばかりを突き付けられていた自分にとってこれほど心躍る話題があっただろうか? 思わず満面の笑顔を浮かべて称賛したくなる新渡戸の心にしかしその時一つの疑問が浮かんだ。

「お前まさか、この陸攻でそれをやるつもりか? 」

「これからも俺は中攻乗りだって言ったじゃないか」

 何とも言えない晴れ晴れとした笑顔であっけらかんとそう告げる長谷川に同調するかのように全員がクスクスと笑みを洩らす、一蓮托生などという言葉では生温い繋がりの深さを感じた新渡戸は思わずあたりを見回して面々の顔を追いかけた。

「多分これが九六式の最後の出撃だ」


 ある種の確信めいたその言葉の強さに新渡戸は震え、そして笑顔だった全員の顔にも再びの緊張が走った。普段は悠然としている長谷川が顔を引き締めて鋭い眼光で新渡戸を睨む、それが封筒を開けてみろと言う言葉だと気付いた彼は促されるままに封を切って中の写真を取り出した。たった一枚だった。

「これは …… ? 」

 ものすごいピンボケ写真だがそれは明らかにどこかの艦隊の全景を上空から撮影した物だった。白い大きな波を立てる大型艦を真ん中に置いてその周囲を八つの航跡が取り囲んでいる、明らかに空母を中心とした輪形陣だ。

「それを撮影するのに三四三空の彩雲が二機と一〇〇司(どちらも偵察機。彩雲は海軍、一〇〇司(一〇〇式司令部偵察機)は陸軍所属。大戦末期には部隊の統廃合でこう言う事もよくあった)が墜とされた。 ―― その写真、誰が撮ったと思う? 」

 三四三空の偵察部隊が未帰還になるなど新渡戸には想像も出来ない。各戦線で活躍した腕利き揃い ―― それが後世に既得権の乱用だと評価される部分ではあるが ―― のあの部隊がそれほどの犠牲を払ってやっとこの写真一枚だとは信じられない。

「301の菅野だ」

「! 戦闘機、それも『新撰組』のエースじゃないかっ! 」

 三四三空の戦闘301は久邇宮朝融王くにのみやあさあきらおう(昭和天皇の義兄に当たり、当時海軍中将)から直々に『新撰組』と言う命名の誉を受けた剣部隊随一の戦闘機部隊である。隊長の菅野直大尉は精鋭で知られる海軍第一航空艦隊の中でも異才の豪勇を誇り、赴任当時で個人撃破数30を誇る名だたる撃墜王の一人だ。

「やっこさん、自分の所の偵察機が三機も立て続けに墜とされたもんだから頭に来て、新しく送られて来た彩雲に一人で乗って出かけたんだと。敵艦隊を運良く見つけて写真を撮ろうとしたんだが操縦桿を握りながら一人で撮ったもんだからピントも合わずにそのまんまだ。ちなみにその後菅野は敵の艦載機の大群に包囲されてほうほうの体で逃げ戻って来たらしい、水原大佐も笑ってたぜ」

「お前まさかこの写真を受け取る為に? 」

 うむ、と小さく頷くと少し前かがみになって真剣な表情を浮かべる長谷川、新渡戸は写真と彼の顔を交互に見比べながら彼が行おうとする作戦の困難さを想像した。写真に映る艦船をじっと目を凝らして見つめるとその中心に浮かぶ空母だけが船体の大きさの為に僅かながら輪郭を浮かび上がらせている、もし自分の記憶が間違っていなければこの空母は最近就航したばかりのアメリカ軍最新鋭空母、エセックス級に間違いない。だが ―― 

「いや、しかしここに写っているのがエセックス級だとしたら話の辻褄が合わない。今米軍の艦隊はそのほとんどが沖縄沖に展開している筈だ、彩雲で行って帰ってこれる距離にこれ見よがしに布陣している部隊なんて何の報告も受けてはいない」

「それはこの艦隊に近づいた日本機の殆どがその報告を打電する前に悉く撃ち落とされているからだ。 ―― お前は聞いた事がないか? 特攻に出かけたいくつかの部隊が直掩共々一網打尽に葬り去られた事を。俺達の最後の相手はそいつらだ」

「何、だって? 」

 新渡戸の頭の中で火花が散って電流が背筋を駆け抜ける、それは度重なる特攻報告の中での一つの噂話に過ぎなかった。

 難攻不落の艦隊が日本の沖合に停泊して飛び込んで来る特攻機をまるで蝿や蚊の様に撃ち落としていると。実しやかな空想と様々な流布が創り上げた幻像が実は本物であったと言う事実を突き付けられた彼の脳裏に、かつて軍内部でも一笑に付されたおどろおどろしい名前が蘇る。その名は確か ―― 。

「そうだ」

 長谷川が呆然とする新渡戸の手から写真を取り上げるとそれを険しい表情で眺めた。

「 ―― 死神艦隊だ」

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