暗 雲
夕刻の太刀洗の空に響くエンジン音に最も驚いたのは陸軍でも整備士でもなく夕日に背を向けて歩き出そうとした富田林だった。無線封鎖で安否の分からない長谷川機を日長一日待ち続けていた彼は今しがた帰投の可能性に見切りをつけて今後の話し合いを行うために官舎へと足を向けた、だがその音を聞いた途端に富田林の足は自分の意志とは関係なく踵を返して滑走路へと躍り出た。
音を聞きつけた堰川らが富田林の後を追って一目散に滑走路へと集まり、飛行隊全員が集まった所で満を持したかのように長谷川の機体が滑り込む。突然の到着に基地の整備兵たちが一足遅れで機体に取り付いて牽引用のロープを引っかけ、搭乗ハッチが開くや否や真っ先に飛田が滑り降りてきた。「やあ皆さんお揃いで、お出迎えありがとうございます」
「出迎えありがとうじゃねえっ! こっちがどれだけ心配したと思ってンだ全くっ! 」笑いながらも飛田の背中を張り飛ばしたその手には明らかな憤りが込められている、全員の心配を一身で背負う事になった彼には次々に手荒い歓迎が向けられた。背中じゅうをバチバチ叩かれながら飛田はにこやかに言い訳した。
「や、だから文句は大尉に言ってくださいってっ! あそこに一泊する羽目になったのも全部大尉のせいなんですからっ! 」
「長谷川の? 」上官を売り飛ばすという不埒な行為にも寛容なのは今まで生き残った歴戦故の心のゆとりなのかもしれない、次に降りてきた遠村などは大あくびをしながら何食わぬ顔で降り立つと開口一番に言った。「 …… 大尉のおかげで南洋のホテルに一泊二日食事付の休養をいただきました、皆さんも機会があれば一度是非」
「まさか本当に一泊してくるとはな」
事前にその可能性を打ち明けられていた富田林は最後に踏み台へと足を下ろした長谷川に手を伸ばしながら呆れたように呟いた。夕闇の迫る滑走路に浮かぶ海軍礼装は夕日を受けてオレンジに染まる、帽子を脇に抱えた長谷川はニンマリと笑ってしてやったりの笑顔で答えた。
「おかげでこっちは大助かりだ、かなりの所まで情報を集める事ができた ―― が今日の所はこれでお開きにしてくれ。残念ながら『猫日課』に慣らした癖を悟られないように、全員ほぼ徹夜だ」
「なるほど、じゃあ飛田や遠村が言ってるほど楽な旅じゃなかったって事か」
「それなりに肝は冷えたさ、空母の対空機銃に狙われた時は本当にどうしようかと思ったくらいにはな」
「 ―― 嘘つけ」空母に着艦するつもりで向かった奴がそんな事でビビるもんか、と富田林は呆れた笑いを浮かべた。「じゃあ今日の所は全員で主計長の保存食づくりのお手伝いでもするか。地元の百姓からいい柿を貰ったらしくてな、ちょうど天気もいいから干し柿にして皆にふるまってくれるそうだ」
「それはいい、うまくすれば出撃の時に持っていけるな」嬉しそうに笑う長谷川を見た富田林がやれやれと両腕を広げて降参の仕草で言った。
「その調子じゃ攻撃の前に敵さんの甲板に贈り物だとか言って落としかねんな、お前は」
翌日から開かれた会合は終始白熱したものとなった。艦隊の陣容、艦種はもとより予想される兵装や艦載機の数など ―― 長谷川一家の各々がそれぞれの目で見て、それぞれの手段で集めたありとあらゆる断片的な情報がその場へと並べられて全員が協議を重ねる。部隊とはいえども各員別々の戦区で生き残った兵ぞろいだ、それぞれの経験と照らし合わせて弾き出される敵艦隊の総合力は全員が驚嘆の声を上げるにふさわしい、未曾有の高性能だった。
「 …… こりゃあ敵ながら死神と呼ぶにふさわしい火力だな」
黒板に列記された項目のいくつかには後端に疑問符が付けられてはいるが、それでも自分達が思いつく限りの破格の性能を想定している。基本的には機械に精通している京都帝大出身の奥野の考察が主だが、それでもこれだけ並べば畏怖を通り越して壮観とさえ思える。
「あー、つまりなんだ …… 『大鳳』の周りを『秋月』と『冬月』と『摩耶』と ―― 」
「要するに今まで見た事も聞いたこともない対空特化型の艦隊な訳だ、それもこちらの予想をはるかに上回る規模の」
元山から長谷川とともに翼を並べる堰川と桑島をしてこのあいまいさだ。それでもこの二人を責められない、他人にいくら言われた所で自分の経験値を頼りに兵装の威力や火力を想像する事には限界がある。
「艦載機の数はどうだ? 」
「最新鋭の正規空母と言うからには数値の知れてるエンタープライズやホーネットより少ない事はないでしょう、100機は越えます。ですがそれにしちゃ操縦士の数が少ないと思いましたね。館内を案内された時に乗員着替え室を覗いたのですが名札の数が意外に少なかった」
「菅野を追っかけてきたバカっ速の戦闘機以外の機種はわかるか? 」
「さすがにそこまでは。それが分かった途端に僕たちはここにはいませんよ」飛び交う質問を軽快にさばく飛田の隣で必死に議事録を書きとめる望月、その彼女がふと何かを思い出したように顔を上げた。「もしかしたらですけど、艦載機の中に攻撃機の類がいないのではないでしょうか? 」
「ええ? 」思わぬ発言に各所から疑問の声が上がるが望月は構わずに発言を続けた。「着艦の際に大尉も気づかれたと思いますが艦底色が海面のすぐ下に見えました。もし通常装備の空母でしたら爆弾や魚雷などの兵装を積んでいるので喫水線はもっと深くにあると思うのですが、あの船はそうじゃなかった」
「なるほど、重いものを積んでなくてなお且つ機数が少なければ船体は軽い …… だが変だとは思わないか? 」富田林が壇上の中央に陣取る長谷川に向かって言った。
「そんな艦隊が何の役に立つって言うんだ? 」
「俺が思うに」
富田林の質問を受けて場の様子を静観していた長谷川が初めて口を開いた。この部隊の中で最も多く星を上げている兵士の言葉に一同は沈黙して耳を傾ける。「あの部隊は一種の実験艦隊なんじゃないかと思う」
「実験? 何の? 」
「人為的に誘導される武器を最も効率よくかつ確実に破壊するために、我が国の特攻と言う攻撃手段を利用してその実験をしている艦隊」
あまりの衝撃的な発言に隊員全員の顔色が変わった。古今東西いついかなる国に置いても空母を中心とする艦隊は「打撃群」という名称で呼ばれる、と言う事はその部隊は必ず目標に対して何らかの実力を行使するだけの戦力を有していなければならないはずだ。だが長谷川の言を正しいとするならばかの『死神艦隊』はただ獲物をおびき寄せて抹殺する事を主任務とする、軍にとって全く非効率な存在になってしまう。
「そ、そんな事のためにあれだけ大規模な編成をするなど鬼畜米英の極みだぞっ! 」激昂して声を震わせる富田林だったが、長谷川は何食わぬ顔で言葉を続けた。「俺はそうは思わない ―― と言うか前々からよく思ってはいた事なんだが、もし攻撃する武器が凧のような仕組みだったらいいのになあと」
「た、凧? 」
「凧は手元から伸ばした一本の糸で空高く上がって留まっているが、もし変な動きをしたら糸を手繰ったり伸ばしたりして挙動を変えたりしただろ? そうやって離れた場所から武器を操って敵を攻撃できれば人員は損耗する事なく被害だけを与える事ができる ―― まあ今の日本にはその資源と工業力がないから人が乗り込んで代りを行っている訳だが」
「言葉を選べ、長谷川っ! お前の発言は靖国にいる軍神の方々を愚弄する言葉にも等しいぞっ! 」
「愚弄なんてしてないぞ? ただ特攻と言う手段を考えた時に漠然とそう思っただけだ。それにもしこの作戦が成功したなら国内にいる特攻否定派は通常攻撃でも十分戦えるという根拠を得、推進派は今一度特攻のあり方について考え直す機会になるだろう。それだけの時間の猶予ができればもしかしたら誰かが特攻と言う非生産な手段に頼らない新しい武器を考えるきっかけになるかも知れない」
「まあそんな先の話は脇に置いといてだ」
二人の会話に割り込んできたのはいつの間にか会合の部屋へと入ってきた服部だった。「『たられば知れない』では今日も明日も何も動かないというのが世間様の常識だ、長谷川。お前さんは時折浮世離れした事を口走る事があるから気をつけろ、それでは大所帯は回せん」
閻魔様からの忠告にばつが悪そうな顔で苦笑いを浮かべながら静かに頭を下げる長谷川、だが肩を持たれた形の富田林にしてもそれで溜飲が下がる訳ではない。広げた風呂敷を畳むようにおずおずと引き下がった論客の姿を見て服部は口を開いた。「ところでお前ら、敵の船で何食ってきた? 」
その的外れな質問に表情を動かしたのは長谷川と鳳だけだ、服部の意図を読み取ったのはその二人しかいない。「夜はジャガイモを上げたヤツと牛肉焼いたの、パンと生野菜とアイスクリンでした。朝は豚バラ肉を焼いたヤツとゆで卵にパンとトマトと牛乳」
新宮がメモを読み上げながら服部に答えると彼は険しい表情で言った。「攻撃部隊の構成でそれだけのものが出てくるって事はどこか近くにとんでもなく大所帯の部隊が展開しているって事だな …… 少なくとも行動範囲で三日以内」
「なぜ三日? 」
「生野菜が献立に入ってるからだ」奥野の問いに即座に答えると彼は長谷川へと向き直った。「南洋で補給のない状態で生鮮を維持する日数には限度がある、が補給艦が随伴できるほど大きな部隊だと話は別だ。それに牛肉 …… 昔海軍武官殿からアメリカでは大きな戦いの前に必ず士官に牛肉の鉄板焼きがふるまわれると聞いた事がある。時期的にも硫黄島攻略のための大艦隊がいよいよ動き始めた証拠だ」
「多分その動きは大本営でも察知しているでしょう」薄暗い部屋の中で長谷川の瞳がかすかに輝く。「ですから彼らに攻撃の期日を二週間後以降と伝えました。あの艦隊が硫黄島攻略艦隊に随伴している事は薄々感づいていましたが、もし作戦発動となった時に彼らを硫黄島の傍に置いておくわけにはいかない」
「 …… 味方の特攻を助けるためか」
堰川の呟きに沈黙する全員に向かって彼が頷く。「彼らがもしもそういう性質の艦隊であるのなら私からの申し出を断る訳にはいかないでしょう、自分達の任務のために必ず硫黄島を離れて座標の海域へと展開する。そうすれば敵の防空能力は少なくとも偵察機が視認した通りの火力で収まる」
「味方の特攻が成功する確率が上がる …… なんとも世知辛いなぁ。特攻を止めさせるためにこの作戦に志願したのにそれで味方の特攻を成立させるなんて」
「奴らがいれば今まで通り犬死だ、今の時点で俺達にできる事はそれしかない …… くそっ! 」
「その悔しさも苛立ちも作戦のためにとっておけ、桑島。硫黄島の戦いはあくまで延命だ、俺達の作戦の目的は多分水際となる次の目標のために支払う代償であり ―― 」
両手を叩いて悔しがる桑島の言葉がここに居合わせた全員の気持ちなのだ、その上で長谷川は力強い口調で彼らに道を示した。
「 ―― たったひとつの希望だ」
「たられば知れないはお前の悪い癖、か …… 主計長はよく見てるな」
訓練を終えて就寝間近の夜明けの滑走路に長谷川と富田林は並んでご来光を眺めていた。山の稜線をくっきりと浮かび上がらせて暗い夜空を目覚めさせる日の輝きは仄かに二人の表情を映し出す。神妙な面持ちで柏手を二回叩いて朝日を拝む長谷川とは対象的に富田林は微笑みながら後ろに控える。
「長い付き合いだからな、それに主計長の分析はいつも正しい。それが彼をわざわざここに出迎えた理由でもある」
「どうする、軍令部にはこちらの予想を報告しておくか? 敵の艦隊が動き出したとなればこのまま見過ごす事も出来まい」「いや ―― 」
「長谷川大尉っ! 軍作戦部より至急電でありますっ! 」滑走路へと振り返って今まさに宿舎へと戻ろうとしている二人の前に基地所属の通信兵が駆け寄って来た。夜勤をねぎらうために敬礼をする二人の前で立ち止まったその兵隊は手を上げるのももどかしく手にした文面を読み上げた。「発大本営軍作戦部、宛第752空8戦隊司令。本日未明に敵大編隊からの空襲を受け関東全域の基地に甚大な被害、当該部隊は限りなく速やかに作戦の発動を実践されたしっ」
「 …… な、なんだって? 」愕然とする富田林をしり目に長谷川が尋ねる。「 ―― 藤枝は? 」
「繋がったのは木更津と百里が浜の二つだけであとは通信途絶、どれだけの被害かはいまだ不明っ」「長谷川っ! 」
「 …… 攻められて密度が上がるのはこちらの攻撃だけじゃない、敵の質も上がるという事か。甘く見ていたのは俺の方かもしれんな」呟いた長谷川が足早に宿舎へと向かう、追いかける富田林に強い口調で命令した。「今日は16日、今から四日後の夜、20日をもって本作戦を決行する。通信兵は起床した太刀洗の整備兵、そして富田林は宿舎の全員にその事を伝えてくれ。攻撃隊員は今日より二日間上陸許可を与える、自由に使うよう」
「お前はどうする? 」
「人吉(人吉海軍航空基地・昭和19年2月から稼働開始)に行って魚雷の搬出を早めるように要請してくる。あそこに預けてある91式魚雷の調整はもう終わっているはずだから出撃には多分間にあう」
「わかった、決行時間は? 」
「会議室集合は2000、先導機進発時刻は2200」
* * *
「スプルーアンス閣下の考えは硫黄島攻略に先駆けて関東全域の航空基地を徹底的に叩き、その地域での航空優勢を失わせる事でした。嚆矢となったミッチャー提督の58任務部隊は悪天候を突いて千葉沖に進出、『ジャンボリー』作戦終了後は全艦隊を順次反転させて長谷川大尉を迎え撃つ海域へと急行。途中提督の旗艦「バンカー・ヒル」は艦載機の三分の一を硫黄島艦隊に預けてあったP-61と入れ替えて彼の指定した期日に備えました」
「ものすごい強行軍だ、しかもそんな大事な作戦を同時並行で行うなんて」
「ミッチャー提督はそれくらいの事は当り前のようにやってしまう方でした。いえ、あの方だからできたといってもいい。追いかけてくる敵機を追い返しながら送り狼で本拠地を叩きつぶす、そうやって後方の安全を確保しながら目的の場所へと向かう事など彼にしかできない。そして」
眼光鋭くフレイを見つめる彼の気配はもうすでにありし日の艦隊司令だ、百戦錬磨の彼女ですらそれを受け流すのが精いっぱい。愛想笑いをする暇もない。
「提督はその作戦を利用して長谷川大尉を罠へとおびき寄せました」
目まぐるしく展開される双方の思惑、史実に記されたものとは全く異なる展開。歴史から抹消された小さな艦隊を巡って繰り広げられる真実の硫黄島前哨戦。
「当初私たちを悩ませたのは夜間における哨戒ラインを彼らが指定した期日の間どうやって維持するかと言う事でした」
「二週間以降の夜 …… つまり二週間の猶予の後、任意の日に攻撃すると。曖昧であるが故にそこまでの戦闘配備を強制する縛りですね」フレイの口調が熱を帯びる。
「そうです、だから私は夜間哨戒機を要求した。ですが提督は自分の帯びた任務の意味を利用して逆に長谷川大尉の思考を追い詰めたのです」
クレストとフレイはそこでお互いに顔を見合わせて考えた。簡単な説明ではあったがミッチャー提督が実施した作戦は硫黄島に進出する敵特攻隊を事前に叩きつぶして艦隊の被害を最小限におさめるためのものだ、成功した事で航空優勢を確定させた味方はそれで何の心配もなく上陸作戦へと集中する事ができた。しかし基地を叩いた事で彼の思考がどう変化するというのだろう?
「 …… そうか、それが狙いか」思い当たってぽつんと呟くクレストへと期待の目を注ぐフレイ、彼は危機の目盛りからハンターへと目を上げて言った。「もしそうだとしたらミッチャー提督も恐ろしい戦略眼をお持ちだったと言わざるを得ないのですが …… 長谷川大尉の狙いが特攻による攻撃ではなく通常の夜戦での決着を目的としていたというのなら全てのつじつまが合う、彼は提督の攻撃によって日本国内の風潮が特攻一辺倒になってしまう事を ―― 恐れた」
「! クレスト、どうしてそれが」
「特攻が目的なら最初の会敵の時に自分が空母にぶつかればそれで済んだ。だが彼はそれよりももっと困難なミッションに挑んで成功させた、回りくどい事に空母に着艦するという離れ業まで演じて。つまり彼は ―― 」
「彼は恐らく示したかったのでしょう」
今考えても背筋が寒くなる。
あの大戦末期の混乱において日本国中の誰もが憑りつかれていたであろう『特攻』と言う概念に真っ向から反旗を翻す事がどれだけ困難であり、どれだけ政治力を必要とする事なのか。だが彼はそれを成し遂げて米国と言う巨大な国家にひと泡吹かせて見せた。
「日本に残された底力と言う物を内外の関係者たちに向けて …… ですがその彼の崇高な考えは閣下と提督に利用されてしまったのです」
* * *
それはふとした偶然によるものだった。
作戦前会議を終えて各員が搭乗を始めた際に望月はなぜか機体の腹へと取り付けられている91式魚雷を覗きこんだ。今まで訓練に使っていた木彫りのものとは違って框板をスクリューの周りへと取り付けた本物は迫力が違う、全長6メートルにもなろうかという1トン魚雷は世界でも類を見ない。
搭乗前点検はすでに整備兵の手によって終了している、だが望月は滑走路を照らすわずかばかりの明かりに光るその筺体へと掌を当ててほんの少しなぞらせる ―― その時だった。
「? …… なに、これ」
滑らかであるはずの胴体から手に伝わるほんの少しの引っかかり、照準手である彼女は自分の記憶に照らし合わせて魚雷に結び付けられた抱締索の取り付け位置を思い出しながら何度も何度も確認を続ける。だがどうにも理に合わないその違和感の正体を知るために彼女は今まさに機体へと体を乗り入れようとする長谷川を呼びとめた。
「大尉、魚雷がちょっと変です」
「 …… お前、よくこれが分かったな」
確認した奥野が思わず呟いてしまうほどそれは巧妙に縛られていた。現兵装の中でも最大重量を誇る改5を固定するための抱締索は普段の倍、だがその繋ぎ目に紛れるように細い針金が投下機構へと延びている。投下レバーを照準手が引いてもその針金のおかげで魚雷は機体から離れる事ができない、そんな仕組みだ。
「大尉、どうやら全機の魚雷が同じように固定されていると」曽我部がぜいぜいと喘ぎながら告げる報告を耳にした遠村がバチンと手にした計算尺を畳んだ。「くそっ! 整備兵の連中よくもやりやがったなっ!? 」
「まさか彼らが『そういう指示』を受けているとは予想外でしたね」「いや、ある程度は予想はしてはいたが ―― 」
飛田の言葉を受けた長谷川が深刻そうな面持ちで腕を組んだ。「投下機のワイヤーを切断したりハンダ付けをどこかの基地でしているという噂は聞いてはいた、だがこの改5には通用しないと思っていたんだ。まさか針金で括りつけるとは …… だが問題は」
「ここはもともと特攻隊の発進基地じゃない、それなのにそこの整備兵までがそんな事をするってことは」奥野の呟きに長谷川が頭を振った。「すでに日本中の航空基地でこういう非道がまかり通るほど事態が切迫しているという事だ。これから出て行く特攻機には機体の不調で引き返すことすら許されない」
「どうする? いっそのこと整備兵全員叩き起こしてこの場で指導して回るか? 」丸太のような腕に無骨に生えた十本の指をポキポキと鳴らしながら堰川が近づいてくる、長谷川と長い付き合いのある彼はすぐに同じ結論へと辿り着いていた。恐らく桑島や富田林、最年少の鳳でもそうだろう。
「いや、彼らは上の命令に従ってやった事だ。それに ―― 見てみろ」長谷川はそういうと堰川の目を格納庫の方へと誘導した。よく見ると明かりが消えて真っ暗な格納庫の扉の影からじっとこちらを見つめている何人もの人影が見える。
「 …… ありゃ、整備兵か? 」
「もしかしたら俺達がこのまま飛び立っていくのを観察しているのかもしれない、がこの状況を見て誰も基地司令や上官に報告に行かないのも不自然 …… つまりは彼らが自分から進んでこんなからくりを仕込んだ訳じゃない」
「俺達が気づいてくれる事を影ながら祈ってたって? じゃあ最初からやるなって話なんだがな」臨戦態勢に仕上がった腕を両の腰に当てた歴戦の雄は苦笑いを浮かべて鉄拳制裁を諦めた。
「望月、どうだ? 」投下機構から伸びた針金に懐中電灯を当てながら全体像を探る彼女がポケットから小さな金切り鋏を取り出すと指を当てた一本へと切れ目を入れる。「多分三か所ほど切断すれば外せます。そこから正常に投弾機が作動するかどうか確かめないと ―― 」
「整備兵が当てにならない以上無理な相談だ、そのままでいい ―― 曽我部、すまないがもう一度各機に伝令頼む。出発時刻を二十分遅らせてそれまでに措置を終わらせろとな」
者も言わずに返礼すると弾けるように走り出す通信兵の背中を眼で追いながら堰川が言った。「どうする長谷川? ここは一旦し切り直した方がいいんじゃないか? 」
「このまま行く」
即答した長谷川に堰川は目を丸くした。「いつも慎重なお前らしくもないな …… 何をそんなに焦ってる? 」
「確かにこれで関東近辺から硫黄島に向かう戦力は削がれてしまったがまだ西日本を中心に機体は残っている、恐らく代わりに出撃する彼らの負担を少しでも下げなければ」
いつもの冷静な口調と態度の裏にある彼らしくない焦り ―― 心の中に渦巻く不安を堰川はぐっと腹へと収めて笑顔を浮かべた。
「それも一理ある …… 了解だ司令官、では死神狩りに出かけるとするか」




