呉越同舟
『デス・フリート? 』
テーブルをはさんで向かい側に腰掛けた長谷川から語られる文言にハンターは思わず苦笑した。自分達は鉄壁の守りを誇るという意味でつけられた『ファランクス・フォース』というタスクフォース名が立場が変わればそんなおどろおどろしい名前になるのかと言葉のあやに感心してしまったのだ。
『私たちの側から見ればあなた方はそう見えます、今までただ一人しか帰ってきてはいませんので』
『あの偵察機の事か …… 素晴らしい腕前の持ち主だったと聞いている。こちらの最新鋭の戦闘機をあっという間に撒いて逃げるとは貴官の国にもまだまだ継戦の意志が残っている証拠だ』
『ええ、まあ』にこりと笑った長谷川の顔を水平線へと沈む夕日がオレンジ色に染め上げ、いつしか時が立つことも忘れてお互いの持つ様々な事を話し合っているうちに夜の帳が差し迫る。士官食堂を貸し切っての対談もそろそろここで切り上げようかとハンマーが考えた時、目の前の長谷川はなぜか部屋の片隅にある、それへと不思議な目を向けていた。
「あれは …… ベーゼンドルファーの、アップライト」呟いた長谷川がいきなり立ち上がってゆっくりと傍へと近寄った。無機質な鉄の壁から生え出たような異質な黒塗りのアップライトピアノはハンターが乗組員の憩いのために特別に搬入させた代物だ、振り向きながら彼の背中を目で追ったハンターは彼が鍵盤の蓋を開いてそのサインを確認するまで黙っていた。「やっぱり。こんなところで出会うなんて」
『ピアノは嗜まれるのかな? 』価値が分かる人に出会えて彼もご満悦の表情だ。声をかけられた長谷川は思わず素になった表情に蓋をして、しかしそれを隠し切れずに微笑んだ。『 …… ほんの少しではありますが』
『ならばぜひとも聞かせてほしいものだ、ここに持ってきたのはいいもののたび重なる任務で今やだれも弾けずじまいだ。本当なら引ける奴は何人かはいるのだが今夜は珍客のお世話で手が離せそうにない、予約もなしに訪れたせめてもの罪滅ぼしに、是非』
にこにことしながら勧めるハンターを前に長谷川は少しためらっていたがやはり興味の方が勝ったようだ。『では稚拙ではありますが、お許しいただけるならば一曲だけ』
開け放した食堂の窓から甲板へと流れ出すその音色はまるで今にも訪れようとしている夜の帳を歓迎しているようにきらびやかで優しく、そして悲しい音色に満ち溢れていた。鍵盤を叩く指が時には静かに、しかし時には力強く和音を奏でては主旋律を盛り立てる左右のコンビネーション。ほんの五分ほどの曲ではあるがそれが流れる間ジョージ・ワシントンの甲板員は全員手を止め、その場に立ち止まったまま耳を傾ける。
「 “ なんて …… 素晴らしい ” 」
こんな場所でこんな曲が聞けるとは思わなかった。帝政ロシアに生を受けて自らの才能を苦難の中で磨き上げて名声を得た天才作曲家、昨年三月の死去に際してはソ連のみならず世界中で惜しまれた音楽の巨匠。その演奏はまるで天上へと旅立った彼を悼んでいるかのようではないか。
演奏が終わった瞬間に残る余韻が沈黙へと溶け込み、ハンターが手を叩いて長谷川の演奏へと賛辞を贈ったのは彼が名残惜しそうに鍵盤をなぞってから立ちあがった時だった。その拍手はまるで今の音色と同じように外まで伝わって、聞いていた全ての兵士が喜んでいる事を彼らに教えた。
『稚拙などとは謙遜もいい所だ ―― ラフマニノフ、だな …… それにしても何と美しい』
賛辞を受けたその青年将校は少し照れ笑いを浮かべながら小さく頭を下げる。違和感しかないその光景にハンターはある申し出を試みた。『もうすっかり日が暮れてしまった、本当は君たちを一刻もここから退去させる段取りを取らなければならないのだが ―― 私個人として君は実に興味深い』
日の光を失った南の海はあっという間に波の音だけを残して黙の中へと隠れていく。『 …… 今晩はここに泊まれ、と? 』
『もしそれで貴官の予定が変わるというのならそれは君が悪い、私に日本人に対する興味を芽生えさせてしまったのだからな。それにもうすぐ食事の時間だ、そろそろここを将兵に明け渡さないと大変な事になる』チラリと視線を向けた先でサロンをつけた黒人の水兵が不安そうな顔でじっと二人を見ている。『戦地ゆえに対した食事は出せないが君たちの分も用意しよう ―― これも君たちの目的の一つとして十分に意味ある情報だと思うのだが? 』
『お見通しというわけですか …… ならば私達を捕虜としてこのまま拘束という手段が最も閣下に対しては有益だと思われますが? 』
『マクスクラン …… この空母の艦長ならそうするだろうな、だがそれはお互いのために有益だと ―― 君は本当にそう思うかね? 』投げかける問いかけとその眼光には本音を暴く鋭さがある、長谷川は思わず愛想を崩して笑いを零した。
『 ―― そういえば閣下は自分と命のやり取りをする前提でご尊名を名乗られたのですね、すっかり失念しておりました。では私と部下ともども今晩はこちらでお世話になることといたします、ですが人擦れついでにもう一つ』
『何かね? 』
『実はここへと辿り着くのに燃料をほとんど使い果たしてしまいました、差し出がましいとは思いますがもしよろしければ補給をお願いしたいのですが』
『燃料を …… 使い果たした ―― 』ハンターの瞳に浮かぶ疑惑の色を長谷川は見逃さなかった、だがそれに気づいた所で燃料を補給しなければ彼の望みは叶わない。ハンターはしばらく考えた後にその返答を長谷川にではなく食堂の出入り口でじっと二人の動向へと目を配るMPに命じた。『すまないが艦長に航空燃料の『予備』から彼らの機体へ給油するように伝えてくれ、明朝彼らが出立するまでに調査と軽整備は全て終わらせるように』
『は、いえ。しかし ―― 』持ち場を離れる事に動揺を隠せない兵士に向かってハンターは笑った。『君の心配はわかるが彼は何の武器も持っていない。それにもし格闘となった時でもここの厨房には武器を持った彼らがいる、制圧は容易だ』
なるほど、だからこの時間にわざわざ食堂を選んだのか。長谷川はハンターの用心深さに改めて感心した。万が一の事態に備えて常に対策を考えて準備する、その用心深さがなければこの極秘艦隊を維持する事は難しいという事か。
踵を返して通路の向こうへと消えていく兵士の背中を目で追いながら長谷川は言った。
『では閣下のお望み通りに話を再開する事にいたしましょう。まだ夜は始まったばかりですから』
* * *
「10の前奏曲作品23第四番ニ長調 ―― 彼がその時弾いた曲は今でも私の耳に残っています。私はその後、彼から本当はピアニストを目指していた事 ―― そして海外へと留学するために日本の大学の英文学科を卒業している事など様々な事を聞きました。そして一番不思議な事は」
そこで言葉を切ったハンターは手元のサングリアに手をつけてコクリと一口飲んだ。「彼が私たちの艦隊に関して一言の質問もしてこなかった事でした」
「え? 」
命懸けで敵のただ中へと単身乗り込んで、その後に彼がした事といえば世間話とピアノの演奏。確かに捕虜同然の身の上ではできる事は限られるのだろうが、それでも当時最新鋭の装備を誇る極秘艦隊で客人同様の扱いを受けておいて何も聞かないなんて。
「私も当時は艦隊を預かる司令官という立場にありましたから彼の言動や視線に関しましては最大限の注意を払っていました、もしこちらの機密に関して何か勘繰るような言動をした場合には私は即座に彼らを拘束するつもりでいたのです …… ですが彼はジョージワシントンを離れるまで一切その事を口にはしなかった」
「では彼らはわざわざ何をしに来たのです? 本当に二週間後に夜襲を仕掛けると貴方にいいに来たとでも? 」フレイの口調が熱を帯びているのが分かる、クレストはモニターの針から穏やかなハンターの表情へと目を向けると彼の微妙な変化に気づいた。笑い皺に連なるその瞳に宿る光にありありと生気が灯っているのが分かる。
「私は心のどこかでその事だけを不審に思いながら彼との会話を楽しんだ …… ですがもうその時から私は」
彼の気配が変わる、その事にフレイとクレストは思わず心を引き締めた。これからいよいよ事件の核心が語られるのだ。
「 ―― 彼の術中にはまっていたのだと船を沈められて一人で漂う海の上で気づきました」
* * *
いつもと変わらぬ穏やかな波とほんの少し吹き付けるさわやかな海風が夜明けを過ぎた南の海を形作る。明るくなった甲板の最後方にがんじがらめで係留された96陸攻はジョージ・ワシントンの甲板員の手で少しづつ舫が解かれつつある。その様子を遠巻きに眺める人の輪を割ってまずは飛田が機体へと歩み寄る。
不思議な事にここへと到着した時に見られた警戒や軽蔑といった負の感情がアメリカ兵からは全く感じられない、もちろんMPは銃を片手に彼らの周囲を警戒はしているのだがそれはどちらかというと彼らの機体へとちょっかいをかけようとする輩を見張っている感が強い。食堂でともに食事をとりながら彼らは新宮の通訳でお互いの持つ文化の違いや差について話をし、そしてお互いが抱えるこの戦争の矛盾というものをとことんまで語りつくした。同じように悩み同じように憤る事への共感と軍人として相容れないそれぞれの立場にジョージ・ワシントンの側の兵士は絶望し、それを長谷川組の面々が一生懸命励ますという奇妙な構図。その彼らがここを離れた後には命を取り合う敵同士へと変わってしまう事への虚しさと悲しみが彼らの中では渦巻いていた。
『ヒダ、お前だから聞きたい事がある』輪の中からみんなを代表して一歩進み出たのは最初に絡んできた整備兵だった。足を止めて振り返った彼は微笑みながら白い歯を見せる。『お前はとてもいい奴だ ―― お前だけじゃない、ここに来た全員とてもいい奴だ。でもここを離れれば俺達は敵同士、殺し合いをしなくちゃならない』
それはジョージ・ワシントンで働く全員の総意だ、その言葉の裏には戦いたくないという彼らの気持ちが隠されている。願う事ならこのままここに留まって、たとえ立場は捕虜となっても生き続けてほしいと思う。
『この船はとてもいい船です』
唐突に紡がれた飛田の言葉に取り囲んだ人の輪が動きを止める。『それにみんないい人だ。悪い人なんて誰もいない、僕にとって多分一生忘れられない時間でした ―― 戦争がなければきっとすごく仲良くなれたんじゃないかって、本当に心からそう思います』
新宮の手助けなしに語られる流暢な英語に目を見開く件の整備兵は声を失った。『でもだからと言って今までの事をなかった事にできない、これからの事を止める事もできない。だったら僕たちはせめてあなた達を止めるために命を賭けて力の限り、正々堂々と戦います ―― 軍人にできる事なんてそれくらいのもんでしょう』
『彼は …… 君の? 』
『副長です、飛田勇人』
六人の日本兵が周囲のアメリカ兵と次々に握手を交わして別れを惜しむ姿を一番外側で眺めていたハンターと長谷川は視線を交える事なく言葉を交わした。『気持ちのいい青年だな。彼だけじゃない、君はいい部下にに恵まれている』
『彼らがどう思っているかはわかりませんが、私は彼らを『家族』だと思っています。身内を褒めて頂きありがとうございます』
『 …… あの整備兵が言っている事はこの艦 ―― いやこの艦隊のほとんどの兵士の総意だ、そのうちの一人として今一度尋ねたい』真剣な顔を向けるハンターへと柔らかな微笑みを湛えた長谷川が視線を送る。『このままこの艦に客人として残るつもりはないかね? 』
『チェスでの決着をつけたいというのならば …… 実は私も心残りではあるのでやぶさかではないのですが』
* * *
「チェス、ですか? 」朝食から出立までのわずかな時間にハンターから申し出たチェスの勝負を長谷川は快く応じて盤面へと臨んだという。彼の口から語られるその日の出来事はあの大戦を調べつくした二人にとって思いがけない事の連続で、それはまるで戦争の匂いなど欠片もない平和な世界の一コマのようにも思える。
「日本にも『囲碁』やら『将棋』とかいうボードゲームがあるそうで彼はチェスの事も知ってはいましたがルールまでは知らなかった。ですが私がほんの少し教えると彼はすぐにその本質を呑みこんで理解しました ―― 今思えばそこに長谷川大尉の本当の意味での怖さがあったのです」
「と言いますと? 」興味をそそられた時にフレイが見せる癖だ、相手の姿を瞳に焼き付けるように上半身を乗り出して顔を近づける。ハンターは無邪気ともいえる彼女の行動に少し苦笑いをしながら窓際へと視線を送った。「彼が私たちに情報を求めなかった理由 ―― 求める必要がなかったのです。断片的に情報を得るだけで彼は自身の経験と照らし合わせてその正体を見破る、弱点を見つける ―― 想像力の権化のような恐ろしい才の持ち主だったのです」
「 ―― それをたった一晩で看破した貴方も相当のものだと私には思えるのですが」クレストが思わず呟く。「少なくとも私とフレイはここに来るまでに何十人にも及ぶ戦争体験者との会話を果たしてきました。が、あなたのように敵として戦った日本人に敬意は表しても尊敬の念を持つ人は本当に少数」声量を示す針を眺めながら両手を組んで呟くように語る彼を見たのはフレイにとっては初めてだ、彼の言葉が正しい事はその場に同席した彼女も知っている。
「人種も。立場も。全ての垣根を外さなければそんな所へとは考えすら至らないのです ―― そういう意味ではあなたも彼と同じ思考の持ち主ではないのかと」
少し嬉しそうな瞳で最後の棋譜が記された盤面から視線を外した彼が言う。「本音を言うと私は彼と戦うのが恐ろしかった、だから自分の手元に囲って離さないのが得策だと思った。しかし ―― 」
ハンターは質問の主ではなく正しく見聞者として向かいに座るフレイにその真剣な眼差しを向けた。「私はそんな彼と戦ってみたいと、その時本当に思ってしまった」
* * *
ハンターは次に続く言葉をおおよそ理解していた。『私たちの帰りを待っている人たちや友人たちのために、残念ですがここを立たねばなりません。それは閣下も同じではないのかと』
そういうと長谷川は左手を軽く差し出して握手を求めた。『一晩限りのお付き合いでしたが私どもへの厚遇、切に感謝いたします。来る日にはきっとお互いにとって有意義な、いい戦いになる事を心より願っております』
『そうか』
出された手の意味を理解してハンターは迷わずその手を握った。『これでお別れなのは残念だが、実は少し心も踊る。君の次の来訪には心をこめておもてなしをしたいと思う』
『光栄です』
燃料満タンで重量の増したこの攻撃機が本当にこの短い滑走路から飛び立つ事ができるのかと艦隊の全員がジョージ・ワシントンの甲板に注目する。蒸気カタパルトを使おうにも前輪にフックはなく、自らの工業力に絶対の自信を持っている彼らは極東にある島国から来た時代遅れの機体にどこか蔑視の目を向けていた。
だが彼らはその中攻が離艦した瞬間にその認識の甘さを思い知る。
一度は水面すれすれまで沈んだ機体が濃密な大気の波に乗ってふわりと浮かび上がるその様を見て湧き起こる驚嘆と喝采、ドゥーリットル隊の本土空襲の際にB-25が発艦した時と同じ光景を笑顔で見送るハンターの下へとマクスクランが近寄った。
「艦長の指示通りに手つかずの『予備』の燃料タンクから機体に給油しました」
「 ―― どれくらい入った? 」
「1365ガロンです」手元のメモを読み上げたマクスクランにハンターは隣に立つカリートへと目を向ける。「あの機の諸元 ―― 燃料の最大搭載量は? 」
すでに彼はその数値の異常さに目を見開いている。「 ―― 少尉、搭載量は? 」
「は、はい …… 1369、ガロン」今度はマクスクランが驚く番だった。「! 4ガロンしか残ってなかったって。じゃあ彼らはここに下りなけりゃすぐそばで墜落してたって事じゃ ―― 」
「彼らは私たちがここに停泊している事に絶対の自信を持っていたという事だ、どうやって割り出したのかはわからんが」ハンターの表情が今までになく引き締まる。
「これが長谷川大尉からの本当の挑戦状だ ―― 私達に挑む自分達は『こういう』相手だという」




