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挑 戦 状

「しかしいくら守秘のためとはいえ、対空装備とレーダーを全部使えなくするとは。ちょっと大袈裟すぎやせんか? 」

 艦隊最後尾に位置するドーチェスターの艦長であるドミニクはほぼ艦の上甲板の七割を覆う白いシートを見下ろしながら隣に立つマードックに尋ねた。聞かれた彼にしても心境は同じだったのだろう、だがその気持ちを上官に悟られない様にと思ってか帽子を目深に引き下げた。

「艦隊司令の命令ですから我々にはどうする事も。ただ単機でこちらに来るのでしたら普通の対空砲を一門でも使える許可が欲しかったのですが」

「だが ―― その一門とても発射速度を格段に上げる事に成功したMk 39という改良型だしな。防空巡洋艦の試作品であるこの艦がこんな姿になってしまうのもいた仕方ない、という事か」

 ふう、と大きな溜息をつきながらすっかり動きの止まった輪形陣へと目をやるドミニク、回収座標固定の為に艦隊は既に停泊の状態を維持している。舷側を叩く波の音といつも通りの明るい日差しが穏やかな一日の始まりを演出しているかのようだ。真下にあるキャンパス地が放つ照り返しに目を細めながら彼は周囲の音の変化へと意識を向けている、それはもはや彼が生き延びるために手に入れた一種のくせの様な物だった。

「 ―― どうやら来おったな」

 艦橋後部に設置された見張り用のバルコニーから空を見上げたドミニクはマードックにも聞こえないほど微細な音を拾って遭難機の到着を知らせた。一報を受けた彼はすぐさま首から下げていた双眼鏡を目に押し当てる、確かにそこにはまだぼんやりとしているものの一機の爆撃機の影が映り込んだ。

「 …… 中翼双垂直尾翼 ―― 確かに我が国のB-25の様ですね。 …… ですが」

「お前もそう思うか? 」

 遠目で接近する影を見つめるドミニクが眉を顰めながらマードックに声をかける。それは艦隊防空を一手に引き受けるために身についた特殊なスキル、耳で敵か味方を判断するという。ほんのすぐそこまで近付いてきたその爆撃機のエンジン音は確かに二発、しかし星型エンジン独得の連続駆動音を発していながらその音色がどことなく違う。違和感にしかめっ面で応えながら双眼鏡を降ろしたマードックに向かってドミニクは意味ありげに小さく頷いた。

「 ―― では直ちに後部対空砲のカバーを」

「復唱なんかするな、お前は黙って何食わぬ顔でカバーの留め具を外しておくだけでいい。後の責任は儂が取る」

「ですが ―― 」

 遺憾の目を向けるドミニクに対してマードックはほんの少しだけ緊張を解いた表情を見せた。「同盟国の特務機を撃ち落してしまったとなれば艦長お一人の首では収まらないでしょう、せめてもう一人将官クラスのお供がなければ」

 自分の狙いを見抜かれた事にきょとんとした顔で応えるドミニクと片目をつぶるマードック、逃げる様にそっぽを向いたドミニクは呆れたように遠くの空で聞こえるエンジン音へと顔を向けた。

「好きにしろ馬鹿もん。だが我が艦隊に害をなすと分かるまでは絶対に発砲するなよ、これは命令だ」


「受け入れ準備整いました、ただ救助用のカッターを降ろすデリックの準備が間に合いません」

「要員にはカッターに乗艇したまま待機と伝えてくれ。着水と同時に同艇は速やかに現場に急行、乗員の救助に務められたし、と」

 混乱もやむなし。しかしこの艦隊独自に設置された新兵器や試作品の全てに ―― それはほとんどと言っていい、ドーチェスターなどは上甲板の七割が白い帆布の下になっている ―― 覆いをかける作業が何とか間に合ったと言う事実にハンターとマクスクランは胸を撫で下ろした。しかしまだ全てが終わった訳ではない、不時着水する機体から要救助者を引きあげるまでこの緊張を持続せねばなるまい。

 事の一部始終を見届けるために艦橋の外出口から後部のテラスへと出たハンターは背後から手渡されたマクスクランの双眼鏡を受け取ると急いで艦隊後部から聞こえて来る音源へと向けた。

「着水地点は? 」

「ドーチェスターとこの艦との中間付近を先方へと打電しました。ですがその場所へと正確に降りれるとは ―― 」

「いや」

 ハンターは双眼鏡から目を離さずにマクスクランの杞憂を否定する。「どうしてなかなか大したものだ、見事にその地点への進入角を取っている。これは中華民国でも腕利きのパイロットに違いない」


「うっひゃあ、すげえ」

 海面への進入を果たす為に徐々に俯角をとったコックピットの正面に現れる光景には目を見張るものがあった。もう日本海軍では恐らく実現不可能な輪形陣、総勢八隻の小じんまりした物ではあるがそれでも噂に名高い「死神艦隊」の全貌を目の当たりにして副長席に座る飛田が思わず感嘆の声を上げる。

「駆逐2、先導艦は重巡。最後尾は軽巡、周りの三艦は掃海艇でしょうか? 真ん中にエセックス級1」偵察員の望月が素早くその瞳を動かして艦隊の構成を必死で読み取る。艦の形式称号は後でもいい、それは基地へと帰還した後でも済むのだがどうせ当てにはなるまい、とその背後から景色へと目を凝らす奥野。技術屋上がりの偉丈夫なその機銃手は全艦に張り渡された擬装の存在からこの艦隊がただならぬ機密を保持している事に気づいている。

「こんなのとこれから喧嘩すンのかと思うと」新宮と遠村がスポンソンから景色を眺めてニヤリと笑う。「なんかゾクゾクしますねえ」

「後方の敵機より通信。進入角よし、当方の受け入れは完了。速やかに着水せよとの事です」

 緊張で少し青ざめた曽我部が長谷川の返事を待たずにキーを叩く、彼の仕事は最後の瞬間まで敵に疑いを持たせずにここまで身元を隠す事だ。何回か敵からの交信を傍受していたがそのことごとくに対して的確な返答を返した彼こそが長谷川をここまで連れて来た立役者かもしれない。

「よし、全員座席に着いてベルトを締めろ。ここからがいよいよ本番だ」

 それまで何も言わなかった長谷川がじっと海面を見ながら指示を下すと全員が待ってましたとばかりにいそいそと持ち場の席へと座った。

 彼らには分かっている、これからがショウの始まりで実はその緞帳にすら手がかかってないのだと言う事を。

「しっかし大尉、どうするんです? まさかこのまンま着水するなんて事は ―― 」

「するさ、そうしないと敵に疑われてあっという間にハチの巣だ。向こうだってそんなにお人よしじゃない ―― 最後尾の軽巡のカバーが少し揺れてるのに気付かないか? 」

 長谷川に促されて飛田は指定された軽巡の後甲板を睨みつける、すると確かに僅かではあるが白い帆布の縁が風でひらひらと動いているのが見て取れた。

「 ―― 先方さんから指示されたのはあの先っすよね? 」

「少しでも妙な素振りを見せれば撃ち落とすぞという意思表示だ、多分艦隊司令からの指示じゃないだろう …… どうやらこの艦隊にはいい人材が揃ってるらしいな。飛田、覚えておけ。戦場ではああいう手合いが一番厄介なんだ、たとえ命令を無視してでも万が一を外さない。そういった連中が多い艦隊ほど潰すのは手こずる」

「でも俺達はあの空母へと着艦、する? 」恐る恐る飛田が尋ねると長谷川はあっけらかんとした表情で笑った。

「もちろんだ、でないと面白みに欠けるだろう? 少し演技と仕掛けは必要だけどな ―― 望月、投下準備」

 飛田の後方にある偵察員の席で緊張した面持ちの彼女は小さく頷いて目の前にある爆撃照準器の投下レバーにそっと手を置く、曽我部の隣で計算尺と燃料計を交互に見比べていた遠村が長谷川に大声を飛ばした。

「無茶は一回こっきりですよ、大尉っ! 」


 エンジンの出力を落とした機体がゆっくりと水面へと近づいてくる、その光景を眺めていたドミニクが小さく口笛を吹いた後帽子の庇へと手を伸ばした。

「水上機でもないのに上手いもんだ、ありゃきっちりと狙った所に降りて来るな」

「どうやら命令違反の砲撃、はなしですか? 」

 胸を撫で下ろしたマードックの声を背中で受けたドミニクはなぜか渋い表情で瞬きもせず、徐々に自分達へと向かって来る機影から目を逸らさないでいる。確かに軍法会議ものの命令違反 ―― 極秘任務に就く自分達にそれが適用されれば、の話だが ―― を犯さずにすむのならそれに越した事はない、だがその判断は自分の中ではまだ早すぎる。この頭の芯に残る微かな違和感が払拭されるまでは、まだ。


 世界でも有数の実効支配地域を持つ中華民国の歴史は古くその起源は有史以前にまでさかのぼり、数多くの国々と国境を接しているが故の小競り合いの繰り返しはもはやこの国にとっての日常とも言えるほどだ。しかしそれほどの難題を凌ぎながら発展を続けてきた彼の国が唯一その護りを棚上げにしたまま先送りにしていた場所があった、それはシナ海に面する東部海岸線の地域である。

 海原という天然の城壁に守られたこの地域が敵に蹂躙されたのは唯一清代に勃発したイギリスとの「アヘン戦争」のよってのみで、しかしそんな事件でさえも国境紛争が頻発する中国においては一地域での出来事と言う風にしか捉えられなかった。ゆえに事態を危惧した一部の官吏が取りまとめた海外の国々の情報も時の王朝には重用される事もなく、ゴシップ紛いの情報誌として民間への流布という形で細々と世間の片隅を渡り歩いていた。

 しかしここでその情報を大変重要視した国がすぐ傍に存在した、それは幕末期を迎えつつあった日本である。対岸で起こった火事が将来のわが国にも起こり得る物だと認識した吉田松陰らを筆頭とする兵学者達は清国よりこの本を取り寄せて海外に潜む脅威を学び、そしていかに排除して国是を守るかという事を論議した。

 今まで外敵を阻止して来た四方を取り囲む大海原がもう既に天然の要害とはなり得ず、しかし襲い来る脅威に関しては打って出る事も出来ない。隣国が持つゴシップ船以下の兵力しかない海軍力では見た事もない装備で固められた敵船に傷一つつける事すら敵わないであろう ―― 皇国日本を守るために自分達が取るべき手段は開戦か、開国か?

 抵抗か、服従か?

 

 枯れ野に火を放つかの如く広まり始めた尊王攘夷思想は討幕へ、そして多くの同胞の流血の後に徳川幕府の大政奉還へと繋がった。復権を果たした天皇家を再び政治の中心へと据えた明治政府は道半ばにして斃れた仲間の遺言を成し遂げるために開国へと道を開いて欧米列強との国力差を埋めるための国策を推し進めた。国内統一・富国強兵という二枚看板はそれまでの日本の地域性すら変革し、例えば当時小さな漁村でしかなかった神戸がこの政策によって見る見るうちに重工業地帯の要となった事からもいかに明治政府が国の威信を賭けて取り組んでいたか窺い知る事が出来よう。

 兵器・造船・軍人教練など多くの物を先進国より取り入れた日本はそれからわずか40年足らずの間に清国と、更に世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊を日本海で撃滅させると言う快挙を成し遂げ、ここに欧米列強と肩を並べた事を証明した。以来日本はアジアで唯一欧米に対抗できる国として世界から一目を置かれる事となる。


 一方日本との戦争に敗れてから欧米列強の分割統治を受け入れた清国は辛亥革命によって滅亡し、代わって樹立された中華民国も国内で発生した軍閥割拠による内戦でその国力を疲弊させて最早自治独立の体はなさなくなりつつあった。加えて日中戦争初期に実施された日本軍の渡洋爆撃によって海軍兵力の殆どを喪失して、残存艦艇は機雷を敷設しながら黄河を遡上して内陸へとひきこもる。

 今や列強を凌ぐ兵力を持つ日本の海洋海軍ブルーウォーター・ネイビー河川海軍ブラウンウォーター・ネイビーと化した彼の国が太刀打ちできる可能性は皆無であり、抗日を支持する勢力は中国の奥地へと立て篭もったまま他の列強諸国の支援を得て現在にいたっていた。


 二国間の現状を短くまとめてみればこういう事になる、とドミニクは機影を睨みながら考えた。そしてそこに彼があの機を信用できない理由の一端がある。

 そんな状況の国にあれだけの腕を持つパイロットがいまだに存在しているとはどうにも信じがたいのだ。着陸と不時着は同じ行為の延長でありながら難易度には天と地の差がある、足を出す事によって得られる安全範囲を全くゼロの状態に持ち込む事はパイロットに多大なプレッシャーを与えるのだ。もし着水の際にほんの少しでも機体を傾けようものなら地面や水面に当たった主翼やプロペラはあっという間に破壊され、バランスを崩した機体はもんどりうって粉々になってしまう。事実自分は空母のすぐ傍で着艦に失敗してその様な結末を辿る戦闘機を数えきれないほど目にして来た ―― 強度に優れた鋼板で固められた我が軍の戦闘機でさえも、そうなる。

 経験に裏打ちされた自信と度胸、そして卓越した技術。それは訓練や教練では絶対に習得できないものであり実戦によって磨かれる、その経験値を積み重ねるほどの戦闘機会を彼の国の海軍や空軍が得ていたという記憶は自分の中には存在しない。多分そんな記録もないだろう。

 ではあの機を操るパイロットはどうやってその機会を得たと言うのか? たとえば傭兵として、例えば特務としてヨーロッパ戦線 ―― いや、それだけの腕を持つ東洋人ならばすぐに誰かの口から話題に上るはず。あのハルトマンやバルクホルンのように。

 もしそうだとしたらあのパイロットは生まれながらにしてその資質を持つ天才 ―― 。


「投下」

 今や最大限に密度を上げた大気に震える機体を涼やかな顔で操りながら長谷川が淡々とその言葉を口にすると、飛田の後ろの偵察手の席に座る望月が手元にある92式2号爆撃照準器改1のレバーをグイッと引いた。同時に彼らの床下からバツン、という奇妙な音とものすごい速さで糸がほどける擦過音が機内へと流れ込んで来た。

 特徴的な96陸攻のシルエットを隠すために取り付けられた偽装はあやとりの糸のように内部で編み上げられた一本の強靭な糸によって練習用の爆弾を懸架する為に取り付けられた投下機に結び付けられ固定されていた。爆弾投下時と同じ様に抱締索が望月の手によって切られると張り巡らされた糸は偽装の重みでするすると解け、あっという間に拙い見てくれの外殻を空中へと解き放つ。


 大きな水飛沫の後に浮かびあがった美しいシルエット、それを見て一瞬で機種を判別できたのは大戦当初から太平洋という修羅場を駆け巡ったドミニクだけだった。大海のど真ん中を航行する我が艦隊にどこからともなく現れては魚雷を放って離脱する、戦闘機並みの機動性能と軽爆撃機並みの爆弾搭載量を誇り前面投影面積が他の機種に比べて極端に小さいために正面から撃ち合ってもなかなか弾が当たらない。防弾設備の重要性を真っ向から否定して日本の制海権獲得に一役買った悪夢のような攻撃機。

96式陸攻(nell)かっ!」

兵装(ペデスタル)動かせっ! 第三砲塔直ちに ―― 」

「もう遅いっ、してやられたかっ! 」

 マードックの命令にドミニクの叫びが重なる、目の前の手すりを両手が白くなるまで握り締めたドミニクがそれでもたった一つの可能性を強く念じる。

「攻撃するには高度が低すぎる、あれじゃ着水するのが精いっぱいだっ! 」そう、お互いに遅すぎる。その高さでは空母に届く前に海面に衝突だ、届く筈がないっ!


「着水と同時に出力上げ、このまま空母に着艦する」

「了解、3、2、1、―― 着水っ。出力上げっ! 」

 飛田が叫ぶと握っていたスロットルレバーを一気に全開位置へと押し上げる、重い偽装を外して軽くなった機体はまるで空を目指す鳥のようにクン、と機首を上げて再びその機体を空へと解き放った。


 自分の予想を覆す凄まじい操縦、そして戦術。ドミニクはこの戦争が始まって初めて敵というものに興味を抱いた。機体を推進するためのプロペラが水に没しさえすればこの話はそこで終わりだった、水圧によってへし折られたブレードが機体を空中へと再び舞い上げる事など不可能で、彼らはこのまま海の上で生殺与奪を我々に握られるだけの存在になり下がるはずだった。

 しかし偽装が海に投下された瞬間の姿勢変化は彼の想像の埒外にあった。機体の重心が上がった事によって生まれる空力の変化は一瞬だけ機首を浮き上がらせ、それが水圧という障害から彼らの命綱を守る結果となる。水面すれすれで再び勢いよく回りだしたプロペラは尾部だけを海面へと置いたその身体を一気に空中へと引っ張り上げる。

 ―― 反跳爆撃。(スキップ・ボミング)

 落した爆弾が水面上を水切り石と同じ要領で反跳して速度を落とす事なく目標へと肉薄する、まさかその原理を着水に応用してまんまと自分の目を欺く輩が敵の中にいようとはっ!

 もう彼らの攻撃を止める術はない、ただこの後に起こるであろう悲劇を。

 痛恨の思いで見守るのみ。


 ジョージ・ワシントンの艦尾に設置されている40ミリ対空砲の銃座に座っていたコーポラル二等水兵は事の次第をつぶさに観察できる位置にいる事を神に呪った。のどかで穏やかだった日常はたった一機のアクロバットによって恐ろしい危機へと変化した、機首を持ち上げたその機体は轟音を響かせながらあっという間に自分の元へと押し寄せる。あんぐりと口を開けた間抜けな面の下で脳裏に浮かぶ決定的な単語 ―― カミカゼが浮かんだ瞬間に彼は機銃の電源へと手を伸ばした。

 ボフォース40ミリを四つ束ねた対空砲はこの艦における標準対空兵装でありその威力は折り紙つきだ、現在運用されている対空兵装の中で最もカミカゼに対して有効であると言うデータも揃っている。動きさえすればまだ何とかなるっ!

 パネルの右側にある赤いボタンを思いっきり押し込むと繋がった動力が座った椅子を微かに震わせ、コーポラルは慌てながらも射撃準備をしようと試みた。しかし次の瞬間彼は途方もない絶望感に覆われてそのまま全身を硬直させた。

「! おいっ! みんなどこ行ったっ!? 」

 自分に同調して敵に狙いをつけていると信じていた隣の対空砲座も。そればかりではない、自分の砲座の要員ですらも。いち早く自分を見捨てて逃げ出した仲間に気づかなかったコーポラルは一人ではどうする事も出来ない対空砲座に鎮座して死の恐怖に押しつぶされた。あっという間にカラカラになった喉から迸る叫びもなく懺悔も祈りも捧げる暇がない、ただスローモーションのように見え始めた飛行機の形をした死を大きな目を見開いて見据える事だけが許される。鼓膜が押しつぶされそうなほど大きなエンジンの音が彼の聴覚を奪い去り、そして最後に残った視覚はゆっくりと動く死の表面的な変化を事細かく目に焼き付ける。

 主翼のフラップが大きく垂れ下がって勢いよく主脚が下ろされたと言う死の形の変化を。


 飛田の目に空母の艦尾が見えたのは一瞬だった。機首を目一杯上げて空を目指しながらフラップと主脚を降ろす ―― 必要以上に仰角をとる事でコアンダ効果による恩恵を手放して揚力を失う、すなわち失速すると言う事。雲一つない青空ががくがくと震える機内でさすがにびっくりした飛田が大きな口を開けると、隣の長谷川は少し笑いながら操縦桿を押し込んで、スロットルに手をかけた。

「ではいよいよ艦隊空母に着艦だ。飛田、いいかげん口を閉じないと舌を噛むぞ」

 長谷川の手がスロットルを一気に閉じると機は後ろへとほんの少し下がって、そして微かにバウンドした。飛田はそれが尾輪の接地した衝撃だと即座に理解した。


                        *                        *                        *


「鳥 ―― ですか? 」

 ハンターの物語を傍で黙って聞いていたクレストが思わず聞きかえす。臨場感あふれる情景描写と思いもよらない展開に彼の想像力は一時的に混乱し、そこへ止めを刺したのがハンターの口から出たその言葉だった。彼はクレストの問いに少年のような笑顔を浮かべて両手を思いっきり広げた。

「まるで大きな鳥が翼を広げて甲板へと降りた様な ―― 私だけではなく艦長のマクスクランも、そしてそれを見た誰もがそう思いました。私達が誰一人として見た事がなく、そして私達が創る飛行機では絶対に出来ない凄まじい操縦を彼 ―― 長谷川大尉は私達に披露してくれたのです」

「しかしそれにしても戦争の道具に鳥という表現は ―― 」

「羽ばたいたのですよ、その飛行機は」 ハンターは広げた両手を大きく動かした。


                        *                        *                        *  


 推力を失った長谷川の機体は接地した尾翼を支点としてストンと機首を落とす。高さ3メートルの位置からその重量が落ちてくればそんな頼りない主脚など何の役にも立つまい、と甲板員の誰もがみじめな主役の末路を脳裏に思い浮かべた瞬間にそれは起こった。慣性と風圧で大きくたわんでいた長大な主翼がまるで鳥の翼のように大きく一つ羽ばたいて落下速度を軽減させ、そして下向きに撃ちだされた風の反作用によって機体は接地寸前にふわりと止まる。一瞬の空白を置いて甲板へと降り立った主脚のダンパーは目一杯押し縮められた後に再び元の長さを取り戻した。

 ぱる、ぱると特徴的な音をたなびかせて長谷川機のプロペラが止まる。異様な静けさを打ち破る様にただ一つ、ドーチェスターから発せられた敵空襲を知らせるサイレンだけが広い海原へと鳴り響いていた。

 さすがの歴戦の猛者達も今度ばかりは肝をつぶしたとばかりに自分の座席に腰を落ち着けたまま呆然として、動くものが何もない機内でただ一人長谷川だけがブレーキを操作して機体がこれ以上後ろへと下がるのを防ぐと何事もなかったかのようにすっと立ち上がった。

「さあ家庭訪問だ。これから全員で死神艦隊の姿をしっかり見極めようじゃないか」

 不敵に微笑みながら隣で固まったままの飛田の時間を動かす様に彼の右手が肩に置かれた。

「勝つ為の情報はなるべく多い方が、いい」


                        *                        *                        *


「ジョージ・ワシントンの乗組員だけではなくドーチェスターの一部以外の全ての者が、それでもその機体が日本軍の物だとは思っていなかったのですよ」それは彼の人生の中でも最も微笑ましい思い出の一つなのだろう、視線を宙に泳がせて楽しそうに笑ったままのハンターの表情を見たフレイは素直にそう思った。

「それはこの艦に起こった奇跡なのだと。着水しようとしてしくじったパイロットが慌てて出力を上げて上昇しようとした先に私の船の甲板があって、そして失速した瞬間にちょうど甲板の端に接地する事ができた ―― 失速を回避するために閉じた出力が機体をそのまま降下させて、そしてたまたま上向きに反っていた羽の寄り戻しが下向きに風を吹き下ろして落下速度を軽減させて機体の重篤な損傷を防いだ」

「そんなご都合主義な ―― 」

「目撃証言に基づいてこの事を解析したオペレーションズ・リサーチの連中はそういう結論に達しました、もっともこの事実を報告した後の事ではありますが。私はその時何度もこれが一日本人パイロットの持つ技量によるものだと進言したのですがその主張は認められなかった ―― 今でも思います、もしその時私の主張が認められていたとしたらその後の運命が私の望む望まないに関わらず大きく変わっていたのではないのか、とね」

 呆れて声を上げたフレイにハンターはそう告げて彼女のグラスに新たな氷を継ぎ足した。カランカラン、という乾いた音が窓から忍び込んでくる夏の風をほんの少し穏やかにする、サングリアを注いだ彼はピッチャーを持ったままクレストにもお代わりを勧めた。

「合衆国が持つ二元性のロジック ―― 白か黒か、AかBかという考え方は確かに分かりやすい。元々が多民族で構成されている我が国を同じ目的へと誘う為には複雑な要素を排してシンプルにしたほうがスムーズにいく、それは確かにそうなのですが同時に人の持つ不確定な要素を排除する傾向もあります。ゆえに自分達が考えも及ばない出来事に対して「神の力」を ―― 奇跡という言葉で飾り立ててしまう」

「しかし奇跡は現実に起こります、私達自身の英知が及ばない物事に関してその言葉を使う事はごく自然な成り行きだと思うのですが? 」

「その考え方に反論する気はありませんが私の考え方はあの戦いを経て大きく変わりました。奇跡とは起きるものではない」クレストのグラスに注がれたサングリアがまた鮮やかな色を放って部屋の片隅を染め上げる、ハンターはフレイの問い掛けにピッチャーを静かに置くとこう言った。

「人が、起こすものなのです」


                        *                        *                        *


 事の一部始終を艦橋裏のベランダから身も凍る思いで見つめていたハンターは奇跡的に甲板へと降り立った大きな機体を確認すると、解けた緊張と共に体の力が抜けてへなへなとへたり込むマクスクランの隣で手摺を握り締めて大きな安堵の溜息を漏らした。着艦時に起こる飛行機事故のそのほとんどが大きな代償を伴い、特に乗組員や艦体への被害は驚くほど甚大だ。味方であるという信頼と油断が事故に対する警戒心を薄めてその結果、カミカゼほど頻繁ではないにせよ作戦の継続が不可能になった空母の数は両の手に余るほどなのだ。どういう風の吹き回しか神様の気まぐれか、あの状況からの円満解決という結果は僥倖などと言う簡単な言葉だけでは言い表せない。ハンターは小さく目の前で十字を切ると今この場に舞い降りてくれた戦争の守護天使に向かって感謝の言葉とほんの少しの祈りをささげた。

「いやしかしなんとも運がいい。この場合はお互いに、と言う意味ですが」マクスクランはそう言うと手摺を掴んでなえた腰をよっこらしょと持ち上げた。

「あの機に乗っている連中もさぞやたまげた事でしょうね。あんな大きな爆撃機が空母に着艦できたなんて前代未聞だ、まだPBJ(B-25の海兵隊仕様機、着艦フックを標準装備)の試験も終わってないっていうのに」

「もう一度やれといわれてもたぶんできんよ。たとえ着艦フックを装備していたとしてもはたしてこんな狭い場所へと降りようなどとは考えないだろう、海へ降りたほうがもっと快適ではるかに命の危険が少ない」

 そんな奇跡の恩恵にあやかろうというのかその姿を一目見ようと集まった乗組員がその機体を包囲するように集まりつつある、やがてその輪の中からひと際体格の大きな男 ―― おそらく弾薬を主に扱う整備の者だろう ―― が一歩抜け出してその機体へと歩み寄るさまをハンターは興味深く眺めていた。


 いかにも腕っ節の強そうなその大男は満面ににやけた笑顔を張り付けて長谷川の機体へとゆっくりと歩み寄り、その背後から事の成り行きを遠巻きに見つめる他の乗組員たちがいる。どうやら彼は今しがた肝を冷やされたお礼に言いがかりの一つも付けてからかってやろうとでも言うのだろう、あとほんの数歩で機体に辿り着く距離まで近寄ったところで突然機体の下が開いてするりと人影が躍り出た。

 身軽に甲板へと足を降ろしたその男の上背は自分達とそう大差がなく、明らかに人種が異なるその顔には生気を湛えた瞳と共に頬笑みが浮かんでいる。あれだけの事があった直後でも微塵の動揺も見せず、真っ白な正装と帽子をきちんと着こなして姿を現したその男の豪胆さに彼らは驚きと敬意を口にした。

『よう中国人(チーノ)、ずいぶんと派手なお出ましじゃねえか』

 賞賛の渦を代表するかのように白い人影のもとへと歩み寄った大男が南部なまりの早口でまくしたてて丸太のような右腕を差し出すと、その東洋人はにこりと笑って何のためらいもなく握りしめた。あまりの屈託のなさに内心驚いた大男だったがそこは仲間の手前怖気づくわけにもいかない、心の動揺を上書きするように歯をむき出して威嚇する。

『うぬぼれてンじゃねえぞ。てめえが今ここに立ってンのは腕や実力なンかじゃねえ、俺たちががたまたま見逃してやったからだ。てめえは見た事ァねえだろうがもし日本(ジャップ)と間違ってたら今頃この艦隊のありったけの弾でてめえの乗った機体は粉々にされてたンだ。まあせいぜい俺たちのお情けをありがたく頂戴してこそこそ自分の国へと逃げ帰るんだな、負け犬にゃあそんなのが一番お似合いってモンだ』

 捨て台詞を並べて周囲を煽るその言葉は取り囲む乗組員の一部の心情を代弁したものだ。その証拠に輪の片隅で起こった同調の歓声が徐々に周囲へと伝播し始めて悪意の輪が広がり始める、誰もが勝者だと認めざるを得ない蔑み顔の大男は非難の矢面に立たされた目の前の男の怯えた表情をあざ笑おうとその表情を窺うが果たしてそこにあったものは大男が望んだ類の顔色ではなかった。さっきと同じ笑顔を湛えたままの東洋人はそこで初めて穏やかな口調で目の前の出迎え人へと声をかけた。

『そうですか、では私たちはとても運が良かったのですね』

 その英語の発音があまりに鮮やかすぎたためにその言葉を耳にした誰もが何の違和感も覚えなかった。一気にたたみこんでやろうと身構えていた目の前の大男でさえも肩すかしを食わされたようにぽかんと口をあけて動きを止める、周囲の喧騒が収まり静かになったところで長谷川は握手をしたままこちらを眺めている大男に向かって言った。

『作戦行動中の多忙な時にお騒がせをして誠に申し訳ない。自分は大日本帝国海軍大尉、長谷川正美と申します。ご足労をおかけしますが是非とも艦隊司令にお目通りを願いたい』


 コロシアムの観客席のように十重二十重に取り囲んだ人の輪が瞬時に瓦解するさまにハンターとマクスクランは驚いて目を見張った。輪の中心に立っている制服の男がまるで化け物であるかのようにそこから遠ざかろうとする屈強な整備兵たち ―― 出迎えの矢面に立ったあの大きな整備兵ですらも一目散に輪の中へと逃げ込んでいる。

「おいっ! 何があったのか誰か状況を確認して来いっ! 」

 開け放たれたままの艦橋へと通じるハッチに向かって大声で指示を出すマクスクランの隣でハンターは事件の中心にたたずむ白い人影へと視線と意識を集中させていた。事の発端は間違いなくこの男が起点となっている、それはわかる。だが窮鼠の矢面に立っていくつかの修羅場を無傷でくぐりぬけてきた兵士たちをいともたやすく逃げ腰にさせるほどの力とは一体いかなるものなのか? 武器を振るうどころか手にも持たずに怯えさせる事など本当に可能な ―― 

「ほ、報告しますっ! 」

 考えを巡らせていたハンターの背後へと飛び込んできた水兵の敬礼は乱れに乱れ、手はその大声さながらに震えていた。相対するマクスクランの肩越しに振り向いたハンターはその報告を耳にして自分の考えの浅薄さと衝撃に大きく目を見開いた。

「に、日本兵ですっ! あの男は自らを日本海軍士官だと名乗って大佐殿との面会を求めていますっ! 」


 見物のために出来上がっていた人だかりがその一瞬で包囲の輪へと変化し、しかしその一角をこじ開けてMPが到着するのに一分もかからなかった。M1カービンを携えておっとり刀で駆けつける海兵の姿を微笑みを浮かべて出迎える長谷川の姿は、周りを取り囲んだ乗組員には一種の自殺志願者のように映っただろう。奇跡の体現者を称える歓声や一部の差別主義者による悪態は軍律を守るために置かれた兵士たちの出現によって憤怒と罵倒のシュプレヒコールへと取って代わった。

『動くなっ! 両手を速やかに頭の上へと ―― 』

 隊を指揮するカインズ准尉は自分の指示よりも早く両腕を掲げている長谷川に戸惑いを隠せなかった。極東の小さな島国で我が大国と鎬を削る劣等人種が母国語を理解しているのもそうだが何よりも不敵にも見えるその笑顔のどこにも恐怖の色が浮かばない、これだけの人数の敵と突きつけられた銃口を目の前にしても、だ。

『お前は我が艦隊の司令官に面会がしたいと申し出た ―― 目的は何だ、亡命か? 』

 まずカインズの頭に浮かんだ可能性。撃墜されるのを覚悟の上で敵国へと身柄を預ける ―― その理由を単純明快に説明できる動機が唯一それだった、というかそれ以外の理由づけが全く思い当たらないというのが彼の本音だ。

『速やかに質問に答えろ、どうなんだっ! お前の目的は ―― 』

『あわてんじゃねえよ、そこのアメリカ人』

 長谷川の背後から飛び出したその言葉に一番驚いたのは長谷川自身だったのだろう、笑顔が驚きの表情に変って肩越しに後ろを見やる彼の眼に機体から降り立った新宮の姿が映った。不敵な笑みを浮かべた彼はそのまますたすたとカインズの前へと歩み寄ると、指の間に挟んでいた何枚かの紙切れを差し出した。

『うちの隊長はこう見えてもそそっかしくてね。初対面の相手に手土産もなしでご挨拶なんて本当にどうかしてる ―― とはいえこちらもおたくらとの戦争でこれといった目ぼしいものもない。今日のところはこれで勘弁してくれ ―― 』

「あーっ!新宮っ、そいつは俺のお宝じゃねえかっ! 手前ェいつの間に銃座から持ち出しやがったっ!? 」

 巨体をよじるようにして機外へと飛び降りてきた奥野が血相を変えて駆け寄ってきた時には既にその写真は相手に手渡されていた。返せという渾身の抗議は突きつけられたいくつもの銃口によって封殺され、長谷川の後ろで両手を上げた被害者は理不尽という単語を大きく顔に張り付けて加害者と、自分のお宝を搾取した憎っき敵を睨みつける。

『手土産だと? こんな紙切れが今の貴様らの立場を担保するなどと ―― 』

 そういうとカインズは手元の紙切れへと視線を落として思わず絶句した。あまりにも予想外の代物に彼の手は震え、瞳孔は拡大して釘づけになる。いや戦地へと赴く男たちならばだれでもそうならざるを得ない、特に船乗りにはめったにお目にかかれない、物。

 男女の睦事を局部に至るまで包み隠さず写した白黒の写真が三枚。

『男だったら誰でも好きだろ? そういうの。みんなでせいぜい大事に扱ってくれよ、日本でもそうそうめったにお目にかかれないものだからな』

 悪い笑顔を浮かべながら後ろへ下がって奥野の隣で両手を上げる新宮を射殺さんばかりの形相で見下ろす奥野、そしてその二人の両脇を固めるように長谷川一家の全員が両手を上げて整列した。一番小柄な望月は唇の紅を落とすのに手間取って一番端に並ばざるを得なくなり、その顔形と体格の幼さから取り囲んだ兵士たちの注目を一身に浴びてひどく不機嫌な顔でそっぽを向いている。

 カインズは手にした奥野のお宝を胸ポケットへとしまってから改めてそこに居並ぶ七人を見渡した。背格好も体格もどうしようもなく不ぞろいで顔かたちは明らかに自分たちとは違いすぎる、しかし彼が最も驚いたことはそこに居並ぶ全員が自分たちを全然恐れてないということだった。敵に捕らわれて ―― いやそもそも捕らわれたという意識があるかどうかも怪しい ―― いるにもかかわらずその眼には一切の怯えがない、ある者は笑顔、ある者は不機嫌そうな表情で …… 唯一自分のイメージに近い表情をしているのは頭を丸めた幼い顔立ちをした小柄な男だがそれも近いというだけで、厳密にいえば魂が抜けたような表情だ。どちらかというと自分たちがカミカゼの攻撃をしのぎ切った後のような顔をしている。

『では貴様たちの目的が亡命ではないと仮定しよう …… ならばなぜここに来た? あからさまに命の危険を冒して? 』

『敵の正体を拝みに来た ―― 君たちの目的はそういうことか 』

 カインズの背後で聞きなれた穏やかな声がしたかと思うと包囲網の一角があっという間に左右に分かれた。カインズは振り返る前に何と、と思う ―― 敵の目的がまだ明らかになってもいないのにそのお目当てたる貴方がわざわざ出張ってくるなど何と迂闊な。

『大 ―― 』

『准尉、任務ご苦労。君たちはそのままここで待機して搭乗員を見張っていてくれ。整備班は彼らの機体を念入りにチェックして爆発物その他の危険な要素を全部調べ上げろ、何か見つかったら機体はそのまま海中へと投棄してもかまわん 』

 ハンターの前を歩いていたマクスクランがカインズへと指示を出すと彼は二三度口を開いて声にならない意見を具申した後に何かをあきらめた表情で素早く敬礼をした。労いの表情で任務に忠実な男の英断を称えるように一つうなずいたマクスクランはそのまま背後へと目くばせする、包囲の中に大きく開いた道の真ん中でハンターはじっと目の前で両手を上げたままの痩身の日本人を見つめていた。


 青い瞳の中に宿る強い意思と生気。長谷川は今目の前に対峙しているこの男が自分の最も会いたかった人物であり、そして自分が予想した通りの人物像であることを密かに悟った。数多の障害を乗り越えて自分の元へとたどり着いた者に対して、人種や立場の違いを超えて人として認めるその心根、そして尊大でもなければ卑屈でもない悠然とした佇まい。味方が持つ「死神艦隊」の司令官 ―― 極悪非道、冷酷無比というイメージとはかけ離れてはいるがそれこそが長谷川の思い描いた「彼」であった。

 心に疾しい所があればおそらくここまで完璧に任務を遂行することなどできはしない、戦とは相手の心に生ずる邪な間隙を突いて勝機を探る事だと長谷川は信じているからだ。彼自身そうやって何度も何度も敵艦の横っ腹に致命の魚雷を叩き込んでいるのだから。

 挑みかかるような真剣な表情でハンターは右手をまっすぐ額に掲げてさっと前へと振り下ろす、アメリカ海軍式の敬礼を受けた後に長谷川は同じく右手を額に当ててにこりと笑った。

『艦隊司令とお見受けいたします。自分は大日本帝国海軍所属、長谷川正美大尉であります。作戦行動中の艦隊へと突然に訪問しました事、隊員全員になり替わりまして平に陳謝いたします』


 ハンターの背筋に冷たい物が奔った。

 涼しげな顔でこの男は今何といった?

 遭難機の救援のためにごく普通の艦隊 ―― 機密保持のためにあれこれ手を尽くしてはいたが ―― を演じていた我々に対して「作戦行動中」であることを看破したこの日本人の啓眼にハンターは内心落着きを失った。それを知っているという事はすなわちこの艦隊の性格がどういうものかをあらかじめ知っているという事。自分の仲間がすべて私たちの手で葬られたことを知ってもなお、怒りや憎しみをおくびにも出さずに笑いながら向かい合える神経の持ち主であるという事実。

『いや、こちらのほうこそ貴官のご配慮に対して感謝する。して君たちの目的は先ほど私の隣に立つ彼 ―― この艦の艦長であるマクスクラン中佐が洞察した通りで間違いはないのかね? 』

 笑顔の裏に隠れている底知れぬ気配の正体を探ろうとハンターは目を細めて自分と同じくらいの背丈の日本人をじっと見つめた。自分の勝手な思い込みであってくれ、と小さな仕草の一つたりとも見逃すまいと長谷川の挙動へと注意を払うハンターだったがその試みは徒労に終わった。笑顔どころか眉ひとつ動かすことなく彼は掲げた右手だけをスッと下げて、吸い込まれそうな黒い瞳をハンターへと注いだ。

『半分は中佐殿の推察の通りであります。近頃我が国の近海で友軍機がまるで神隠しに遭ったかの如く忽然と姿を消す事件が頻発しておりまして、その真相を探るべく軍の一部が様々な諜報活動を行った末にある艦隊の噂へとたどり着きました。自分はその噂の真偽を確かめるべくここへと赴いた次第であります』

『そして貴官の読み通りにその艦隊は実体をもってそこに存在したと …… ではもう半分とは何だね? 』

 彼の目的が強行偵察だと言うのならその任務は完全に失敗だ、なぜならせっかくここまで辿り着いても味方の元へと帰ることができない ―― いや帰す訳にはいかないからだ。しかし本来ならば任務の失敗に落胆も失望もしなければならないはずの立場にある彼がなぜここまで飄々としていられるのか、その理由が「あと半分」の目的に存在しているのだとハンターは直感した。

『自分はこの戦争で多くの船を沈めました』


                           

 自身を「撃墜王(エース)」と名乗る人種はもっと自信満々で生命力に溢れた物腰をしている、少なくとも自分の知る限りではそうだとハンターは思う。しかし今目の前で彼らと同じセリフを口にする日本人はそれらの者とは全く対極に位置している ―― いや正反対だからこそ同じ範疇に収まるのか。

『ですが今まで自分の沈めた船の艦種はわかってもそこで命のやり取りをした相手の名前を知ることはできなかった …… せめて最後くらいはその望みを叶えてみたい、と思いまして』

『最後? 』

 訝しい表情で尋ねるハンターに長谷川はにっこりと笑って小さくうなずく。『今日より二週間後以降の夜に私の部隊はあなた方と一戦交えるつもりです、おそらくそれが私自身の最後の戦いになるでしょう』

『では君は …… わざわざそれを言うために。敵に挑戦状を叩きつけるためにここまでやって来たと言うのか? 自分たちが少しでも有利になる為の条件を棒に振ってまで? 』

『これが自分にとってのこの戦争で貫き通した正義です、それにだまし討ちは趣味ではありませんし』

 信じられない発言の連続で呆気にとられたハンターの前で長谷川は恥ずかしそうに笑って右手を差し出した。

『さあ、私は名乗りました。最後に自分が命のやり取りをする閣下のお名前を是非』


 事の成り行きを固唾を呑んで見守る人垣はまるで彫像の群れのように動かない、舷側を叩く波の音だけが木霊する広い世界の中でその中心に立つ二人だけが生きている事を主張するように唇と体を動かしている。

『 …… ハンター、ジェフリー・ハンター大佐だ。長谷川大尉』

 そういうとハンターは静かに長谷川の右手をしっかりと握りしめた。

『ようこそ「ファランクス・フォース」へ。我々は君たちの来訪を心から歓迎する』

 体の奥底からこみあげてくる愉快な感情を抑えきれずにハンターは満面の笑みを浮かべ、しかし長谷川は何かに少し驚いた表情を浮かべてその右手に力を込めた。

 

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