長谷川大尉
「さすがに暑いな」
すっかりあちこちにガタの来たチェロキーのハンドルを握り締めたクレストは目の前に広がる青い空へと呟いた。7月のユタ州はそれなりに気温が高いと言う予備知識は得ていたものの、山脈を越えた途端に加速度的に上がる車外の温度は何も変化の無い景色と相まって彼の気分を憂鬱にさせる。幹線道路だと言うのにたまにしかすれ違わない巨大なトラックはまるで逃げる様に猛スピードで駆け抜けて、その勢いで何度も道の外へと弾き飛ばされそうになる始末だ。フィルモアからセントジョージへと続く国道十五号がまさかこれほど緊張と退屈に満ち溢れた危険な道だとは思いもよらなかった。
「ねえ、あとどのくらい? 」
いかにも退屈し切ったと言わんばかりの口調で助手席のフレイが呟く。超長距離のドライブで一番疲れるのは意外にも運転手より同乗者のほうだ、人数が多ければまだ退屈しのぎの他愛もないおしゃべりで時間を潰す事も出来るが運転手と二人だけだとそうもいかない。寝るか、食べるか、音楽を口ずさむか ―― しかしそれにも飽きるともうする事がない。運転を代わる事も出来ない彼女にはただひたすら退屈な時間が終わる事をじっと待ち続けるしかないのだ。
「もうすぐフィルモアに着くからあと二時間というところか。そしたら今回の企画も無事終了って訳だ」
「二時間かあ、シーダーシティって遠いなあ。 …… でもほんとにそんな所に『あの話』を知ってる人が住んでるの? 」
いかにも眉唾ものだと彼女が尋ねて来る、そして彼女の疑念はいた仕方ない事だとクレストは思う。編成部長からこの企画を持ちだされて約一年もの間彼らはアメリカ中を駆けずり回って情報の収集に勤しんで来た、切れかけた一本の絹糸を注意深く手繰り寄せる様に集めた手掛かりの最後の端がユタ州に住む一人の老人であると言う事が分かったのは三月の初めである。手紙以外一切の連絡を受け付けない彼に何度も何度も取材の許可を打診してやっとの事で色よい返事 ―― 文面の端々に彼が乗り気でない事は垣間見えた ―― を貰えたのが四日前、すぐに支度をしてワシントン郊外の自宅を飛び出してやっとここまで辿り着いたのだ。
「行ってみなきゃ俺にだって分からないさ。でもこの前取材した人を憶えてるだろ、スミソニアン博物館の学芸員。彼が言うにはあの話の関係者はもうその老人しか残ってないって言ってたんだ。確かにあの戦争から70年近くも経ってるし、そうやってだんだん戦争の記憶ってみんなの中から消えていくんだろうな」
「でもさぁ、その話ってアメリカ側にも日本側にも記録に残ってない話なんでしょ? そんなのほっくりかえしてほんとに大丈夫なの? 」
心配している口調じゃないな、とクレストは思う。この旅を通じて最初は眉唾物だった仮想戦記が実は軍によって秘匿された真実だったという確証は掴んでいる、だがその全体像を隅から隅まで話してくれた証人はただの一人もいなかった。「たられば」「らしい」の繰り返しで綴られた物語の顛末がどういう物になるのか、NBCのアンカーとして人気急上昇中のフレイとすれば興味深々な事だろう。
「それを決めるのは俺達じゃなくて編成部の仕事さ。真実を国防総省に突き付けて情報の開示を迫るか、はたまた一喝されてお蔵入りになるか …… 俺はカメラマンだから今まで使った膨大なビデオテープが無駄になるのはちょっと悔しい気がするけど」
「そりゃあたしだってあなたと同じよ、一年間もこれ一本に絞って取材を続けてきたんだから。女が何もせずに一つ歳を取るってそれはもう由々しき問題なのよ」
すらりと伸びた長い足がよっこらしょと助手席のコンソールへと乗せられる、ホットパンツから覗く肌の白さが煽情的だ。彼女が見せるしどけない姿を横目で眺めながらクレストは苦笑した。
「じゃあこの取材が終わったら好きなようにするといいさ。どちらにしても鬼が出るか蛇が出るか、最後まで見届けてみたいって言うのが俺の本音さ」
「奇遇ね、あたしも今同じ事考えてた。一年も一緒にいるとそう言う所まで似る様になるのかしら? 」
「勘弁してくれ。俺はバツイチのしがない雇われカメラマン、君と釣り合う様な素性の人間じゃない」
フレイの誘いをさらりと躱したクレストはゆっくりとハンドルを廻して道路端にポツンと建てられたドライブインへとチェロキーを乗りいれた。フレイはいつもの事だと腕組みをしたまま、鼻を小さく鳴らして溜息を吐いたかと思うと気を取り直した様に小さく笑った。
「まだ約束の時間までには間がある、長くなると厄介だからここで食事を済ませておこう。 ―― 何がいい? 」
「あなたと同じものでいい ―― ちょっと待って」
気だるそうにそう言ったフレイがはたとある事に気がついて慌てた表情を見せた。クレストは何事だとじっと彼女の表情へと目を向ける。
「 …… ちなみに聞くけど、何を注文するつもりかナ? 」
「そりゃユタ州名物、ユタスコーンにパストラミバーガーに決まってるじゃないか。ちなみにコーラのLは譲れない」
「 ―― やっぱ訂正、あたしはどこにでもあるチーズバーガーとアイスコーヒーで十分。そんなのばっかり食べてるとそのうち中年太りで苦しむ事になるわよ? 」
いつものように笑い飛ばして車から降りようとドアの取っ手に手をかけたクレストが、そんな彼女の顔を見て思わず笑顔を引っ込めた。フレイはいつにも増して真剣な表情で彼の目を覗きこんで嗜めようとしている、クレストは彼女の目を避ける様に顔をそむけてハッと溜息を一つ吐いた。
「 …… そうか、そうだな。今日はどういう訳か君の意見を聞く気になった、俺も君と同じ物にしよう」
クレストの前でぱあっと明るくなるフレイの表情、二十代後半の彼女が一瞬だけ見せる少女の様なその笑顔に彼はいつも引き込まれそうになる。
そしてその度に猛烈な罪悪感と無力感に苛まれ、いつも思い知らされるのだ。自分が彼女を幸せにする勇気も自身も持ち合わせていないと言う事を。
その建物は人の手が加わっていない雑木林の奥にひっそりと佇んでいた。二重天井とまではいかないが生い茂った木々の葉が重なり合って強い日差しを遮っている林の中の一本道は意外に快適だ、クレストとフレイは木々の間を吹き渡る涼しい風に髪を揺らしながらゆっくりと玄関のポーチへと足を向けた。
「ここで …… 間違いないのかな? 」
フレイは門扉を背にしてカメラを構えるクレストに尋ねる。ロケーション的に林の中から歩いてきた彼女が突然一軒の家を発見するシナリオが絵的に映えると言うクレストの判断だ。彼はカメラを肩から下ろすとポケットの中から一枚の紙切れを取り出してじっと覗きこんだ後、すぐ後ろにある郵便受けに書かれているすっかり擦り切れた文字を目で追った。
「間違いない、この住所だ。 ―― じゃ、フレイ。もう少し遠くから歩いて来る所から始め ―― 」
「どちら様ですかな」
背後から掛けられたしっかりした声に驚く二人、慌てて振り向いた彼らの目に一人の矍鑠とした老人の姿が飛び込んで来た。彼はきちんと手入れされた庭の真ん中でピンと背筋を伸ばし年齢を感じさせない眼光と表情を携えて笑っている、驚きのあまり声を失ったままのフレイに代わってクレストが慌てて頭を下げた。
「許可も得ずにご自宅の前での撮影、申し訳ありません。ジェフリー・ハンマー元海軍准将でいらっしゃいますか? 」
「そうです。あなた方はNBCの方たちですか? 」
そのきちんとした立ち振る舞いにクレストとフライは内心驚いた。今まで取材した退役軍人はどちらかというとどこか居丈高で、インタビューを試みる自分達の事を「戦争のなんたるかも分からぬひよっ子が」といわんばかりの傲慢な態度や物言いで蔑ろにされた。今回の取材に二人がどちらかというと乗り気でなかったのも今までの経験から、また我慢しなければならないのかという倦厭気分による所が大きい。
しかし二人の前に立つその退役軍人にはそういう所が全くなかった。元准将という将官の肩書を持ちながら常識的な態度で、しかも穏やかな人柄を表すかのような温かい笑顔で出迎えてくれた証人など今まで誰もいない。だが皺一つない白のポロシャツときちんと折り目のついたスラックスを穿いているという出で立ちは、彼が相応に礼儀を重んじる人間であると言う事を言外に教えていた。
「自己紹介が遅れました。私が閣下にお手紙を出しましたハワード・クレストと申します、この女性は ―― 」
「NBCのアンカーを務めておりますシャルロット・フレイです。本日はお招きに与りまして誠に光栄に存じます」
さすがに名だたる放送局でアンカーを務める女性だ、とクレストはフレイの立ち直りの速さに舌を巻いた。クレストが挨拶を交している間に彼女はパニックから立ち直り、老人にも負けない穏やかな笑顔でゆっくりと歩み寄って右手を差し出した。その態度に老人はほう、と感嘆の声を上げると流れる様な動作で彼女の手を握り締める。
「恰好は今時の女の子の様ですがなかなかに肝が据わっていらっしゃる。画面でお顔を拝見するのとはやはり一風違いますな」
「ご存じなんですか? 」
「こんな所に居は構えておりますが世捨て人という訳ではない、NBCの『トワイライト・スクープ』は毎日欠かさず見ておりますから。ここの所露出が少ないとは思っておりましたが、まさかこの話の為に取材を続けておったとは。いやはや不徳の致す所」
まるで遠い所から尋ねて来た孫娘を見守る様に笑う老人は少し恥ずかしそうにそう言うとフレイの手を解いてすっと身体を開いた。二人の前に開かれた玄関までの一本道にはテラコッタのモザイクが敷き詰められ、しかも僅かに濡れている。自分達が到着する時間を見計らってこの老人が暑気払いの水撒きをしていた、そしてその為に彼の存在を二人が知る事が出来なかったという事がクレストには理解できた。
「さあ、こんな暑い所で立ち話というのも何ですからどうぞ中へとお入りください。男の一人住まいですので何かと行き届かない事もありますが、冷たい飲み物ぐらいは用意してあります」
薄くなった白髪を片手で撫でつけながら老人はそう言うと二人をもう片方の手で促した。クレストはその様を慌ててカメラに収めながら内心は彼のその態度に一種の違和感を感じている、今までの取材を通じて断片的にしか出て来なかった情報を必死で繋ぎ合わせて創り上げた『この話』はそんなに簡単に他人に話せる物なのだろうか? そんな筈はない。少なくとも軍関係者の間では最重要機密事項として自分達が調べるまでの70年もの間、誰にも知られる事なく隠蔽されたアメリカ軍の『汚点』である事に間違いはないのだから。
共に遠ざかっていくフレイと老人の背中をカメラのフレーム越しに眺めながらクレストは何か得体の知れない物への恐怖を覚えた。しかしもう後戻りはできないのだと自分に言い聞かせて彼はカメラのスイッチを切り、急いで二人の後を追って小さな一軒家の白いドアを目指して歩き始めた。
「お二方とも不思議に思っているのではないですかな、この話を私がいとも容易く喋ろうとしている事について」
キン、と冷えたサングリアが外から差し込む日差しを受けて鮮やかなルビー色に輝いている。エアコンなどなくても窓を開け放つだけで涼しい風が吹き抜ける応接間は開放感がある、温度差で水滴の付いたガラスのデキャンタへと視線を動かしたハンターは無言で同意の意思を示す二人に向かって穏やかに笑った。
「私もそう長くはないのです。実は半年前にガンを宣告されましてな、歳が歳ですから病で逝くのか寿命で逝くのか微妙な所ではありますがどちらにしても時間がそう沢山ある訳でもない。あれこれ悩んではいたのですがそんな矢先にハワードさんからお手紙を頂きましてな」
「クレストで結構です、閣下」
「ならば私もハンマーで結構。第一部下には階級や尊称で呼ばせた事は皆無ですので」
にっこりと笑ったハンマーはマイクの向こうでじっとその表情を追いかけているフレイに小さく頷いた。
「クレストさんからお手紙を頂いて『あの話』について聞きたいと言う内容を読んだ時に私は天啓を感じたのです。ああ、やはりあの話は誰かに語り継いでくれと長谷川大尉が自分に言っているのだな、と」
「『長谷川大尉』? 」
難しい発音の日本語をさらりと言ってのける所にフレイはハンターの『長谷川大尉』に対する尊敬と畏敬の念を感じた。驚いた表情で尋ねるフレイに向かって彼は静かに頷くと、そっと顔を窓の外へと向けて吹き込む風に目を細めた。
「 ―― 彼との出会いが私の人生の中で最大の屈辱であり、それと同時に最高の誇りでもありました」




