25、愛する夫を殺して生きるか、このまま死ぬか。
公爵家の応接室。
いつもと同じはずなのに、空気だけが違っていた。胸の奥がざわつき、初めて来た場所かのように落ち着かない。
目の前に得体の知れない男――ルシアン殿下がいるからだ。
「いいね、その表情。僕を警戒してるって顔に書いてある。"君は、もう少し疑うことを覚えた方がいい"って僕、言ったよね」
「殿下は……何をしたいのですか」
「もう“ルシアン様”とは呼ばないの?」
「精霊祭の間だけ、というお話でしたので」
「ふふ、そうだね。約束だもんね」
口調は穏やかなのに、言葉のひとつひとつが冷たい針みたいに肌に刺さる。
この男は、私の内側の震えを楽しんでいる。
ルシアン殿下はふと、応接室のドアへ視線を滑らせた。
ほんの一瞬。けれど、その一瞬に妙な温度があった。
(……今、外で足音がした気がする。気のせい?)
殿下は再び穏やかな声で口を開く。
「ごめん、ごめん。夫人が気になってるのは――“呪い”のことだよね?」
殿下の声は、さっきより少しだけ大きかった。
「……解いてください」
「うーん、それは難しいなぁ。でもいいのかな? あんまり悠長にしていると、呪いは君の中で静かに広がっていく。ねえ、もう始まっている気がしない?」
胸の奥がひゅ、と縮んだ。
殿下は楽しげに微笑む。
「できるわけ、ないじゃないですか……」
「じゃあ死を受け入れたってこと?」
「それも嫌です」
「わがままだなぁ。選ぶだけだよ? 愛する夫を殺して生きるか、このまま死ぬか。どっちかしかないんだ」
にっこりと微笑むルシアン殿下に寒気が止まらない。
なぜ、こんな笑顔で恐ろしいことが言えるのだろうか。
その声は優しいのに、言っている内容は地獄そのものだった。
「理由は分かりませんが、精霊を憎んでいることは伝わりました。ですが、それならなぜです? わざわざ私を信用させるようなことを……」
「信用してさせてから突き落とす方が面白いでしょ。夫人も、ちょっと油断してたし。簡単だったよ」
ふっと楽しそうに目を細める。背筋がぞわりと震えた。
この男はおかしい……
「呪いを解く方法はひとつだけ。愛する者を殺す。それだけ。抜け道なんて存在しないよ」
そう言ったあと、彼はふと思い出したように声を弾ませた。
「あ、そうそう。君の義妹――コゼット嬢も残念だったね」
「……急に、何の話ですか」
「いや? 少し誘導しただけで、黒に手を出すなんてね。人って面白いよね」
心臓が、ひゅっと縮んだ。
「……あなたがコゼットを……?」
「さあ、どうだろうね。考えるのは楽しいでしょ?」
懐中時計を取り出し、何気なく言う。
「さて。時間だ。また会おうね、夫人」
殿下が出ていき、静寂が落ちた瞬間――
今度は、別の足音が近づいてきた。
音のする方へ顔を向けると、ノエルが部屋に入ってきた。
その表情は固く真剣そのものだった。
「ねぇ、セレナ……“呪い”って、どういうこと?」
鼓動がひとつ、大きく跳ねた。
――この瞬間から、もう元には戻れない。
そんな確信だけが、静かに胸に沈んでいった。
はい、ノエルは聞いていました。




